96話 親分肌のグリズリー Ⅰ 3
ルシヤがいるはずの、天然の冷蔵庫である倉庫には、あかりがつきっぱなしだ。扉も開け放たれている。
「ルシヤさん――ルシヤさん!?」
ジェイクの大声が聞こえる。切羽詰まっていた。アズラエルも異常に気付いた。
雪の上に、ラグバダ・ビールが数本転がっている。アズラエルが声をかけるまえに、ジェイクが倉庫から飛び出してきた。
「ルシヤさんがいない」
顔は寒さのためだけではなく青ざめ、唇は震えていた。
「シュナイクルに知らせてくる」
「頼む」
アズラエルはすぐさま店にもどった。暖かい店内に、やはりルシヤの姿はない。
「どうした」
シュナイクルははっきりと、アズラエルの緊迫を嗅ぎ取った。
「ルシヤがいない」
やはり一番に飛び出したのは、祖父だった。シュナイクルはエプロン姿のまま、上着も着ずに外へ飛び出した。バンビがそのあとを追おうとするのをアズラエルは止め、「シュナイクルとジェイク、それからルシヤの上着を持ってこい」といった。
外は零下だ。バンビはあわてて二階に走る。
「ルシヤがいないって、どういうことなの」
ルナも、もうひとりのルシヤもアズラエルに詰め寄るが、アズラエルは冷静に言い聞かせた。
「九庵、ルナとルシヤとここにいてくれ。ルシヤがもどってきたら、俺の携帯に連絡を」
「いないってどういうことだ」
グレンが上着を着ながら聞いた。
「わからん。倉庫は明かりがつけっぱなしで、ラグバダ・ビールが雪の上に転がってたんだ。ルシヤの姿がない。血痕はないから、ケガは負っていないだろうが」
「わたしも行きます」
ギォック、グレン、クラウド、セルゲイも上着を着て外に出た。
「わたし、倉庫のほうを見てくるわ! ルシヤが中にいるかもしれないもの!」
そういって、アンディの娘は、ルナが止める間もなくシャイン・システムがある裏手へ駆けて行った。
「アズ、」
「ここにいろ」
アズラエルはルナにそういって、自分も外へ出て行った。
すがすがしいほどに晴れわたった星空――かなたにあるハンの樹まではっきり見える明るさだ。
草原のほうに、足跡はない。駐車場のほうへは、客だった原住民の足跡がいくつも残っている。
「ルシヤさーん!!」
「返事をしろ、ルー!!」
「ルシヤ、どこだ!」
男たちの声が聞こえる。バンビがコートを抱えて、アズラエルを抜き、倉庫のほうへ駆けて行った。
「ありがとう」
バンビから受け取ったコートに袖を通しながら、シュナイクルは、倉庫からランプを持ってきて灯した。
「足跡は」
男たちが倉庫前に集合する。倉庫周辺は、何度も出入りしているせいか、雪が踏み固められていて、足跡の判別がつきにくかった。
獣の足跡も見える。
「オオカミが出たかな」
「オオカミだって?」
シュナイクルの言葉にクラウドが驚いたが、「血痕はない」とすぐに周囲を見渡していった。ジェイクも不安そうな顔でいった。
「それとも、冬眠しそこなったクマでも出たか」
「ハン=シィクにはいたが……ここじゃ、どうかな。一度も見たことはない」
「オオカミも、遠吠えは聞こえるけど、こっちまで来たことないでしょう」
「畑は荒らされたことがあるがな」
「ルシヤさんだったら、オオカミくらい蹴散らせるでしょ」
「そんなに強いのかい」
クラウドの問いに、シュナイクルはうなずいた。
「俺はあれに、サバットを叩きこんだ。オオカミ程度の群れに負けはせんが――」
「ルシヤさーん!!」
ジェイクの絶叫が、しんとした雪原にとどろいたが、返事はない。
「これ、子どもの足跡じゃないかな」
倉庫の裏から、セルゲイの声がした。皆でそちらに向かった。
こちらはほとんど足跡がなく、雪が深かった。複数の大人の足跡にまぎれ、子どもの足跡と――身体のあと? らしき雪跡がある。背中から雪の上に倒れ込んだような。
不自然なのは、子どもの足跡が、ここで途切れていることだった。
「今日は、こっちがわにだれか来たか」
シュナイクルが聞くと、すかさずジェイクとバンビは首を振った。
「革靴の跡だぞ」
グレンが苦い顔をしてつぶやいた。ハンシックの従業員で、革靴をはいているヤツなどいない。スニーカーか、長靴か、ハン=シィクの雪靴だ。さらに、ここへくるのは原住民ばかりで、そもそも足跡がまったくちがう。今も革靴を履いているのは、セルゲイくらいのものだ。
