83話 ハン=シィクの子 1
ルナもルシヤを追った。ルシヤの足は、ふたりとも、早かった。
ルナが息をあえがせながら追いついたときには、ハンシックのルシヤは、すでに倉庫の入り口に立っていた。
もうひとりのルシヤは――シャイン・システムの扉のまえだ。
段ボールが積まれた倉庫の奥、シャインの扉の前でうずくまり、泣いていた。
ハンシックの入り口ではなく、こちらへ走ったのは、こちらに出口があると思ったからだろう。
ルナはほっとした。雪原の中に飛び出されたら大変だった。ルナの足では追いつけない。明かりひとつない真っ暗な雪原で遭難したらと思うと、焦りに焦った。
ルシヤの嗚咽だけが、しずかな倉庫に響いていた。
帰ろうと思ったけれど、シャインの扉が開かなかったので、途方に暮れているのだろう。
あまりにもちいさな肩を震わせて、ルシヤはしゃくりあげ、泣いている。
ルナはすぐさま駆け寄りたかったが、ハンシックのルシヤが通路をふさいでいた。彼女も、ルシヤに駆け寄ることなく、だまって、見つめていた。
追ってきたルナの姿を認めると、ルシヤはやっと気づいたように顔を上げた。それから、ルナが行こうとするのを制し、自分が、ルシヤに近づく。
「ルシヤ」
うずくまっていたルシヤの肩が揺れた。振り返って声の主をたしかめる。涙と鼻水でぐしょぐしょだ。
「ルシヤ、わたしは――わたしのじいちゃんは、ルチヤンベル・レジスタンスだ」
ふたたび、ルシヤの目から涙がこぼれ落ちる。
「おまえは、DLなのか」
ルシヤは、ルシヤの問いに、猛然と首を振った。
「ちがうわ! わたしはちがう! パパはDLだったの! でも、わたしを連れて、逃げたの! だからもう――」
「じゃあ、おまえのとうさんは、ルチヤンベル・レジスタンスを、憎んでるわけじゃないんだな?」
「そんなこと――!」
ルシヤは泣いた。
「パパはだれも憎んでなんかいない。おびえてるだけよ! パパも、わたしも、ただ……」
ルシヤは膝のあいだに、顔を埋めた。
「た、ただ……しずかに、暮らし、たい、だけ……逃げたりせず、に」
ルシヤが、もう一歩、ルシヤに近づいた。
「じゃあ、わたしも、DLを、憎まない。おまえも、おまえのとうさんも」
ルシヤが顔を上げ、信じられない表情でルシヤを見た。その目には、絶望しかなかった。
「あなた、知らないだけよ。DLが、あなたたちに何をしたか」
「知っている」
ルシヤはいった。
「知っている。じいちゃんから、聞いた。わたしは、乳飲み子だったから、なにもおぼえていないけど」
「それなら――!」
「でも、じいちゃんは、わたしの話にするなといった」
「――え?」
「じいちゃんは、わたしが理解できる年になったとき、包みかくさず話してくれた。とうさんやかあさんのことも、仲間のことも、ルチヤンベル・レジスタンスのことも、DLのことも。でも、それはじいちゃんの体験だ。わたしの体験じゃない。だから、おまえは、このことはただの事実として、心にきざめといわれた」
ルシヤは、絶句した。
「わたしは、事実を聞いただけ。聞くだけでもつらかったけど、悔しさも悲しみも、ぜんぶじいちゃんのものだ。わたしのものじゃない。わたしのおもいじゃない。わたしはおぼえていない」
ルシヤはどこまでも淡々と、そして、力強くいった。
「DLは、憎いよ。でも、おまえたちは、うらまない」
「わたしの――パパが、あなたのパパや、ママ、を、殺したかもしれなくても?」
「それは、おまえがやったわけじゃないだろう?」
その言葉をいったのは、シュナイクルだ。
ルナは気づかなかった。厨房はどうしたのだろう。手をタオルで拭きつつ、シュナイクルは孫の後を追うように、ルシヤに近づいた。
「パパ――パパはきっと、それをしたかもしれない」
ルシヤはしゃくりあげながら叫んだ。
「あなたの家族を殺したかも。パパは、ずっとうなされているから。たくさんのひとを手にかけたことを」
「……後悔してるんだな」
「ママが死んだことも。でんしせん、が、てきごう、しなくて。わたしもきっとでんしせんがてきごうしないから、パパはわたしを連れて逃げたの。わたしは実験台になるところだった。赤ちゃんのうちからでんしせんを入れれば、強い戦士になるからって!」
シュナイクルの顔がひどくゆがんだ。言葉にせずとも、わかった。ルナも同じ気持ちだった。いつのまにか来ていたアズラエルまで舌打ちし、バンビが口を覆った。
――なんてことを。
あまりにちいさな呻きを、ルナだけがひろった。
「みんな死んだの。つぎつぎみんな死んでいったってパパが言った。ママも、パパの仲間もみんな。せんそうじゃなくて、でんしせんにてきごうしなくて。でんしせんがじょうずにはいっても、みんな帰ってくれば死ぬの。あのままそこにいたら、パパも死んでいたかもしれない」
ルシヤは泣いていた。
姉も、妹も。
ハン=シィクの民の過酷な末路に憤り、泣いていた。
ついにルシヤは、自分の涙をぬぐい、ルシヤの目と鼻の先に近づき、しゃがみこんだ。ルシヤの真剣な目が、ルシヤを見据えていた。
「おまえは、わたしの妹で、おまえがL46生まれなら、おまえはわたしと同じ、ハン=シィクの子だ」
「うっく……」
