114話 ナタリアたちとの別れと、サルディオーネからの伝言 1
バーベキューパーティーから数日後のことである。
ナタリアが口に歯ブラシを突っ込んだまま、洗面所の鏡の前でぼうっとしているので、アルフレッドは心配になって声をかけた。
楽しかったバーベキューパーティーの高揚が尾を引いているのはたしかだったし、ブレアのことも気になる。気にしてはいけないと言われたが、気にならないわけはない。
アルフレッドは純粋にナタリアを心配して、声をかけた。
「平気?」
ナタリアはアルフレッドのほうが驚くほど、身体を跳ねさせて振り返った。
「えっ、あっ。……あたし、ぼーっとしてた」
「どうしたの。なにか考えごと」
聞くまでもなかった。ブレアのことだ、決まっている。アルフレッドは、いつでも自分だけで抱え込みがちな彼女から、言葉を引き出そうとしたのだったが。
出てきた名前は予想外の人物だった。
「――ルナちゃんの、ことなんだけど」
ずいぶん思いつめた口調だったので、アルフレッドは驚いた。二重の意味で。
ブレアのことではなかったし、ナタリアの口からルナの名が出るときは、いつも声が弾んでいたはずなのに。
「ルナちゃんがどうしたの」
一応、尋ねた。ナタリアの口が重そうだったからだ。聞かなければ、彼女は口をつぐむだろう。
彼女は口をすすいでから、タオルで顔をふきふき、アルフレッドの隣に腰を下ろした。
それから、ものすごい長さの沈黙を持って――やっと、言葉を紡いだ。
「……笑わない?」
「笑わないよ」
アルフレッドは、ただでさえ口数が少ない彼女がやっとの思いで発した言葉を、笑ったことは一度もない。ナタリアもそれを知っている。
それでもためらいながら、彼女は言った。
「ルナちゃんて――ふつう、ではないわよね――?」
「えっ?」
ナタリアの言葉に、嫌味はない。純粋に、そう思っているらしかった。
「ああ――ええっと――ちがうの。そういう言いかたじゃ誤解を生むよね――ええと、その」
タオルをくしゃくしゃにして悩む彼女は、思い切ったように言った。
「あたし、ルナちゃんが三人に見えたの」
「……どういうこと?」
さすがのアルフレッドも、意図をぜんぶ受け取れなかった。尋ね返すと、ナタリアの顔が真っ赤に染まる。
「だれにも言わないで――バカなこと言ってるって思われるから」
「だれにも言わないよ。っていうか、ぼくもいまいち、よく分かってない」
「そうよね」
ナタリアはうなずいた。
「あのね……あたし、ルナちゃんが、三人に見えたの」
バーベキューパーティーの前日準備を、リズンでやっていたときだ。
「ルナちゃん、すごく仕事が速いの」
ルナの仕事の速さを目の当たりにしたナタリアは、絶句した。
お肉を串に刺しているかと思ったら、洗い物をしているし、そうかと思えば次の瞬間にはレイチェルと楽しそうに話している。もちろんそんなとき、手は止まっている。
「ただ」仕事が速いだけだったら、そこまで印象に残らなかっただろう。ルナは働き者。それだけで済んだはずだ。
「最初は、目の錯覚かと思った」
でもそれは間違いではなかった。みんなが気づかないうちに、「できて」いる。肉の串も、六割がたルナがつくったといっても、だれも信じない。ルナはさも忙しそうにバタバタ動いているのではない。穏やかで、動作がゆっくりなのに、いつのまにか作業が終わっているのだ。
「大げさな感じじゃないのよ? ぜんっぜん、動いてる感じがしないの。見方を変えれば、なんにもしてないように見えるかも」
「……ええ?」
「あ~、なんて言ったらいいんだろう」
ナタリアは言葉を失い、タオルを頭から引っかぶった。
「ルナちゃんが、三人いる感じ。――なんて説明したらいいの」
ナタリアが手伝おうと思っても、手が追いつかない。ルナはあわてているわけでも動作が速いわけでもないのに、てきぱきと終わっていく。
まるでルナの周りだけ、時間の流れがちがうようだ。
「ルナちゃんが動いているのはみんなわかるのよ。でも、ドジを踏んでるときもあるの。そういうのに突っ込む余裕はあるの。そう、余裕があるの。でも、できている。仕事が終わってる。――あたしたちより、だれより先に」
「……」
「そういう言い方もおかしいか。だから、三人いる気がするの。できた成果を、よく見てみると、この時間内に、ひとりでできる仕事量じゃないの。自分だったらできない。そう思う。でもみんな、あんまり気づかない。ルナちゃんが動いているうちは」
ナタリアは、やっとタオルを外した。
「ルナちゃんがみんなひとりでできちゃうから、当日は受付係で休んでもらったんだわ。前日がんばったからねって」
アルフレッドは、言葉もなかった。
「ルナちゃんは『あたし、なにもできなくて』っていうけど、レイチェルさんが『ルナは十分やったわ。休んでいて』っていう気持ち、わかるのよね。放っとくと、ぜんぶひとりでやっちゃうから。でも、それってなんていうか――いつのまにか『できちゃってる』から、嫌な感じとかではなくて――あれ、無意識でやってるのよ。きっと。だから、本人には、なにかやった感がないんだわ」
