123話 迷える子羊 2
「アンジェリカ……おそらくL03のマ・アース・ジャ・ハーナの神は、本当のマ・アース・ジャ・ハーナの神ではありません」
サルーディーバが、決定的なひとことを口にした。言ってはならない言葉が、言ってはならない人の口から出た。
アンジェリカは、今まで鉄壁に築いてきた自分の信念が、崩れさるのを感じた。
「この疑問にぶつかるのは……サルーディーバとなった者は、必ず一度は通る道だと言います」
サルーディーバは、どこか遠い声でつぶやいた。
「マ・アース・ジャ・ハーナの神の教えと、L03の教義には、あまりに矛盾するところがありすぎる。アントニオも言うように、マ・アース・ジャ・ハーナの神は進化と発展の神。なのに、L03は進化を拒絶する。文明を拒絶する。文明が未熟だということは、いつまでたっても、ひとびとの頭の中まで未熟なままということです。だから、いつまでたっても陰惨な処刑もなくならないし、戦争も終わらない。本来ならL03の民に、ひとの道義を説かねばならぬはずの長老会は、予言を売り物にし、戦争すら操る。おのれの私利私欲と権力闘争のために。サルーディーバは、L03の主でありながら、予言はできても、長老会を正す力もない。ただのお飾りです」
「姉さん……」
「わたくしも悩んだ。サルーディーバとはいったいなんなのか。……わたくしの葛藤を最大限にしてくれたのは、あのガルダ砂漠の戦争です。長老会は、L03から原住民をすべて追い出すために、金のために、L18の民の多大な犠牲に目をつむった。マリアンヌの死も、ないものにした」
アンジェリカは、絶句した。
「わたくしが仕えるべきはマ・アース・ジャ・ハーナの神のはず。L03に真にマ・アース・ジャ・ハーナの神がおられるなら、こんなにも腐敗したL03を、どうして神は放っておかれるのか、ずっとずっと、悩んできました。そしてこの宇宙船に乗って、確信しました。マ・アース・ジャ・ハーナの神は、L03にはおられなかった」
サルーディーバは自分の掌を広げて見つめた。
「最初は、どんどん自分の能力が失われていくのが怖いと思いました。姿現しも、ひとの記憶を見る能力も、予言すらできなくなっていく――ですが、ちがうのです。完全にできなくなったわけではなかった。消えていくのではなく、この宇宙船に乗ったときから、変化していったのです。マ・アース・ジャ・ハーナの神は、必要なものだけ見せてくれる、教えてくれる。――前のように、不必要なものまで、なんでもかんでも見せられる、ということがなくなった。ルナさんが危機に陥ったときなど――だれかのためなら、マ・アース・ジャ・ハーナの神はわたくしの力を上手にお使いくださる」
サルーディーバの頬に、わずかだが赤みが差した。
「そこにあったのは安心です。マ・アース・ジャ・ハーナの神に包まれているような、背を預けているような安心感――。L03にいたころの、追い詰められた圧迫感とはまるでちがった。アンジェリカ、それはあなたも、感じていたでしょう」
アンジェリカはうつむいた。
「サルーディーバとは何か。おそらく、地球からL03に移住してきた者たちは”不変の者”という意味で、サルーディーバという主を置いたのでしょう。サルーディーバは、マ・アース・ジャ・ハーナの神話の中で、姿も変わらず生まれ変わらず、何百年も生き続けますから。きっと、それにあやかったのでしょう」
「……そうですね」
静かに賛同したのは、カザマだった。
「ちゃんと”サルーディーバの直系の子孫”がほかにいるというのに、それを無視して勝手にサルーディーバを名乗るなど――L03には、おかしなところが多すぎる」
ルナは、とても口をはさめる空気ではないのでだまっていたが、サルーディーバの直系の子孫、というのは気になった。
直系の子孫がいるんだ。このサルーディーバさんとは関係なく?