ビニールハウスがある裏手のほうから、バタンと自動車のドアの開閉音らしき音が聞こえて、皆が一斉にそちらへ目をやった。
ここには軍人と警察星の特殊部隊出身者と原住民とルチヤンベル・レジスタンスしかいない。耳は抜群によかった。
「車のエンジン音がしねえか」
「……ああ。一番静かなヤツな」
目をすがめたジェイクとアズラエルが飛び出したのは、同時だった。
――こんなに星が明るくなければ、判断がつきかねていたかもしれない。
たしかに、ビニールハウスに隠れるようにして、自動車は停まっていた。しかも真っ黒な車体で、黒服の男たちばかりが、暗闇に紛れて。雪原であれば目立ったかもしれないが、こちら側には畑に倉庫にちいさな針葉樹林と、黒を紛れ込ませるような背景がそろっていた。
犯人はすぐに見つかった。
黒服の男たちが、ぐったりとしたルシヤを、車内に運び込もうとしている。
アズラエルは、反射で、携帯していたコンバットナイフに手をかけ、集団に飛び込もうとした――のを、強烈な力で後方に引っ張られた。
アズラエルを引っ張ったのはジェイクだった。なにをするてめえと言いかけて、自分の頭上を吹っ飛んでいったものを見てギョッとした。
ジェイクはかばったのだった。おそるべき凶器からアズラエルを。
アズラエルが立ったままだったら、頭が消えていたかもしれない。尻もちをついたのは賢明だった。すくなくとも、首は無事ではなかったろう。
白菜だのキャベツだの、大きな野菜がギュッとつまった特大のワラ籠が、恐るべき速度で、うしろから吹っ飛んできたのだ。
シュナイクルの目配せと、ジェイクのとっさの行動――アズラエルを転がした――おかげで、自動車まで一直線に道ができた。
投石みたいな凶器は、見事自動車の側面に命中した。衝撃で吹っ飛ばされた黒服は、そのまま起きなかった。
風が、アズラエルの横を吹き抜けていく。
シュナイクルだった。
すさまじい速度で駆け抜けた風は、人ごと、自動車のドアを弾き飛ばした――黒い塊が宙を舞うのを、アズラエルは見た。高級車の黒いドアが、まるでジャガイモの皮みたいにはがれるのを。
ウソだろ。
悲鳴と銃声。いきなり現れた全身凶器のような男におびえ、はがれたドアを置き去りにし、ルシヤを放り投げて黒服の集団は逃げていく。
微塵もエンジン音のしなかった高級車は、きしむようなスリップ音を立てて去っていった。側面を大きくへこませたまま。
一瞬の、できごとだった。
「――命拾いしたぜ」
アズラエルはやっと言葉が出た。背後のジェイクに感謝した。
ジェイクはニッと笑って、「なんの」といった。
アズラエルが命の危機に瀕した瞬間、クラウドたちはクラウドたちで、とんでもないものを目撃していた。
ジェイクとアズラエルが飛び出したのとほぼ同時に、シュナイクルは両腕をぐっと顔の前に立て――その長い足を振り上げた。
そこにあったのは、積み上げられた野菜籠だった。
雪の下に保存しておくと、ニンジンや白菜も甘くなる。そうやって、籠に入れて雪をかぶせてあった野菜の大籠――中の野菜を使い果たし、雪がみちみちに積もって凍り付き、重量を増していた籠を――クラウドでも、おそらく持てないだろう。アズラエルやグレンでやっと――といった具合の大籠を、シュナイクルの片足が持ち上げたのだ。
驚異の力で持って。
「ジェイク」
シュナイクルの太い声で、ジェイクが振り返る。
気づいた彼が、アズラエルの服を引っ張って転がす。
そのまま蹴り上げた籠は、凶暴な速度と破壊力で吹っ飛んでいった。どれほどの距離があったか――シュナイクルの位置から、自動車まで。
その距離を、勢いすら落とすことなく、大岩でも降ってきたような圧力で、たたきつけた。片足の脚力だけで。
車が大破した。
シュナイクルはその足で、すでに自動車まで達していた。孫娘を取り返し、銃を向けた男とその背後にあった車のドアを、同時に宙へ蹴り上げた――死者が出ていないのが不思議なくらいの現状だった。無残に吹っ飛ぶ自動車のドア。
彼らは、ルチヤンベル・レジスタンスの驚異の脚力を、その目で見た。
誇りと尊厳を築き上げてきた、ルチヤンベル・レジスタンスのDNAとサバットの力を。
「こりゃあ……L18の助力なんていらないはずだ」
クラウドの皮肉めいた苦笑に、だれも答えるものはいなかった。




