79話 仕事中毒のサルディオーネと、美味しそうな鮭 Ⅰ
「はっ……!」
アズラエルとは真逆――彼がスイッチを切った瞬間、飛び起きた人間がいた。
アンジェリカである。
彼女は机に突っ伏して、うたたねをしていたのだ。袖に着いたよだれごと、口元を拭いた。
「うわー……寝たわ。寝ちゃったわ」
五時間経過している。ずいぶん寝たのに、まだ眠い。
「だれかいる? コーヒーちょうだい」
「はい、ただいま」
だれもいない部屋で呼びかけると、アンジェリカと同い年くらいの女中が、コーヒーサーバーを持って駆けつけた。アンジェリカのマグに、たっぷり注ぎ入れる。湯気はほんのり上がっているけれど、熱くなく、飲みやすい温度だった。
すごい。こんな気配りをもらったのは、ユハラム以来だ。
「これをお飲みしましたら、休憩なさって、そのあいだにマグをお洗いいたしましょう」
「うん」
アンジェリカはちょっぴり感動しながら、ぼんやりと返事をした。
「うおえ、もう十二時ちか……あ、なった。明日になった。今日か、うええ」
クマだらけ、女子力も古代へ置いてきた顔が近くの鏡に映り、アンジェリカはげっそりした。
「ダメだこりゃ。一回シャワー浴びよう」
お風呂に入ったのが、五日も前だ。さすがに自分から異臭がする気がする。
「お湯あみをいたしますか。ご用意いたしますが……」
「お願い。そのまえに、ちょっとなんか食べたい。軽いもの。それから携帯持ってきて」
「承知いたしました」
女中が携帯電話を取りにいったあいだに、アンジェリカはコーヒーを飲みながら、ZOOカードの記録帳をペラペラめくった。
「今夜はベッドで寝るかな。一回風呂入って、食って、ちゃんと寝て。明日は半日仕事しよう……いつまでも休職ってわけにいかないし」
ひとりごとをつぶやいていると、携帯電話を預かっていた別の侍女が、小走りでやってきた。
「お待たせいたしました」
最高級の絹のスカーフに、懇切丁寧に包まれた携帯電話を受け取ったアンジェリカは、着信履歴と、ノートのメモを見比べる。仕事の依頼主と用件を書いたメモを。
アンジェリカはここ二週間ほど、侍女に携帯を預け、調べものに没頭していた。
どちらにしろ、四神結集の儀のせいで、仕事にならなかったのだ。
しかし不思議と、四神結集の儀は、カザマが帰ったあと、すぐに終わった。
(あんなに長く続いていたのは、ミヒャエルに見せるためだったのか)
着歴は、仕事依頼がほとんどだ。たまにカザマや、真砂名神社ふもとのナキジンやキスケからも入っている。
「ちょっと、キスケやナキジンさんのは取り次いでって言ったでしょ」
「もっ、申し訳ありません……」
侍女が青ざめて謝った。
さらにアンジェリカは、とんでもない着歴を発見した。
「ちょ――マジか」
ルナから、二回ほど入っている。
「ルナのも! 取り次いでって言ったよね!?」
アンジェリカは短気を起こしたくなかったが、思わず怒鳴ってしまった。
「用件なんだった」
「ぞ――存じ上げません」
「は!? 取ったの? 取らなかったの」
「お取りいたしましたが、アンジェリカさまはお忙しいと申し上げまして、それから、」
「用件は?」
「は、よ、用件は――」
「さえぎって切ったんでしょ、どうせ」
「本当に申し訳――」
「ちょっと待って。なにに謝ってるの。仕事相手じゃないから取り次がなかった? 身分が低いから?」
「お許しくださいませ!」
侍女は平身低頭した。だがアンジェリカは許さなかった。理由によっては。
「……言っとくけど、あんたのいう身分ってのは、L03でしか通用しない身分であって、一般社会に出たらまったく意味のない身分なんだからね?」
「お言葉ながら、アンジェリカさまはサルディオーネさまで、わたくしは中級貴族でございます!」
低頭しながら、憤然と彼女は言った。理由が氷解したアンジェリカは、冷めきった顔で言った。
「ユハラム呼んで」
「アンジェリカさま! お許しを!」
さすがに侍女は焦って顔を上げた。
ユハラムという、アンジェリカの侍女長がやってくると、彼女はついに震えあがってうち伏した。
「どうか、どうかお許しくださいませ!!」
「またあなた、やらかしたの」
ユハラムは、アンジェリカ以上に冷たい声で突き放した。
「あなたはクビです。早々にL03へ帰れ」
解雇通告を受けた侍女は、ついにしくしくと泣き出した。
「信じられない……そのように冷たいお言葉……わたくしは、中級貴族、ミオラ家の出でございますよ……!」
化粧も溶けるほど泣いてすがったが、ユハラムは裾を払った。
「アンジェリカさまが! いっさいお家柄も身分も頓着しない方というのは、事前に、あれだけ、しつこいほど言ったはずです」
「ですが……」
