104話 約束の地 1
拝殿で大路の連中にもみくちゃにされ、やっと拝殿までいって神様に詣で、紅葉庵まで降りて来たときには、アンジェリカはいなかった。
「病院直行じゃ。ルナちゃんにはまた連絡するいうとった」
オニチヨがそういった。
長時間過酷な環境にいたルシヤは熱が出ているようで、ルナたちも病院に走ろうかと思ったが、ルシヤは「ハンシックに帰りたい」と言った。父親のことが気がかりなのだ。それはルナたちも同じだった。
大路の人たちとの挨拶もそこそこに、三人はハンシックにもどった。
倉庫から店のほうへ駆けこむが、だれもいない。おそるおそる研究所のほうへいくと、ヒューマノイドのデイジーが扉を開けてくれた。
ルナたちが見たのは、コップ型の装置に入れられ、培養液に浸かったアンディの姿だった。
「――パパ!!」
「ルシヤ、お帰り!!」
ハンシックのルシヤが、妹を出迎えた。ルシヤたちは抱きしめあい、それから、大人たちにもかわるがわる頭を撫でられてから、父親に対面した。
電子装甲帯除去装置を出たアンディは、今度はとなりのカプセル型の培養液に浸かっている。電子腺培養機器システムと呼ばれる装置のほうだ。
身体じゅう火傷だらけで、髪もほとんど焼け焦げたむごい有様だったが、これでも、まだ修復されたほうだった。すくなくとも、電子腺はすべて治療された。
ルシヤは目をそらさず、父親を凝視していた。
「十日間で元通りになるわ」
ほっぺたを真っ赤にはらせたバンビが、泣き笑いこの上ない笑顔で言った。おそらくまた気絶したので、ルシヤかセルゲイにひっぱたかれたのだろう。なにせ、バンビが気絶していては、先がない。
「パパは生き延びたわ――電子腺はなんとか修復した。ナンバーも取った。あとは、身体の回復を待つだけよ」
それを聞いて、ルシヤはガラスに張り付いた。
ガラス越しに見えるアンディの手の甲から、忌まわしきDLのナンバーが消えている。
「パパ――パパ!!」
ルシヤは泣き崩れた。ハンシックのルシヤが、そっと寄り添った。
たしかにDLのナンバーは、軍事惑星などでは、真似て刻む者もいる。しかし、このナンバーのせいで、アンディ親子はL43のDL本隊からも目を付けられ、追い回されたのだ。
そのナンバーとバーコードは、電子腺が体内から消えねば通常、消えることはないとされていた。
バンビは、アンディの願い通り、ナンバーとバーコードだけを消した。電子腺はそのままで。
「バンビさん……バンビさん……ありがとう!!」
すがりつくルシヤに、バンビは泣きすぎてむくんだ瞼を重たげに開きながらいった。
「あたしなんて、なにもしてないのと同じよ……。ここにいるみんながいなかったら、なにもできやしなかったわ。電子腺装置だけがあったって……」
地球行き宇宙船がなかったなら。
ジェイクに出会わなかったら。
シュナイクルたちに出会わなかったら。
ペリドットが来てくれなかったら。
――ルナたちに、出会わなかったら。
「セルゲイの一喝は、効いたわ」
「一喝っていうか、張り手のほうだろう」
クラウドがいった。セルゲイはいつもの、ふんわりとした笑みを浮かべている。あれで、ひっぱたくときはかなり容赦がなかった。
「みんなの、おかげよ」
バンビがそういうと、ルシヤは滂沱の涙を流しながら、順番に、皆に抱き着いた。それぞれの名を呼びながら。
「ママ――あり、あり、がとう」
最後にルナに抱き着いたとき、ルシヤの言葉は言葉になっていなかった。ただただ、ルナに抱きしめられて、しばらくのあいだ、泣いていた。
地球行き宇宙船の十日というのはあっという間で、待つだけの十日は長いかと思いきや、この十日もいろいろあったのだった。特にクラウドは、忙しいことこの上なかった。
それは後述する。
しかし、ルナはだいぶぼうっとしていた。
