72話 消え入りそうなナターシャと、バーベキューの計画 2
「えええ!? アイツ、じいさんだったのかい!?」
エレナの驚きようは、半端ではなかった。びっくりしすぎて、一瞬呼吸困難になり、あわててルナとルートヴィヒが背をさすったくらいだ。
「う、うん。ミシェルが電話でそう言ってた。ミシェルもびっくりしたって。……そんな、綺麗なひとなの?」
ルナは、ララを見たことがない。ミシェルの話だけで、神秘的なくらい美しい「女」の人、とは聞いていたが――。
「……ど、どうりで、ちょっとでかいと思った……」
エレナはやっと、それだけ言った。
ルナとアズラエルの部屋に、ルートヴィヒとエレナが遊びに来ていた。
エレナは一月の終わりころから、しょっちゅう通ってきている。午前中か午後、ルートヴィヒかジュリと一緒に、たまにひとりで、ルナを尋ねてくるのだ。
このあいだは、定期検診にルナが付き添って、それから帰りに、K35区の有名店でいっしょにケーキを食べてきた。
(よくもまあ、懐かれたモンだ)
エレナの、ルナへの傾倒ぶりは、アズラエルが呆れ返るほどなのだが――だって、いっぺんは殺しかけた相手だぞ?
そんなアズラエルにも、最近ジルベールとレイチェルがべったりだった。
どうしてこうなってしまったのか。
三日に一回は、六人で夕食をとるようになっていた。アズラエルの手料理の評判が良くて、隣の新婚夫婦が食べに来るのだ。
だが、そのことで、返っていいこともあった。
最近は、レイチェルとルナと、アズラエルとジルベールでよくスーパーへ行く。このあいだはレイチェルと二人で行った。その毎日行くスーパーで、アズラエルはイマリと出くわした。
覚えているだろうか――イマリである。
ヤンキーの小娘で、アズラエルをラガーにまで追いかけて行った、あのイマリである。
出くわした際、アズラエルはしまった、と思ったが、瞬間に相手の顔に現れた、露骨な失望の色を見逃さなかった。
イマリは「えー信じらんないありえないしー」とかなんとか言って、去って行った。レイチェルはイマリが嫌いらしく、互いに挨拶も交わさなかった。
それきりだ。
夕食の食卓で、シナモンが、
「よかったねアズラエル。イマリがやっと諦めてくれたよ?」と言った。
そこで、やっと諦めてくれたのかという安心と、なんで失望されたのかわからない疑問と両方、抱くことになった。
「ありえないし、とか言われたんだけどな」
「まあねえ、それはあたしもあり得ないと思うわ」
「オイ、兄貴のどこがあり得ないんだよ」
「や、だってさ、タトゥも見事な、ワイルド系傭兵、とか言っちゃって超カッコイイのに、紺色のエプロンとかつけちゃって、レイチェルみたいな女の子とスーパーで野菜買ってるって、……あり得なくない? 最近、すっごい所帯じみてるよアズラエル」
「……」
俺は所帯じみているのだろうか。昔からやってきたことなのだが。
「何言ってんだよ! 兄貴は何しててもカッコいいッス! キャベツ刻む後ろ姿なんかさいっこうに男前ッスよ!?」
「そうよ。最初は怖かったけど、あたし、アズラエル好きよ。エドの次に。だって、ケーキのあまあい香りがするんだもん♪」
「……」
「うん。アズ、タマネギきるとき涙流してて、可愛いんだよね」
「ルゥ、それ以上言うな」
学生時代はキレてるだのイカレてるだの、さんざん言われて敬遠されてきた自分が、どうしてこんなところで変な好かれ方をされているのか――アズラエルは悩んだが、答えは出なかった。
とにかく、最近のアズラエルとルナの部屋は、ひっきりなしにだれかれと出入りしていた。おかげで、紅茶もコーヒーもお茶菓子も、すぐ底をつく。
アズラエルは昨日買ってきたばかりのスナック菓子を開けて、やっと呼吸困難から蘇ったエレナに聞く。
「おまえ、ララに会ったことあんのか」
エレナは、よほど言いたかったのか、待ってましたとばかりに、怒涛にしゃべりだした。
「会ったことって、会ったも会わないも――あ、あんな目に遭うのはもう御免だよ!! とんでもない目に遭ったんだよ!? い、いつだっけ――えっと、あの、マックスさんにL44の娼婦があたしらのほかに乗ってないか聞いて――妊娠のこと、相談したくてさ。ララって高級娼婦が乗ってるって聞いて、あたし行ったんだよ! そうしたら、……ああいやだ! 思いだしたくないよあんな妖怪屋敷! ――と、と、と、隣の部屋で女が拷問されてるんだ! で、あの妖怪があたしに男はいるかって聞いて、いないっていったら――孕み女が好きな男を呼び寄せて――こ、こわかった。恐ろしい男だったよ! 隣で女を拷問してた男さ! あたし、赤ん坊ともども、殺されるとこだったんだよ!」
「はあ」
ルートヴィヒとルナは、怪談でも聞いたかのように顔を蒼褪めさせたが、アズラエルは気の抜けた返事を返しただけだった。
「隣の部屋で拷問って……、そりゃたぶんアンジェラだな。俺も相手してたし。孕み女が好きな男って、ドムのことか」
「アズもアンジェラさんを拷問してたの!?」
「人聞き悪いこと言うんじゃねえ。だれが拷問だ。アイツはドMで、叫び声がうるせえだけだ」
