93話 ロッテ・コスカーテの滝 1
「えーっ!?」
ルナは絶叫した。絶叫するほかなかった。
『ルナは、行かないの!?』
『ママが行かないなら、わたしも行かないわ!!』
絶叫を制すは、絶叫。
電話向こうから、娘(仮)ふたりの絶叫が聞こえて、ウサギは「ううううう~ん」とうなったまま、コロンとひっくり返った。
夜中におでんを食べすぎたルナは、翌日、昼近くに起きて「むくんでいる」といって黄金風呂に飛び込んだ。夕食に特大鮭のソテーとパフェまで食っておいて、屋台のおでんである。胃もたれするのもむくむのも当然だった。
アズラエルは、ハンシックにでかけるまえに、朝食はいらないと管理人に告げておいて正解だったと思った。
しかし、シャワーからあっというまに飛び出てきたウサギは、髪を乾かしながら、「K05区に行かなきゃ」とのたまったのだった。寝不足の上、胃もたれしているくせに活動的なウサギだ。今日は一日転がっているかと思ったのに。
その直後にきた電話がこれである。
『じいちゃんが、ピクニックに、連れてってくれるって! ルナも、一緒に行こう!!』
行先はK07区にある保養地らしい。ハンシックのメンバーは何度か行ったことがあるようだが、具体的な地名は教えてもらえなかった。行ってからのお楽しみというやつだ。
『朝から、弁当も作ったし、じいちゃんの車で行くの――ルシヤも、来るよ! 父さんは、来れないようだけど、ダックがついているって!』
ルシヤは、ルナが断るとは思ってもいないはしゃぎ方だった。
しかしルナは、フサノスケとの約束があり、シオミ酒造に行かなければならないのだ。
「今日は、約束があって……」
はしゃいでいた電話向こうの声が一瞬で途絶える。
肩を落としたルシヤの姿が見えるようだ。そこへ割り込んできたのが、アンディの娘のルシヤである。
『おはようルシヤ! あっもしかして電話の相手はママ? おはよう!! 今日は楽しみね!!』
『ルナは……用事があって、いけないって……』
『えーっ!!』
――冒頭にもどる。
『だから、いきなりは無理だと言っただろう。ルナだって用事がある』
『まあまあ、ルシヤさん、ルナちゃんはまた今度誘いましょうよ』
電話の向こうからシュナイクルとジェイクのなだめ声が聞こえる。
『ルナちゃん、アズラエルに代わってくれるか』
「うん……」
アズラエルに電話を手渡し、『おまえは行けるか? グレンは? セルゲイたちはどうだ』というジェイクの声をひろいながら、ルナは眉をへの字にした。
昨夜も遅かったのに、シュナイクルたちは朝早くから、お弁当をつくってくれたのだろう。すべてがルナたちのためでないとしても――ルシヤふたりのガッカリ顔が簡単に想像できて、ルナはぶんぶん首を振る。
行かなきゃいけないのだ。シオミ酒造に。
早く夜のメルカドを脱出し、寒天のウサギに会わないと、大変なことになる――かもしれない。
(寒天のウサギ?)
ルナはなんだかちょっとちがう気がして首を傾げた。それより昨夜はあんまりくたびれたのか、夢は見なかった。
いよいよ、鬼気迫る顔で覚悟をするルナだった。
「ルナちゃん、昨夜は、あのウワバミ様とどんな話を?」
興味を持つのはクラウドくらいなものだ。ルナはいった。
「ウワバミだけども、名前はフサノスケくんなのです。ウサギ寒天のことを、ちょっとね」
「か、カンテン?」
さすがのクラウドも意味不明だ。ルナは今、クラウドに詳しく説明するつもりはなかった。なるべく早く出かけなければ。決心が鈍らぬうちに――と、部屋を出ようとしたとたんに。
『ルナが行がないなら、わだじもいがない!!!!!』
『ママといっしょじゃなきゃイヤあああああ!!!!!!!』
すさまじい号泣が電話向こうから聞こえ、アズラエルは耳をふさいで、無言でルナに携帯電話を返した。
クラウドは、「あきらめなよルナちゃん」といい、セルゲイは「どこに行くんだろうね」――グレンは「K07区ってなにかあったか」と、行く気満々だった。
まだアズラエルが電話を持っていると思ったのか、シュナイクルのため息まじりの言葉と、ジェイクの苦笑が聞こえてきた。
『すまんな……こんなに駄々をこねるとは……おい、泣き止め』
『しばらくぶりですねえ、こんな派手に泣くの』
ルナはかつてないほどの苦み走った顔で、あきらめた。シオミ酒造に行くのをだ。
ママとは、大変なのだった。
ルナが行くと聞いたとたん、満面の笑顔になったルシヤ二名は、大興奮で歓声を上げた。キャッキャウフフの楽しい笑い声は、ルナにも聞こえた。
泊りがけになるというので、鳳凰城でもらったバッグに、洗面用具のセットと着替えを詰めたルナは、アズラエルたちとともに、いつもどおりシャインでハンシックの倉庫に出、シュナイクルの運転する自動車に乗った。
