122話 覚醒 Ⅱ 2
「――!?」
セルゲイは、飛び起きた。
朝だ。
いつもそうするように、起きた瞬間時計を探す。枕元の腕時計で時刻をたしかめる。午前六時半。
障子の隙間から、光がこぼれていた。
――夢か?
耳の奥に、まだあの轟音が残っている気がする。すぐさま携帯電話で船内のニュースをチェックするが、雷が落ちたなんてニュースはどこにもない。
ふわりと桜の香りに交じって、あり得ないはずの、濃厚な桃の香りがする。桃の木などない。ないはずなのに。
昨夜の、月の女神の香りだ。
「おっはよおございまぁすセルゲイさん!! よく眠れましたか!?」
アントニオが、朝からハイテンションで待っていたが、
「……ええ。おはようございます」
テンション最下層のセルゲイに、「……そうでもないみたいですね」と返した。
朝食は食堂に用意されているとのことだったので、セルゲイはひとっ風呂浴びて着替え、あちこち寄り道しながら食堂に向かった。やはり、この旅館はそんなに広くはない。大浴場の向こうに廊下なんてなかった。
セルゲイは、仲居をつかまえて聞いた。
「この旅館って、真砂名神社の奥殿というか――その、ギャラリーがあるところにつながっています?」
それを聞いた仲居は大笑いした。
「まさか! 奥殿まではずいぶん離れてますよ。裏道から行ったって、車で一時間はかかるのに」
昨夜のあまりにリアルな夢のせいで、夢遊病かと思ったが、そうでもなかったらしい。裸足で走っていたのに足の裏は汚れていないし、この旅館はそこまで広くはないのだ。やっぱりあれは、ただの夢だ。
ただの夢であったことにセルゲイはほっとしつつ、食堂に入った。
まとわりついていた濃厚な桃の残り香が、朝食の匂いにかき消された。
「まあまあ、飯食ってないと元気出ませんから! 食いましょう」
食堂はそれなりに広い。客はちらほらいるようだが、みんな変わった民族衣装を着た人ばかりだ。セルゲイが席に着くと、すかさずお膳が運ばれてきた。
そういえば、昨日は昼も夜も食べ損ねているのだ。コンビニで肉まんをもらったきり、なにも口にしていない。空腹も当然だった。
「パンのほうが良かった?」
「和食も食べられますよ」
「事前に言えばパンも用意してくれるんですけど。ここの名物が和食なモンで」
二人分並べられたお膳は、典型的な和食だった。セルゲイには馴染みのないものばかり。米はカレンがよく食べているし、主食なので知っているが、お膳に並べられた料理は見たことがないものがほとんどだった。
「食事を作ってくれるエレナちゃんが和食文化だったので、最近、それなりには」
セルゲイは、基本的に、出されたものを文句も言わずに食べるタイプだ。無論、食べられないものもあったが。
「こういうのって、食べる機会あまりないですしね。見たことがないのがいっぱいだ。……あ、でもこれとこれは、食べられないかも」
L系惑星群では、惑星ごとに食文化がちがうことももちろんあるが、一般居住星では、だいたい親の食文化でこどもの食文化も決まる。同じ地域、隣同士に暮らしていても、食文化は多様だ。
海が近くにある地域では独特の魚料理があったし、山が近くにあれば山菜が食卓に並ぶのは地球時代と変わりがない。L系惑星群は惑星ごとに必ず海と山は存在し、作物を育てる科学技術も保存技術も、流通も地球時代より発達している。だから地球から移住した後も、どこへ住もうが、以前と同じ食生活を続けることが可能だったのである。
セルゲイは祖父母と暮らしていたときも、エルドリウスと暮らしていたときも、パン食だった。祖父母は黒パンにスープの朝食だったし、エルドリウスは地球時代の英国式――カリカリの薄い食パンに紅茶、魚と卵料理は必ず火が通っていた。
米、という物体に初めて遭遇したのは、学生時代、学食で。
本では知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
友人がそれを食べていて、はじめてパン以外に主食があることを知ったのだった。
そして、生の卵と魚を食す文化があるということを。
エレナとジュリもどちらかというと、カレンに近い食文化だ。最近は、エレナが食事を作ることが多いので、よく和食が食卓に並ぶ。エレナのpi=poステラにも、和食のレパートリーが多かった。
