122話 覚醒 Ⅱ 1
「大丈夫ですか、セルゲイさん」
セルゲイが目を開けると、木材を交互に組み立てた天井が見えた。ずいぶん高い。
「……いっ!!!」
思わず呻くほど、後頭部が痛かった。アントニオがおかしげに笑う。
「セルゲイさんたら、思いっきり綺麗に真後ろに倒れるんですもん」
冷蔵庫が倒れたみたいな音しましたよ、といって無邪気に笑うアントニオに、セルゲイは後頭部を押さえながらため息をついた。身長が高いと、衝撃も大きい。ぶつけた場所はコブになっていて痛いが、こめかみからくるズキズキ感は、なくなっていた。
セルゲイは、外からの光だけでかなり明るい、畳敷きの部屋に寝ていた。布団を敷いた、その上に。
ここは真砂名神社のギャラリーではない。病院でもなさそうだ。
アントニオがここまで自分を運んでくれたのか?
「お医者さんを呼んで診てもらいました。コブになっているくらいで、異常はなかったです」
「……すみません。ここはどこです?」
「椿の宿。旅館です。今日は花見をして、ここに泊まってもらおうと思って予約してたんです。ほら、ちょい右側見て」
アントニオに言われて、首だけ動かして開け放たれた外を見ると、神秘的な光景が広がっていた。ライトアップされた夜桜の美しいこと。
「……」
すなわち、夜だ。
「何時ですか」
「二十一時ですね。今日はこの宿に泊まったほうがいいです。明日のご予定は?」
「特になにも……」
「じゃ、明日起きて気分悪くなければ、河原の花を見て帰りましょう。俺が運転していきますから」
「……なにからなにまで、すみません」
「いやいや。ご心配なく」
このあいだから、どうも調子が狂う。
自分が、自分じゃないみたいだ。
セルゲイは、長い腕で顔をかくし、ぼそぼそと言った。
「――アントニオさん」
「はい」
「俺は――バーベキューパーティーのことを一部、覚えてないんです」
「ええ」
「さっきもそうだ。急に頭が痛くなって、……それから、なにを言ったか覚えていない。……俺はなにか、あなたに失礼なことを言わなかったでしょうか」
「言っていませんよ」
アントニオは、安心させるように微笑んだ。
「俺は幼少期、誘拐されたことがありまして」
セルゲイは、困った顔で桜のほうを見ながら、つぶやくように話した。
「そのときのトラウマがまだ治っていない。……だから、そのことが原因なんでしょうかね。記憶障害になるのは……」
「セルゲイさん」
アントニオは、セルゲイの枕元に胡坐をかいて座った。
「俺は今回、あなたとその話をしようと思って、誘ったんですよ」
「俺のトラウマ話ですか」
「いいえ、ちがいます。さっきあなたは、何ひとつ俺に対して失礼なことは言わなかったですよ。――あなたの中で蘇った前世の記憶のせいで、あなたは倒れたんです」
「前世」
セルゲイは素っ頓狂な声を出したつもりだったが、落ち込んでいたせいでずいぶん小さかった。
「強烈な前世を持っているひとは、真砂名神社に来るとあなたみたいになることが多い。――階段、つらかったでしょ」
「すごくつらかった。――なにか、重い荷物でも運んでいるような、」
「あなたの前世の重みですよ。それを背負ってあなたは階段を上った。生まれ変わりを繰り返した魂ほど、その重みは大きい。……でも、あなたはよく本殿まで上がってこられた。感嘆します」
「上に上がったら、すっきりしたんです」
それは、本当にそうだった。
セルゲイは、はたと気づいた。
「あの――もしかして」
「はい?」
「だれでも、あの階段を上がると罪が消えるんですか。その、ええと――サイボーグみたいなものでも?」