一度自宅に帰って、ちこたんの報告を聞いたり、日常にもどろうとしてみたりしたのだが、なんだかどうも、あれだけ帰りたかった自宅では落ち着かなくて、まだグリーン・ガーデンにいたのだった。
でも、ルナはもう二度と、ルシヤの真似をして足を振り上げたりはしなかった。
十日のあいだ、アンディの様子を見ると称してハンシックに通いつめた。もちろん、グレンもセルゲイもだ。
グレンとセルゲイは、グリーン・ガーデンに何度か帰ったり泊まったりしたが、クラウドはずっと居座っていた。アズラエルは邪魔だという顔を隠しもしなかったが、どうやらミシェルからようやくメールが来たみたいで、クラウドもそろそろ帰るだろうとあきらめた。
アンディは日に日に、皮膚がよみがえり、見違えるように回復していった。ずっと意識はなかったが、快癒は間違いない。
三日目くらいから、ルナは出入りを禁止された。なにせ、アンディは装置の中で素っ裸なのである。娘のルシヤが、「きっとあとでパパが恥ずかしがるわ」といい、ルナの入室だけ拒まれたので、ルナは厨房を借りてオムライスをつくるしかなかった。
娘のルシヤは、この十日、ずっとハンシックで暮らしていた。ハンシックのルシヤから聞いたのだろう、ルナのつくったオムライスが食べたいというので、ルナは張り切ってつくったのだった。
今度は辛くないハムで。
十一日目の夜、ハンシックに行くと、アンディが娘のルシヤに支えられながら、ルナたちを出迎えてくれた。
シャイン・システムを開けたら、パジャマ姿のアンディがいたのだ。
松葉杖をつき、身体はよろめいていたけれど、傷ひとつ、火傷ひとつなかった。
髪もずいぶん短くなっていたが、もとの金色だった。
朝、装置から出たらしい。すぐには動けなくて、さっきようやく立ち上がったのだとか。
ルナたちの顔を見るなり、アンディはかすれ声で、「ありがとう」といった。
その日の邂逅はそれだけだったが――アンディはすぐに部屋に行って休まなければならなかった――翌日は、真新しいシャツとジーンズを着て、ハンシックの店の扉を開けて、ルシヤとダックとともに入ってきた。
どうやら、ハンの樹近くの家に行ってきたらしい。
杖なしで、しっかり歩いている。
視力を補強していたという黒縁眼鏡みたいなゴーグルがなくなったアンディは、なかなかの男前だった。髪の毛は切りそろえられて、アズラエルくらいの短さだ。
なかなか以上のイケメンだったので、アズラエルとグレンは思わずルナを背に、けん制するように前に出たが、アンディからは遠慮がちな声が出ただけだった。
「あの……いっしょに、食事をしても、いいかな……」
アズラエルは拍子抜けして「おう」といい、グレンは椅子を引いてやるという、お嬢様にしかしたことのないサービスをした。
さらに翌日は、昼間から、ハンシックの庭でバーベキューをした。
外は雪が積もっているが、大きなストーブを三つも焚いているのでまったく寒くはない。
アンディはこの二日間だいぶ遠慮がちで、なにか話したいことがありそうなのに、かすかな笑みを浮かべるだけで、ほとんど話はしなかった。
あとから聞けば、声を出すこともつらかったらしい。
だが三日目、ようやくビールを口にして、小さく言った。
「ひさしぶりに飲んだよ、こういうの」
じっとビール缶を見つめる目は、感慨にあふれていた。
「あんたたちには、なんて礼を言ったらいいか――」
「おいおい、もうよせ。この三日、ずっと礼を言いどおしだったろう」
シュナイクルが苦笑いしながら、肉と野菜の串をアンディの前に置いた。
「し、信じられないんだ――まだ」
アンディはためらいがちに言った。
「夢の中か、天国にでもいるような気がする」
実は、アンディ親子の降船が、正式に決まった。
すぐにではないが、三月三日には、この宇宙船を離れなければならなくなった。