慣れてはきたが、グレンとセルゲイは、和食になじみがない。エレナたちと住むまでは、朝食は好き勝手にとっていたし、セルゲイはいつもパンとコーヒーだった。グレンもだ。
グレンとセルゲイは、米になじみがない点では共通していた。グレンもパンで育ってきた人間だ。
ルートヴィヒもパンで育ってきた人間だったが、好き嫌いもないし、味噌汁とパンが一緒に並んでも、平気で食っているタイプだった。
L5系の人間は、さまざまな食文化に触れる機会が多いので、抵抗は少ないのだろう。
「すみません。俺はハシが使えなくて」
「そうですか。ンじゃスプーンとフォークください」
「かしこまりました」
「そろそろ、ハシの使い方も覚えた方がいいかな」
「覚えといて損はないですよね」
「ですね。カレンだったら、大喜びしそうな朝食だな」
生の卵は、セルゲイは気持ち悪くて食べることができないし、この黒い、四角い紙の様なものの正体が分からない。
添えられているツケモノは、色がまだ強烈ではない。野菜の色をしていて、セルゲイはほっとした。
そして、なんだか茶色い、へんな匂いのするもの――これは見たことがある。セルゲイは恐ろしくて食べられなかったもの――ナットウだ。エレナとジュリは平気で食べていた。いざ戦争に出ればなんでも食う軍人であるグレンと、軍人経験があるセルゲイも、蛇は食えてもナットウだけはダメだった。
あのときのグレンの蒼ざめた顔は見ものだった。「健康にいいんだから食べなくちゃ」とエレナに押し付けられ、恐る恐る口にして、最後には朝からビールで流し込んでいた。
ルートヴィヒもナットウには、鼻をつまんで逃げ出した。
苦いなあ、と思いながら山菜の胡麻和えを噛み、セルゲイは生卵とナットウだけを残して完食した。黒い紙――海苔は、味がついていておいしかった。とても小さな魚をフォークでほぐそうと一生けんめいになっていたら、アントニオが笑いながら「それ、丸ごと齧ってだいじょうぶですよ」と教えてくれた。
「いやぁ、セルゲイさんも可愛いとこあるんだなあ」
「……からかわないでくださいよ」
「だって、あの顔……!」
フキノトウの和え物を食べている時の微妙な顔は、写真にでもおさめておきたかった。
「なんていうんですか、だって、……苦いのに、甘い……?」
「ぶはははは!!」
その顔、その顔、とアントニオが指さして笑う。
「初めて食べました。あんな不思議な味のもの」
椿の宿から、真砂名神社のわきを流れる川原まで、たいそうな距離はない。朱塗りの橋を渡り、真砂名神社のふもとまで来た。今日の風はおだやかだ。ぬるい風にのって、桜の香りが吹き付けてくる。
「アントニオさん」
「なんでしょ?」
「俺が泊まっていた部屋の外に、桃の木なんてないですよね?」
「え? 桃の木はないなあ。椿の宿にあるのは桜の木ばかり――のはず、ですよ」
そうですよね、とセルゲイはつぶやいた。桜の木しか見当たらなかった。それに、あの桃の香りは、果肉を直接嗅いだような強い香りだ。
花は、あんなに濃い匂いはしない。――あんなにエキゾチックな香りは。
旅館のチェックアウトを済ませて外に出た。
河原に出ると、屋台が数件並んでいる。観光客の姿もずいぶんあった。
「アントニオ! こっちよ!」
「あ、ミーちゃん! おっはよ~~!!」
ミーちゃん? セルゲイは首をかしげた。
振り返ると、真砂名神社の階段に、カザマがいた。手を振っている。
ミーちゃんって、カザマのことか? セルゲイが考えていると、背の高いカザマの横から、ぴょこっと顔を出したウサギがいる。
あろうことか、ルナだった。
「セールゲーイ! アントニオ!」
ルナが、小さい身体をいっぱいに伸ばして、両手を振っている。セルゲイは驚きが先に立ち、ポケットに片手を突っ込んだままボケッと突っ立っていたが、ててててーっとルナのほうから走ってきた。
「セルゲイ、アントニオ、こんにちはっ!」
「よく来たね、ルナちゃん♪」
「ルナちゃん?」
ルナは今日も元気だ。セルゲイのシャツの裾をつかんで、元気にあいさつをする。
「お友達に会いに行ったはずじゃあ……」
「キラにね、ドタキャンされちゃったの」
「ドタキャン?」
「うん。昨日は、会えないって断られちゃったの」
