96話 親分肌のグリズリー Ⅰ 2
翌日には、すっかり熱が下がっていた。
その日は、気分転換に、湖周辺を散策した。もちろん、アンジェラの姿が周辺にないことを確認してからだ。
夕方近くにグレンとセルゲイがふたたび来たので、アズラエルは苦い顔をしながら、また集団でハンシックに向かった。
「ほんとうに、すまなかったな」
顔を合わせるなりシュナイクルに謝られて、ルナはもちろん「もう治ったよ!」といったし、アズラエルは、「もとはといえば、コイツが水の中で暴れまわったのが悪いんだ」と当然のことをいった。
シュナイクルの平謝りを止めさせたのは、店の忙しさだけでなく、「アーズラエル!!」と、間延びの上に、いまいちイントネーションがずれた声があったからだった。
ハンシックに来て、客から名を呼ばれたのははじめてだ。アズラエルは声の主を目で捜し、仰天した。
「え? あ――ギォックか!?」
「そうです! ギォックです!」
写真がある方の奥まった席で、両腕を振っている大男がいる。
「ニラだ!!!」
ルナは叫び、セルゲイに大きな手で口をふさがれた。
アズラエルに声をかけた原住民は、下半身はすごく厚着をしているのに上半身は半裸という不思議な服装で、さらに、あざやかな緑色の長い髪を鉢金で巻き、額で食い止めていた。すなわち、髪はすべて重力に逆らい、上に向かって生えていた――ニラのように。
整髪料をつかっているわけでもなさそうなのに、髪は己の意志でもあるかのように、見事天に向かって伸びていた――健やかに育ったニラのように。
「知り合いだったか」
シュナイクルがいい、アズラエルは、「ああ。宇宙船に乗ったばかりのころ、K33区に散策しに行ったんだ。そのとき歓迎してくれたヤツで――」
「アーズラエル! こちらへおいでなさい!」
ギォックが店中に響くほどの大声で叫ぶので、シュナイクルは苦笑した。アズラエルもだ。
「まあ、ゆっくりしていけ」
「あとでな」
アズラエルはスタスタと席に寄っていった。ルナはポカンとしていたが、あわててあとを追った。セルゲイとグレンもついてきた。
ギォックは、髪型はよく実ったニラのようだったが、体躯は頑丈で筋肉ムキムキだ。つたない共通語で、自己紹介をした。
「わたし、ギォックです。アノールの男です。アーズラエルのともだち」
「ひさしぶりだな」
「わしもそっちいっていいですかねえ」
さらに意外な声にルナは目を丸くした。九庵が、エラド・ワインのピッチャーとグラスを持って、こちらへ移動しようとしている。
「九庵さん!?」
「おまえ、なんでこんなことにいるんだ」
ルナもびっくりしたが、アズラエルもびっくりだ。「お知り合いですか」ギォックがひとなつこい笑顔で聞いてくる。
九庵はすっかり鼻を赤くして、陽気に言った。
「わしも、ルナさんとアズラエルさんのともだち」
「おお! ともだちですかそうですか。飲みましょう!!」
「ウェーイ!!」
いきなり乾杯だ。
こういう場で、自己紹介もなく名前も知らない連中に自然になじめるのは、このメンバーでいくとグレンだけだ。グレンが座り、ワインのピッチャーを持って「ウェーイ」とやったので、ギォックと九庵も「ウェーイ」と乾杯した。それを見て、セルゲイ、クラウド、ルナの順でやっと座った。
空いた席から椅子を持ってきて。
「ともだちだったの!?」
ルナが来たと聞いて厨房から駆けてきたルシヤまで、目を丸くしていた。
アズラエルがギォックと話し始めてしまったため、説明を求めたくても聞けないクラウドは、ルナの肩をポン、と叩いた。
クラウドの意図はわかっているが、ルナも九庵はともかく、ギォックのことは知らないのだった。
ギォックはアノール族で、かつてアズラエルが原住民の区画K33区に行ったとき、友人になったという。ハンシックの常連で、いつもは仲間とくる。今日はどうしてもアノールのきのこシチューが食べたくて、ひとりで来たそうだ。
「これはとても手間のかかる、家庭料理です」
幸せそうな顔でシチューを啜るギォックを見ながら、ルナはひたすら、彼のZOOカードはニラかもしれないということを考えていた。ZOOカードに野菜はあるのだろうか。
やがて、アンディの娘のルシヤが合流して――一番奥の大きなテーブルが空いていたので、そこへ移動させられた。店が終わって、ハンシックの連中がやってきても、十分座れる広さのテーブルだ。
彼女は今日、ひとりだった。ダックにシャインで送られてきて、帰りもダックが迎えに来るが、父親はいっしょではなかった。ダックも父親のほうにつきそうらしいので、今日はいっしょにいられない。
