103話 布被りのペガサス Ⅰ 1
重い。寒い。つめたい。苦しい。さみしい。
ルシヤはそんな環境に慣れっこだったが、今は不思議なほどにつらいのだった。立ち向かう気力が、嵐に吹き飛ばされてしまったよう。
絶望感だけが、ルシヤを満たしていた。
もうパパは救えない。わたしもここで死ぬの。
そればかりが、胸の奥をかすめていく。
絶対にパパを助けよう。この階段を上がり切れば、もう逃げ回らなくてもいい生活が待っている。そんな決意をもって、階段を上がったのに、一段進んだだけで、ルシヤは倒れてしまった。
もう、動きたくない。
身体が重い。寒い。いたい。
助けて――パパ。
ふと気づけば、ルシヤは、だれかに背追われていた。
暖かい。
世界が鋭いつめたさにあふれた中で、とてつもなく暖かい背中だった。凍えた心も体も、すべて溶けていくよう。
(だれだろう……パパ?)
パパの背中は、もっと広くて逞しい。ルシヤを背負っている背中は、ずっと華奢だった。
でも暖かく、頼もしい。懐かしい。
(――ママ?)
懐かしいと感じるのが不思議だった。だって、ルシヤはママに背負われた記憶はない。
ママは、ルシヤを産んですぐに死んでしまったのだ。
ルシヤは、“ママ”が大嫌いだった。
だって、ママはいつもルシヤにだけ厳しかった。妹が病弱だから、いつも妹には甘くて、ルシヤには怒ってばかりだった。
お姉ちゃんだから我慢して。お姉ちゃんでしょ、妹に優しくしてあげて。
ママに抱きしめられたこともない。ママに褒められたことも、「愛してる」といってもらったことも。
だからルシヤは、パパが好きでママが嫌いだった。パパはいつだってルシヤに優しかったから。
逃げてばかりの過酷な生活の中で、逞しい人間に育ってほしかったんだって。たしかにママはルシヤのことも愛していた。パパのことも。
ああするほかなかったのは分かる。パパとママが離れることになって、わたしはパパについていきたかったけれど、危険だからと、パパはわたしが来ることを許さなかった。
ママは大嫌いだったけど、死んじゃって、はじめて大好きだったと気づいた。
ママをパパが殺すように仕向けた女を、わたしは許すことができなかった。わたしたち姉妹を引き取ってくれた優しいおじさんは、恨みを残すなといったけれど、わたしは許せなかった。
だから体中に爆弾を引っさげて突撃したわ。わたしが途中で、ボディガードの銃撃にあって爆発しても、建物ごと吹っ飛ぶように、あの女が絶対生き残らないようにたくさんの爆弾をくっつけて。
あの女の間近まで接近して、恐怖におびえる顔を見られただけですっとしたわ。
わたしのママを殺し、パパを自殺に追い込み、わたしと妹に孤独を与えたあの女を、わたしは殺した。
たくさんの人間を、巻き添えにして。
わたしは、わたしと妹みたいな子どもを、たくさんつくってしまったの。
だからわたしは、償わなきゃならないの。
でも、もう、動けない。
「起きなさい! ルシヤ!!」
雷天をも割るかのごとき咆哮に、ジェイクがひるむほどだった。
神社を囲む樹林の枯れ葉が、暴風雨で凶器と化し、バチバチと身にぶち当たってくる。
枯れ枝もまれに吹き飛んできて、ジェイクはそれらからふたりをかばうので精いっぱいだった。レインガードがあるからたいていの障害物は影響がないが、大きな枝などはさすがに危険だ。
「ルナちゃん、いったん下にもどろう」
「だめ、そんな時間ない」
キッパリとルナはいった。そしてもう一度怒鳴る。
「起きて! ルシヤ」
その声を受けて、ルシヤがゆるゆると目を開けた。瞼は重く、なんとか懸命に、開こうともがいている。
「ママ……」
かすれ声でルシヤがつぶやいた。
「なんだ……こりゃ……」
ジェイクが目を擦った。めのまえに広がる光景が、にわかに信じがたかった。
暴風雨と枯れ葉舞う景色が、一転して氷雪地帯に変貌したのだ。
真白いイアラ鉱石は、冬色の枯れ葉に彩られていたはず。それが、氷結した大地をうっすらと霜が覆う世界に変化していた。
階段はどこにいった。めのまえは丘陵の白い大地だ。