アンジェラに関わるもめごとが原因ではなかった。アンディの病状が特殊なものであり、このままいくと、建物の火災や、人的被害が出る可能性があるということが原因だった。
それは、最初にアンディを診て、しきりに入院を勧めていた医者から、直接地球行き宇宙船の本部に打診されていたことだった。本部でようやく受理され、指令が下ったということになる。
しかし、アンディの身体は治癒された。炎上の危険性はなくなったわけだが、それを治療したのは表ざたにはできない電子腺の装置で、治癒されたという証明は出すことができない。
バンビがもともと電子腺を開発した研究者だということは認知されている。電子装甲兵の消耗を遅らせる薬、それ自体は違法ではない。
その経口薬や体温を下げる装置などをまとめて提出し、安全性を認知してもらい、親子の降船日を遅らせることはできたが、降船そのものはくつがえらなかった。
これらの手続きで、この十日間、バンビもクラウドも大忙しだった。
降船することにはなったが、アンディはそれを、残念に思うそぶりはなかった。
命が助かっただけありがたい、としみじみいうのだった。
娘のほうはもちろんさみしげだったが、やはり父親の命が助かっただけでも、幸せなのだった。
ルシヤという姉兼親友ができ、ルナというママがいて、ハンシックの皆やアズラエルたちとも出会えた。
それだけで。
「君、これからどうする気だい」
宇宙船を降りてから。
クラウドは聞いた。アンディはすこし悩むような顔をしていった。
「一般居住星に行きたいが、そうもいかないだろうな。やっぱり軍事惑星ってことにはなるだろうが……」
「パパ、軍事惑星、嫌いじゃなかったの?」
娘のルシヤが、素っ頓狂な声を上げた。
「嫌いだと言った覚えはねえよ。居心地はよかったよ、あの星は」
「だって、インビスは、軍事惑星を思い出すから嫌いだって……」
「ああ、インビスか」
アンディは苦笑した。
肩の力の抜けた、おだやかな笑みだった。ここ数年、したことのなかった――。
「だれでも最初にレバースープを飲めば、あそこが嫌いになるだろ?」
はじめてアンディの口から出た軽口に、ルナが一番に賛同した。
「そうです! レバースープはさいあくです!!」
「そ、そんなにまずいかなあ……」
クラウドがぼやき、娘のルシヤが叫んだ。
「でもパパ、レバーは健康にいいのよ!?」
腰に手を当てて怒鳴ったので、笑い声が起こった。
アンディも笑った。こんなに笑ったのははじめてだった。顔の筋肉がすこし痛いが、泣くよりはずっといい気がする。
「レバースープは、俺も飲んだことがねえよ」
「いつもあれだけ余ってるよな。むかし住んでたとこにもインビスがあってさ、レバースープばっか飲んでくヤツがいたんだ」
「あれはなかなか、隠れた人気があるよね」
「セルゲイは好きなのか」
「まさか!」
「オレはコーンスープがいいな」
アンディのつぶやきを、クラウドが拾った。
「なら、ママのコーンスープを飲んでから降りてもらわないと」
「だれがママだ」
ひとしきり、笑い声が起こる。
「それにしても――綺麗だ」
アンディはぼんやりといって、遠い目をした。彼が何を見ているのかはみんなが分かっている。
三日目、バーベキューを急いだのにはわけがある。本当なら、アンディの体の具合がもう少しよくなってからでもよかったが、今日は、とてつもない晴天なのだった。
あの日、パルキオンミミナガウサギが現れたときと同じ――地平線がくっきり、青の天と白の大地を分けている。
彼方に、ハンの樹。
白と青の世界に、濃い緑をたくわえた巨木があざやかに見える。
この景色を、アンディに見せたかったのだった。
「ここは、――ハン=シィクみたいだ」
つぶやいたアンディに、シュナイクルがうなずいた。
「俺もそう思ったよ。この宇宙船に乗って、ここにはじめてきたとき、なんてハン=シィクに似ているんだってな」