ナタリアは、アルフレッドも今まで見たことがない顔で、恋人を見上げていた。
「あたし――とんでもない子とともだちになったかも」
さて。
こちらはセルゲイ。
彼は、バーベキューパーティーの翌日、四十度の高熱を出した。
片づけを終え、家に帰ってひと眠りしたら、起き上がれなくなっていたのだ。
グレンとルートヴィヒに肩を貸してもらい、病院へ行ったが、「インフルエンザ――ではないですね」と言われ、注射を打って薬をもらい、そのまま帰宅した。
そして、一週間寝込んだ。
インフルエンザではないにしても、風邪だったらうつるので、セルゲイはエレナをそばに寄らせなかった。
ルナが一度、見舞いに来てくれた。
アズラエルの目を盗んで来るのは大変だったろう。ルナがつくってくれたゼリーは冷たくて美味しかった。しかし、ルナにうつしてしまっても大変なので、早々に帰らせた。なにしろ、(あのヘビー級の過去をのぞけば)一度も風邪を引いたことがない自分に取り付く風邪だ。
一週間後、目覚めたら、いったいあれはなんだったのだろうと思うくらい、頭がすっきりしていた。熱は下がっていた。
カレンも「鬼のかく乱」とかなんとか言って笑っていたが、心配はしてくれたらしい。平熱に下がった今日も、
「出歩いていいの? 今日くらいゆっくりしてたら?」
と言ってきた。
「いや、だいじょうぶ」
二、三キロ痩せてしまったし、一週間、立つのも億劫で、寝てばかりいたせいで、なんだか足もむくんで歩きにくい。体じゅうがギシギシいった。グレンが、「ジムに行く」と言っていたので、つきあうことにした。軽く汗をかけば、体の感覚ももどるだろう。
「病み上がりでだいじょうぶか?」
シャワーを浴びたグレンが、ミネラルウォーターを飲みつつ言ったが、やはりセルゲイは、「だいじょうぶ」と言ってトレーニングウェアを着こんだ。
K35区から車で一時間ほど。K07区に二人はいた。
グレンが通っているジムがある建物は、地下に射撃場もあり、プールや入浴施設も完備された、宇宙船内では一番大きな施設だった。
グレンとセルゲイはまずジムへ行き、トレーニング・マシーンで一通りのメニューをこなし、軽く汗を流した。
そのあと、地下の射撃場で三十分ほど撃ちつづけて、休憩を取った。
完全防音の射撃場を出、エレベーターで二階の休憩所へ行く。
休憩所は全面ガラス張りで、一階の大きなプールが一面に見渡せる。グレンとセルゲイは、コーヒースタンドでコーヒーを買い、休憩所の椅子に腰を下ろした。
「ここのプールも広いよな」
「そうだね」
「俺、ルーイに水泳教わってんだ」
「ああ。彼はインストラクターだもんね。ここで臨時講師やってるの?」
「いや。ここじゃねえ。アイツが行ってるのはK15区のほうのプールだ。ガキ連れの母親が良く来るとさ」
「へえ」
セルゲイは冷たいコーヒーを飲み、ようやくトレーニングウェアの上を脱いでTシャツ姿になった。心地よい疲労に、身体の感覚はほぼもどっていた。
「……ほんと、ここが宇宙船の中だって、言われなきゃわからないよね。こんなに大きな宇宙船が、宇宙のなか地球に向かって進んでるんだなんて。信じられないな」
「そうだな。――それにしてもおまえ、やっぱり元軍人だったんだな」
「え? ああ、私がL19の軍事教練学校にいたって、そっちの方が信じられないって?」
「そうはいってねえよ。……射撃の腕のことだ。なかなかじゃねえか」
百発百中とは言わないが、セルゲイの射撃の仕方は慣れたもののそれだ。学生時代とはいえ、ある一定の期間、銃を撃ちつづけてきた経験のある、手慣れた所作。
素人とは、銃を持つところから差が出る。
「そう? ありがとう。でも私は、短銃は苦手なんだ。どっちかいうと。スナイパー・コースにいたから」
「そうだったのか」
「狙撃手になるはずだったんだけどね。でも、私は軍人はやめた方がいいって、お義父さんに言われて、やめた」
「なんで」
「……まぁ、暗闇で動けなくなるのが一番の原因かな。担任は私を狙撃手にしたくて一生懸命だったんだけど。狙撃手になれなくても後方支援とか、いろいろありそうなものだけど……お義父さんがそういうんだからそうなのかなって、卒業一年前から進路切り替えて医学部に行ったんだ」
「おまえ、エルドリウスさんのいうことならなんでも聞くのか? よく行けたな。医学部、難しかっただろ?」
「そんなことないよ。だけど、向いてないっていうなら向いてないのかなって思っただけだ。なんとか医学部も入れたしね」
ほややんと笑うセルゲイの顔には、苦労の影もない。
グレンは、「……おまえはやっぱ、大物だよ」と肩をすくめ、コーヒーを飲み干した。
「グレンは、アズラエルとは同じ学校だったの?」
ふいにアズラエルの話をされ、グレンは戸惑った。
「――あ? ああ」
「アズラエルがひとつ下で、アカラ第一軍事教練学校?」
「ああ」
「ふうん……」
セルゲイは、自動販売機でミネラルウォーターを二本買った。片方をグレンに渡す。
「……どうも」
「グレン。少し、アズラエルのことを教えてくれない?」
彼は、ラガーで飲んでいたときも、あまり自分のことは話さなかったから、とセルゲイは笑った。




