96話 親分肌のグリズリー Ⅰ 1
――運命は、くりかえす――。
月の女神の石板がある場所で、膝を抱えて眠っていた子ネズミは、急にまぶしいばかりの光をまぶたの上から感じて、目を開けた。
月の満ち欠けが彫られた石板――更待月にルナの顔が浮かんでいるのみだったが、いつのまにか、新しい人物が増えている。
下弦の月の位置に、新しい顔が。
それが、「ルシヤ」だと悟ったとたん、子ネズミは駆け出した。
「ZOOの支配者様にご報告しなきゃ!」
――さて。
アンジェリカは、ひどく困っていた。
実際、ご報告に来たネズミも、ZOOの支配者様たるアンジェリカにまったく連絡が取れないので、たいそう困っていた。兎にも角にも、ZOOカードボックスが封じられてしまっているので、あれきり、すべての連絡が滞ったままだ。
ベッドからすこし離れた椅子で編み物をしながら、アンジェリカの携帯電話を握っているユハラムは、もはや鉄壁の城だった。攻略は容易ではない――というかもはや難攻不落。
ナバはアンジェリカに甘いし、平民出ということもあって、アンジェリカのいうことをすぐ聞いてしまう。アンジェリカを見張るという意味では、まったくの役立たずと見なされたのだ。クビになったわけではない。
アンジェリカもしかたないと思っている。
K05区から帰ってすぐ、アンジェリカはすこし熱を上げた。高熱ではなく、37度後半の、彼女にとっては微熱といえる程度だったが、ユハラムは激怒した。アンジェリカが、「運のいいピューマ」のカードを持って階段を上がるつもりだったことまで知ってしまい、その表情は、世界最強の硬度になってしまった。
「お医者様がもうよいとおっしゃるまで、アンジェリカさまにはいっさいのお仕事をさせません」
ZOOカードが封印されたのは、ユハラムの力をもってしてではない。彼女にそんなことはできない。
しかし、ZOOカードボックスは、マ・アース・ジャ・ハーナの神に封印された上、屋敷の金庫にしまわれるというさらなる封印を受け、アンジェリカの手出しがまったくできないところに置かれてしまった。これは大変に困った。
頑なになったユハラムには、姉サルーディーバもかないはしない。
万事休すというやつだった。
ユハラムは、アンジェリカの電話の相手がだれであっても、失礼な態度をとることは一切なかったし、その点は大丈夫だが、ルナに知らせたいことが山ほどあるのだ。
もう眠りすぎて眠れないのに、ベッドで天井を見上げたまま、アンジェリカは最後の希望をこめて、ユハラムにお願いした。
「ルナに知らせたいことがあるの」
「いけません」
「電話したい。三十分だけ」
「なりません。ナバをつかいにお出しなさい」
「それじゃ間に合わないかも――メールは?」
「やりとりはご許可できません。どうせ、長い会話になるのでしょう」
「わかった。じゃ、メールでひとことだけ。やりとりはしない」
ユハラムはやっと、アンジェリカの携帯電話を枕元に置いてくれた。
「五分しか、お貸しできませんよ」
「五分だって!?」
内容を考える余裕もない。
ユハラムは平然としている。メールを打ったことのないやつはこれだから――用件をいかに短く伝えるかってけっこう考えるんだぞ――アンジェリカは必死で考え――また熱が出そうなくらい集中して考え――ルナにたったひとこと、メールを送った。
果たしてこれで、ルナの役に立つのかどうか。
混乱させるだけかもしれないが――。
――運命は、くりかえす。
チロン、とメールを送ったことを示す可愛らしい音が響いた。
「ぷぴ?」
ルナは、メールの着信音で目を覚ました。
枕もとの携帯電話を見ると、アンジェリカからメールが入っている。あわてて開くと、そこには短い文章が。
――運命は、くりかえす。
「レペティール?」
どこかで聞いたような気が。
そうだ。フサノスケも、「レペティール」のことをなにか言っていた気が。
レペティールとは、くりかえすという意味なのだろうか。
身を起こすと、そばにはアズラエルとクラウドがいた。ベッドのそばに肘掛椅子を持ってきて、腕組みをしたまま寝ていた――ふたりとも。
ルナが体を起こすと、軍関係者どもも目を開けた。
「起きたか」
クラウドは、ルナの熱が下がったかどうかをたしかめようとして近づき、気づいた。
「ルナちゃん、バッグはどうしたの?」
「バッグ?」
「赤いバッグだよ。そばに置いておいた――」
「……あっ!」
鳳凰のバッグは、あとかたもなかった。中に入っていたワインや桃缶もだ。
こつ然と、消えていた。
「俺たちが落ちるまえまでは、たしかにあったよな……?」