「うわっ!」
地面はカチコチに凍り付き、鋭く尖った氷柱があちこちに生えていて、恐ろしく危険だった。霜もギザギザに尖って固い。
地面に手をつくと、手のひらが切れて血を流した。
あたり一帯は暴風雨ではなく吹雪になっていて、先が見えない。
顔面が凍り付きそうだ。冷えた空気で歯が染み、のどが痛くなるほど。
いくら特殊部隊出身のジェイクも、こんな環境下の星で訓練したことはない。それに、訓練時はそれなりの装備がある。着の身着のままで、こんな場所に放り出されたことはない。
こんなところを上がるなら、相応の準備が必要だ。命に関わる。
「だめだルナちゃん、一度降りるぞ――」
そういって、ふたりを抱えて振り返ったジェイクは愕然とした。
一歩下がれば奈落に落ちるところだった――さっきまで階段があった場所には、真っ黒な淵が、大口を開けて待ち構えていた。階下の大路商店街も、紅葉庵も、アンジェリカやナキジンたちの姿も見えない。
「――冗談、よせよ」
さすがのジェイクも、恐怖に足がすくんだ。
「退くも地獄、進むも地獄」
ルナが呻くようにつぶやいた。
「これが、アンディとルシヤの通ってきた、“ゴーカート”の世界なの」
びょうびょうと吹き付ける嵐は、いつのまにか雹とあられに変わっていた。
「はじめて見る現象じゃな!」
階下のナキジンからは、はっきりとルナたちの姿が見えていた。変貌した階段の姿も。
「“地獄の審判”とは少しちがうようじゃな!」
「動いておるのは、夜の神だけだからじゃなかろうか!」
紅葉庵から階段の様子は伺えるが、吹き付ける暴風と大雨は変わっていない。
ナキジンとカンタロウがレインガードを着て、腕を組み、仁王立ちのスタイルで階段を見上げて声を張り上げていた。年寄りのわりに耳が遠いわけではないのだが、こう嵐がすごくては。
大路の向こうから、キスケとキキョウマル、オニチヨが駆け付けた。勘のいい年寄りふたりが、間近に来るまで気づかなかった。
「遅れてすまんじいちゃん!」
「遅いわバカ孫!!」
カンタロウが一喝する。孫のキスケは、じいちゃんの一喝を暴風雨に流して、階段の一歩手前まで進んだ。そして、ひたりと手のひらを宙に当てる。そこから虹色の波紋が広がった。
ボヨンボヨンと手をはじく障壁に、肩をすくめた。
「アカン。これ以上先に行かれへん」
「今回は俺ら、手ェ出すないうことじゃろうか?」
オニチヨも首を傾げた。
まるでレインガードのような膜が張っていて、それ以上先に入り込めないのだった。
「“鬼”の出る幕がないゆうんは、地獄とはちゃうゆうことやろ」
キキョウマルも階段を眺めてそういった。彼らにも、氷結の世界は見えている。
「これはZOOカードの、ゴーカートの世界だよ」
アンジェリカが紅葉庵から出てきて、「嵐!」と唱えた。すると、大路の暴風雨は、みるみるうちに静まっていく。
「おっ! さすがはZOOの支配者!」
オニチヨがニンマリと笑顔を見せた。雨のせいで外に出られなかった大路の住民が、ひとり、またひとりと外に出てきた。
「アンジェ、おったんか。今なにをやらかしたんや」
キスケとキキョウマルも、ずいぶん低い位置にあるアンジェリカのつむじを覗き込んだ。
「やっぱり、この一帯がZOOカードの世界になっている」
アンジェリカは自作のZOOカードの記録帳を見返していた。
「トルメンタは、ZOOカードの世界で嵐を起こしたり、沈めたりする呪文だけど、まさかここで効くなんて……」
大路の暴風は静まったが、階段の世界はそのままだ。吹雪で視界が消え、ルナたちの姿も、ぼんやり見えるだけだ。
「ゴーカートでも、いろんな世界がある」
アンジェリカは言った。
ただ、平坦なコースを周回するだけの場合もあれば、川が行先を阻んだり、大きな岩の周囲をぐるりと回って遠回りしなければならなかったり、ぐねぐねの山道ばかりの場合もある。
だが、すべてが過酷なばかりのコースではない。花畑に彩られた明るい道を、まるでドライブのように楽しく周遊するコースだってあるのだ。
