10話 リハビリ夢の中 Ⅰ ~海辺の家のきょうだい~
ウサギさんは、しあわせでした。
目の前の海は、たしかに青です、碧がかった、鮮やかな青。
それはグラデーションによって地平線の彼方は群青、間近に打ち寄せる水は濃く深く、底が見えない海です。
たまに、こんな荘厳な光景に目を奪われることがありました。
岩肌に打ち寄せる波はたしかに白いしぶきで、浅い個所では散らばった石の見える、そんなところにウサギさんは住んでいました。
ウサギさんが一番しあわせなのは、この海が見えるベランダで、夕日が沈むのをパンダさんとライオンくんと見ることです。
パンダさんはウサギさんのお兄さん、ライオンくんはウサギさんの弟でした。
パンダさんが、ママがよく歌っていたというロシア民謡を歌います。
ライオンくんはまだ小さかったので、ウサギさんの膝の上でお歌に合わせて手を叩きます。そうしていると、執事のキリンさんが、夏はつめたいミルクティー、冬は熱い熱いミルクティーを持ってきてくれるのでした。三人のこどもたちはそれをふうふう冷まして飲みました。
とてもしあわせで、楽しいひとときでした。
三人の兄妹は、半分ずつ血がつながっていました。
三人とも、お母さんとは離れ離れでした。パンダさんのお母さんはプラハにいましたし、ライオンくんのお母さんはイランだかドバイだかにいるそうです。ウサギさんのお母さんは東京のひとでしたがもうなくなっていました。
お母さんはいなかったけれど、三人はさみしくはありませんでした。
たったひとりのお父さんは大きな会社を経営していて、ほとんど顔を見たこともありませんでしたけれど、三人の子どもたちは、しあわせでした。
三人がいて、それから執事のキリンさんがいる。
しあわせな暮らしでした。
三人の子どもたちはすくすくと大きくなり――やがて、長男のパンダさんがおとうさんの跡継ぎとして会社の社長になるために、この家を出たときから――しあわせはくずれていきました。
ウサギさんも年ごろになったので、お見合いの話がありました。それは、お父さんの会社の取引先の社長の、一人息子の銀色のトラさんでした。
ウサギさんはこの家を離れたくありませんでしたが、おとうさんの命令ではそれも仕方ありません。
婚約が決まった夜、ウサギさんの悲劇ははじまりました。
ライオンくんが、ウサギさんを襲ったのです。ライオンくんは、ウサギさんを愛していました。お姉さんとしてではなく――。ライオンくんは、ウサギさんをどこにも行かせたくなかったのです。
ウサギさんはショックのあまり、放心してしまいます。ライオンくんは後悔しますが、でも、ウサギさんの婚約は認めたくありません。
婚約者のトラさんは、優しいトラさんでした。ウサギさんの悲劇を知り、トラさんはウサギさんを慰めました。
結婚は先延ばしにして、ウサギさんが好きな、愛してやまないこの家で暮らそうともいってくれました。
優しいトラさんに、ウサギさんの心はすこしずつ癒されていきます。トラさんとのあたたかい生活。ウサギさんは、きっと、あのとき三人で暮らしたくらいしあわせな家庭にしようと心に決めて、すこしずつ立ち直っていきました。
ライオンくんは家を出て行きました。ウサギさんを愛したライオンくんは、これ以上しあわせそうなトラさんとウサギさんを見ていることに、耐えきれなかったのです。
三人で暮らしたしあわせは、終わりを告げました。
ライオンくんが出て行ってすぐのことです。
パンダさんが家に帰ってきました。台風がやってきた、そんな日です。
海辺にあるこの家は、台風警報が出た時はすぐこの屋敷を出、高台の方にある別荘に向かわなければなりません。トラさんもウサギさんも、執事のキリンさんも避難支度をしているときでした。
ウサギさんを愛しているのは、ライオンくんだけではなかったのです。
ライオンくんがウサギさんを襲うように焚きつけたのはパンダさんでした。
パンダさんは、あの家に三人で暮らしたしあわせを――崩したくなかったのです。
でも、パンダさんも後悔していました。ウサギさんを傷つけたこと。ライオンくんを傷つけたこと。
自分で、あのしあわせな思い出を傷つけてしまったこと。
荒れる海に向かおうとするパンダさんを、ウサギさんは追いました。追いつきません。
いつか、パンダさんは波にのまれてわからなくなってしまいます。パンダさんを追ってきたライオンくんが叫んでいます。ライオンくんは、パンダさんが海に向かおうとしているのを知って、止めに来たのです。ウサギさんも海へ行ったのだと聞いて、ライオンくんは叫びました。
でも、間に合わなかったのです。執事のキリンさんも。
波に沈む間際に、ウサギさんはだれかに抱きしめられました。トラさんだと気付いたのは、沈んでからでしょうか、ウサギさんにはわかりません。
台風が過ぎ去ったあと、パンダさんもウサギさんもトラさんも――だれの遺体もあがりませんでした。
海辺のお屋敷は、台風で水びたしです。近所のみんなは、避難が遅れてかわいそうに、と口々に言いました。
その後のライオンくんの行方はわかりません。ライオンくんだけは、執事のキリンさんに止められて、海へは入らなかったのです。――




