102話 パルキオンミミナガウサギ 3
ひときわ激しい咆哮に、クラウドは戦慄した。
追ってくるアンディの速さは、尋常ではなかった。
防具のあるルシヤはともかく、クラウドは少しでも触れられたら炎上する。電子装甲兵の末期の炎は、調節がきかない。つまり、先日ギォックたちが浴びた温度の比ではないのだ。
「つかまってろルシヤ!!」
「うん!!」
恐怖に歯をガチガチいわせながら、クラウドはスピードを最高速度まで上げた。
戦場でもここまで命の危険を感じたことはない。一瞬で炭化するなんてまっぴらだ。まだミシェルに許してもらっていないのに。
雪原の中央、ハンシックの全容が見えてきたあたりで、アズラエルの姿を見つけ、その感情のない顔がすこしだけ正気にもどる。
猛烈なスピードで、アズラエルとすれ違った。
「アアアアアアアアアア」
なにもない雪原で、行路をはばむ者は、すべてが障害物だ。
アンディの繰り出した拳が、アズラエルの右こめかみをかすり、ジッと奇妙な音がして、アンディの右腕に長く傷跡が残っていた。アズラエルのコンバットナイフが触れたのだ。不気味なことに、血が一切流れない。青い炎が巻き付くように腕を絡めとり、傷を封じていく。
「マジかコイツ、無敵じゃねえか」
アズラエルは吐き捨てた。道理でL18が出張っても、いつまでも戦が終わらなかったはずだ。
完全に想定外だった。アンディと戦うつもりはなかった。言いようのないすさまじい殺気に、出すつもりのなかったコンバットナイフを出してしまった。そのナイフのきらめきに、アンディの殺気も増した気がする。アズラエルは舌打ちした。
当初の予定では、アンディはだいぶ弱っているだろうから、当て身を食らわせて沈める――その予定だった。
電子装甲兵の火は、拳、腕、肘、膝、脛、足の甲とかかと。その部分に気を付ければよく、胴本体は武器でないため、防具を付けたアズラエルが当て身を食らわせることはなんの問題もないはずだったのに。
アンディの体は、完全に炎に包まれていた。自分の内から噴き出す炎に。
これでは、アンディに触れることができない。アズラエルの体がアンディの体にぶつかれば、アズラエルも発火する。そういう火なのだ。
アズラエルはうなじを狙ったが、なかなか隙を見せない。
最初が肝心、一度しかけた攻撃が外されれば、あとは持久戦になる。
まずい状況だった。
電子装甲兵は、ここ数年つくられたサイボーグ兵器であって、それ以前はDLも接近戦は格闘術だけだった。物心ついたときから戦闘兵器として生きてきたアンディの体術は、当然だが殺人術――それもプロ中のプロだ。電子装甲帯抜きでも、まともに食らえば大ダメージを食らう。
さらに、アンディを守るかのように、全身から発する青い火がアズラエルの防具に覆われていない皮膚を焼く。至近距離に近づいただけでもだ。すさまじい温度だった。防具がなければ、近づくことさえできない。
触れたが最後、炎上するという意味がわかった。
傭兵は、どのグループもL46には行きたがらない。当然だ。こんなのを止めるために斥候兵扱いされたらたまったものではない。体術もナイフも武器も効かない。
アズラエルでさえ、防衛が精いっぱいだった。
「じいちゃん!」
ルシヤはじいちゃんが見事キャッチした。クラウドはまともにバイクを止められず、ひっくり返ったのだ。ダックがあわてて吹っ飛んでいくバイクを止めた。力技である。
「だいじょうぶか!?」
クラウドは息を喘がせ立ち上がり、絶望的な叫びを吐いた。
「ダメだ。もう、判断がついていない。アズが止めている」
アズラエルが、アンディがこちらへ追撃してくるのをひとりで止めていた。それは、シュナイクルとバンビ、セルゲイとダックからも見える。
ミッションAは、アンディを説得して、ハンシックに連れ帰り、電子装甲除去装置に入ってもらう計画。
ミッションBは、最後の手段だった。
あまりにアンディが身体に不具合をきたしていた場合、こちらの声が届かない場合がある。言葉の内容が理解できないところまで来ていれば、手の施しようがない。
アズラエルが強引にアンディを気絶させ、研究所に運び込む。
そんな状態になっていれば、命が助かるほうが、奇跡だが――。
たすかっても、脳に障害がのこる可能性がある。となれば、一生動けなくなる人生も覚悟せねばならない。
「なにやってんだ、あいつは」
グレンが舌打ちした。見ていれば防戦一方で、即気絶には至らない。
「いや、DLの体術も相当なものだ。簡単には近づけんだろう」
シュナイクルが袖を捲った。自身も出るつもりなのか。