ずいぶん古ぼけたワゴン型の大型車は、大きめの成人男性が七人いても、余裕だった。
ハンシックのルシヤはジェイクの膝に、アンディの娘はセルゲイの膝に。ルナはアズラエルの膝が指定席だったが。
「どこに行くんだい」
助手席のクラウドが聞くと、シュナイクルは「行ってからのお楽しみだ」と笑った。
K08区の農道を通って、K12区の街並みをすぎると、K07区に入る。K07区の案内標識を過ぎた先は、整備された山道だった。
「あっ! オリンガ・サファリパークだ! むかし、じいちゃんと行ったことがある!」
「サファリパークってなに?」
「動物が、いっぱいいるんだ! 恐竜もいたよ」
「恐竜!?」
窓際の席で、ルシヤ‘sははしゃいだ。「オリンガ・サファリパーク」の巨大な看板が通りすぎていく。
開け放たれた鉄門の向こうへ入っていく自動車を、口を開けて見送った。
「ほんっと元気ね……お嬢たちは」
ひとり、青ざめた顔でぐったりしているのはバンビだった。
「だいじょうぶスか、バンビさん」
「……だいじょうぶに見える?」
「なんだおまえ、車酔いか」
「グレンがキスしてくれたら治るかも」
「俺のキスは高いぞ。キャッシュで一千万用意しな」
「……グレンのキスだったら買っちゃうぅぅ……」
グレンも昨夜で、バンビの扱いを心得てきたようだった。
「このあたりは、六月ころに来ると、一番緑が綺麗なんだ」
まだまだ雪は深く、緑の木々は松や杉くらいのものである。新緑や、夏まっさかりの森は美しいだろう。
「川だわ!」
ルシヤは窓の外から目を離さない。ルナも窓の外を見ると、曲がりくねった山道に沿って川が流れている。窓を開けると、水の音がした。
「どこに行くんだ。そろそろ教えてくれてもいいだろ」
アズラエルが聞くと、やっとルシヤが答えた。
「ロッテ・コスカーテの滝!」
ルシヤの答えからまもなく、山道はますます細くなり、ぐねぐねカーブする急な坂道になっていく。対向車とすれ違うのに、ギリギリの車幅だ。雪もあって、進む速度は遅くなった。
やがて駐車場が見えてくる――「ロッテ・コスカーテの滝 第一駐車場」――冬のこともあって、自動車の数は少ない。
広い駐車場に、休憩所やレストランといったコテージがいくつか並び、その奥からのぞく巨大な滝に、「わあーっ!」とアンディの娘のルシヤが歓声をあげた。
「すごい! あれはなに!?」
「あれが、ロッテ・コスカーテの滝だよ!」
ルシヤははじめて滝を見たのだろう。目を輝かせる相方に、もう片方のルシヤが、威勢よく滝の名を怒鳴った。ルナもその迫力に、ぽっかり口を開けた。
八十メートルの落差がある巨大な滝は、ごうごうとうなりを上げて滝つぼに流れ込んでいる。一番近くで観察できる、半円形にとられた広場にはうすい霧が立ち込め、それが水飛沫だとルナは知った。
「これでもまだ、滝の勢いがおとなしいほうだ。春になると、雪解け水で水かさが増して、傘かレインコートがなければ近づけない」
シュナイクルは言い、すいている駐車場の一角に車を停めた。
降りると、ルナはさっそく深呼吸をした。山の匂い、風の冷たさ。車酔いしまくっているバンビのためにコンビニで休憩した以外は、まっすぐ来たのだ。ここまで二時間弱といったところか。ルナは固まった足を踏み鳴らした。
ざあざあと、滝の音が聞こえる。
「船内にこんな観光地があったなんてね」
セルゲイは霧に阻まれて見えない、滝のてっぺんをながめた。
「まだまだ、知らない場所が多いなあ」
「ルシヤ、行こう!」
「おい、あまりはしゃいで、滝つぼに落ちるなよ!」
シュナイクルが叫んだ。
バックドアを開けて、大きなクーラーボックスをふたつ取り出す。片方をアズラエルが持った。ルナがバッグを引っ張り出そうとすると、着替えは出さなくていいとシュナイクルは言った。
水辺に行くので、布のバッグは湿気で濡れてしまうらしい。
「携帯椅子とか、シートは?」
「あずまやがあるんだ」
ジェイクがグレンの背を叩いて、うながす。
「目的地はまだ先だ。滝を見ながら行こうか」
シュナイクルを先導に、ルナたちは滝の全貌が見える場所まで近づいた。ウサギ三羽は、濡れるのもかまわず一番近くまで行き、手すりにつかまって滝つぼを覗き込む。
霧雨のような飛沫に、服がまたたく間に湿っぽくなっていく。
「今は冬だから、あまり濡れると風邪をひくぞ」
おじいちゃんが一番心配していた。
売店で、レインコートのウェアラブルハードが売っているようだったが――「見えない」レインコートで、ガムのケースみたいな装置のボタンを押せば、見えないガードが肉体の周囲を覆う、雨除けになるという、最新式のレインコートである。ついでに日除けも兼用する――持っていたのはバンビだけだった。