「じゃあ、L03にいるマ・アース・ジャ・ハーナの神はなんなの。あたしたちが信じてきたマ・アース・ジャ・ハーナの神は、いったいなに」
アンジェリカが、ぐらつきそうな身体を必死で支え、アントニオにすがりついた。
アントニオは少し顔をゆがめたが、はっきり言った。
「……人々の、願いだ」
「願い?」
「そう。変わらぬものを求める願い、……変わらぬものなど、ありはしないのに。不変を望み、不変に執着する者たちが積み重ねてきた、膨大な願いの結集だ」
「願いの――結集」
「変わりたくないひとびとの、怨念の塊のようなものだよ」
アンジェリカがついによろめき、アントニオがそれを抱きとめた。
「”本物の”マ・アース・ジャ・ハーナの神は、悪意が渦巻くL03から君たちを救おうとした。だからこの宇宙船へ招いたんだ。言っただろう? メルーヴァというのは、そういった既成の概念を、停滞する不変を叩き壊す役割としては、ほんとうにマ・アース・ジャ・ハーナの神が望まれたものかもしれない。そこまではよかった。彼は本物のマ・アース・ジャ・ハーナの神が導いたから、革命は成功した。――だけど、彼は分を超えた」
「やめてアントニオ」
アンジェリカが泣いた。聞きたくないと首を振った。
「分を超えたがゆえに、マ・アース・ジャ・ハーナの神は――彼を見放した」
「やめてよぅ……」
「彼は、……神に刃を向けようとしている」
アントニオは、ルナを見た。
「シェハザールは、そのメルーヴァの手先だ。だからシェハザールは、侵略者として、夜の神の鉄槌を受けた」
その眼力は、爛々と輝く灼熱の太陽そのもの。
ルナは腰を抜かしそうになった。セルゲイにつかまっていなければ、そのまま後ろにひっくり返っていたかもしれない。
アントニオは、その先は言わなかった。だが、セルゲイは唐突に理解した。セルゲイだけは。
――ルナに危機が迫るかもしれないということを。
それがなんなのか――やっと理解した。
店の中は、彼らしか客はいなかった。アンジェリカの号泣の声だけが響く。
ひどく沈鬱になってしまった空気に、ララが席を立った。
「……この様子じゃ、話にならないね。出直すよ」
「申し訳ありません、ララさま」
「なんであんたが謝るんだい」
ララはカザマに言った。レシートを持って立ち、会計に立った。
「あたしゃ現金は持ち歩いてないんだ。カードでいいかい」
会計をまとめて済ませると、店の外に出る。カザマだけが見送りに出てきた。
「なんだか知らんけどね、泣きたいのはこっちさ。でもあたしには慰めてくれる若い坊やもお嬢もたくさんいるからね。アンジェに言っときな。見込みのない昔の男に貞操守ってないで、慰めてくれる男がいるんなら、とっとと股開いとけってね」
「ご忠告、感謝します」
カザマは微笑んだ。
「あたしは、神さまごとは分からんけど、まあ、L03も大変だ。――あ、車来た来た」
リムジンが、店に横づけされた。ララは運転手がドアを開ける前に自分で開けて、乗り込んだ。
「ねえミヒャエル」
「はい」
「……真砂名の神が偽物だろうが、本物だろうが、アンジェは本物だよ。そこらへんはようく言っといておやり」
「はい」
「あのこの努力は、みんなが見てるさ」
「ありがとうございます、ララさま」
カザマは深々と頭を下げた。
店に入ると、セルゲイとルナが立ち上がったところだった。アンジェリカの号泣は、留まるところを知らなかった。
セルゲイとルナは、カザマと一緒に店を出た。ルナはアンジェリカが気になったが、今はとても声をかけられる状況ではない。
サルーディーバもそっと立ち、店の外へルナたちを見送りに来た。
大駐車場まで、しばらく歩かねばならない。カザマは、アンジェリカの様子が落ち着くまでここに残るから、帰りはセルゲイの車で帰って欲しいとルナに告げた。
「ルナ」
後ろ髪をひかれつつ帰ろうとしたルナを、サルーディーバは呼び止めた。
「……アズラエルさんとは、仲良くやっておいでですか」
「え? うん」
普通に仲良しだよ? ルナは言った。
「セルゲイさん。ちょっと先に行っていてください」
おだやかだが、有無を言わせぬ口調だ。セルゲイは素直に「じゃあ、先行ってるね」と歩き出した。
サルーディーバはカザマも店内にいて、ここにはルナと自分、二人だけであることをたしかめ、声を低めて言った。
「ルナ」
おだやかで、微笑をたたえてはいるが、反論は許さない。そういう命令じみた声音だった。ルナは一瞬怯んだ。
「あなたは、グレンさんと結ばれるべきです」
「――え?」
いったい、サルーディーバはなにを言い出すのか。
「アズラエルはあきらめなさい」
「ちょ、サルーディーバ、さん……?」
「メルーヴァは勘違いしているのです。彼を今導くのはL03の”偽物の”マ・アース・ジャ・ハーナの神。ですから――彼は間違っている」
意味が分からない。ルナは混乱した。
「ルナ。いいですか。アズラエルはあなたを捨てます。必ず」
きっぱりと言い切るサルーディーバに、ルナは急に不安になった。
アズが、あたしを、捨てる?