さすがのアズラエルも、気味が悪そうな顔をしてつぶやいた。
「なにもないのか。ワインも、缶詰も? ブラシみたいなものも入っていたはずだ」
「あれはクシっていうのです」
クラウドは、ベッドの周りや下、布団の中、ルナの背後など――あちこちを探したが、どこにもなかった。
バッグは、あとかたもなく消えたのだった。
「鳳凰さんが、守ってくれたのです」
ルナは寝ぼけ眼という名の座った目でそういった。アズラエルとクラウドは、表現しがたい顔で互いの顔を見る。
ルナはそんなふたりをおいてけぼりにして、パジャマのぽっけに手を突っ込んだ。
そこにはちゃんとあった――一枚のカードが。
「運のいいピューマ」のカード。
夢の中で、ケンイテンキシン――ケンイ――カンテンノウサギにもらったZOOカードだ。
バッグや櫛や食べ物は消えたが、ルナのポケットには未知のものが入っていた。しかもZOOカードだ。
クラウドは興味深く覗いたが、アズラエルは苦い顔をしたきり、黙った。
「ルナちゃん、そのカードは」
「うん。寒天ウサギさんにもらったの」
「ちょっと見せて」
受け取ったのは夢の中だが、カードは幻でもなんでもない。ちゃんとトランプみたいな質感をした本物のカードだ。
スポーツカーに乗った、ピューマのイラストが描かれていた。助手席に、ちいさなベージュ色のウサギが乗っている。
おそらくこのウサギは、娘のルシヤか。
「これは、もしかして――」
「うん。ZOOカードだと思う」
“運のいいピューマ”と名称が書かれているし、ルナがアンジェリカに見せてもらったカードと、絵柄が似ている。
クラウドは、本物のZOOカードを見るのははじめてである。
「電子装甲兵を思わせる姿の絵じゃないんだな」
運がいい、という表現も、このイラストからはまったく伺えない。
「この背景は、なんだろう……」
カーレースのコースのようにも見える。カーレースと聞いて、アズラエルがやっと興味を持ち出した。
「それにしちゃ、車がずいぶん小さくねえか」
「コースも平たんとは言えないね」
コースには、山みたいにでこぼこした道や、水たまりまである。どうして一部だけ吹雪が? これは、氷が張っているのか?
「ダートか? 氷上レースも兼ねてんのか。なんだこりゃ」
「多分これね……ゴーカートだと思う」
確信はないが、ルナはそういった。
「ゴーカート? 遊園地によくある?」
「なるほどな。イラストだっていわれりゃ仕方ねえが、車が小さすぎるもんな」
アズラエルは納得した。誇張されたアニメ絵だといわれればそう見るが、なにせ車があまりに小さすぎる。おもちゃのようだった。
こんな過酷なコースを回るには、あまりに頼りないレベルの。
「まるで、ダックから聞いた、ヤツの人生みたいだな」
アズラエルの言葉が、真実を言い当てていた。
平坦な道ではない、でこぼこ道や水たまりや氷の世界を通っていく、過酷なレース。
ルナとクラウドは、アンディとルシヤがたどってきたあまりに過酷な生を思い出し、カードを見つめた。
「ゴーカート……」
ルナは言ってから、唐突に、フサノスケとの会話を思い出した。夜のK37区の街で、彼と話したことを。
『いんや。手遅れってことはねえよ。でも、急がなきゃならねえことはたしかだ。ルナちゃんたちには大変なことはねえけど、“レペティール”で周回しているやつがいるからな』
『“レペティール”?』
『んだ。ZOOカードでいうと、遊園地のゴーカートに乗ってるやつだ』
「これはZOOカードの、ゴーカートコースです」
ルナはウサ耳を立たせながら、興奮気味に言った。
「なんだって?」
「フサノスケ君がそういってたの。レペティールで周回しているやつがいるって――アンディさんのことだったんだ……」
ルナは、先ほどアンジェリカから来たメールを、ふたりに見せた。
「運命は、くりかえす(レペティール)……」
思案するように、言葉を口にしたのはクラウドだ。
「ルナちゃん、このカードはどうやって手に入れたの」
「夢で寒天のウサギさんからもらったの。“真実をもたらすトラ”さんから預かっていたんだって」
「真実をもたらすトラ?」
クラウドのZOOカードは、「真実をもたらすライオン」である。
「俺と同じ枕詞をもつトラがいるっていうのかい?」
「そうみたい」
ルナもはじめて聞くZOOカード名だった。だれかは知らない。
しかし、クラウドにはひとつ確信することがあった。バンビに設備資金をもたらした男にせよ、ルナにZOOカードを預けた人物にせよ――ZOOカードをあつかう人物は、アンジェリカだけではないということだ。
(“真実をもたらすトラ”とは何者だ?)
