119話 予言の絵と、エレナの携帯電話と、ミシェルの悩み 1
――ララは、見とれていた。
毎日、ララはここで、正座の体勢で、一時間もそれに見入る。まるで、崇めてでもいるように。
ララが見ているのは、美しい絵画だ。
美術館クラスの広さを持ったこの場所は、実は真砂名神社の奥殿へ通じる回廊のひとつである。その、長い渡り廊下に、縦二メートル、横三メートルほどの額装がずらりと並んでいる。
これらはすべて、マ・アース・ジャ・ハーナの神話を絵にしたものだ。
ぜんぶで四十二点ある。
いくつかの絵はここにはない。なにせ千年前に描かれた絵画だ――経年劣化のため、今も何枚かが修復作業に出されている。
地球行き宇宙船ができたころ、伝説の絵師が、この神話の絵を描いた。
ララは、この修復作業の資金源で、パトロンでもあり、このちいさな美術館の管理人のひとりでもある。
このギャラリーは、一般公開されているのだが、真砂名神社の、しかも奥まったこの廊下になど、一般客などほとんど来ない。ごくたまに、マ・アース・ジャ・ハーナの神話が好きな者が、どこから知りえたのか、絵画を見に来ることがある。だが、それもほんのわずかである。
第一、真砂名神社に来るのは、この区画周辺に住んでいる神官たちくらいで、南の方に居住している人間は、ほとんどこの北の観光地までは来ない。
来ても、だれかの案内がなければ、この場所を見つけることは難しかった。
現在、三枚の絵画が外されて、修復のために工房へ運び込まれていた。
ほとんどの絵画に修復が施されていたが、ララが見つめている一枚は、まったくの手つかずだ。
古びたままなのは、この一枚だけである。
不思議な絵だった。
マ・アース・ジャ・ハーナの神話は、神々と人間たちの織りなす歴史絵巻。
ほかの絵画は、長い神話のどの話に当たるか、どのエピソードかが、ひと目で分かる絵ばかりだ。
神話を知っている者は、必ずこの古い一枚の前で首をかしげた。
こんな話、あったか?
だれもが、そういった。
その絵は、月をつかさどる女神が主体に描かれている。
かなり古くなって全体的にぼやけているが、だいたいの形は分かるといった具合だ。
月の女神めがけて、土煙を上げ、まっしぐらに白いライオンが突き進んでくる。それに対し、二頭のライオンが守るように立ちはだかり、月の女神の後ろでは、夜の神と昼の神が両腕を広げている。月の女神を襲おうとしている、白いライオンを威嚇するかのように。
白いライオンの後ろにいる太陽の神は、右手だけがどこかを指し、佇んでいる。太陽の神のこの位置は、まるで白いライオンをけしかけているかに見えるし、月の女神を守っているようにも見える。
「ララ」
だれの気配もなく、静かな廊下を、絵を眺めながら歩いてきたのは、アンジェリカだった。
「そろそろ時間だよ」
「ああ――もうそんな時間か。悪いね」
ララは、立った。その目には涙があふれていた。立ったものの、その絵に吸い寄せられたまま動こうとしない。
「なんて絵だろう――ほんとに。あたしの心をこんなに奪っちまって……」
ララがこの絵を見て泣くのは、ほぼ日課だ。
「あたしは予言だのなんだのは、さっぱりわからない。だけど、この絵の意味なんか、あたしなんかが知ることじゃない。いいんだ。意味なんかは。これは、あたしの人生そのものさ。あたしは、きっとこれを蘇らせるために生まれてきた――」
アンジェリカも、ララと一緒に絵画を見た。
見ただけで、恐るべき霊威がアンジェリカを突き抜ける。アンジェリカもこの絵に平伏したくなった。姉のサルーディーバも、この絵は特別だと言っていた。
(これは、偉大なる予言師が描いた、予言の絵だ)
しかし、いったいなんの予言なのか。
月の女神が描かれているということは、もちろん、ルナに関係があることは間違いないが――。
「あたしが、自分自身でこの絵を修復してみたかった」
ララはつぶやいた。
でも、自分にそんな才能はない。――芸術家の逸材を、見出すことはできても。
「アンジェ」
「なに?」
