123話 迷える子羊 1
昨夜――セルゲイが、奥殿に雷が落ちた夢を見たのは、夢であって、夢ではなかった。
正確には、セルゲイに夜の神が降りていたことによって、セルゲイも、夜の神が見たものを見ただけだった。
セルゲイ自身は熟睡したまま、部屋を一歩も動いていない。けれど、真砂名神社は大騒ぎだった。
セルゲイが花見気分で真砂名神社を訪れた昨日――じつは、真砂名神社の裏方では、朝から厳戒態勢だった。
いよいよ、夜の神の生まれ変わりが、真砂名神社を訪れる。
夜の神が依り代に同化する「儀式」をまえに、恐ろしいまでの緊張をはらんでいた。
張本人であるセルゲイはなにも知らなかったが。
夜の神が依り代に馴染もうとする時間帯、地球行き宇宙船を守る夜の神の力が半減するのだ。その間、なにが起こるか分からない――だから、朝から、太陽の神と真昼の女神の生まれ変わりであるアントニオとカザマが、結集した。
ちなみに、ルナが呼ばれなかったのは、月の女神であるルナが来ると、夜の神の気がそちらにそらされ気味で、集中できないからである。
サルーディーバと、サルディオーネであるアンジェリカも、大路に呼びつけられた。なぜなら、夜の神の力が半減することで、メルーヴァが直接、ふたりに干渉する危険性もあったからだった。
メルーヴァはすでに、船客であるバーガスとレオナ夫妻に接触を図っている。
あれは、地球行き宇宙船にいようがどこにいようが、メルーヴァはアンジェリカたちに接触できるのだと――連れ去ることはできずとも、姿を現し、甘言によってふたりをこちらへ導くことも可能なのだと、証明したようなものだった。
一番の目的は、サルーディーバ姉妹をメルーヴァの手から守ること。
日中は、昼と太陽の神がいるから大丈夫だが、夜になると二柱の神の力は弱まる。しかも、夜の神は、セルゲイが寝ていて意識がないほうが馴染ませやすい。その儀式の最中は、地球行き宇宙船を守る夜の神の力が半減する。夜の神のテリトリーである夜に、かの神の力が半減するのは痛手だった。
日中から、真砂名神社の神官たちが総勢で、夜の神の力を補う祈祷をした。
しかし、それでも、メルーヴァの魔の手は、狙いをすませてやってきた。
月の女神が、夜の神を呼びに行ってくれなかったら、どうなっていたか――。
「昨夜、中央役所の気象部では天候は晴れ。とくに雨や雷を降らせた形跡はなし」
カザマが、何枚かの紙をテーブルへ置いた。中央役所の気象庁から送ってもらった、昨夜の天候状況だった。
「ですから、だれかさんがあの場所にだけ、雷を落としたということになりますね」
みんな、一斉にセルゲイを見た。
「……いや、ですから、俺は今まで雷を落とそうと思って落としたこともありませんし、雷の落とし方も習いませんでしたし、雷を落とす資格も免許も持ってません」
「医者にしちゃ、洒落が利くじゃないか? え?」
ララが、また、ファイルケースを振りかぶる。
「夜の神ってのはあんただろ? だったら、あんたが雷落としてあたしの絵を台無しにしちまったことになる」
「だから、俺は知りませんってば!」
頼む。人間の会話をさせてくれ。
セルゲイは、昨日以上に嫌な汗をかきまくっていた。
ララとアントニオの諍いにセルゲイが巻き込まれ、ルナが「セルゲイをいじめちゃダメー!」とララの腕にしがみついたところで、カザマが息を切らせてやってきた。そこでようやく、冷静に話し合うために、場所を移そうということになった。
彼らが移動したのは、ルナがはじめてK05区に来たとき、アントニオとサルーディーバたちと食事をした「料亭 まさな」である。
ルナはここへきて、歓声を上げた。アンジェリカとサルーディーバもいたからである。
久しぶりに会うサルーディーバは、なんだか少しやせた気がした。でも、ルナの顔を見ると、とても嬉しそうに「ルナ、お久しぶりです」と抱きしめてくれた。アンジェリカも、満面の笑顔で迎えてくれた。
ララの形相のせいで、ふだんよりだいぶおとなしく。
「ララさん」
サルーディーバが、ララを落ち着かせるように、努めて静かな声で言った。
「セルゲイさんが夜の神の生まれ変わりというのは、間違いありません。ですが、前世を覚えている人間は少ないのです。基本的に前世の自分と今世の自分は別人です。セルゲイさんが知らないというのは無理もない。彼の責任ではありません」
セルゲイは、自分を擁護してくれる人間がやっと現れたことにほっとした。
「じゃあ――あたしはだれにこの恨みをぶつければいいんだい」
ララは、しゅんと肩を落とした。
