102話 パルキオンミミナガウサギ 2
「行くよ、ルシヤ」
その声に、だれもがハッと目が覚めた顔をした。
目の錯覚かとだれもが目を擦った。ルナが大きく見えたのだ。正確に言うと、ルナの背が高く――ルナであって、まるでルナでないかのように。
ルナの栗色の髪が、漆黒に見えた。声が、低かった。外の暴風をものともしない、通る声――いつものルナの声とは、あきらかに違っていた。
「“ママ”……?」
ルシヤが呼んだのは、前世の母であったのか。それとも、今世の母であったのか。彼女にどう見えていたのかは、彼女にしか分からない。
すでにルナは、店内にいなかった。
外は、ますます風が強まり、不穏な雷鳴が響いている。
ルシヤは二枚のカードをアンジェリカに返すと、ルナのあとを追って外に出た。
ジェイクがふたりのあとを追おうとするのを、ナキジンが止めた。
「おまえさん、あの階段上がったことあるんか」
「あるよ。祭りのときにさ、」
「祭りのときはカウントされんよ」
「ええっ!?」
祭りのときは、大勢の人がくるから、階段はだれでも上がれるようになっとるんじゃ、とナキジンの説明を聞いて、ジェイクは困り顔をした。
「いや、だからどうしろって?」
この暴風の中に、女子どもだけを行かせられるわけがない。ジェイクの主張はまっとうであった。しかし。
「階段を上がったことないがヤツは、まず自分が上がって、自分の罪を減じてもらうんが先じゃ。自分の罪もったままで、人の手助けができるかい」
カンタロウにも止められたが、アンジェリカが笑った。
「だいじょうぶ。そのひと、“お人好しのオオカミ”だから」
「え?」
「なんじゃと?」
ナキジンとカンタロウが、ジェイクから手を離した。ジェイクはなんだか自分のカードにそれらしきことが書いてあったなと思いだして、眉をへの字にした。
まったくカッコよくないではないか。「お人好し」なんて。ピッタリだとみんな笑うばかりで、だれも否定してくれなかったのがガッカリだった。
クラウドの“真実をもたらすライオン”とか、グレンの“孤高のトラ”なんて、そっちのほうがかっこいいし。
けれど、ふたりのジジイは感心した目つきでジェイクの肩をたたくのだった。
「おまえさん、“お人好し”のカードか!」
「そりゃあ……まぁ、さぞかし、苦労したじゃろうの」
「いったれいったれ。おまえさんの助けが必要じゃ。すぐさまいったれ」
いきなり手のひら返しをして、ジェイクを送り出したふたりに首を傾げながら、ジェイクは外に飛び出した。
「久方ぶりに見たのう……」
「徳の高い魂じゃと思っとったら、“お人好し”か、なるほどのう」
「末は菩薩か如来か」
「天使かもしれんの」
ジェイクが聞いていたら、お人好しを褒められたのは初めてだと喜んでいたかもしれない。
なにせ、だいぶ人が好いので。
渦巻く暴風は、来たときよりすごくなっている気がする。ルナたちを追おうと階段を見上げたジェイクは、たった十数段のところで、ルシヤが倒れかけているのを見て仰天した。
あわてて階段を上がる。ルナたちに追いつき、「だいじょうぶか!」と大声を出したが、風にかき消されてほとんど聞こえない。
ルシヤはほとんど意識を失っていた。
なにがあったのだ?
