77話 ハン=シィク 1
翌日のことだ。
ルナが朝からでかける支度をしていると、アズラエルが歯磨きをしながら、「どこへ行くんだ」と聞いてきた。
「ハンシックへ行きます」
「ハンシック?」
アズラエルは、ルナが差し出したチラシを見た。
ハンシックという多国籍料理店が、どうやらK39区にあるらしい。
「K39区か……けっこう遠いぞ」
星海寺の手前だ。今は冬だから、通行止めになっている個所もあるのではないか。あのあたりは雪が深いと、ラガーの店長から聞いたことがある。
「行くよ! あたしは行く!」
ウサ耳が勇ましく立っていた。
「なにがあろうとも!」
ルナがムキになっているので、アズラエルも行くことにした。どちらにしろ、こんな状態のウサギを放っておけない。
放っておいたらK39区の雪原で、雪まみれになって遭難していそうだ。
「行くか」
バスとタクシーで行くはずが、自家用車の助手席に放り込まれたウサギは、ウサ耳をぴこぴこさせながら窓の外の景色を見るだけになった。
「アズは別に、ついてこなくてもよかったんですよ」
「薄情なことを言うな――それより、おまえ、そのルシヤとやらの父親には、ほんとうに会ってないんだろうな?」
「会ってないってゆったでしょ。それからね、名前はアンディさんだって。アンディ・F・ソルテ」
また嫉妬かなあと思ったルナだったが、今回はそうでもないらしい。どうやら、あの父親がほんとうに「危険」だから、用心しているだけのようだ。
「なんていうか――アズには、あのひとが、そのう――盗賊とかに見えたの?」
ルシヤはいい子だったし、ルナはほとんど知らない人を、そんなふうに決めつけたくはない。
モジャ・バーガーで聞いたふたりの会話から、盗みはしたことがあるようだったが――。
アズラエルはちらりとルナを見て、それから重い口を開いた。
「盗賊なんて、そんなチャチなもんじゃねえ」
「え?」
「あいつは、根っからの人殺しだ――いや」
めずらしくアズラエルが、ためらいがちに言った。
「人殺し『しか』してこなかったやつの目だ」
ルナは口を開けた。暗殺者、ほぼ確定である。
アズラエルが言ったとおり、K39区はずいぶん遠かった。
K39区に入ってからが大変で、「最後の燃料補給所です」と書いたスタンドを最後に、建物がなくなった。
どこまでも続く、雪の平原。
雪は話に聞いていたよりずっと深くて、やがて二メートルを超す積雪の壁にはさまれ、前方しか景色は見えず、どこまでもまっすぐ進むことになった。
一時間ほど走ったところで、通行止めの看板に行きあたった。
先はまったく除雪されていない。
「マジかよ」
道が一本しかないので、ナビをつかわなかったのがアダになったか。あらためてナビをたしかめると、「冬季通行止め」とある。ハンシックに行くには、チラシに書いてある道路ではなく、別の道から行くほかないようだ。
ネットで調べても、ハンシックのサイトはないし、こんな積雪だ。営業しているかどうかも危うい。
しかたなくアズラエルは来た道をもどり、K23区側から行くことに決めた。
K23区とK39区境のコンビニエンスストアで聞いてみると、ハンシックは営業していた。だが、冬期間はこちら側から行くしかなく、さらにコテージ駐車場から店まで、五分ほど歩かなければいけないとのことだった。
従業員はルナとアズラエルのショートブーツを見て、「長靴はいたほうがいいですよ」といった。
K23区側から入り、K33区に向かってひたすらに走る。
さっき通った道と大差ない雪の平原だったが、二メートルの雪でできた壁はなかった。
やがて、店員が言ったコテージが見えてきた。
雪の中、そびえたつ、ハンの樹も――。
「あれが、ハンの樹……」
ルナは、見たことがない形の木だった。
ルシヤの故郷、ハン=シィクにもある、ハンの巨木だ。雪をかぶった木の姿を、ルナはどこか懐かしいと思った。
駐車場は広く、除雪してあり、大量の雪がすみに寄せられている。