アントニオは不思議な笑い方をした。
「ええ。サイボーグは元が人間ですからね。階段を上がれば、罪は浄化されます」
そうか。そういうことだったのか。
ルナが、レペティールを断ち切るために真砂名神社に行くと言った意味は。
もう死んでいたはずのアンディが、あのとき蘇ったわけは。
セルゲイの役割はバンビの助手だったし、ルナが言い難い顔をしているので追及することはしなかったが、やっと腑に落ちた。意味が分かった。
あの日、ルナと一緒に娘のルシヤが階段を上がって罪を浄化し、なんらかの形でアンディの罪も浄化したのだろう。
そして今日、セルゲイもまた、階段を上がることで。
「真砂名の神が、浄化したんです。――あなたのつらい前世を。ギャラリーで、階段で浄化しきれなかった最後の前世が出てきたんですね。今は、すっきりしてるでしょ」
セルゲイは、なんだか泣きたい気持ちになって目を擦った。
「――さっきのは、第二次バブロスカ革命のころの人間ですか」
「そう。あなたのひとつ前の前世。第二次バブロスカ革命の首謀者、ロメリアの兄の、アレクセイ・D・アーズガルド大佐」
「そんなひと、いたんですか」
「アレクセイの名は、調べれば普通に残っているはずです。彼はアーズガルド家の長子でしたし、たしか何代目かの当主だったはず。彼の人生の後半は、弟と一族の汚名を雪ぐことで終わりました。ですが、L18の歴史にも、アーズガルドの家系図にも、アレクセイの名は残っていても、ロメリアの名は残っていない」
「……」
「これは、あなたの前世のひとつですが、ずっとさかのぼるとですね、一番初めはマ・アース・ジャ・ハーナの神話の夜の神、になるんですよ」
「えええ!?」
セルゲイはがばっと起き上がり、痛そうに後頭部を押さえた。
「俺が――夜の神?」
セルゲイが思ったのは、あの暗そうな神が私の前世? というあまり喜ばしくない思いだった。
「で、ルナちゃんが月の女神だとしたら?」
「……悪くないですね」
セルゲイはコロリと態度を変えた。
月の神は夜の神の妹でもあり、妻神でもあったはず。
「ルナちゃんセンサーってやつですよ」
「ルナちゃんセンサー、……このあいだも、そんなことを」
「あなたを困らせているのは、あなたの前世である、夜の神です」
アントニオは、今度はとても真剣な顔をしていた。
「セルゲイさん、もしかしたら――ルナちゃんに危機が迫るかもしれないんです」
「……え?」
「それはまだだいぶ先のことだと思います。でも、おそらくあなたの前世である夜の神がそれを察して、出てきているんです。あなたは基本的に神の魂なのでバランスが取れている。普段なら、ほかの前世が今世の“セルゲイ”というあなたの人生を邪魔することはしない。ルナちゃんの危機を感じた時だけ、夜の神があなたの身体を使おうとする」
「め、迷惑極まりないですね……」
だが、セルゲイは思い出した。
バーベキューの時も、ルナがヤンキーの集団に向かっていったあたりから記憶がない。ルナの危機に反応して出てくるということなのか。
となると、このあいだも、ルナが傭兵に襲われると思って。
「基本的にはあなた自身ですから、あなたを害するようなことはしません。受け入れてください」
そういわれても、簡単にはうなずけない。
「ルナちゃんのためですから」
そういわれると、否とは言えなくなる。
「……」
「あんまり重く考えないでください。そんなややこしい問題でもないです。用が済めば、“彼”は消えますから」
本当にそうだろうか。セルゲイは、目に見えないものを見えると、簡単に割り切れるタイプではなかった。