「……お、俺の知らない世界……」
ルートヴィヒが、頭を抱えた。
「ドムも、どっちかいうと、マイナーな趣味の持ち主ってだけで、別に殺したりしねえよ。アイツはママ~って甘えてヤるのが好きなM男だ。おまえがドムを薄気味悪さに殺しかねねえならわかるが、アイツは虫も殺せねえただのマザコンボウヤだぜ。カネもらって、アンジェラの相手してただけだろ」
「……あたしの知らない世界だ」
ルナも頭を抱えて言った。
「ええ? じゃああの妖怪は、あたしを殺すつもりはなかったってこと?」
「なんでララがおまえを殺すんだよ」
アズラエルは笑った。
「アイツはたしかに食わせモンの妖怪ジジイだが。おまえには、社会常識を教えて守ってくれるオトコが必要だと判断したから、ドムを紹介したんだろ。ドムは変態だが、まあ、世間知らずのおまえよりかは、常識あるだろうし」
「だって――あの妖怪、あたしに、おろせといったよ?」
「へえ? おろせって?」
アズラエルが驚いて言った。
「自分が面倒見てやるから、こどもはおろせって――」
マジマジと、アズラエルがエレナを見るので、エレナは真っ赤になって叫んだ。
「な、なによ!」
「おまえ、絵とか描くのか?」
思いもかけないことを言われて、エレナどころか、ルートヴィヒもルナも、きょとんとした。
「彫刻とかしたことあんのか? えっと、なんだ――ほかに――思いつかねえな」
ルナが、ガラス細工、というと、アズラエルもああ、それ、とつぶやいたが。
「バ、バカお言いよ! そんなもん、生まれてこの方したことないよ!」
こちとら、L44で身を売るしか能がなかった女だ。絵なんて一度も描いたことない。
エレナが叫ぶと、アズラエルはふうん、と首をかしげた。
「……アイツは、顔だけで女を気に入るようなヤツじゃねえ。おまえに、なにか芸術関係の才能見出したから、そういったんだろうが」
「は、はあ? あ、あたしに?」
エレナは、ララのところへ行ったときに絵を描いたわけでもなければ、アンジェラの絵についてなにか言ったわけでもない。芸術的会話など、あのとき、なにもしなかったはずだ。
「ま、あの妖怪ジジイが考えてることなんざ、見当もつかねえがな俺は。……つうかいいのか、もうすぐ十一時だぞ」
「あっいけね!」
ルートヴィヒがあわてて立ち上がった。
十一時から、ルートヴィヒの水泳教室の生徒たちと食事会があるのだ。
エレナも一緒に行くらしいが、あまり気乗りしていないのは見てわかった。でも、ルートヴィヒの美人な彼女を一目見たいと生徒がうるさかったらしく、エレナは結局行くことになってしまった。
「じゃあね、ルナ。またあさって来るからね」
後ろ髪を引かれつつ、エレナはルートヴィヒと一緒に帰っていった。
ふたりがあわただしく帰っていくと、ルナはふう、とひと息ついて、座り込んだ。
「どうしたルゥ」
アズラエルが菓子皿やコーヒーカップを食卓から片づけながら聞いた。
「ん、んー……」
ルナはカレンダーを見て、もう一月も終わりそうなのを見て驚いた。去年の年の暮れから、なんだかとても、せわしなかったような気がするのだ。
新年が開けてからというもの、来客が途切れたことがない。
三日に一度は隣人と食事だし、それを抜きにしても、レイチェルにはよくお茶やショッピングに誘われた。エレナは三日とあけず訪ねてくるし。リサも一回、ミシェルと帰ってきたし。カレンやジュリも来たし。
連絡がないのはキラだけだった。元気でやっているだろうか。
ルナが一番気の置けない友人はミシェルだったので、ミシェルと昼食時、リズンで会う時だけが、なんだか家族といるような、ほっとした気分になるのだった。
だからといって、ほかの友人に必要以上に気を遣っているとか、苦手だとか、そういう気持ちではまったくないのだが――。
アズラエルはアズラエルで、夜中にエドワードと飲みながらなにか相談を受けていることもあったし、ロイドや、ミシェルが電話してくることもあった。
ずいぶん長い電話で、それも相談みたいなものであるのは、ルナにもわかった。アズラエルは、なぜかよく人に相談を持ちかけられる。
ラガーに行くこともあった。そういうときはたいてい、ルナが上記のともだちに、飲みに誘われたときだ。ルナがカレンとジュリと、エレナとマタドール・カフェに行ったり、レイチェルたちと――、
「うう……」
ルナは、L77にいたころは、こんなにともだちがいたためしはないし、こんなにしょっちゅう出かけることもなく、家でのんびりしていることが多かった。
ともだちとあちこち遊び歩くのも楽しいが、ルナは、少しはぼうっとする時間がないとくたびれてしまう。
最近は、家事もほとんどちこたんに任せっきりだ。
「アズ、アズ!」
「なんだ?」
「ここすわって!」
アズラエルが座ると、ルナはそのあぐらのなかにちょこん、と収まった。
「ぼーっとさせて」
ウサギはしばらく飼い主の膝でもふもふと口を動かしたのち、いつのまにか寝こけていた。
「なんだ。くたびれてんじゃねえか」
アズラエルの苦笑は、ルナには聞こえなかった。