しかし、この親子の場合は。
「あたしが今まで見てきた中でも、かなり過酷な方の部類だと思う……」
深刻な顔で見上げるアンジェリカの視界には、もはや身動きできずに、階段を数段上がった先で膠着している三人の姿がある。その背後は、もどらせないといわんばかりの真っ暗なうろ。
「中で、だれかがパニック起こしてなきゃいいけど……」
アンジェリカが不安そうにいった。彼女も、階段がここまでの事態になるとは想定していなかったのだ。
まさか、ゴーカートコースが、そのままそっくり現れるなんて。
「ルナちゃんにはなにやらルシヤが“入っとる”し、お人好しの兄ちゃんはあれで相当修羅場を潜り抜けとるからのう。そのへんは大丈夫なんちゃうか」
カンタロウが言った。
「ルシヤちゃんといったか。あの子は卒倒したまんまじゃしの……」
ナキジンが眉をへの字にする。アンジェリカは、驚いて尋ねた。
「カンタさん、もしかして、ルシヤの映画観に行った?」
「おお! いったいった。映画は毎週一回は必ず見よるよ」
「流行に乗り遅れたくないしのう」
ナキジンもうなずいた。
「ルナちゃんにルシヤが入っとるんはまぁ、たまげたけど」
「今時ルシヤの映画がやっとったんは、前触れだったんかの」
大路の住民とは、宇宙船に乗ってからのおつきあいだが、知れば知るほど、不思議な住民たちだと、アンジェリカは思わざるを得なかった。
この真砂名神社の階段そのものも不思議だが、彼らはなぜか、ZOOカードのことにくわしいのだ。ちょっとではない。メッチャくわしい。たまに、アンジェリカも知らない裏技なんかも知っていたりして、度肝を抜かされることもある。
アンジェリカがつくった占いなのに。
ルシヤの“リハビリ”がすんで、ルナの前世の中でもルシヤの存在が今前面に出ているのはたしかだが、それをルシヤが“入っている”と表現するとは。
彼らはいったい、何者なのだろうか。どこまで知っているのだろう。
マ・アース・ジャ・ハーナの神の神殿のふもとに暮らす人間たちだ。ただ者であるわけがないのは分かっているが。
「こりゃァ、ギリギリまで待った感がすごいな……」
オニチヨがうなる。若手のほうは若手で、階段を眺めて深刻な顔をしていた。若手といっても百歳は超えているけれど。
「もうすこし早く来はったって、“地獄の審判”まっしぐらやろね……」
「ここまで来るのに、どんな目に遭うてきたか、考えるだけでもぞっとするわ」
キキョウマルとキスケも、眉をひそめた。
ギリギリまで待ったから――ここまでなんとか罪を償ってきたから、この階段が“地獄”にならずにすんでいる。
これでもまだ“地獄”ではないと、キスケたちは言いたいのか。アンジェリカは肩をすくめた。
「ここがZOOカードの世界なら、あたしが少し、助けられるかもしれない」
アンジェリカは腕をまくった。そして、屋外にZOOカードを持ち出してきて、紅葉庵の番傘つき休み場に陣取る。
「始まり!」
カードボックスを展開した。
「“運のいいピューマ”、“賢いアナウサギ”!」
アンディとルシヤの化身である、ピューマとウサギの乗った小さな車が走る、ゴーカートの世界が現れた。
「うおえ」
オニチヨが変な声を上げた。キスケとキキョウマル、ナキジンたちも覗き込んで、悲鳴みたいな声を上げた。
「なんちゅうコースじゃ!」
「よく、死なんでここまで来たもんじゃ……」
山に川、洞窟、でこぼこ道、断崖絶壁――これでもかと障害物がちりばめられたコースの果て、最後の直線は、ギザギザの氷に阻まれた吹雪のコース。滑る地面で何度も横転し、ふたりはもう傷だらけだ。
「あと、五十メートルもない」
アンジェリカの額に汗が浮かんだ。
「あたしは、夜の神の守護下にあるZOOの支配者だ。きっと、手助けできるはずだ」
アンジェリカは左右の手を肩ほどまで上げ、二本の指を立てた。
「光!」
ルナたちは、絶体絶命の光景の中で、光が前方を照らすのを感じた。
「あれは……」
「火! 吹雪! 防御!」
アンジェリカが立て続けに唱えると、火の道が拝殿までつづき、地面の氷を溶かしていく。