「つまり、中級貴族だろうが下級だろうが平民だろうが、用の立つ者しかこの屋敷には置きません。役立たずはいらぬ」
侍女はますます哀れを装って、王宮護衛官のほうを見たが、彼らは微動だにしなかった。鉄のような目で、中途半端な身分の女を見下すだけであった。
「アンジェリカさまについてきて、一年も過ぎようというのにおまえは、中級貴族の家の名に胡坐をかいて、なにひとつ仕事を覚えようとしない。アンジェリカさまが命じた携帯電話の取次ぎ仕事もまともにせず、たった三人の名も覚えられずに、なにが教養ある侍女か」
「ちがいます! 名は覚えておりました! けれど、このお三方は、アンジェリカさまに直接お声をかけすることも恐れ多い――」
「恥を知れ。サルディオーネさまの御前で。ご友人を貶めるなど。おまえを連れてきたのが間違いだった。平民のナバのほうがよほど賢く、おまえなど足元にも及ばない」
「平民とわたくしを、比べられるのですか……!?」
侍女はこの世の終わりが来たような、ひきつった声を上げて気絶した。
「このまま宇宙船に乗せて送り返して」
ユハラムは容赦なく、王宮護衛官に言った。ふたりの屈強な男は、無言で侍女を部屋から放り出した。足と服の衿を持って。
「もともとあの者は、王宮護衛官との結婚目当てでここについてきたのです。故郷にもどったほうが身のためでしょう」
ユハラムは頭痛をこらえるような顔で言った。
「王宮護衛課官との結婚ねえ……」
アンジェリカは当然のように、周囲の者たちのZOOカードも把握している。あの侍女に、王宮護衛官との縁はない。L03にもどれば、中級貴族の子息と結婚して、それなりに平穏な生涯を送るだろう。
中級貴族より、王宮護衛官の身分のほうが高いし、彼女が狙うのも分かるが、この屋敷にいる彼らは、あの侍女より、平民のナバのほうが好きだろう。
「このナバのほうが、物覚えはよい。アンジェリカさまの侍女におつきなさい」
「は――はい!」
コーヒーサーバーを運んでいたナバは、頬を紅潮させて、三度の礼を示した。
「アンジェリカさま、あなたもお悪いのですよ」
ユハラムは厳しく告げた。
「気さくはけっこう。ですが、それは緩みももたらす。サルーディーバさまがお優しい方ゆえ、あなたは余計に厳しくあらねばならないのです」
「それは分かってる」
アンジェリカは疲れ切ったように嘆息した。
「お食事の支度ができましたらお運びいたします。もう少々、お待ちくださいませ」
ユハラムはそれ以上言わず、礼をして下がった。
アンジェリカはルナに電話をし返そうかとしばらく迷ったが、今はヘトヘトだった。
(ちゃんと寝て、頭がマトモな状態で、謝らなきゃ……)
ルナは怒らないだろうが、傷つきそうな気はする。嫌な思いはさせただろう。
今のことで、三倍疲れた。
さっきみたいな侍女は、L03ではめずらしくもないのだ。
侍女は、「L03の常識」では、まったく間違ったことはしていない。
アンジェリカはうなだれた。
あのあと――四神結集の儀が終わったあと。
すぐさま、「九庵之不死鳥」カードと、「舵を取る黒龍」カードの正体を探る調査をした。
九庵は、すぐに船内の星海寺の住職だと分かったが、黒龍の正体が分からない。
念入りな調査のすえ、黒龍につながるカードに、モズのカードを見つけ出し――それが、「シャンパオ」という店の支配人だということが発覚した。
だが、いくらサルディオーネさまといえど、我らの正体を探るのは、およしになった方がいいというメッセージをもらっただけだった。
アンジェリカも、捜査を進めようとすると、自身のカードに「死神」のカードが出るので、これ以上の探索は無理だと悟った。
かわりに、ルナの「月を眺める子ウサギ」のカードを、新しい縁が取り巻いていることに気づいた。
ウサギが二羽に、ピューマにグリズリー、オオカミにシカ。
ルナの、新しい運命が動き出そうとしている。
アンジェリカは新しい予定を組み立てた。
今公開中の、ルシヤの映画を観に行くことと、ZOOカードの遊園地で、月の女神の石板を見に行く必要がある。
そして、ルナの新しい縁の中に、不思議な「鮭」がいるのに、アンジェリカは気づいた。
アンジェリカははじめ、それを見逃した。
鮭は鮭だ。鮭以上のなにものでもない。
現に、鮭と並んでいるシャチは、ただのシャチだ。
おかしいのは、鮭のほうだ。
なぜか、違和感がある。
千回以上の占いを経てきた、アンジェリカの直感ともいえるべきものだった。
ZOOカードの世界は深淵すぎる。
一占い師が、把握できると思っているほうがおこがましい。
分かってはいる――分かっているのだが。
頭がイカレているのかもしれない。寝不足で。
アンジェリカは、そう思った。
そう思って、何度も見た。
――どうしても、アンジェリカには、その鮭が、「ウサギ」に見えるのだ。