それでもルシヤは、いつもよりうれしそうだった。
「六日になったら、パパとダックと、ダックの奥さんと、もう一度リリザに行くの」
ルシヤははしゃいでいった。
「それで、ジニーの腕時計を買ってもらうのよ」
ルナがリリザで買ったジニーの腕時計と、ハンシックのルシヤがかつてリリザで買ってもらったジニーの腕時計は、偶然にもおそろいだった。それを見て、ルシヤはしきりにうらやましがっていた。通販でも買えるものなので、ルナはいつかプレゼントしようと思っていたが、家族でふたたびリリザに行けるなら、こんなにうれしいことはないだろう。
「バンビさんのおかげなの! ほんとうにありがとう!」
それを聞いたバンビは、涙が止まらなくなって気絶しかけたので、ハンシックのルシヤがあわてていった。
「ルシヤ、お礼を言うのは、ぜんぶ終わったあとだ! バンビ、だめだ! いまは気絶するな! 働け! コラ!!」
ルシヤの容赦ない張り手によって、バンビは気絶を免れた。
頬っぺたを腫らせた涙目のまま接客をするバンビに、客がなにごとかと思って声をかけるが、「いいの、気にしないで。今日はあたし、最良の日なの。祝福して」と不気味な笑みを向けるので、遠慮がちな「おめでとう」の声がそこかしこで聞こえた。
店はやっぱり、今日も盛況だ。
席が埋まらない日なんて、この店にはないのだろう。
「おまえも常連なのか」
にぎやかさにまぎれたアズラエルの台詞に、ラグバダ・ビールも何本目か知らない九庵は、すっかり干してから言った。
「常連といえるほど来れないんですけどねえ……宇宙船にもどったら、時間があるときはきますよ、うん」
コトリとコップをテーブルに置いた。
「わしがここに来たってことは」
騒がしい店の中、九庵の動きだけが止まった。
あの、直射日光のような目が一瞬だけ光る。アズラエルは眩しさに目を瞑ったが、だれも気づいていない。
「ルナさんに危険が近づいているのでは」
「なんだと?」
九庵は、あれだけ飲んでいながらも、ほぼ素面だった。アズラエルは周辺を見回したが、いつもどおりのハンシックだ。危険な気配は見当たらない。
「おっ、エラドラシスの肉詰めだ。だれが頼んだ?」
「こっち。じゃがいもはマスタードでいい?」
「ケチャップは?」
「ルナちゃんにケチャップ。ラグバダの辛いほうで」
「メトの焼きそば三人前だ。すまんが、取りわけて食ってくれるか?」
「いいよ。取り皿はいらない」
「シュナイクル、エラドラシスのビールもらうぞ!」
「ああ、そこに書いといてくれ」
シュナイクルにもジェイクにも、バンビにも変わった様子はない。看板娘ルシヤも、忙しく立ち働いている。アンディの娘のルシヤは、ギォックの膝で、ルナと仲良くしゃべっている。
「なあ、リリザ、わたしも、また行きたいな」
看板娘のルシヤが、空いた皿を下げるついでに、ルナたちに話しかけている。
「わたしもママとルシヤと行きたいわ!」
「ジニー・キャッスル、に泊まってみたいんだ」
「三人で行きたいっていったら、シュナイクルさん許してくれるかなあ」
「じ、じいちゃんか……。ルナが、頼んでくれれば……」
「お嬢! ダルダのサワーをくれ」
「はーい! ちょっと、待ってて」
ルシヤは客に呼ばれて、すぐに返事をした。
「わたしなにか、手伝えることある?」
アンディの娘がルシヤにいったが、彼女は首を振った。
「いや。今日はいいよ。お客の、少ない日だから、はやく、終わるんじゃないかと思う」
「そう?」
ルシヤは厨房近くのガラス張りの冷蔵庫を見て、サワーがないと判断したのか、倉庫のほうではなく外に飛び出していった。
ルシヤの言う通りで、今日は全体的に客が少ない。シュナイクルたちがこの席にくるのも、深夜にはならないだろう。
「おーい、どこだルー」
「お嬢なら、サワーを取りに行ったわよ」
「そうか」
シュナイクルとバンビの会話。いつもどおりのハンシック。客は少ないけれど、怪しい奴はひとりもいない。みんな、陽気に笑って飲んで食べている。
シャインで移動してきたので気づかなかったが、窓に霜が降りている。雪は降っていないが満天の星空だ。晴れている。これは、想像以上に冷え込んでいるだろう。この土地がハン=シィクの気候と似ているなら、まぎれもなく氷点下だ。
アズラエルがそう思っていたら、ルシヤが瓶を三本ほど抱えて駆け込んできた。頬は真っ赤で息は白い。手に息を吹きかけている。――相当な寒さだ。