風は強いが、向かい風ではないし、雷も落ちた形跡はない。雨はレインガードで防げているし、寒いといえばそうだが、それだけだ。
風はむしろ追い風で、ルナたちが階段を上がるのを助けようとしているようにも感じられるのが、不思議だった。
「待ってろ、今たすける――」
苦しげなルナの代わりに、ジェイクがルシヤを引き取ろうとしてがく然とした。
ルシヤを抱えられない。腕に引き取ろうとした瞬間の、すさまじい重みに、思わず態勢が崩れて、ルシヤの頭を石段にぶつけそうになった。
ルシヤはちいさな子どもだ。ジェイクはいっそ、ルナごとだって抱えあげられる。
それなのに、この重さはなんだというのだ。
ひとの重さではない。
思わずルナの顔を見ると、ルナは笑った。今は笑う時ではない。でもルナは笑った。
ルナではないような――あまりにも不敵な笑みだった。
その笑みにぞくりとした刹那、ルナは真顔にもどっていた。眼光の鋭さに、ジェイクが声をかけるのをためらうほど――。
「起きて、ルシヤ」
ルナとは思えない厳しい声が風を切って轟く。雷が、落ちたかと思った。
「起きなさい! ルシヤ!!」
クラウドがハンシックにもどった時点で、すべての人員が、外に出て待機していた。
あまりに澄み、晴れ渡った青空。
獣の足跡すらない白銀の大地と、地平線でクッキリ分かれている。彼方に、ハンの樹が見えた。ときおり吹きすさぶ風に葉を揺らめかせ、吹雪にその姿をぼやけさせながら、そこにハンの樹が立っていた。
クラウドは、あまりに美しい光景に、言葉を失った。
しばし目を奪われたあと――同じ光景を見ていたシュナイクルがつぶやいた。
「こんな日だったな。パルキオンミミナガウサギが現れたのは」
「間に合ったか」
ハンシックの店内からグレンが飛び出してきた。白い息を吐いたその姿は、この場にまったくそぐわない正装だ。
「ああ。これからだよ。――で、アンジェラのほうは」
「屋敷のほうから連絡が来て、血相変えて帰っていったよ――ルシヤは無事に奪還したんだな?」
「このとおり」
セルゲイの携帯には、クラウドとルナ、ジェイクとルシヤがピースをして映った写真があった。先ほど駐車場で撮ってメンバー全員に送信したものだった。
グレンだけが、携帯をハンシックに置いていったので見ていない。グレンは笑い、「あとは親父の保護だけか」といった。
「グレン、その姿も素敵だけど、着替えて」
店内からバンビの声がする。グレンは上機嫌に返事をして、店にもどった。
「じゃあ、行ってくる」
クラウドがバイクのエンジンをかけた。バンビの特殊防具を付けたルシヤが、後部座席に飛び乗る。
「頼むぞ」
見送るのはシュナイクルとセルゲイ。そして、終始オロオロしているダックだった。
「ああ」
「行ってきます!」
真白い雪原に、まっすぐ、バイクの車輪の跡だけが伸びていった。
――血を、流しすぎたのかもしれない。
さっきまでは、冷静に考えられたのだ。視界が揺らぐ理由も、かすむ理由も。耳が音を拾いきれない。まっすぐ歩いているかさえ危うかった。
身体が眠気だけを訴える。室内にいなければ。
でも、アンディは外へ出た。
寝てしまえば死が待っている。
それだけはなぜか分かった。
もはや働かない頭でも、それだけは分かるのだった。
クラウドの追跡装置に表示されたアンディの所在点は、雪原の一軒家の裏側に点滅していた。ずっとそこにいたわけではなさそうで、ダックらとともにクラウドがここに来たとき、アンディの所在点は雪原のはるか南にあった。
アンジェラの屋敷へ行こうとしたのか。けれど、体力が持たなくてここへ帰ってきたか。
バンビの話によれば、アンディはすでに身体機能が限界のはずだった。
十メートルほど離れた地点でバイクを止める。クラウドは防具がない。アンディに電子腺をつかわれたら一巻の終わりだ。
それは、クラウド、アンディ、双方の死を意味する。
「アンディ!!」
クラウドは叫んだ。風もほぼなく、天気は良好。障害のない雪原に、クラウドの大声が響き渡った。
「ルシヤを保護した! 聞こえるか! 姿を見せて欲しい!!」
クラウドは同じことを三度、叫んだ。