周囲には、コテージが二、三件、バラバラに建っていた。雪に埋もれてはいるが、入り口付近は除雪してある。利用者がいるのだろうか。一軒のコテージの煙突から、煙が出ている。
すこし離れたところにある一戸建てが、ハンシックか。
丸太を組み合わせた、大きなコテージのような造りだった。こちらも、大きな煙突から煙が上がり、店のわきには大量の薪が積まれている。
右のほうを見渡せば彼方に森。左側は、地平線を見渡せるほどの雪の平原に、雪のない季節はさぞかし草原が美しいのだろうと、ルナは思いをはせた。
しかし現在は容赦なく冬である。
店員が言ったとおり、店までの道路は積雪がすごくて、ショートブーツでは大変そうだった。なにせルナの膝上まで雪がある。このあたりの積雪量は、K27区とは比較にならない。雪かきはするのだろうが、すぐ積もってしまうのだろう。
ルナは勇敢に、ざくざくと新雪を踏み倒して、進んでいった。
「ちべたい!」
ルナは叫び、なるべく大股で進んだ。すぐ近くと思った店は、けっこう距離がある。しかも雪に足を取られ、思うように進めない。
アズラエルが何度かウサギを持ち上げようとしたが、そのたびに抵抗した。
ウサギたるもの、雪の中を進みたいのだ、猛然と。
パルキオンミミナガウサギのように、雪上をさっそうと走るのだと思ったが、ルナには無理だった。人には得手不得手がある。
やっと、店の前に来た頃には、ブーツの中は雪まみれで、靴下がぐしょぐしょだった。しもやけになりそうだ。
店の周辺は、雪が踏み固められ、足が雪に沈むことはない。
ルナはブーツを脱いでさかさまにして、雪を出し、履き直した。
「ほんとに、あった……」
ルナは、ハンシックの看板を見て、感慨深くそう言った。
夢で見たハンシックとはちょっと違うけれど、似ている。木の扉も、脇にどっさり、積まれた薪も。
今は雪に埋もれているけれど、このちいさな庭の感じも。
「――あっ」
どすんと、なにかを落とした音がした。ルナとアズラエルが音のした方向を見ると、巨大な野菜籠が転がっていた。
そこにいたのは、先日、モジャ・バーガーで出会った四人組のひとり――黒髪の少女だった。
「あっ、あのっ――あのとき、のっ」
少女はどもりながら、みるみる真っ赤になって、
「じいちゃん! じーいちゃーん!!」
と叫んで、店の裏の方へ走っていった。野菜の籠をひっくり返したまま。
よく見れば、そちらにビニールハウスがある。
「客か?」
少女が駆けこんでいった方から、三人の男が小走りでやってきた。
「おっ! このあいだ、会ったな」
じいちゃんと呼ばれた男が、爽快な笑顔を見せた。少女が、じいちゃんのジーンズをつかんだまま陰に隠れ、ルナたちのほうを睨んでいる。
「あー、そうだな。会ったな。……なんだ。店はやってねえのか?」
アズラエルも、思いもかけない邂逅に、そういうしかなかった。
「店は夜からなんだ」
じいちゃんが大股で歩いてきて、「ガタイがいいな」とアズラエルを見て言った。そんなじいちゃんも、アズラエルと張るほど体の厚みがある。
「ちょっと手伝え。代わりに、タダでうまいメシ食わせてやるから」
ルナとアズラエルは、上手にじいちゃんのペースに乗せられ、お手伝いをさせられた。
ビニールハウスから、野菜がたくさん入った籠を、店の裏にある倉庫へ運ぶ。ルナは三往復、アズラエルはルナの二倍はある野菜籠をかついで五往復した。
ちいさな少女は、アズラエルと同じ大きさの野菜籠をかついで歩く。ルナはびっくりして目をぱちくりさせた。ずいぶんな力持ちだ。少女はますます得意げになって、野菜をこれでもかとつめて運んだ。
大根や白菜、カブにカボチャ、サツマイモ――ルナが見たことがない野菜もたくさんあった。
倉庫には、酒樽もたくさんある。
「酒は?」
「大好きです!」
ルナがそういうと、じいちゃんが酒樽――ワイン樽の口を開け、ほんの少し、コップに注いで、ルナとアズラエルに渡した。