ルシヤは「お待たせ!」といって、瓶を一本、客に渡す。
「これ、持ち帰りで勘定してくれるか」
「はいよ!」
ジェイクがレジに立つ。ルシヤが冷蔵庫に残りのサワーをしまう。
「ルー、サワーを十本ほどよけいに補充しといてくれ」
「うん」
シュナイクルの言葉にルシヤはうなずいて、ふたたび外へ出て行った。
三組の客が、一度に席を立った。家族連れと、同族の男ばかりの五人と、仕事帰りの役員か――スーツ姿の男女。
アズラエルは一度立って、外に出た。やはり、想像以上の寒さだ。L18の気候に慣れているアズラエルもTシャツではいられない気温。
ドアの外に客の姿はない。向こうに見える駐車場も、もう車はなかった。
雪は冷えて固く、ルシヤの足跡がはっきり残っている。
追っていくと、小さな小屋にたどり着く。灯かりがついていて、ルシヤが瓶を木箱から出していた。アズラエルに気づいて、「どうしたの?」と振り返る。
「今夜は寒いな」
アズラエルはサワーの瓶を代わりに持ってやった。ちいさな瓶とはいえ、子どもの手で十本は持てないし、往復しなければならないだろう。しかも、天然の冷蔵庫にあった瓶は、皮膚がはりつくほど冷えている。アズラエルはジャケットでくるんで持ち上げた。
「手伝って、くれるのか」
「ついでだ」
「なんの? 便所は中だよ?」
「――ああ」
周辺に、怪しい気配はない。怪しい気配も人間も見当たらない。――杞憂か?
ほかに考えられるとしたら、野性の獣くらいだろうか。
満天の星空が明るく白い世界を照らしているだけで、この広大な雪原には、生き物の気配がない。
「ここは、パルキオンなんたらウサギ以外に、動物はいるのか?」
「パルキオンミミナガウサギ」
ルシヤは鼻息荒く訂正したのち、
「そうだな。もっと、あっちのほうの森――あそこ――あのあたりには、クマが出るって、客のだれかが、いっていたけど、今は冬だから、いないよ」
「クマだって冬眠するよな」
「パルキオンミミナガウサギだって――あれ? どうだっけ」
ルシヤは首を傾げた。
「今夜は、客も少ないな」
「そう、水曜の夜はすくないかも」
息をするだけで喉が凍り付きそうな帰路を、言葉少なにふたりはもどった。
ルシヤが冷蔵ケースにサワーの瓶を収納していると、また二組の客が立った。
これで、店内に残ったのは、アズラエルたちだけだ。まだ二十二時をまわったころ。
九庵の言葉のあと、まったく酔えなくなったアズラエルは、店内の様子をじっと観察していた。
アズラエルひとりが用心していても、席は特に盛り下がらない。簡単に地雷を落としていった九庵は、自分がいったことも忘れたように、クラウドの下手くそな冗談にゲラゲラ笑っている。
ルナはといえばセルゲイの膝にいる。どうしてそんな行動に出たかわからないが、ウサギを膝に乗せたセルゲイは、とりあえずご機嫌だったし、穏やかに見えてあれの圧は相当なものなので、セルゲイの膝にいる以上、ルナに危険は及ばない気がした。
なんだか気に食わないが。
ウサギの座る場所が間違っている気がしないでもないが、とりあえず、あれより安全な場所はないような気がするから不思議だ。
そろそろ、シュナイクルたちも片付けてこちらへくるだろうか。皿洗いと収納、簡単な掃除は、ヒューマノイドがするから心配はない。
店内から自分たち以外の客が消えてはじめて、アズラエルは肩の力だけを抜いた。だが、九庵がここからいなくなるまで、一切の油断はならない気もした。
九庵は、傭兵の理屈では理解できない行動をとる。それはどちらかといえば、ルナやサルーディーバたちのほうに近い。
ルナに危険があるからここへきて、安全が保障されれば去るのだろう。その合図があるまで、油断はならない。
厨房の明かりが最低限に落とされる。
バンビが店のドアまえの札をクローズに裏返した。
ジェイクが大きなお盆を抱えてこちらにやってくる。メトの焼きそばが三人分と、バンビ用のサラダ。スープカップが四つ。
今日の仕事は終わりだ。
「ルーはどうした?」
「あれ? さっきまでいたのに」
テーブルに合流してきたのはジェイクとバンビと、シュナイクルだ。
ルシヤの姿がない。
ジェイクが冷蔵ケースを開けて、
「ラグバダ・ビールも切れてるので、補充しにいったんじゃないですかね」
俺、いっしょに持ってきますといって、ジェイクが外に出て行った。
アズラエルは奇妙な胸騒ぎがした。傭兵の直感みたいなものか。
思わず、自分も立って外に出た。今度はジャケットを着こんで。