「あなたが夜の神を受け入れれば、共存もできます。彼が強引に出てくることもなくなるでしょうし、あなたも記憶をなくさずにいられると思います」
「……本当ですか」
「保証します。……俺も最初は大変でした」
微笑むアントニオの顔を見ると、アントニオは苦笑していた。いつも太陽のような笑みをなくさない彼にしては、めずらしい苦笑だ。
――どう考えてもこの夜の神とかいう兄神は、とても過保護だ。
ルナが転びそうになっただけでも出てきそうな。
自分は、そこまで過保護ではないはずだが。
「過保護? そうですねえ、夜の神は妹にはベッタベッタに甘かったですから」
「……分からなくもないですが」
ルナちゃんは可愛いし、あれだけ世間知らずだと、兄だったら不安にもなるだろう。
「太陽と真昼の神は、姉弟であまりベタベタしたとこないんですが、もうあの兄妹はイッチャイッチャ、ベッタベッタですよね」
セルゲイは噎せた。なにも飲んでいないのに。
なんとなく、隠れたい気がするのは自分だけではなさそうだ。
「ルナちゃんに危機が訪れるかもしれない、というのはまだ可能性なんですけど……。俺たちもまだ、はっきりしたことは分からないんです」
アントニオは言った。
「あなたが、夜の神の生まれ変わりだということは、宇宙船に乗ったときから分かっていました。あなたがルナちゃんと運命的な出会いをするだろうということも。けれど、あなたは今世、こういった不可思議なこととは縁もなく育ってきたから、どう説明しようか、迷っていました」
「まぁ、そうでしょうね……」
アンディたちのことや、バーベキューパーティーのことなどがなければ、セルゲイもまともに聞かなかったかもしれない。今だって、ぜんぶの話を信じたわけではない。でも、この広い世界に、多少なりとも不可思議なことはあるだろうとセルゲイは思っている。
ルナとの前世の関わりは、ぜひあってほしいとも。
「今日はとりあえずゆっくり休んでください。明日のことは明日考えましょう」
セルゲイの顔にだいぶ疲れが見えたので、アントニオはそう言った。
「すみません……」
思い出したように、夕飯はどうすると聞いてきたが、セルゲイはまったく食欲がなかった。だからこのまま寝ることにした。
アントニオは明日朝、顔を出しますと言って部屋を出て行った。
セルゲイは、昼間たっぷり汗をかいたので、室内にある露天風呂に入った。
汗を流し、さっぱりしたので、少しほっとした。着替えなどは持ってきていないので、フロントの売店で下着と靴下を買い、クリーニングの有無を聞くと、明日朝まで間に合わせてくれると言ったので、シャツとスラックスとをクリーニングに出した。
部屋に用意されていた不思議な服――キモノのようなものは、LLサイズだったが、セルゲイはくるぶしが完全に出てしまう。腕も丈が足りなかった。一晩くらいのこと、まあいいかと着て、布団に横になった。
セルゲイは、布団に横になったまま考えた。
アントニオという人物は好きだ。彼と友人になれることは好ましいことだし、できるなら、宇宙船を降りたのちも交流を続けたいと思う。
だが、理屈で割り切れない話を受け入れるかどうかということは、別だ。
セルゲイは、そういった目に見えないものの類をまるで受けつけないわけではない。事実、ルナにしろグレンにしろ、もしかしたら前世で出会っていたかも、という淡く懐かしい思いはある。
だが、具体的な名前が出てくるのは別だ。
疑いたくもなる。
まだ信じられない。自分が夜の神の生まれ変わりだなんて。それから、アレクセイなんとか? あとで調べてみようとは思うが、本当に自分の前世が、彼なのか。
それに、ルナちゃんが、月の女神?