「あんたが教えてくれた、この絵画を描いた予言師の生まれ変わりは、いつあたしのまえに現れるんだい」
これも、毎日聞かれることだ。アンジェリカは苦笑した。
この絵を描いた、名すら残っていない伝説の絵師の生まれ変わりが、今回の地球行き宇宙船に乗ることになる――。
去年初めのZOOカードの占いで、ララは、自分の運命の相手が、今回のツアーに現れることを聞き、すべての業務を放り投げて宇宙船に乗った。ララはE.S.Cの株主だ。特権で、自由に宇宙船を出入りすることができた。
運命の相手とは、その伝説の絵師にほかならない。
ララが待ち続けた、運命の相手。
だが、一年以上たつのに、その相手はララのもとに現れない。
「ララ、もう少し待ってあげて。……前も言ったけど、生まれ変わった人間には前世の記憶なんてない。かつては伝説の絵師だったって、今はふつうの人なんだよ?」
「それはわかってるさ。――だけど、この絵が待っているんだよ。修復してくれる人間を。分からないかい? この絵の願いが」
「……だいじょうぶ。伝説の絵師は、絶対、導かれるようにして、この絵の前に現れる」
アンジェリカは、確信を込めた笑顔で、ララを励ました。
ララは言った。
「……あたしは、アンジーだと思っていたんだけどねえ……」
伝説の絵師は、アンジェラではなかった。アンジェラは、絵画の修復にはまったく興味を示さなかったし、この絵を見ても「怖い絵だね」と感想を述べたきりだった。
アンジェリカがZOOカードで占い、それは確定した。アンジェラは、この絵画を描いた絵師の生まれ変わりではない。
「この絵は、その生まれ変わりの子でなきゃ修復できない。あたしが認めない」
そして、この絵も認めないだろう。自分を修復するのは、描いたものだけ。
「――アンジェ、あんたはもう、だれか分かってるんだろう?」
「まあね、だいたいは」
「だいたいってなんだい。あたしの知っている人間かい」
「つながりはあるよ」
アンジェリカは、「焦らないで」とララを諭した。
「急がせたって無理だ。彼女が、自分の使命に気付かないと。必ず、太陽の神か、――月の神が自ら導いて、彼女らをここへ連れてくる」
「彼女? やっぱり女かい?」
アンジェリカはしまったという顔で口を覆った。アンジェリカの悪い癖がここでも出てしまった。サルーディーバにもユハラムにもメリッサにも、さんざん言われているのに。
言いすぎるな、と。
「ごめ、ごめん! 今のなし!! 聞かなかったことにして!」
「いまさらそんなことできるもんかい! お待ち! すばしっこいネズミだね!」
口を塞いで廊下をバタバタ逃げていくアンジェリカを、ララが追った。
「お待ちったら! もうすこし教えてくれてもいいじゃないか!」
絵の中の月の女神は、めのまえに襲い来る猛獣を恐れてはいない。ただじっと、白いライオンを見つめているように、見えた。
「ねえ、ルーイ、お願いがあるんだけど、」
大きいおなかを抱えて、エレナが帰ってきた。
病院の帰りにどこかへ寄ってきたのか、帰りが遅くてみんな心配していたのだ。
エレナの頼みごとなどめずらしい。エレナが進んで、自分を頼ってくれたことがあっただろうか――いや、ない。
ルーイは、大興奮で「なに!? なに!?」と迫った。
「ウザイからそれ以上寄らないで」
べしっと顔面を叩かれる。顔を叩かれても幸せな顔のルーイは、いつみてもキモい。カレンがそう言い、グレンも「……このドMめ」とつぶやいた。
昨日退院したグレンは、後遺症もなく、普段どおりだった。
昨夜、グレンの退院祝いと称して飲み会が開かれ、グレンはこの面子の中で一番飲んで、カレンとルーイを飲みつぶした。これがほんとうに、このあいだ傭兵に襲われた男だろうか。
少しはしおらしくしてろとみんなにどつかれたのは、説明するまでもない。
エレナは、後ろに隠していた紙袋を取り出した。
これは、どこからどう見ても、有名メーカーの携帯電話ショップの紙袋。新しい携帯電話を買ったらしい。
ルーイだけではない、カレンも、グレンもセルゲイも首をかしげた。エレナは携帯を壊しでもしたのか?