「何があっても、ずっと一緒にいてくれるのはグレンさんです。あなたは必ずグレンさんと――きゃあ!?」
サルーディーバが頭を押さえてうずくまった。
ルナがあわてて「だいじょうぶ!?」と駆け寄ったが、サルーディーバの後ろには、腕を組んで、恐ろしげな顔で仁王立ちしているアントニオが立っていた。
アントニオは彼女の頭を叩いたのではない。そんな優しいものではなかった。サルーディーバは、頭を中から焼かれるような痛みに悲鳴を上げたのだ。ルナはこんなに恐ろしい彼を見たことがない。思わず身震いした。
「――よけいなことは言わないの!」
それだけ言って、アントニオはサルーディーバの腕をつかんで助け起こす。その時点で、いつものアントニオにもどっていた。
「まったく! しょうがない女の子たちだよほんとに!」
いつもの口調ではあるが、彼はひどく怒っていた。
「さっきの君のセリフ、君が嫌ってるL03のやり方と変わりないんだよ。そんなバカなこと言うなら、ルナちゃんと会うのマジで禁止にするよ!?」
「――すみません、ですが、わたくしは、イシュメルと、ルナさんの幸せを思って、」
「人の気持ちはそんなカンタンなものじゃない。愛してる男に捨てられるなんて言われたら、どれだけのショックを受けるか分からないのか。しかも、君の言葉で!」
サルーディーバは、やっと気づいたようだった。目を伏せ、――だが、と言い募った。
「ですが、ですが、アントニオ。わたくしは、ルナさんが深く傷つく前に――、」
「まだ言うの! ルナちゃんの恋を、君の勝手な思い込みで邪魔するなら、俺にも考えがあるよ」
「そんな――わたくしは、ただ……、」
サルーディーバは、涙目になっていた。
アントニオは苦い笑みを口元に乗せて、ルナに言った。
「ルナちゃん。びっくりしたかもしれないけど、今の、聞かなかったことにね。大ウソだから」
「う、うん……」
「だいじょうぶ! アズラエルはルナちゃんにメロメロだからね!」
今日は早くお帰り、とアントニオが笑顔で言う。
ルナは、逃げるように、その場をあとにした。
――グレンと結ばれるべき。
――アズラエルは必ずあなたを捨てる。
――アズラエルはあきらめなさい。
――アズラエルはあなたを捨てる。
――グレンはなにがあってもあなたのそばにいる……。
――グレンと、結ばれる……。
頭を、さっきのサルーディーバのセリフが駆け巡って、ぐるぐる回った。
ルナはぺたぺた、必死で走った。サルーディーバのセリフを全部忘れてしまおうと、夢中で走った。だが、振り払おうとすればするほど、言葉は脳みそを駆け巡る。
――アズが、あたしを捨てる。
「だってまだ、つきあってもいませんけども!」
ルナは主張したが、声といっしょに、なんだか涙が出てきた。
ぽろぽろと、涙が出てくるのだった。
無我夢中で走っていたら、セルゲイの背にぶつかった。
「うわっ」
セルゲイが振り返る。
「ルナちゃんか、びっくりした」
振り向くと、ルナのつぶらなおめめに、大粒の涙が浮かんでいる。
「う、」
「ど、どうしたの、ルナちゃん」
「うあああああああんん!!」
ルナは泣いた。
ここ数日の張りつめていた気持ちが、一気に破れてしまったようだった。