クラウドはしばしカードを見つめ、ルナに返した。
ルナはお目目をこしこししながら、「アズのバッグがあったよね。つかわないなら、あれちょうだい」とのたまった。
アズラエルは無言でうなずいた。いつのまにか消えるかもしれないバッグなんて、持っていたくはない。財布ごと消えたら困る。
「アズもあれを持っていたのか?」
クラウドは想定外だという顔をした。
「俺が調べたところによると、あれはリリザの鳳凰城のノベルティらしいが――」
「クラウド。なんでもかんでも知ろうとするのはよくねえ」
疲れた様子でアズラエルはいい、ルナも言った。
「すくなくとも、ミシェルもそう思うと思いますよ」
「――わかった。もう追求しない。でも、どうしてバッグが消えたかだけは教えてくれないか」
ルナは聞いても信じないと思ったが、クラウドは、ルナの夢に関してはとにかく言葉通り受け取るのだった。それが奇想天外とか荒唐無稽とか関係なく、常識非常識は抜きにして。
まあ、「運のいいピューマ」のカードも、夢から持ってきたものだし。
「うん。夢のお話はあとから話すしまとめるけども、ちょっと待って」
ルナはベッドからぴょーん! と飛び降りた。安普請のアパートであれば到底できない行為だが、リッチな別荘は、ルナが飛び跳ねたところでミシリとも鳴らなかった。
「あたしじつは、昨夜のうちに、パルキオンミミナガウサギになったのです!」
ルナは鼻息も荒く叫んだ。アズラエルとクラウドが顔を見合わせる。
「へやっ」
気の抜けるような掛け声とともにルナは右足を繰り出し――だれも倒せそうにない、右足を軽く上げる運動だった――そのまま、てててててーっ! と勢いよく走り、リビングとの境にある小さな段差に躓き、べしょっと顔面からいった。
「とってもいたい!!」
ルナはよろよろと起き上がって泣きべそをかいた。
アズラエルとクラウドはもう一度顔を見合わせた。
その表情は、哀れみに満ちていた。
実際、ルナの熱はまだ平熱とはいいがたい体温だった。奇行もしかたがない。
サンドイッチ・トラックを探すために一日歩き回ったり、深夜まで夜遊びしたり、食生活も変わって、温泉水とはいえまだ冬のさなかに水浴びなんかもしたら、体調を崩すのはあたりまえだった。
ルナは今日、ぼんやり過ごすことにした。
リビングにいれば、アズラエルに「寝ていろ」と、ベッドという名のケージに運搬されるので、ルナはいさぎよくベッドの住人になった。
日記に最近のことや夢のことを記しながら、くたびれたら寝るを繰り返した。ミシェルとちょっぴりメールのやり取りなんかもして。
ミシェルはそろそろ、クラウドを許してもいいかなといっていたが、まだ自分から連絡する気はないようだ。
クラウドはいったい、なにをしたのだ。
ルナは天井を見上げながら考えた。
夢の中でしか、パルキオンミミナガウサギにはなれないのだろうか?
なんだかとてもがっかりした。ルナは起きたら、ルシヤみたいにサバットが使える、かっこいい女性になっていると思っていたのだった。
だが、どんくさいウサギは、起きてもどんくさいウサギだった。
その日は夢も見ず、ただひたすら、深い眠りについた。




