72話 消え入りそうなナターシャと、バーベキューの計画 1
「フフンフン♪ フフッフフ~ン」
クラウドが、鼻歌を歌いながらベーコンを焼く。半熟の目玉焼きにサラダも添えて。
十時も過ぎた、のんきなブレックファーストだ。
新年もすぎ、一月も終わりに近づいたころ。
クラウドとミシェルは変わらず、K36区の部屋で同棲中である。
朝食はいつもクラウドが作り、昼食はそれぞれ。クラウドは昼食時にピアノを弾きに行くことがほとんどだったし、ミシェルはルナと、リズンで昼食をとることが多かった。
夕食は、外食もあったが、たいていはクラウドが作っていた。
クラウドのpi=po「キック」には、料理のスキルはない。pi=poに料理などさせなくても、外に出ればレストランやファストフードは何軒もあるし、デリバリーだってある。なのにどうしてクラウドがつくるのかといえば、ミシェルの喜ぶ顔が見たいからにほかならない。
クラウドがこんなにマメに料理をしていることをアズラエルが知ったら、怒りのゲンコツが飛んだことだろう。なにせ、クラウドはいままで、むさくるしい「ママ」に家事を任せっぱなしだった。
万事そつなくこなすクラウドに、料理などさほど難しいシロモノではないが、普段やるのは面倒くさい。ミシェルのためになら作ってもいい、そういうことだ。
「だって、ママの料理が美味しいんだもん」と言えば、むさくるしいママはそれほど悪くない顔をするし、黙っていてもあのママは、さっさと家事をやってしまう。
ルナちゃんも料理好きだから、いったいどうやって役割分担してるんだろう。
あのふたりは家事の役割分担で衝突しそうだな、とクラウドは考えながら、タイマーの鳴る音を聞いた。
「ミシェル、ベーコンはカリカリでいいよね」
「……うん、カリカリ~……」
目玉焼きに手早く塩コショウを振り、頃合いに焼けたベーコンとともに皿に移す。クラウドの計算は完璧だ。時間差で入れた卵は半熟、ベーコンはカリッカリ。黄金色に焼けた薄いトーストと一緒に食卓に運ぶ。コーヒーも忘れずに。
「お待たせ。ミシェル、できたよ」
「うん、ありがと」
ミシェルは新聞から目を離さずに、クラウドがバターを塗ってくれたトーストにかじりついた。ルナがそんなことをしていたら、アズラエルが、「ルゥ! メシ食うときは読むな」と取り上げられているだろうが。
「ミシェル、りんごジュースとミルク、どっちがいい?」
「ン~……、ジュースで」
「何読んでるの? さっきから熱心に」
返事はない。
クラウドは、ロンググラスになみなみとジュースを注いで、食卓に置いた。
ジュースを注いだグラス。それは、ミシェルがリリザでひと目ぼれした、ブルーのグラデーションが美しいペアグラスだった。
ミシェルは、クラウドと二回目にリリザに行ったとき、そのバカ高いグラスを思い切って購入した。半端ない値段だったが、クラウドがプレゼントする、というのを断って、自分で買った。おかげで宇宙船に乗ってからしてきた貯金は全滅だったが、なんだかとても満足した気分だった。
買ってきたその日に、そのグラスでクラウドとアイリッシュ・ビールを飲んだ。
その美味しかったこと。
ミシェルは新聞からグラスに目を移し、それからまた新聞の記事を見た。クラウドが記事を覗き込むと、アンジェラの個展の記事が載っていた。
リリザで開催されている個展は、三月末まで。地球行き宇宙船は、とうにリリザを出港していた。
かといって、リリザに行けないというわけではない。地球行き宇宙船からは、相変わらずリリザ行きの宇宙船は出ている。三ヶ月以上地球行き宇宙船から離れると乗船資格がなくなるだけで、まだ十分、リリザにもどって遊べる距離だ。
「ううううううんんん……」
ミシェルは唸り、突っ伏した。
ひと目ぼれしたこのグラス。
アンジェラがデザインしたものだと知ったのは、購入したあとだった。
家へ帰ってウキウキしながら包装された箱をあけ、アンジェラの写真とサインつきの保証書が出てきたときには、ミシェルはのけぞるほど驚いた。
ミシェルが周囲にあった説明書きをきちんと見なかっただけで、クラウドはそれがアンジェラの作品だと分かっていた。
「アンジェラのグラスだから、買ったんだと思っていたよ」
クラウドはそう言った。
いろいろな作品が溢れていたなかで、ミシェルは知らないうちにアンジェラの作品を選んでしまったのだ。いつものアンジーのサインと違っていた気がしたし、見つけたときは、アンジェラの作品だなんて、思わなかった。
でも、よくよく見ていればわかったと思う。