「ずるい、バンビ!」
「あたし、身体激ヨワだから。すぐ風邪ひくし」
ルシヤはじいちゃんにねだったが、「家に帰れば傘があるだろ」といわれて、しぶしぶ引き下がった。
ジェイクが観光客に声をかけていると思ったら、カップルを連れてもどってきた。
ウサギ三羽がびしょぬれになるまえに、頼んでカメラのシャッターを押してもらった。全員で記念撮影だ。車酔いでヘロヘロのバンビも、ジェイクに引きずられるように参加して、ボロボロの青ざめた顔で写真に写った。
クラウドは「ミシェルもくればよかったのに」といいつつ恨みがましく写真を送ったが、返事は返ってこなかった。
「俺の心が折れるまえに、ルナちゃんからミシェルに慈悲を乞うてほしい」
ルナのメールには返事が来たことを、しばらくだまっていようとルナは思った。これはかなりおかんむりだ。クラウドはいったい、なにをしたのだ。
滝から離れ、店舗のまえを過ぎ、山道に入る。周辺に雪はあるものの、地面は濡れているだけで積もっていない。多少冷えるが、凍ってはいないようだ。今日は日差しがある。
「気を付けて歩けよ」
道は広いが、片側はガードレールがあるだけの断崖絶壁だ。ルナはルシヤ二名と手をつないで、スキップしながら歩いた。
毎度のことだが、ルナはすっかり、寒天ウサギや、フサノスケのことは忘れていた。もちろん、今日行けなくなってしまったことをフサノスケに連絡したが、フサノスケは「なるべく早く来なよ」といっただけで、あとはなにも言わなかった。
十五分も歩いたろうか。ふたたび開けた場所に出る。さきほどの駐車場と同じくらいの広さがあったが、車は一台もない。
レトロな外観の温泉ホテルと、売店、それから釣り道具を貸す店舗や、トイレなどがぽつぽつ建っている。今は冬季閉鎖になっているが、釣りができる川や池が、もっと山奥に行けばあるらしい。
「こっちだ!」
ルシヤが走り出す。ルナともう一名のルシヤはあわててあとを追い――ホテルの裏側に出て、驚いた。
ホテルの反対側から流れる川――幅が、二十メートルもあるだろうか。段々畑のように整備されている。白イアラが一面に敷き詰められ、湯の花の結晶が固めた河川を、真っ青な水――いや、これは湯か? 湯気が上がっている――が滔々と流れている。
「ステキ……」
アンディの娘のルシヤが思わずつぶやいた。
「これは、温泉のお湯だよ! あったかいよ。ブーツを脱いで、入っても、いいんだ」
ルシヤはさっさとブーツと靴下を脱ぎ、ズボンをまくり、足を湯に浸していた。そのまま、水しぶきを上げながら、下へ降りていく。アンディの娘もあわててブーツと靴下を脱ぎ、そっと、青く透明な水に、足を踏み入れる。
「あったかい!」
ルシヤは感激してルナを見上げた。
「ママ、あったかいわ! それから下がすべすべする」
「これは美肌の湯だよ!」
「美肌って?」
「綺麗に、なれるんだ!!」
ルシヤの絶叫はよく響く。
「おーいルナ! ルシヤ、早くおいで!!」
ルシヤはもう、だいぶ下のほうまで降りていた。
段差はゆるい。ルナとルシヤは、温泉水の中を降りていった。あちこちから湯気が立っているし、これでは、あの布地のバッグも、中の着替えも、濡れてしまっていたかもしれない――ルナは途中でコートを脱いだ。
シュナイクルたちは、河川の隙間につくられた階段を降りてきていた。
「ここは、冬には温泉の湯、夏は清水が流れるように調整されているらしい。どちらも温泉水だそうだが――ルー! その辺にしておけ。あまり降りるなよ!」
「今日泊まるのは、あそこのホテルかい?」
セルゲイが振り返りながら聞いた。シュナイクルは首を振った。
「いや。急だったんであそこのホテルは取れなくてな」
「穴場なんじゃねえのか。ずいぶんでかいホテルだったが」
シーズンオフでも満員なのか。アズラエルも言った。
「あのホテルは予約が取りにくい。じつは、夜景がいいんだ。外見はちょっと古めかしいが、中のサービスは高級だぞ。この河川もそうだが、滝がライトアップされるのを見られる部屋もあるし、ここから少し離れたところにある原住民の小さな集落の街並みが、とても美しいんだ。クリスマスには、祭りもある」
「うん。あれは観光客っつうか――船客向けだったな」
ジェイクもうなずいた。
「じゃあどこに?」
「K05区に近い旅館に部屋を取ってある」
ロッテ・コスカーテの滝はK05区寄りか。
クラウドは船内パンフのアプリを起動して確かめた。なるほど、ここが穴場の観光地だというのは間違いなさそうだ。ホテルの宿泊客は埋まっているが、川に遊びに来ている者はいない。
まあ、冬だし。