「なら、飲んでみな。今年のエラド・ワインだよ」
エラド・ワイン。
ルナは思わず目を見張った。これをあっためたものを、夢の中では飲んでいた――ピンクウサギとピューマが。
「あんた、ワインもつくってるのか」
アズラエルが言うと、少女がするどく言った。
「じいちゃんは、シュナイクルという。誇り高き、ハン=シィクの戦士の名前だ!」
少女の剣幕に、アズラエルもルナも目を見張ったが、じいちゃんことシュナイクルが笑って、「自己紹介がまだだったな」とアズラエルの肩を叩いた。
「俺はシュナイクル。ハンシックの店長だ」
「アズラエル・E・ベッカーだ。L18の傭兵」
アズラエルがシュナイクルと握手をすると、すこし低い位置から、金髪を尖らせた男が、手を差し出してきた。
「傭兵か――どうりで。俺は、ジェイコブ・M・オトガイ。警察星のアサルト・チームにいた。ジェイクって呼んでくれ」
「あたしはバンビ。よろしくね~」
派手なスキンヘッドは、ルナと握手したあと、アズラエルと握手をした。その手は、なかなか離れなかった。
「ンフフ……すごいいいオトコ。シュンには負けるけど」
アズラエルの全身に鳥肌が立っているのを、ルナは冷静に観察した。
「あっ、あっ、わっ、わたしは! ルシヤ!」
少女が、真っ赤な顔で、自分の手を何度も服で拭いてから、ルナに手を差し出した。
「ルシヤちゃん?」
ルナは思わず言った。
「そ、そ、そう。あの――ハン=シィクのルシヤと、同じなまえ!」
こんなところにも、ルシヤが。
「あたしはルナ・D・バーントシェント。よろしくね、ルシヤちゃん」
そういって、もうひとりのルシヤと握手をした。ルシヤの顔に、やっと笑みが広がった。
さて、エラド・ワインの味だが。
こちらはたいそう美味しかった。古いワインとはまた違った美味しさで、ぶどうの味がそのまま残っていて、ジュースのようだった。原住民エラドラシスの部族では、この甘い飲み物に、さらに砂糖やはちみつを入れて飲むらしい。アルコール度数はあるかないかで、エラドラシスでは、子どももぐいぐい飲むそうだ。
「いけるか。じゃあ、ちょっと待ってな」
ストーブの上に湯を張った鍋が置かれている。その中で温められ、柑橘の皮とシナモンが浮いたエラド・ワインが手渡された。マグカップにたっぷり。
「身体が温まる。それを飲んで、すこし待っていてくれ」
「ルナ、ブーツを、ストーブのまえで乾かしなよ」
ずっとじいちゃんの陰でルナの様子を伺っているだけだった黒髪のルシヤは、自己紹介のあとは人見知りもせず、ルナの世話を焼きたがった。ルナの手を取り、店のほうへ引っ張っていく。
倉庫と部屋続きのコテージは、広かった。暖簾がかかった厨房前のドアを過ぎ、店内に入ると、ずいぶん暖かい。
大きな薪ストーブが部屋の中央でパチパチと音を立てている。やはりでかい鍋に湯が張られ、エラド・ワインの甕が三つ、ならんでいた。
席は二十あまりもあるだろうか。
開店前ということで、店内にはだれもいない。
ルナとアズラエルはありがたく、ストーブのそばに敷かれた新聞紙の上に、ブーツと靴下を乗せた。
エラド・ワインは、冷えた身体と胃にしみた。中からぬくもっていくようだ。
「こうすると、早く乾くから」
ルシヤが新聞紙をブーツの中に突っ込む。
「ちょっと、待ってて」
ルシヤはいったん外に出て、すぐにもどってきた。両手に何か抱えている。
「ルナには、わたしの、くつしたを、あげる。まだつかってないよ。新しいの。アズラエルには、じいちゃんのを、あげる」
ルシヤは、ゆっくり、センテンスを区切るように話す。
「わたしのことばが、通じていなかったか? わたし、きょうつうごは、こういう、ふうにしか話せないんだ。ラグ・ヴァダと、ケトゥインと、エラドラシスは話せるけど」
「だいじょうぶだ。ちゃんと通じてる」
アズラエルは言った。
「俺はいいぞ。裸足でカゼをひくようなヤワな身体じゃねえ」
