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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
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番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 10


 エレナが保護されたのは、ララの屋敷から百メートルほど先だ。エレナが屋敷から飛び出してきたのを見て、待っていたタクシー運転手が驚いて、あわてて追った。


 道端で吐いているのを保護し、病院に連れて行こうとしたら断られた。

 顔色も真っ青だし、どう見ても病人なので、彼は救急車を呼ぼうと思った。


 しかし、客は病院をかたくなに拒み、知人がいるというK36区に行くのを望んだので、連れていった。エレナを降ろしたのはK36区の大きなマンションだ。


(あのお客さん、大丈夫だろうか)

 彼は、エレナの背中を心配そうに見つめた。

(幽霊屋敷から逃げてきたような感じだった)


 エレナは恐怖でいっぱいだった。

 あの、ララの黒い目が、頭から離れない。


 エレナは夢中でアズラエルの部屋のチャイムを鳴らしたが、だれも出てこない。郵便受けに新聞があふれているのを見て、アズラエルがここ幾日も部屋に帰っていないことを悟った。


 とぼとぼとタクシーにもどり、そのままK34区のラガーという店へ行ってもらった。まだ日中だが、ラガーは開いている。昼日中では、グレンたちもいない。


 エレナは、アズラエルがどこにいるのかをラガーの店長に聞こうとしたのだ。ラガーの店長は物知りで、みんなのことをよく知っている。


 エレナが顔を見せると、「よお、久しぶりじゃねえか」と破顔した。


 すぐにめのまえに置かれたオレンジジュースを飲むと、ようやく人心地がついた。


 ――恐ろしい屋敷に、恐ろしい魔女だった。

 エレナは思い出して身震いし、あの壁の向こうの女をわずかに心配した。

 殺されてやしないだろうか。

 心配だったが、もどる気はなかった。あんなところ、二度と行きたくない。

 L44の娼婦二人は、外れだった。二人とも、まともに話もできなかった。

 ひとりは気分を悪くさせてしまったし、ひとりは妖怪だった。


 嘆息して、エレナは店長にアズラエルの行方を聞いた。さっき部屋に行ったら、しばらく帰ってないようだったと。

 ラガーの店長は、しかたねえなあ、と笑みをこぼし、「エレナ、アズラエルはあきらめろっつったろ」と言った。


「あたしは――ただ、……しばらく会ってないから」

「アズラエルはなあ、あの子ウサギちゃんとうまくいったってんで、ますます子ウサギちゃんに夢中になっちまって、このとこ、ウサちゃんの部屋から一歩も出てこねえんだとよ」


 あの強面(こわもて)が形無しだ、と店長は笑い、ほかの客に呼ばれてそっちへ行った。

 エレナは、ごちそうさま、と言ってわずかなお金を置き、店を出た。

 ラガーの店長が、「グレンが心配してたぞ! そっちに顔出してやれ」と叫んでいたが、聞こえなかった。





 ――どうして、ここに来たのか、エレナ自身もよくわからなかった。

 ジュリが、ルナの居住区はK27区だと言っていたから。


 でも、K27区に来て、いったいどうするというのだ。ルナの部屋など知らない。知っていたとしても、人に聞いて調べたとしても、行って、それからどうするのか。

 アズラエルは迷惑顔で追い返すに違いない。

 それは分かっていた。


 ずいぶん心配されたが、タクシーの運転手さんには、帰ってもらった。

 エレナは、「リズン」というカフェがある広い公園のベンチに座って、夕焼けを眺めていた。少し肌寒いが、エレナはベンチに座って少しうとうとした。


 妊娠したせいなのか、毎日ひどく眠くて、くたびれやすい。

 夢うつつに、だれかの声を聞いた気がした。

 頬に当てられた掌。男の手だったが、エレナは不思議と振り払う気がしなかった。それから、ふわりと身体になにかが掛けられる。


 エレナは、その男の手に触れられて、妙に泣きたくなった。胸が痛い。


 ふっと目覚めた。まだ外は夕焼けで明るい。眠っていたのは、ほんのわずかな間だった。


 ……なんだろう、さっきのは。


 自分の身体にはブランケットが掛けられていて、そばには、まだ湯気を立てているホットレモンが置かれていた。


 一体、だれ。


 あたりを見回したが、それらしき人物はいない。

 うとうとするまえと同じ光景があるだけだ。エレナより年若い男女が、散歩している公園の風景。その中に、エレナが見知った顔があるわけもなかったし、エレナに興味を示している人間もいなかった。