この、繊細に彫られた彫刻。――いつもミシェルの心を一瞬で奪っていく。
アンジェラの彫刻だ。
やはり、自分はアンジェラの作品が大好きなのだ。
本人が、どういう人間であっても。
「――おおん」
突っ伏したまま呻き続けるミシェルに、クラウドは困ったような視線を投げかけた。
クラウドには分かっていた。ミシェルがなにに悩んでいるのかも。
「行きたいなら、行っておいでよ」――というセリフを、すさまじい忍耐とともに飲み込んで、クラウドは言った。
言ってしまった。
「……アンジェラの個展に行きたいんだね?」
突っ伏したままのミシェルの頭がピクリと動いた。
結局、リリザ滞在中、ミシェルはさんざん悩んだ挙句、個展にはいかない旨を表明した。
あんなことがあったばかりだし、個展には当然、アンジェラは顔を出す。
行かないと決めた以上、アンジェラの個展のことを書いた雑誌やチラシやSNSは徹底的に遠ざけたし、テレビでアンジェラの個展のCMが流れるなり「うわー!」と叫んで耳と目をふさぎそっぽを向いていたミシェル。けれど決してアンジェラが嫌いになったわけでなく、見れば行きたい気持ちが我慢できなくなるから、見ないようにしていただけだった。
できるなら、行っておいでとクラウドは言ってやりたい。ミシェルがそんなに行きたがっているのなら。でも、クラウドはついていくわけにいかない。個展に行けば、アンジェラの目に触れる機会も多くなる。
さすがにクラウドは、もう、ミシェルを、アンジェラに近づけたくはなかった。
目に入らなければ忘れてもらえるかもしれないものを、あえて視界に入りに行くこともない。
「……クラウドじゃなくて、ぜんっぜん関係ないともだちと行ったらバレないんじゃ」
「ミシェル」
「ルナもだめだし。だったら、レイチェルとかシナモンを誘う、とか。キラもリサもあのパーティーにいたしね。あたしといたのばバレてるかもだし、まずいし。ウィッグとかつけて化粧も濃い目にして、変装して、」
「まだ懲りずに変装する気?」
男装だって、ごまかしきれなかったのに。クラウドは嘆息した。
「ミシェルがアンジェラの作品を好きだっていうのは十分わかった。でも……」
「分かってる分かってる分かりすぎてる!! あー!!! だから、避けてたのに!」
ミシェルは頭を掻きむしった。
今日、新聞の一面記事がアンジェラの個展でさえなければ。
クラウドは、新聞社を、生まれて初めて個人的感情で憎んだ。
ミシェルの気を別の方向に向ける必要がある。しかしクラウドは、仕事上ではいつも成功させるが、ミシェルに関することとなるといつも失敗する。
「ミシェル、そのペンダント、どこで買ったの。綺麗だね」
昨日から、ミシェルがつけているペンダントは、ものすごくミシェルに似合っていた。
「え? これ? K23区の露店。――そうだ、あの露店!!」
「露店?」
一瞬成功したかに見えた。しかしミシェルはめずらしく口をもごつかせたあと、黙ってしまった。
ミシェルの立場からすれば、あんなこと、迂闊に口に出せるものではない。
ペンダントをもらったら、露店が消えた、なんて。
「ミシェル?」
「……なんでもない」
クラウドの策略は失敗した。いつもどおり失敗した。ミシェルの目は、チラチラと新聞の記事を横目で見ている。もとにもどってしまった。
「まあ、ぜんぶテキトーに聞いて」
「君の言うことは、決して適当には聞かないよ」
「それが重すぎるって言ってんの! テキトーに聞いて!」
「う、うん……分かった」
ミシェルににらまれ、クラウドはあわてて謝った。心理作戦部の連中がいたら記念映像を撮って記録に残しておくだろう。SNSで拡散されるかもしれない。
あの鬼軍曹がヘコヘコしている。
「……かなり悩んだけどさ、やっぱりあたし、アンジェラの作品が好きなんだ。あたしが、ああいうのを作れるかどうかは別として、彼女の作品に触れていたいと思うの。……彼女という存在に、接してみたいと思うの」
「だけど、彼女は――」
「分かってるってば。彼女はメチャクチャで、破天荒。おまけにアズラエルの元カノだから、状況がややこしくなっちゃった。ただ、ただね――あたしは、ただアンジェラのそばで、その制作風景や過程を見てみたいと思っただけ。あたしがL77の師匠のとこで勉強してたときも、コツとかは教えてもらったけど、あとは師匠が作るのを見てただけっていうか――技術は盗むモンだったから。だから、弟子とかになって教えてもらわなくても、アンジェラがものを作ってるとこ見たい。彼女のそばで、それを見たいの。見たかったの」