(……悪いが、ミスキャストのような気がする)
ひとのことは、言えないが。
ルナは、ひと目で魂を奪われるような美しさの女神というよりか、ほややんとした癒し系マスコットキャラクターだ。
そこが、ルナのいいところ。セルゲイが、好きなところだ。
まあ……信じる信じないより先に、記憶障害だけは勘弁してほしい。
自分の日常生活に影響を及ぼさないのなら、前世だろうが、夜の神だろうがアレクセイだろうが、居座っていても構わない。
そう思った途端、なにかが胸の奥にずしんとおさまる感じがして、セルゲイは嫌な汗をかいた。飛び起きて、恐る恐る自分の胸を覗き込んだが、異常はない。目を瞑って気のせいだ、と思うことにした。
寝よう。こういうときは寝るにかぎる。
食欲も失せるほどくたびれているのに、まったく睡魔が襲ってこない。目ばかりさえていた。
よくあることだ。徹夜で書類をまとめたときなど、身体は疲れているのに、妙に頭ばかりさえている、そんな感覚。
障子は閉めたが、ライトアップがまだ明るい。零時まで点いているままらしい。明るすぎたら、フロントに言って消してもらえばいいとアントニオは言ったが、この明かりは、別にイヤな明かりではない。セルゲイは逆に、暗いのがダメだ。
セルゲイはうとうとと微睡んだ。深く眠るわけでもない、浅い眠りを繰り返し、ふっと明かりが消え、頭のどこかで、零時を過ぎたな、と認識した。
完全な闇は困る。苦手だ。
参った。まったくの暗闇になるとは思わなかった。
そう思ってライトを探そうとしたが、ふいに気付いた。
暗闇が、怖くない。
子どものころのトラウマで、完全な闇になると、途端に全身から血の気が引いて、身体が震えだすというのに。いつもは、身体が震えて動かなくなる前に、明かりをつけなければならない。なのに今は、手すら震えていない。
それどころか、なぜこんな闇が怖かったのだろうと思う自分がいる。
まさか、本当に真砂名の神とやらが自分の過去を浄化してくれたのか?
だがアントニオは前世と言っていた気がする。暗闇を恐怖に感じるようになったのは、子どものころのトラウマだ。前世とは別だ。
それとも――夜の神が、自分の中にいるからか?
夜の神というくらいだから、暗闇が怖くてはやっていけないだろう。
自問自答したが、はっきりした答えは見つからない。
セルゲイは、明かりをつけずに布団に潜ってみたが、まったく怖くはない。手も震えださない、呼吸も平気だ。
自分の状態が、半ば信じられずに真っ暗闇の宙を見つめ続けていると――。
甘い、果物の香り。――南国の?
セルゲイはあたりを伺った。
(兄様)
「――!?」
セルゲイは、思わずうわかけを跳ね上げ、尻ずさった。
だれかいる。
「ル――ルナちゃん!?」
桜の木の前に、ルナが立っていた。
正確には、ルナではない。床をするような長い長い黒髪と、ルナよりも高い背丈。
見たことがないほど美しい女性だ。セルゲイは会ったことがないのが分かっているのに、なぜか女性の正体に気づいていた。
スーッと、オートウォークにでも乗っているように、女性――月の女神は、廊下を進んで消えていった。
「あっ――待って」
セルゲイは立ち上がって後を追った。頭の痛みはとうに消え失せている。
(あにさま)
ルナが。
月の女神が、自分を呼んでいる。
セルゲイは、何度も暗い廊下を左に曲がり、右に曲がり、迷宮を進んだ。こんなにも広い旅館だとは思わなかった。階段を上がり、温泉を横目に抜け、林がざわめくイアラ鉱石の回廊を抜けた。
さすがにセルゲイは、これが現実ではないことに気づき始めた。角を何度曲がった。あまりにも広すぎる。ホテルだってこんなに広くはないだろう。
自分は夢でも見ているのか。
息を切らせながら、さすがにくたびれて立ち止まると、昼間きた、美術館の回廊にたたずんでいた。しかし、絵はない。向こうには、真っ黒にそびえたつ塔。塔のてっぺんには、かすかな火が浮かんでいる。
旅館は、真砂名神社の奥殿につながっていたのか?
それにしても。
月明かりだけの闇夜の中、セルゲイは、塔から目を離せないでいた。
昼間、あんなところに塔なんて、あっただろうか。
見上げていたセルゲイの視界が一瞬で真っ白になる。
遅れて、とどろく轟音。
塔めがけて、すさまじい落雷が落ちていた。