「あの三枚の絵、修復に一年かかったんだよ? 一枚につき一年だよ! あんだけバラバラになっちまえば、もう修繕したって、完全に元通りにはならない……」
「ララさん、すべてのものはやがて風化するのですよ。なくならないものなどありはしません」
「千年を超えて、あたしの代ですべてを蘇らそうとしたのにさ、あたしの代で三枚失っちまうって、いったいどういう皮肉なんだい……」
ララの消沈は、尋常ではなかった。この萎れぶりには、自分は悪くないのに、セルゲイもなぜか罪悪感を覚え、ぼそりとつぶやいた。
「その――どうして――雷なんか?」
また、一斉に皆がセルゲイを見た。セルゲイは言葉を発したことを後悔した。
「だからそれは、夜の神に聞かないとわからないんじゃ……」
アンジェリカがぼそりといった。
「でも、もしかしたら夜の神ではなく、太陽の神とか、その、ほかの神様とか?」
セルゲイは食い下がったが、
「いいえ、雷を操るのは夜の神です」
カザマは言い、手帳を取り出した。
「四柱の神は、それぞれ働きがあります。万能神たるマ・アース・ジャ・ハーナの神を中央に据え、太陽の神は、ひとびとに光明を与え、導く。真昼の神は、世界を築く。月の女神は、人々を癒す、それから女性の守り神でもあり――ええと――、四柱の神はそれぞれもっと働きはこまかく分かれます。夜の神は、ひとびとを眠りに誘う神。また、眠り、という言葉からも様々な解釈が生まれます。眠りとはすなわち安らぎ、死、終焉――死をつかさどる神とも言われています」
カザマは手帳のページをめくる。
「この四柱の神は、神話によっては、神ではなく神官――すなわち神ではなく神に仕える人間、ですね。そういう解釈もされています。万能たるマ・アース・ジャ・ハーナの神の御子、という解釈もありますし。とにかく、マ・アース・ジャ・ハーナの神の働きの一辺をつかさどる神であったり、力を授けられた神官であったりするわけです。で、」
「夜の神は、マ・アース・ジャ・ハーナの神から、雷を操る力を与えられた、と」
神話には書いてある、とつなげたのはアンジェリカだった。
セルゲイは、マ・アース・ジャ・ハーナの神話にくわしくはない。子ども用の絵本を一冊、読んだきりである。反論のすべはなかった。
「じゃああんた、昨夜はどこでなにをしてたんだい」
アリバイがどうのと言い出したララに、セルゲイは、
「寝ていました。椿の宿というところで」
「それを証明する人間は!」
「い、いません……」
『ここにいるルナ』は、証人にはならない。月の女神なら、いたが。
「じゃああんたが、夜中こっそり宿抜け出して、真砂名神社へ行って雷を落としたってこともあり得るわけだね!」
どこのサスペンス劇場だ!
セルゲイはできるなら、それを声に出して突っ込みたかった。
俺は雷なんて落とせないって、何度言ったら分かるんだ!!
さすがにイライラしてきたセルゲイは、目が据わった。
「俺はだから――雷なんて」
急に外が、暗くなった。雲が、立ちこめて来たのだ。心なしか、ゴロゴロいう音も聞こえる。――セルゲイの不機嫌に、呼応するように。
「セ、セルゲイ! 怒っちゃだめ!」
ルナがあわててセルゲイの袖をつかんで叫んだ。それがあだとなった。
「やっぱり雷落としたのあんたじゃないか!!」
「俺じゃありません!!」
バーベキューパーティーでも、似たようなことがあったのを、ルナはしっかり覚えていた。
セルゲイは忘れているようだったが。
――咎者が来た。
「……え?」
セルゲイは、さすがに、「いい加減にしてください!」と怒鳴りかけたのだが、ルナのウサ耳がぴょこん、と立ったので気勢をそがれた。
ルナは、だれかがなにかを言ったような気がしたので、思わず周りをキョロキョロ見た。だが、こんな渋い低音の声の持ち主は、この場にいない。
――咎者が来たのだ。シェハザールという男が、聖なる場に侵入した。
それだけ言って、ふっと声は消えた。外の暗雲も、すっと風が吹き流していった。
「……シェハザールってだれ?」
ルナのその言葉に反応したのは、サルーディーバとアンジェリカだった。
「シェハ!?」
「シェハがどうかしたの!?」
ふたりに詰め寄られ、ルナはおたおたしながらつぶやいた。
「今、だれかゆったよ? とがもの? が来たとかなんとか。シェハザールっていう人が、勝手に侵入したって。すごく怒った声で」
そうだ、さっきの声は、とても不機嫌だった。もとは清涼な声が、怒りに、厳かな低音になっていたのだ。
「――夜の神がそう言ったの?」
アントニオの問いかけに、ルナは思い出した。夢の中で聞いたことがある、とっても渋い声!