「ミシェル」
「あたし、せっかく宇宙船に乗ったのに、――このチャンスを、逃したくなかったんだ。宇宙船には、ガラス工芸の教室とかもあるみたいだけど、……なんだか、気が向かないんだ」
「……」
「最初はさ、それでいいと思ってた。ガラス工芸の受講コース通って、ゆるくやれればいいかなって。……クラウドもいるしさ。あたしだってイチャイチャとかしてたいし、恋人同士の生活とか満喫したいし、それでいいじゃんってこのあいだまで思ってた。でもせっかく、あたしのあこがれの人が、同じ宇宙船に乗ってて、近くにいる。このチャンス、無駄にしちゃダメなんだきっと」
たぶん、L77にいたまんまじゃ、一生会えないし、そばにも寄れない相手だったと思う。
ミシェルは、グラスの魚の模様をなぞりながら、自分に言い聞かせるように言った。
「アンジェラはやっぱ怖いよ。メッチャクチャなひとだし、あんまり近寄りたくない人の部類に入るけど、……やっぱり、アンジェラの技術を見たい。その気持ちには逆らえない」
クラウドは嘆息した。このところ、ミシェルはグラスを見るたびに、なにか考え込んでいる節があった。
ミシェルが、ほんとうにL系惑星群一の芸術家になるというのなら、避けては通れない道なのだろうか。
ルナとアンジェラの関わりと、ミシェルとはちがう。
どうしても、アンジェラとの関わりは、避けて通れないのか?
「――俺は、反対だな」
いつもミシェルの意見を優先するクラウドが頑なに反対する理由も、ミシェルは十分わかっていた。
「だから、まともに聞かないでって言ったでしょ。あたしはただ、」
「俺としてはね。アンジェラもだけど、――ララには、なるべく近づかないで。どちらかというと、アンジェラよりララのほうが危険だ。あいつに近づいちゃダメだ。それだけは約束して」
ララは、アンジェラと一緒に宇宙船に乗ってきた相方。クラウドは以前、彼女ともかかわりがあった。
「ああ、あたしがクラウドの恋人だから、焼きもち妬かれて苛められるとか?」
それは、あたしだって考えてるよ、とミシェルは笑った。
「そりゃ、なるべく近づきたくないよあたしだって。嫉妬で攻撃されるのはカンベンだし」
「そういう問題じゃない。そんな簡単な問題じゃなくて」
「あのさ――えーっと、ちょっと、関係あったんでしょ? だいじょうぶ、もう、あたしもそんなことくらいで揺らがないし、なんなら、一度くらい浮気しても」
「冗談じゃない」
クラウドが、本気で青ざめた。
「あんな化け物と、また同じベッドに入れっていうのか君は!」
そういえば、クラウドは、ララをあんな化け物だのなんだの、ひどい言いようだった。今思えば。だからといって、そんな、鳥肌が立つほど嫌がるなんて。
ミシェルは呆れた。
「そんなに嫌なら、どうして付き合ってたのよ」
「付き合っていたなんてだれが言った? だから、――いわゆる――ビジネスパートナーというか、いや違うな、とにかく、メリットがあった相手なんだ。ララと親しくしておけば損はない。そういう相手なんだ。とにかく、俺にはそういう事情があって」
「それって心理作戦部関係?」
「似たようなもんだよ。だから俺は関係を持ってたわけで。そうじゃなきゃ、だれが好き好んであんなのと!」
身震いするクラウドの嫌悪のさまを、ミシェルは少し前の自分に見せてやりたかった。嫉妬なんかした自分がバカのようだ。クラウドのそれは、苦手とかそういうのを通り越して、生理的に嫌悪を催している。
あんなに綺麗な人なのに。
男だったら、みんな寄っていってしまうのも無理はないと思ったのも事実だ。女の自分だって、一瞬見とれてしまった。クラウドの感覚は、やっぱり不思議だ。
でも、美しすぎる人だし、なにか中に不気味なものを隠し持っているのかもしれない。
「……わかった。ララさんには近づかないから」
「ほんとうだよ」
「わかったってば」
「いや、わかってない。俺より、君のほうが危ないんだ。俺は、顔が良すぎるだけのただの男だからね。君は綺麗だし、芸術の才能がある。ララはそういう女の子には目がないんだ。だから俺は、あのパーティーで、君をララのところへ連れて行かなかったんだ」
「自分で顔が良すぎるとかいう。ていうか、そういう理由もあったの? ――でも、ララさんて」
高級娼婦、女の人だよね? ミシェルは思わずつぶやいた。あの女王然とした美しい姿しか、ミシェルは覚えていない。
「……あれ? 言ってなかったっけ?」
クラウドは、心底嫌そうに言った。
「あいつ、五十過ぎのジジイだよ」