エレナは紙袋から箱を取り出し、中から真新しい、真っ白な携帯を取り出した。最新モデルだ。
「これ、発売されたばっかのやつじゃないか。奮発したね、エレナ」
ルーイの言葉に、エレナは顔を赤くした。彼女にしては、ずいぶん大きな贅沢だ。
「あ、あのね……これにね、あたしの携帯みたいに、キラキラしたので飾って欲しいの」
エレナはワンピースのポケットから、折りたたんだ紙を取り出す。
「こういうの、描いてほしいんだ」
そこには、絵が描かれていた。
クレヨンで色をつけたであろう、ネコのイラスト。親子だろうか。大きい黒ネコと小さな黒ネコのイラスト。星と月が周りにきらめいている。
「えーっ!? これ、エレナが描いたの!?」
カレンがその絵を覗き込み、驚いて叫んだ。
「上手!」
「エレナは絵が上手だよ?」
ジュリが当然のように言った。彼女は赤いフレームのオシャレな眼鏡をかけて、本を読んでいる。
「お芝居のチラシとか、真似してかくとすごくじょうずなの」
「あんた! あんなものはチラシの裏にかいたらくがきじゃないか!」
エレナは顔を真っ赤にして叫んだ。
「あんなもんは絵とは言わないよ……」
「でも、可愛いよこのイラスト。あたしは好きだな」
「うん。俺も好き」
カレンとルーイに褒められ、エレナはますます赤くなった。褒められるのは慣れていないのだ。
「どうしたんだ。携帯、ぶっ壊したのか?」
グレンの問いに、エレナはあわてて首を振り、ポケットから自分の携帯を出した。
「ちゃんとあるよ」
「じゃあ、なんで」
「……この子の分だよ!」
エレナは、突き出したおなかを撫でながら宣言した。
一瞬だけ、時間が止まった。
「な、……なんなのさ、」
ルーイとカレンが、あっちの方を向いて笑いをこらえている。グレンが床を叩きながら笑い転げていた。セルゲイも、後ろを向いたままだったが、肩が大きく震えていた。笑っていないのは、不思議な顔をしたジュリだけである。
エレナの天然ボケは、今に始まったことではないが――。(例:クリスマスにおみこしが出ると思っていたこと)
「赤ん坊に携帯持たせンのか!?」
グレンがこらえかねたように爆笑しながら、そう言った。ルーイも、「エレナ、赤ちゃんに携帯は少し早いんじゃない?」と苦笑した。
エレナは顔を最高潮に赤くし、
「い、いいじゃないか!! 別に、持つぐらい持っても!!」
「こらこら、妊婦さんをそんなに興奮させちゃダメ」
言いながら、セルゲイも笑っている。
「セルゲイさんまで――」
エレナはふて腐れた。
それは、エレナだって分かっている。非常識なことは。
「ユミコさんはちゃんとあたしの気持ち分かってくれたよ……」
「それ、ユミコちゃんと買いに行ったの!? あたしも一緒に行きたかった!」
「だって、あんた昼間まで寝こけてたじゃないか」
グレンの退院祝いだといって飲み過ぎ、ジュリは昼過ぎまで寝ていたのだ。
「白色なんだね。あたしはピンクが良かった!」
「男にピンクはないだろ」
エレナはまだ、自分の腹の子の性別を聞いていない。産んでみての楽しみだと言いきっている。でも、完全に男だと決めつけていた。
「これはね、エレナの赤ちゃんのお守りなんだよ!」
ジュリがえらそうに、胸を張って言った。
「携帯はね、ただの電話じゃないんだよ。あたしたちにとってはね、“自由”のお守りなの!!」
「お守り?」
カレンたちは、笑うのをやめた。