「待て。あんたは最終手段だ。俺が行く――ルシヤ、防具を貸せ」
グレンがルシヤに手を差し出したが、アズラエルのほうを黙って見ていたルシヤは、「じいちゃん、わたしが、いってもいいか?」と聞いた。
バカを言えと怒るかと思ったシュナイクルだったが、真剣な顔でルシヤを見た。そして孫のほうに向かってしゃがみ込み、目を見て、問うた。
「おまえ、あれが怖くないか」
「うん」
ルシヤは間髪入れずにうなずいた。その目に迷いも、恐怖もない。
アンディはもとより、アズラエルも歴戦の勇士だ。それはシュナイクルにもわかる。何度も戦に出て、人を手にかけたこともあるだろう、そういう男だ。そのふたりが本気の殺気をぶちまけて戦っている。戦を知らない者ならば、決して近づこうとは思わないだろう。
その印に、今日は朝から、店の周りに鳥たちがいない。リスやキツネも――動物の気配はまったくない。彼らでさえ、不穏を察知してこの地に近寄らない。
それなのに、一度も戦に出たことがなく、動物の死に立ち会ったことはあるが、ひとの死を見たことがないルシヤが。この死地に赴こうとしている。
侮っているわけでも、殺気を感じていないわけでもないようだ。
ルシヤの目は、冷静だった。
ルシヤの周囲では、殺気さえ、凪いで過ぎてゆく。
「おまえは一度も戦に出たことはない。それでもか」
「じいちゃん、わたしは、戦はしないよ。あれは、止めなければならないものだろう?」
ルシヤはひたすらに純真なまなざしで、祖父に聞いた。
「わたしは、戦いに行くんじゃない。あれを、止めに行くんだ」
「すべきことは?」
「アズラエルの代わりに、ルシヤの父さんを気絶させて、研究所に運ぶ」
シュナイクルはしばらく孫の顔を見つめていたが、「そうか」と笑みを見せた。
「バカを言え」と代わりにいったのはグレンだった。「子どもを行かせられるか」
「じいちゃん、グレンを沈めてからいっていいか」
「許可する」
「おいこら待てオイオイオイ」
冗談を言っている場合ではなかったが――グレン、実はその後の記憶がない。
「ルチヤンベル・レジスタンスは、首長の許可がないと、戦いに参加してはならない。悪いな、グレン」
ルシヤは、自分の手刀の一撃で気絶してしまった軍人に詫びてから、ウィッグとコートを脱ぎ捨てた。
グレンが沈んだのを見てバンビは絶句し、セルゲイは素直に驚き、ダックは「風邪ひいちまうぞ」と、いそいそグレンを店内に運んだ。とても親切だった。
「あのふたりでは、殺し合いになる」
アズラエルの動きにだんだん余裕がなくなり、ナイフの動きが確実に鋭くなっていくのをシュナイクルは見ていた。あれは確実に獲物をしとめる動きだ。気絶させる余裕がない。
おまけに、持久戦になればなるほど、アンディが助かる可能性が低くなる。
シュナイクルの言葉に賛同するように、パルキオンミミナガウサギが、足取りも軽く、雪原を跳んだ――。
アズラエルは、頬に熱い衝撃を感じた。
ヂリ、と皮膚が焼け焦げる匂いがし、アンディの拳がかすったことを教えていた。ぐらりと姿勢がくずれる。アンディの右足が踏み込まれた刹那、反射で、コンバットナイフを心臓に突き立てるような動きをした――。
が、アズラエルの腕は、アンディの脇をすっとすり抜けただけだった。
自分でもまずいと思っていた。このままではアンディを殺してしまう。
アンディが避けたわけではない。ちいさな力が、アズラエルとアンディの位置を、そっとずらしたのだった。
――パルキオンミミナガウサギが、飛び込んできたのかと思った。
ちいさな後ろ足で、衝撃もなくアズラエルの腕の位置をずらし、アンディの拳の軌道をそらした。
アズラエルの動きが止まった。
故意にではない。身体が勝手に動きを止めたのだ。まるで、そうしなければならないというように。
空気が一新される。
殺気が消滅した。
アズラエルとアンディの間に飛び込んできたのはルシヤで、ふたりの軌道をずらしたのも彼女だった。
音がしない――空を切る音すらも。
アンディの拳がまったく当たらない。
まるでウサギが雪原で跳ね遊ぶように、ルシヤはひらりひらりと踊り、アンディの攻撃をかわした。
「よく動けている」
シュナイクルは、ほっとしたようにそう言った。
「ルシヤちゃんは大丈夫なの?」
セルゲイは、今さらとも思えるようなセリフを吐いた。
「心配はない。あれは、自分のすべきことが分かっている。パルキオンミミナガウサギそのものだ」
ルチヤンベル・レジスタンスの慣習に従い、シュナイクルは、ルシヤが歩きはじめるようになったころからサバットを教えた。故郷は出たが、ルチヤンベル・レジスタンスの伝統を絶やすつもりはない。だが、教えはじめてすぐ、シュナイクルはルシヤの類まれなる才能に気づいた。
