73話 エーリヒの鼻歌と、正気のメフラー親父、そして、新たな始まりの予兆 1
さて、場所は変わってL18の地下三階。
L18の陸軍心理作戦部。
新年あけまして、という晴れやかさはないが、一応ここでも年は明けていた。もっとも、この部署の連中は年末も新年も関係なく、仕事づめだったけれども。
「ッフフンフン♪ フフッフフ~ン」
まったく晴れやかでない新年の、心理作戦部の薄暗い廊下を鼻歌交じりで歩いているのは、エーリヒであった。
無表情の口元から流れてくる流行りのラブソングの鼻歌と口笛は、新年早々、心理作戦部の連中を恐怖のどん底に陥れた。あの温厚なベンでさえ、「隊長、その鼻歌をやめてください。みんな怯えています」と面と向かって言ったくらいなのである。
ベンは心理作戦部、というかエーリヒに鍛えられて、だいぶ図太さが増していた。最近はようやく、エーリヒのペースに巻き込まれず、ある程度傍観するすべを覚えていた。
それでも、この鼻歌の不気味さは、ベンをもってしても耐えざる代物だ。
この歌の間奏にはキスのリップ音がつくのである。完璧主義たるエーリヒは、このリップ音も正確に繰り返す。はた迷惑なことに。
エーリヒは、浮かれていた。
彼にしてはないほどに、浮かれていた。
やっと愛する女性との交際がはじまったわけではない。新年早々、三十六回目の告白が徒労に終わったばかりである。しかし、それが些事に思えるほど、いいことがエーリヒにはあったのだ。
エーリヒは、無表情でスキップしながら、通りすがりのD班の将校にリップ音を付けた投げキッスを寄越して彼を震撼させ、社交ダンスの華麗なターンを一度、決めてから、自室――隊長室に入った。
先に室内にいたベンにまたもや投げキッスをして避けられたあと、彼はほくほくと手を揉みこんで、自分の隊長机の上に置かれた大きな段ボールに歩み寄った。
これほど嬉しげな態度をとっているのに、頬の筋肉はまったくゆるむ様子を見せやしない。
この男の表情筋はいったいどうなっているのか、ベンは知りたいところだった。
「いつ届いたのかね」
「は。午前十時ちょうどに」
「受け取ったのは」
「私です。封は完璧。ガムテープはいったん封をされてから剥がされた形跡はありません。内容物のリストはそちらへ」
エーリヒは、ベンが示したリストをチラ見したが、「よろしい」と言ったきり、リストには目もくれなかった。
「開けよう」
エーリヒが小躍りするほど喜んだ、このダンボールの正体とは、ダグラスの遺品である。
先の年の六月に死亡した、A班の隊長、ダグラス・J・ドーソンの。
基本的に、心理作戦部の将校の遺品は、遺族には返却されない。心理作戦部に入隊するときに、その旨、サインをさせられる。遺品が、なんらかの事件に関わることもあるし、いつ何時、そうなるかもわからないからである。それは、心理作戦部という部署の、特殊性であるともいえよう。
彼の遺品も段ボールに無造作に詰め込まれ、地下の管理倉庫で眠っていた。
エーリヒは、ロナウド家を通じ、ダグラスの遺品を手に入れられるよう働きかけていたのである。だいぶ時間はかかったが――それこそ半年待ちで、年も明けてしまったが、こうして手に入った。
ユージィンがA班の班長になるまえに、許可が下りたので助かった。彼が着任した後では、これほど容易に事は進まなかったかもしれなかった。
おそらく、「不都合」なものはあらかたドーソン一族の連中が漁って、処分した後の「残骸」が詰め込まれているだろうが、それでもいいのだ。
なにか、その中から発見があれば。
「では、失礼します」
ベンが、手袋をはめ、テープをはがした。大きな段ボールの中身は、思った通りスカスカだ。ほとんど入っていない。エーリヒも手袋をはめ、中のものを順次取り出していく。
ダグラスの軍服は、なかった。
軍章のついた軍帽がひとつと、軍靴が二足。
手袋、外された階級章。(おそらく、軍服についていたものか?)
