113話 ジャータカでもないその隙間 Ⅴ
ルナは、目覚めた。
もはや、ここはどこだと自問自答することもなくなっていた。
マンションの七階からは、海が見える。カアン、カアン、という工事の音も相変わらず聞こえていた。
どうにも、その音がはっきり聞こえると思ったら、ベランダの窓が開いているのだった。
そこから、心地いい風が入ってくる。ルナは起きて、ベランダのほうへ行った。
この上もない最上の晴天で、きらめく海が見え、潮の匂いがする。
時計を見ると、十時を指していた。
眠るまえ、この部屋にはグレンがいたことをルナは思い出した。グレンと一緒に朝焼けを見て、朝食を食べ、それから尽きない話をした。そのグレンは、ここにいない。ルナはふと、グレンと一緒に話をしたソファのほうを見た。
そこには、人の気配が残っていた。乱雑に放られた男物の上着。ガラステーブルの上には、まだ湯気の立っているコーヒーが三人分、飲みかけのまま置かれている。
ルナは、その上着の持ち主を知っていた。
この、大きいキャメルのフロック・コートはセルゲイのもの。
シンプルな黒のジャケットは、アズラエルのもの。
厚めのグレーのカーディガンは、グレンのもの。
このあいだグレンと朝焼けを見た時に、ルナが寒くないようにと、グレンがルナにかけてくれたものだ。
……さっきまで、みんな、ここにいたのだろうか。
でも、いない。
どこへ行ったの?
ルナは、アズラエルのジャケットの下に、アンティークの鍵が置いてあるのに気付き、手に取った。
この部屋のカギだろうか?
ルナはさっそく出かける支度をした。ワンピースに着替え、鍵を持った。プラスチック製の細長いキーホルダーがついている。ホテルの名と、ルーム・ナンバー。
ここはマンションでなくホテルなのか?
ルナはキョロキョロと部屋を見まわしたが、生活感があるので、ホテルではないような気がした。
エントランスに行くと、ルナの靴はきちんとそろえて置いてある。つややかな黒のヒール。
それまるで、いつもはいている靴のようにぴったりと、ルナの足が収まった。
目的地は決まっている。なぜかは知らない。
そろそろ、「キョウカイ」とやらに行くべき時が来たのでは、と思ったのだ。
「おはようございます。おでかけでございますか?」
褐色肌の青年がいる。どこかで見たことがある。
「では、鍵をお預かりします」
ルナは、ルーム・キーを差し出した。青年は鍵を受け取ると、微笑んで言った。
「キョウカイへ参られるのですね。では、お車を」
目をぱちくりさせた。キョウカイへ行くつもりなのだと、ルナは口に出してはいない。
青年の言葉とほぼ同時に、ガラスの回転扉の向こうに、タクシーが横付けされた。彼とタクシーを交互に見つつ、不思議そうな顔で出ていくルナの背中に、「行ってらっしゃいませ」と声がかけられた。
外で待っていたタクシーの後部座席に乗ると、なんと運転手は、さっき受付にいた青年だ。慌ててエントランスのほうを見るが、青年は受付に立ったままだ。双子なのだろうかとルナは思ったが、とりあえず黙って座席に座った。
「おはようございます」
受付の彼と同じ声、同じ顔で運転手は言った。
「キョウカイまでお送りいたしますね」
ルナは、めのまえにガソリンスタンドがあったはずなのに、いつのまにかなくなっていることに気付いた。ガソリンスタンドがあった場所には、いつのまにかレストランができていた。
十五分ほど走っただろうか。
遊園地の前を通り、ルナが最初に来た、海が見える石畳のひろい敷地に着いた。洋風の鉄扉――ルナが入ってきたところ。
「ありがとうございます」
ルナは外へ出た。出て、それから思い出して慌ててお金を払おうとしたが、タクシーは忽然と消えていた。
相変わらず、だれもいない。ここに来るまでの大きな道路も、車は走っていなかったし、ひとも歩いていなかった。
静かな波の音、そして、動いてもいない船から聞こえる汽笛の音、ウミツバメの声だけが、この世界の音だ。
ルナはまず、自分がここへ来た入口である、あの鉄扉へ近づいた。来たとき同様、がんじょうな鍵がかけられていて、錆びたそれはガシャガシャと耳障りな音を立てるだけだ。開きはしない。
鉄扉の所から、遊園地の観覧車が見えるが、動いていない。
ルナはてくてくと歩き、遊園地の入り口まで行ってみたが、そこの扉もしっかりしまっていた。遊園地も、開園していない。
仕方なく、ルナは最初の目的であるキョウカイのほうへ歩いて行った。
教会、にも見える建物の玄関は、木の扉。隣には、ルナがここに来るとき歩いてきた螺旋階段があり、鉄扉がある。
キョウカイの扉は動かなかった。ルナは、何度かノックした。
「すみません、だれかいませんか」と大声で叫んでもみた。返事はない。
ルナは困ってしまった。今日は休みだったのだろうか?
どうしよう、とあたりを見回していると、扉の横にあった小さな小窓が開いた。
そこから、ぴょこん、とぬいぐるみのウサギが顔を出す。ピンクのウサギのぬいぐるみ。
「ウサギ・コンペの参加者ですか?」
ぬいぐるみは言った。ルナは、その声に聞き覚えがあった。自分の声だ。自分の声がぬいぐるみからする。
ルナは口をぱっくりと開けた。ピンクのウサギはもういちど言った。
「ウサギ・コンペの参加者ですか?」
意味が分からなかったので、ルナは、「いいえ」と答えた。すると、
「では、ウサギ・コンペが終わってから来てください」
ピンクのウサギはそう言って、パタン! と窓を閉めた。
ウサギ・コンペ?
ルナは、呆然とたたずんだ。