答えがない。まさかもう、身体機能が停止したか。
ルシヤが焦って、「見に行こう」といった。クラウドは「あと一分待とう」と彼女を止めた。
――ふらふらとよろめきながら、アンディが、家の陰から現れた。
クラウドも寸時息を呑むほどの満身創痍だった。一度しかアンディを見たことのないクラウドは、その容姿を一致させるのに数秒の時間を要したほどだ。
髪は先端が焦げ付き、血で固まり、どす黒い。この寒空にTシャツ一枚、ジーンズも膝から下がなく、おそらく素足だった。ゴーグルは燃え尽きてしまったのだろう。血だらけの、げっそりとこけた頬はもはや別人だった。
ルシヤがぎゅ、とクラウドの腕をつかんで、すぐ離した。
怖いだろうに、気丈な子だ。
クラウドを感心させたルシヤは、すぐ前に出た。
気丈の上に、勇敢ときた。
アンディが、クラウドの隣にいる少女を見て、目を見張る。
うつろだった目が、ようやく反応を見せた。クラウドは安堵した。意識があるうちにと、畳みかけた。
「ルシヤは保護した! 俺についてきてくれ、バンビがあんたを治すために待っているんだ!」
「――ルシヤ?」
ルシヤは、アンディに向かって、手を差し出した。
「パパ!!」
もちろんここにいるのは、本物のアンディの娘ではない。彼女と同じ栗色のボブヘアのウィッグをかぶり、大きめのコートを着て、特殊防具を隠したハンシックのルシヤだった。背も体形もあまり変わらないふたりだ。後ろ姿だけなら、ほとんど見分けがつかない。
ほんとうなら、ここへ本人を連れてくるべきだったが、ルシヤには真砂名神社の階段を上がってもらわねばならない。
アンディはきっと、視力も弱まっているとのことだった。だから、遠目であれば、娘の見分けはおそらくつかないだろうと――。
「ルシヤ」
アンディは枯れた声で、娘の名を呼んだ。
ルシヤは、アンディを支えてハンシックに連れ帰るつもりだった。本物の彼女の代わりに。彼が歩けないなら車を呼ぶ。だから、駆け寄ろうとした。
――しかし。
「ルシ、ヤ」
強烈な殺気がふくらんだ瞬間に、クラウドは反射でルシヤを引き留めてしまった。
「ダメだ」
どっとクラウドの背に汗が滴る。インカム越しに、アズラエルと、ハンシックで待機中のバンビたちに通告する。
「ダメだ。ミッションBだ。すでに判断力を失っている」
「ウあああああああああ」
猛然と駆け出したアンディにルシヤが捕まるまえに、クラウドはルシヤを後部座席に乗せてバイクを発進させていた。
ルシヤは振り返ってがく然とした。
アンディが燃えている。ゆらりと青と赤の火が、全身を覆っているのだ。
干からびて割れた声が、クラウドとルシヤの耳を突き刺した。
……最初、娘の声が聞こえた気がした。
姿も見えた。隣に居た男は、見たことのない男だった。ルシヤを返せ。そう怒鳴ったつもりだった。
ルシヤ、こっちへ。
手を振っている。ケガはなさそうだ。
ああ、無事だったか。よかった。
これで、オレの役目も終わったのか。
あれは、ルシヤか。
――ルシヤ?
ルシヤってだれだ。娘の名か。恋人の名か。妻の名か。
なんだったっけ。思い出せない。
でも、とても大切なことだった気がする。
あれ?
どこへ行くんだ?
(どこへいくんだ)
アンディは手を伸ばした。
(オレを、置いて)
かつて、こんな雪原を、だれかと走った気がする。アンディの手を引いたのは、長い黒髪の、強くも美しい、猛々しい女だったか。
小さな温かい生命を抱いて、走った気もする。今にも壊れそうなちいさな命を。
死ぬなら一緒だと思って、走った。
つがいのパルキオンミミナガウサギになったように。導かれでもするように。
あれはどこだった。
故郷だったか。
ここはどこだ。
アンディは走っている。どこかへ向かって走っている。
真白い世界を、ひたすらに。
ここは、ハン=シィクか。
(ルナ)
栗色の髪だったか、黒髪だったが、もはや分からない覚えていない。
娘だったか、妻だったのか。
あれは小さな、真白いウサギだったのか。
ルナ、ルシヤ、ルナ、ルシヤ、ルシヤ、ルシヤ。
ルシヤ。
オレには、女神のような、女だった。
――ルシヤ。