吹雪も心なしか和らいだようだ。すくなくとも、道が見え、階段の終わりが見えた。レインガードもまったく役に立たなかった、吹き付ける雪と寒さの、身体への衝撃も減った。
「移動!」
急に、だれかに背を押され、持ち上げられる気がした。感じていた身体への異様な重さが、すこし減る。
「今だ! 上がろうジェイク!」
「あ、ああ!」
ルナは気絶して起き上がれないルシヤを背負った。そのルナを、ジェイクが支える。一歩一歩がまるで、大岩でも担いでいるような重さだ。多少軽くなってもこれだ。
這うようにして、ふたりは進んだ。しかし、手のひらも裂けるような霜の道がなくなっただけでも僥倖だ。
「ふっ、ふーっ、ふーっ!」
アンジェリカの肩は激しく上下していた。ZOOカードの動物たちの移動を手助けする「移動」の呪文が、これほどきつかったことはない。
ルナたちを手助けすることで、アンジェリカも間接的に、アンディとルシヤの罪を肩代わりしているのだ。
「おやめください、アンジェリカさま!」
ユハラムの悲鳴のような声。
「っくそ、えい! 幸運!!」
アンジェリカは最後の手段だといわんばかりに、手に現れた黄金の切符を、ゴーカートコースに向かって投げつけた。だが、金色の光は、見えない壁にはじき返される。
「ウッソ!?」
まさか、ブエナ・スエルテ・ビジェーテがつかえないなんて。
「えっ、いや、まじか」
「アンジェリカさま!!」
「ユハラム、口出ししないでって言ったでしょ!!」
今は、侍女長を説得している暇はない。
「ああああどうしよう、どうしたら、」
焦ったアンジェリカの目は、ゴーカートのゴール地点でピタリと止まった。ちいさな動物が手を振っている。
よくみれば、ピンクのウサギだった。月を眺める子ウサギだ。
「ルナ!!」
月を眺める子ウサギは、黄金切符を持って両手を上げ、ぴょこぴょこ跳ねて、こちらに気づけとアピールしている。
アンジェリカの切符がはじき返されたのは、こちらを使えとのお達しだったのかもしれない。
黄金切符、ブエナ・スエルテ・ビジェーテは、幸運の黄金切符。アンジェリカの切符は、アンジェリカの幸運である。つかえばもちろん、アンジェリカの幸運が減ってしまう。
アンジェリカのそれより、ひときわ眩しいほどに輝くルナの切符は、たっぷり幸運がつまっていそうだった。
「寒天ウサギさんにもらったの~!!」
アンジェリカにしか聞こえないが、たしかにそう言っている気がした。
「ありがとうだれか知らないけど! カンテンウサギ!!」
アンジェリカは涙をこぼさんばかりの勢いで、「ブエナ・スエルテ!!」ともう一度、唱えた――。
――すべてが白い、ホワイトアウトの世界を、どうやって進んだのだったか。
満天の星空だったか。それとも海のような青い空だったのか。
“ルシヤ”はぜんぶが正しくて、ぜんぶがまちがいのような気もしていた。
だれかの手を引いて、ハンの樹に向かって、ただひたすら駆けた。
男の手だった。
アズラエルではない。彼は“また”わたしの最期を看取った。
グレンではない。彼は“また”警察組織に縛られて、わたしを救えなかったことを後悔していた。
セルゲイではない。彼は“また”わたしを囲ったけれども、そのためにわたしを失ったことを嘆いていた。
果てしないレペティール。
終わりの見えない宿命の繰り返し。
まだ終わることのない宿命の中で、ピューマよ、あなたは運命だった。
定められた宿命という名のレペティールで、自ら変えていける運命のさきがけだった。
きっとすっかり忘れていた。
長い輪廻の宿命の渦中で。
運命は変えられるものだってことを。
いつかはレペティールが終わるんだってことを。
あなたの手を引いてハン=シィクを出たあの日から、わたしの運命は変わったの。
宿命の波に乗り、運命を切り開き、わたしは生きる。
天命の源で。
今度はわたしがあなたを救う番。
あなたの宿命に、救済を。
ピューマ。
――女神のために生きて死んだ、健気でいとしい、勇敢な魂よ。