「じいちゃんのも、つかってない、やつだよ」
「分かってる」
商品タグがついたまま、ビニールに包まれた未使用の靴下を、アズラエルは拒んだ。
ルシヤはすこし考え込み、
「わかった。じゃあ、じいちゃんが、いつもはいてるやつを、持ってくる」
「ちょっと待て! どうしてそうなる?」
「じいちゃんは立派な戦士だから。じいちゃんの持ち物は、だれだって欲しがる」
ルシヤは、胸を張って言った。
「あ、いや――そうじゃなくて」
だれがおっさんの使用済み靴下を欲しいなどというか。アズラエルは、頭を抱えるところだった。
吹き出す声が後ろで聞こえる。
「じゃあ、あたしの靴下貸してあげよっか?」
バンビがニヤニヤ笑いながら突っ立っていた。アズラエルは、ルシヤに向かって手を差し出した。
「そっちをもらうよ、ありがたく」
新品の靴下を、受け取った。
「靴下は履いておけ」
ジェイクが寒い地方のラグバダの室内靴だという、もふもふ毛皮でできたスリッパを持ってきた。彩り豊かな毛皮のついた、底の厚い木靴だった。底には滑り止めが付けられ、踏み固められた雪の上なら、これで歩けるそうだ。中も毛糸で覆われ、とても暖かい。
「ここはハン=シィクの気候と似ている。病魔は足からくるという言い伝えがあってな。ルシヤさんたちの故郷では、けっして足を冷やしてはならないんだと」
「へえ……」
「ハン=シィク!?」
アズラエルはうなずいただけだったが、ルナのウサ耳は飛び跳ねた。
「やっぱり、ハンシックって、ハン=シィクなの!?」
「お? ルシヤの映画を観たのか」
ジェイクが笑った。
ルシヤとバンビは、シュナイクルの手伝いに行ったのか、姿が見えない。
「そうだよ。ハンシックは、ハン=シィクのラグバダ読みだそうだ」
「ラグバダ読み……」
「シュンさんが――シュナイクルさんが、ここに店を開いたとき、一番に来た客がラグバダ人だったんだ。彼はハン=シィクといえなくて、ハンシック、ハンシックといい続けた。それ以来、この店はハンシックだそうだ。ラグバダ人はたくさんの客を連れてきてくれたからな」
ジェイクはストーブに薪を放り込み、椅子を持ってきて、自分も座った。
「エラドラシス人はハンジェクになっちまうし、アノールはハーンッシークになっちまうし、ケトウィンはバンギックだ。しかたがない」
「ってことは、この店、原住民がよく来るのか?」
アズラエルの問いに、ジェイクは苦笑した。
「よく来るんじゃなくて、もうたまり場さ。常連客はほとんどK33区の原住民。役員居住区も近いから、役員さんもよく来るぜ。心配しなくても、ここに来る原住民は気のいいヤツばかりだ。傭兵だからって遠慮することはない」
「ああ――まァ、K33区のヤツらは、そうだろうな」
「最近は、ルシヤの映画を観たって連中が、どこからかぎつけたんだが、ぽつぽつ来るようになった」
「そうか……」
「ほとんど宣伝してないから、新しい客が来るのはめずらしい。あんたらは、この店をどこで知った?」
アズラエルがルナを見たので、ルナはポケットからチラシを出して、ジェイクに見せた。
「ああ、エンリの店か……」
ジェイクは知っているようだった。K27区にできた、あたらしい多国籍料理のカフェが「エンリ」だ。レイチェルたちと行ったときにもらってきたチラシに、ハンシックの紹介もあったのだ。
「ここの従業員が、シュンさんのつくるメシが好きで、何度も通っててさ、たしか、自分も新しい店を出したとかなんとか……忙しすぎて、最近来ねえけど」
ジェイクが「名前なんだったっけ」と首を傾げたタイミングで、ルシヤの声がした。
「ジェイク! メシを運ぶよ!」
「ハーイ、ルシヤさん!」
ジェイクがすっ飛んでいった。シュナイクルならまだしも、ずいぶん年下のルシヤまで「さん」づけだ。アズラエルはジェイクが、この店のヒエラルキーの最下層にいることを認識して眉をへの字にした。いいヤツなのに。