手帳、彼の使用していた万年筆、鉄の錆びた箱。(菓子箱に見えなくもない)
「バブロスカ~わが革命の血潮~」という題の、本一冊。
あとは専門誌二冊。銃の本。こちらはほとんど汚れがついていないということは、買って間もなかったのか。
家族の写真。娘と妻と映っている、写真入りの写真たて。
眼鏡ケースに入った、眼鏡。
「……まあ、心理作戦部であれば、ほとんど階級など意味を為さないものだがな。こんな埋葬のしかたは私であればゴメンだな」
「……そうですね」
エーリヒの言葉に、ベンもうなずいた。
軍服から外されたであろう階級章が、箱の底に散らばっている。火葬の際、彼は階級章を取り去られた軍服を着て、軍靴をはき、ここにないもうひとつの軍帽をかぶせられて旅立ったのか。
「私のときは、ちゃんと階級章つけておいてね」
エーリヒがベンに言うと、ベンは、
「階級章あるだけでいいんですか? みんなで隊長が死んだときは、振られた回数分だけの薔薇で埋めよう、と計画してました」
今死んだら三十六本しか入れてもらえないのか、とエーリヒは心の中だけで不平を漏らしたが、
「とにかく――これは、ドーソン一族もだれも、持ち出してないんだな」
エーリヒは手帳をぱらぱらとめくった。「箱」になってからは、だれも持ち出していない。厄介なものは、これらが「遺品」になるまえに、ドーソン一族が持ち出したか。
「靴、持ち過ぎじゃないですか」
ここに二足分あるということは、常に三足分持っていたということになる。
「彼はね、若いころ戦場で左足をけがしてね、その後遺症で歩き方がおかしいんだ。なので、右足だけいつも早く履きつぶす形になる。靴底がすり減るのが早い。だから、いつも余分に靴を用意していた」
「なるほど」
「ふむ。腐ってもドーソンの古だぬきのひとりだ。手帳にまずいことは一つも書かれていない」
「怪しいとすれば――この、さびた缶くらいですかね」
ベンが、錆がポロポロとこぼれる、クッキーの箱ほどの空き缶を持ち上げた。模様が入っていたはずだが、もはや錆びついて、見る影もない。
「たしかに、怪しいな」
エーリヒも同意した。この鉄錆びた箱には何が入っていたのだろう。ふたも最早閉まらないほど腐食し、中身は当然のごとくない。
「わからんな」
素直にエーリヒは言った。「わからん」
彼は部下に手帳を預け、万年筆を手に取った。ひねってインクを外してみたが、推理小説のように何かが出てくるわけもなく、それは何の変哲もない万年筆であった。
写真たてや本の中に謎のメモが隠されていることもなかったし、靴も普通だ。眼鏡はエーリヒがかけてみたが、それは老眼用メガネだった。気の毒にダグラスは、あの若さでもう老眼か。
「……ほんとに、大したこと書かれてませんね」
ベンも手帳のページをめくりながらつぶやいた。
そのあたりに売っている、黒の薄っぺらい手帳には、彼のプライベートな予定が記されていただけだ。それも、仕事人間だった彼の手帳はほとんど白紙。
●月×日、一族の茶会、●月×日、妻と食事、△月×日、娘の旅行、などなど。
「一族の茶会って、胡散臭いですね」
「そうだね。胡散臭いが、それだけだ」
エーリヒは、軍帽を取り出し、くるりと回した。なにもおかしげなところはない。
……いや。
「――ン?」
エーリヒは、軍帽にくっついた軍章に目をやった。なにかおかしい。
「ベン。……なにかおかしくないかね、これ」
部下と一緒に覗き込んだが、ベンも、「なにかおかしいですね」と言ったきり、おかしいことはわかるのだが、なぜおかしいのかが分からない。ふたりは首をかしげたまま、軍章が五つ並んでいる、その帽子を眺めた。
ひとつは階級章、曹長の。そして、L18の軍章、心理作戦部の軍章、鷲の紋章は、ドーソン一族の紋章だ。
「――コレ、なんですか」
ベンがエーリヒに尋ねた、最後の五つ目の紋章。エーリヒも分からなかった。
「なんだろうね」
見たことのない紋章だ。軍の階級章ではない、軍章でもない。
それは、ほかのと同じく手あかのついた古びた軍章のようなもので、ドーソン一族の紋章と同じく、なにかの鳥が彫られている。
「この鳥は、なんでしょう? 大型の鳥ではありませんね」
「ふむ。そうだね。むしろ、小鳥の類だな。うーん……」
エーリヒは、「これ、どこかで見たことあるぞ」と唸りながら、でも思い出せない。
「クラウド軍曹、分かりませんかね」
「彼、記憶力はいいけどね。分からないと思うな。これね、小さいころ、実家で見たことがあるんだよ。……うん、私の記憶が正しければ」
「ご実家で、ですか?」
「うん。どこかの一族の紋章だ。だけど、多分今はない」
「――え?」
「ベン」
「は、」
エーリヒは、錆びた箱をベンに押し付けて言った。
「この箱が、何年くらいまえのものか調査。もちろんユージィンには内緒でね。この紋章は私が調べる、軍帽だけ残して、このダンボールはぜんぶ元のところへしまっといてくれ」
「了解」
ベンは敬礼し、隊長室を出て行った。
ユージィンは心理作戦部へ在籍してから、E班を使ってなにか調べ物をしている。目をそらすことはたやすいだろう。
エーリヒは軍帽からその子鳥の紋章だけを外し、小さなビニール袋へ入れて、ポケットへしまいこんだ。