ルナのしょぼくれた顔がかわいそうだったが、セルゲイはルナに会えたので、素直にうれしかった。
「おはようございます、セルゲイさん」
「カザマさん、お久しぶりです」
カザマと目が合って会釈する。
「ここまで遠かったでしょ。カザマさんと一緒なの? ミシェルちゃんやアズラエルは?」
「あのね、あたし引っ越したの!」
ルナは勢いよく言った。
「それでね、引っ越してね、引っ越しの作業はみんな業者さんがやってくれてね、アズは今日しごとなの。ミシェルとお茶するの、そしたらあたしカザマさんと用があって、お茶してね、アズはね、カザマさんと一緒だったらいいってゆうからお茶するからって、来たの!」
うん、そうか。よく分からない。
いつものルナだ。
勢い込んでしゃべるルナは、支離滅裂なことが多い。
とにかく――ここへ来るのに、アズラエルの了承は得ているということだ。
「いつ来ても素敵ねえ。ルナさん、今日ちょうどいい時に来たわよ! 満開!」
「ほんとだ~♪ すっごい綺麗!」
カザマに言われて、ルナがててててーっと桜のほうに走っていった。
「ルナちゃんとカザマさん、仲いいんですねえ」
親子みたいだ、という言葉は辛うじて飲み込んで、セルゲイは言った。
「や、でも、あんな感じでしゃべるようになったのは、このあいだのバーベキューパーティー以来じゃないかな。そのまえまでは、電話連絡は取ってても、ほとんど会うことはないみたいだったし。ふつうに担当役員と船客、ってかんじで、あんなに仲良くはなかったよ」
満開の桜を見ながら、アントニオとセルゲイも並んで、川辺に向かって歩き出した。
「ミーちゃんもね、あのひと特別派遣役員でしょ。だからいままで、ルナちゃんみたいなタイプを担当することなかったから。すっごく楽しそうなんだよ」
「特別派遣役員っていうと?」
「派遣役員の中でも、VIP専門」
「ははあ、なるほど」
セルゲイはうなずいた。特別派遣役員がルナを担当? 少し引っかかったが、おそらくルナの危機とやらに関係あるのだろう。セルゲイはあえて、今は聞かなかった。
「VIPって面倒なんだよ。気難しい王族とか、下品な政治家の親父とか、わがままな貴族の小娘とか、そんなんばっかで。そんなやつらが桜見物なんて言っても、ミーちゃんはこき使われて、ゆっくり桜見物なんてしてらんない」
「でしょうね」
話のネタにされている二人は、はしゃいで屋台を指さしている。
親子――いや、贔屓目に見て、姉妹。
「ミーちゃんね、リズンに来るたび、あのバーベキューパーティー楽しかったって何回も言うんだ。よっぽど楽しかったんだろうね」
「……そうですね」
セルゲイは、ジュリもカレンもエレナも、いまだにあのバーベキューパーティーのことを話題に出すことを思い出した。彼らも、よほど楽しかったのだろう。
エレナはあれ以来、レオナとヴィアンカという新しい友達ができ、ママ会が前より楽しいらしい。ユミコとの再会も、あのバーベキューパーティーのおかげだろう。
ジュリも、メリッサから特別な学校があることを聞いて、学校に通いだした。ジュリのような特殊な事情があって、教育を受けられなかった大人たち専門の教室があることを。
子どもばかりの中には混じりたくないとこぼしていたジュリも、学校に行けるようになった。
ラガーの店長も、バーガスも、ラガーで会えばバーベキューパーティーの話をする。
特にバーガスは、あれ以来妻のレオナが百八十度変わって、出産に積極的になったので、もう上機嫌なのだ。
「ラガーの店長も、またバーベキューパーティーやりたいから、ルナちゃんにけしかけてくれって、うるさかったですもんね」
セルゲイが言うと、アントニオは笑った。
「みんな、いいことずくめだったってことか」
いいことずくめか――そうかもしれない。
セルゲイも思った。
もし、今この宇宙船を降りて帰ったら、なにが一番の思い出になるかと問われたら、あのバーベキューパーティーかもしれなかった。
ある部分がすっぽり、記憶が抜け落ちたとしていてもだ。
先日のグレン誘拐事件のときも、レオナの顔を事前に知らなかったら、セルゲイはレオナを不審者扱いして、非常ベルを鳴らしていたかもしれない。
不思議なことに、あのバーベキューパーティーは為すべき時に為した、そんな感じがするのだ。