「一族の滅びを迎えて、生まれた魂とは思えん。七つの年を数えるころには、もう教えることはなくなっていた」
「七つだって?」
セルゲイは素直に驚いた。シュナイクルは孫から目をそらさず、話をつづけた。
「血がなせるわざかもしれんな。俺たちの一族には、ごくまれに、そういう神童みたいな者が生まれるんだ」
「もしかして、シュナイクルより強いのかな」
「強い弱いでいえば、俺のほうが強い。それはあたりまえだ。あれはまだ子どもで、才能はあるが経験も訓練も足りない。だが、俺はあれに勝てないだろう。あれは、自分も勝たないが、ひとにも勝たせない」
祖、アランによく似ている。シュナイクルはいった。
「アランは、争いを避けることをおのれの信条としていた」
「……そうか」
思わず漏れたうなずきの横で、シュナイクルもまた、ひとりごとのようにつぶやいていた。
「あれは、戦を鎮めるためにもたらされた魂だ」
――鎮まれ、どうか、鎮まってくれ。
そう語りかけるように、ルシヤはアンディにつきあった。手ごたえと敵意のない相手に、どんどんアンディの動きが鈍くなっていく。
やがて、拳を前に突き出したまま、粉雪を舞い散らせて、どうと倒れ込んだ。
「やったぞ!」
ギャラリーから、思わず歓声が上がった。
「すげえな、おまえ」
「なに。朝飯前だ」
素直に感嘆の声を漏らしたアズラエルに、ルシヤが不敵に微笑んだ。
座り込んでいたアズラエルに手を伸ばす。ルシヤのちいさな手を、アズラエルががっしり、つかんだ。
「……お嬢がいたら、ルチヤンベル・レジスタンスは滅びなかったかもしれないって、思ったことはある?」
シュナイクルの話を少し離れたところで聞いていたバンビが、まるでひとりごとのように聞いた。
「それとこれとは話が別だ」
シュナイクルは一切の迷いなく、告げた。
「滅びは、武術が達者なだけでは止められない。どうにもならん」
アンディは倒れ伏したまま、一度大きく痙攣し、ピクリとも動かなくなった。身体全体から吹き上げる青い炎が、じわじわアンディの生身をやいていく。
「アンディ!!」
ダックの叫び。
猛然と駆け寄って抱き起こすも、もはや目を見開いたまま動かない。意識がなかった。
「いけない! セルゲイ、早く!」
「ああ!」
担架を運んできたバンビとセルゲイは息を呑んだ。
手遅れという言葉を口に出したくなくて、アンディの顔も見ずに防火毛布をかぶせた。少しは鎮火したが、体内からあふれる埋火のような炎が、アンディの体を焼くのを止められない。
対電子装甲兵用の手袋をはめたまま、バンビはアンディの脈を取った。
「……ああ」
うなだれて、顔を覆ったバンビの様子に、笑みがもどっていたアズラエルとルシヤの間にも緊張が走った。
「おい、おい、アンディ、おいしっかりしろ、なぁ、まさか」
ダックはアンディを抱きかかえて揺すり、片手でバンビの肩をつかんだ。バンビは打ちひしがれて泣くだけだ。
「なにかいってくれ、バンビ、」
嗚咽を止められないバンビに怒声を発したのは、セルゲイだった。
「君があきらめてどうするの!!」
セルゲイは医者だ。こんな場面には何度も出くわした。もう無理かもしれないと思う患者が助かったこともあったし、看取ってきたこともあった。
「最後までやりなさい! まだ終わってない!!」
セルゲイは動けないバンビにかわってダックを急かし、アンディを防炎素材でできた担架に乗せた。ダックと二人で、担架を持ち上げる。
「一刻を争う。君がやらないなら、私がやる」
気絶寸前だったバンビは、呆然と顔をあげて、ハンシックにアンディが担ぎ込まれていくのを見送った。
「……まだ」
バンビは泣き腫れた顔でこぼした。
「まだ、まだよ、まだまだ、まだ、あきらめちゃ、」
にわかに正気付いたかと思ったら、雪の塊にズボッと顔を突っ込んだ。そして、よろよろと立ち上がり、すっころびながら、ハンシックにもどっていった。
「まったく、頼りないヤツ!!」
ルシヤは呆れながら鼻息を噴いたが、アズラエルは笑った。
「でも、あいつがいねえとアンディが助からねえ。頼りにしようぜ」
研究所は開けっ放しになっている。バンビは息を切らせてセルゲイたちに追いつき、むせながら叫んだ。
「セルゲイ、で、電子腺装甲帯除去装置の起動をお願い! あとは、事前の計画通りに、」
「うん、わかったよ」
白衣を羽織ったセルゲイは、バンビに、彼の白衣を投げてよこした。バンビは震える手で受け取り、声を裏返らせた。
「施術を、開始します」