「よく、生きていてくれたな、きょうだい」
ルシヤが両手を広げるのと同時に、ルシヤは胸に飛び込んだ。
「うわああああん、うあああ」
広い倉庫に反響するような切ない悲鳴を、ルシヤはとどろかせた。そのふたりを、まとめてシュナイクルが抱え込む。
シュナイクルが、なにかいっている。その言葉はルナに聞こえず、ぼやけるように消えてかすんだ。
――その瞬間。
ルナは。
ルナだけが、違う光景を見ていた。
つなぎを着た初老の大柄な体躯の男が、ふたりの少女を抱え込む。シュナイクルにもっと年を取らせ、白髪にし、長いひげを蓄えさせた老人だ。老人はシュナイクルの面影を宿し、娘たちは「ルシヤ」に生き写し。ふたりとも黒髪で、片方は、病の治療のため、髪はみじかく刈られている。
――ママは死んだのね? シュンおじさん。
――ママだけじゃない、パパも死んだ。
――わたしたちどうなるの。
――おまえたちは俺の子だ。なにも心配いらない。さあ、パパとママの冥福を祈ろう。
「ルシヤ」と「ピューマ」が死んで、娘二人は「グリズリーおじさん」に預けられた。
――ママを殺したあの女はどうなったの。
――許せない、わたしきっと仕返しするわ。
――パパもきっと、あの女に殺されたのよ! 始末されたの。
泣きじゃくり、わめく姉妹を、男のおだやかな声と手がなだめる。
――恨むなら、強くなれ。おまえは病を治し、強い肉体を手に入れろ。おまえは学べ。だまされないよう、利用されないよう賢くなれ。
――強くなれ、ふたりとも。両親のように。
――復讐するなら、彼らのはかない人生に対してだ。
――ルシヤのように、強く気高くあれ。
――生きるんだ。
――わたしきっと、ママみたいに強い人間になるわ。
娘二人の、力強い宣言――まるで脳みそに打ち付けるような――声が聞こえたあと。
ルナがはっと気づくと、映像は消えていた。過去の映像が、三人に重なって見えたのだ。
(なんだろう、いまの)
ルシヤの嗚咽がやみはじめている。
(ルシヤが死んだあとの、三人の会話?)
――あの女?
(あの女って?)
いつのまにか、バンビはいなかった。
「ルゥ」
アズラエルがルナの肩を抱いてうながした。ルナは三人から目を離さないまま、アズラエルに所持されて、店のほうへもどった。
ルナたちがレストランにもどると、客数は半分以下になっていた。入り口の外で、ジェイクが客と話している。どうやら、すでにcloseの札がかけられたらしかった。
新たに来る客は、店先の札を見て残念そうに帰っていく。食事中の客を急かすことはなかったが、ひとり、またひとりと、食事を終え、席を立って会計を済ませていく。
ルナは、自分の鼻の頭も真っ赤なことに気づいた。
最後に見た映像が、あまりにリアルで衝撃的すぎてポカンとしていたが、号泣しかけたばかりだったのだ。
やがてうしろから、ふたりのルシヤを抱えたシュナイクルが現れた。
シュナイクルの顔の位置は高すぎて、ルナには彼の顔色を伺えなかった。しかし、彼の相貌はおだやかだった。
――さっき見た、老人と同じ。
彼はしゃがみこみ、ルシヤふたりを降ろした。
「さあ、メシを食え。メシを食って元気になれ」
食事を終えた客たちが、次々と店を後にしていく。シュナイクルがさまざまな言語で、「悪いな」とでも声をかけているのか――だれも、気を悪くはしていないようだった。
「メシを食うよ! ルシヤ!」
「……うん!」
姉に引っ張られ、妹ルシヤはシュナイクルを何度も振り返りながら、食事が用意された席に座った。
アズラエルはとなりの、別の席に移動していた。
ルナとルシヤふたり――「親子」で座った席には、できたての食事が置かれている。
ルナも鼻をかみ、めのまえのおいしそうな食事に集中することにした。
「いただきます!」
ルナとルシヤの盛大なあいさつのあと、おずおずと、もう一人のルシヤのちいさな「いただきます」が加わった。
ハンシックのルシヤは大口を開けて豪快に焼きそばを頬張り、アンディのルシヤは、ちいさな口をいっぱいに開けて、麺をすすった。
大きな目が、さらに真ん丸に見開かれる。
「――おいしい」
「うん!」
それからは、ふたりとも無言で食べた。勢いがすごいルシヤと、のんびり、味わうように食べるルシヤ。
「おいしい」
ルシヤは何度も言った。
デザートのダルダ・ソーダと焼きリンゴアイスを持ってきてくれたのは、シュナイクルだ。
ルナと二人のルシヤは、それもぜんぶ食べた。おなかを押さえながら。ときどき微笑みあいながら、静かに、ゆっくり。
午後七時はすぐにきた。時間切れだ。おそらくシュナイクルもアズラエルも、ルシヤから聞きたいことがまだまだあったろう――しかし、約束の時間は七時までだ。過ぎれば、アンディが心配する。
ルシヤを送って、バンビ以外の皆が、シャイン・システムの扉前まで来た。ルシヤのアパート近くの公園には、ルナとハンシックのルシヤが送っていく。
「じいちゃん、わたしとルナで、ルシヤを送ってくる」
孫の言葉に、じいちゃんは「ああ」といった。
「また、おいで」
ルシヤは、ふたたび目を潤ませて、深々とお辞儀をした。
「とてもおいしかった。ごちそうさまでした」