「そうだ! 夜の神様だ!!」
「なるほど」
アントニオは謎が解けたぞ、というようにうなずいた。
「昨夜、シェハザールが奥殿へ侵入した。おそらく、姿現しの術で。その場所が斎戒沐浴しなければ入られない場所だとしたら、無礼をとがめられても仕方がない。怒った夜の神が、彼に制裁を加えた、ということだ。それが、昨日の雷だ」
「えっ。昨日、俺も奥殿に入りましたけど――」
「ギャラリーは別です。奥殿には別に、神社の者しか入ってはならない部屋もあるんです」
アントニオはいった。
「夜の神様は、昨夜、セルゲイさんに降臨していたはず」
「え?」
カザマの言葉に目を丸くしたのは、ルナとアンジェリカとサルーディーバで、ついていけていないのはララだった。
「馴染むのには何時間もかかります。よくお気づきに……」
夜の神は、セルゲイという自分の生まれかわりに降臨している真っ最中だった。守りの力も半減していた。よく、シェハザールの侵入に気づいたものだと、カザマはいいたかったのか。
「……昨夜、おかしな夢を見たんです」
セルゲイがやっとの思いで、昨日見た不思議な夢のことを話した。なにがなんでも、夢遊病ではないと証明するために。
セルゲイの話を聞くにつれ、ララ以外の人間が納得していく。
けれど、姉妹の顔は、対照的に青ざめていった。
「ちょっと待って!」
アンジェリカが青くなって叫んだ。
「シェハザールは、長年マ・アース・ジャ・ハーナの神に仕えてきた神官だよ!? あたしたちと同じだ! そのシェハに、どうして夜の神が制裁を加えるの!?」
夜の神は、神官であるはずのシェハザールを排除した。たしかに斎戒沐浴しなければ入られない場所だとしたら、とがめられるのは当然だが、夜の神はシェハザールを「排除」したのだ。魔や、邪気を打ち払うかのように。
入ってはならない場所なら警告される。その警告もなく、雷を落とした。
――すなわち、かの神に、敵とみなされている。
アントニオも、カザマも、サルーディーバも返事をしない。サルーディーバは、アンジェリカより青ざめているように見えた。
やがて彼女は、深い深い嘆息ののちに、重い口を開いた。
「アンジェリカ。……そういうことなのです」
「なにがそういうことなんだい」
ララが口を挟んだが、だれも答えなかった。アンジェリカはますます顔色が悪くなり、
「……ちがうよ。絶対ちがうよ。L03のマ・アース・ジャ・ハーナの神は、”本物”だ」
偽物なんかじゃない。自分に言い聞かせるように、強くつぶやいた。
――そもそも、真砂名の神は、サルーディーバなんてものを「作れ」とは一言も言っていない。
アンジェリカは、以前アントニオと交わした会話を、必死で打ち消そうとしていた。
――アンジェリカは、マ・アース・ジャ・ハーナの神のはたらきを読むもの、メルーヴァは裁きの働き、イシュメルはメルーヴァのはたらきが終わった合図だ。それは、マ・アース・ジャ・ハーナの神のはたらきに、人間が勝手に名をつけたものだ。だけど、サルーディーバというのは、マ・アース・ジャ・ハーナの神話に出てくるただの爺さんだ。それがL03の主になれなんて、マ・アース・ジャ・ハーナの神はひとことも言っていない。ましてや、進化を放棄した星に、進化と発展を望むマ・アース・ジャ・ハーナの神がいると、本気で思っているのか。――