 ――まさか、アズラエルではなかろうに。


 あんまりアズラエルが恋しくて、夢でも見たのか。でも夢にしては、頭と頬を撫でてくれた手の感触は鮮明で、現にブランケットが掛けられ、飲み物まで置かれている。


 エレナは、きょろきょろとあたりを見回し、それから見も知らぬだれかに礼を言って、ホットレモンを飲んだ。

 温かい。

 さっきの男の手はなんだったのだろう。さっきまでの恐怖感が、あの男の手で癒されていくようだった。


 ……不思議な手。


 ホットレモンで癒されているエレナの耳に、つんざくような女の歓声が突き刺さった。


 エレナが穏やかな気分を壊されてそっちをにらむと、若い男女が数人固まって、騒いでいる。


 待ち合わせでもしていたのか、女が三人待っていて、そこへ男たちがやってきたのに、女の中のひとりが歓声を上げたのだ。

「久しぶり!」とかなんとか――。


 エレナははっとした。

 自分の手が震えているのに気付いた。


 それは、単にやかましいだけの、どこにでもある若者たちの待ち合わせの一幕だったろう。


 若い女のひとりが――妊娠していた。

 大きなおなかを両手で支えて、幸せそうな顔をしている。

 女に優しく手を添える、若い男。……夫だろうか。


 そのふたりの幸せそうな姿が、エレナの目に入り、あわてて見ないようにした。

 自分がみじめで、たまらなくなったのだ。

 気分がますます悪化し、エレナは、呼吸が苦しくなってくるのが分かった。

 あの妊婦だけではない、なにかおかしい。


 自分は、なにに怯えているのか、――男だ。そうだ、男たち。派手なジャケットを着て、アクセサリーをつけた――。

 年恰好も、服装も、エレナを襲ったあの若者たちと似ていた。


 エレナは必死でそっちを見ないようにした。でも、彼らの甲高い笑い声は、嫌でも耳に入ってくる。立ち上がってこの場を去ろうとしたが、身体が震えて動かないのだ。

 そんなに寒いわけではないのに。


 ――どうして、あの妊婦さんはあんなふうに笑っていられるのだろう。


 産む直前まで宇宙船にいて、それから降りる気なのか。どのみち、あの女が宇宙船を降りた後の生活に困るようには見えない。

 やつらにとってこの宇宙船は旅行気分。

 あたしは、あたしには、新しい人生を始める唯一のきっかけだったのに。


 ――ルナ。


 あの子が、アズラエルの子を孕んだら、どうなるのだろう。

 アズラエルは、あの若い女を支えている男のように、あのこも、子どもも、慈しむのだろうか。


 まるで、なにかのスイッチが入ってしまったようだった。

 エレナの奥底から、噴き上げるようにかなしみが湧き起った。


 どうしてあの子ばかり愛されるの。

 どうして、アズラエルはあたしを愛してくれないの。

 どうして、あたしの子は望まれないの。

 それは、好きな男の子どもじゃないかもしれない。

 でも――あたしの子どもなんだ。


 ねえ――アズラエル。

 どうしてあんたはあのこが好きなの?


 娼婦なのは、あたしのせいじゃない。なのに、どうして娼婦だからというだけで、あたしは嘲笑われなきゃいけないの。あたしは便所なんかじゃない。あたしは人間だ。どうして金をばらまかれて、犯されなきゃいけないの。


 あたしは、ただ一日も早く借金を返したかっただけだ。早く借金を返して、……そうしたら、ジュリ、アンタにだって少しは楽しい思いをさせてあげることができるかもしれない。ケーキだって、月に三度は食べられるかもしれない。どうして、あとふたつきが我慢できないの。どうして、あたしを責めるの。


 ジュリなんか、あたしの子どもの代わりに宇宙船から降ろされればいい。

 そんなことを言ったら、きっとカレンはあたしを責める。


 ――ジュリはきっと、カレンがかばう。


 どうして。

 あたしは、この子と、ひっそり生きていきたい。娼婦じゃない仕事をして、ただおだやかに、暮らしていきたいだけなのに。

 せっかく宇宙船に乗れたのに。

 なぜ、そのたったひとつの望みさえ、叶わないのだろう。


 絶叫が、口をついて出そうだった。エレナは顔を覆って泣いた。絶叫が、嗚咽(おえつ)になって喉をえづかせた。

 もう、どうしたらいいか分からなかった。

 心がくじけて、身体はくずれそうなのに、代わりに込み上げてきたのは恐ろしいまでの怒りと憎しみだった。

 エレナの中で、ジュリに対する怒りと、アズラエルに対する恋慕と、ルナに対する嫉妬がごちゃまぜになって渦を巻いた。


 あたしの赤ちゃん。

 どうせ産めないのなら、おろさなきゃいけないのなら。

 おろさなきゃ、この宇宙船にいられないのなら。


 ――どうせ、この宇宙船から降ろされるしかないなら。


 ジュリ、あんただけ幸せになんかさせない。

 あたしはあんたを許さない。


 ルナ、アンタも一緒に降ろしてやる。この宇宙船から。

 あたしと、同じ目に遭えばいい。

 娼婦にしてやる。たくさんの男と寝て、娼婦になったあんたを、アズラエルが愛するわけがない。


 アズラエルはあたしを憎むだろう、グレンもだ。

 ジュリを巻き添えにしたらカレンも怒るだろう。

 それでもいい。

 アズラエルに殺されるなら、それでもいい。

 いいもの。


 ――あたしの赤ちゃんが死ななきゃならないのなら、あたしも一緒に死んでやる。


 エレナは、ふらふらと立ち上がり――タクシーを拾った。

 ホットレモンの入った紙コップが、ベンチの上で風に吹かれて中身をぶちまけ、転がった。





 K34区の、自分が住んでいた部屋へもどると、リビングでジュリが膝を抱えて(うずくま)っていた。


 エレナの顔を見ると、化け物でも見たような顔をして凍りつき、それから顔をくしゃくしゃにして飛びかかってきた。ジュリはエレナに抱きつき、勢いよく泣いた。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ひどいこと言ってごめんなさい――。


 エレナは、遠くを見ていた。ジュリの言葉も、なにも耳に入ってこなかった。

 ちょうどいい。この様子では、なんでもジュリは言うことを聞くだろう。


 ――さあ。

 どうやって、あの小娘をアズラエルから引き離し、遊郭に売ればいいか。

 ただの遊郭ではない。エレナたちがいたところよりもっとひどい場末に売り飛ばしてやる。

 おそらくひとつきと持たないようなひどいところに――。


(ジュリ、あんたにも、協力してもらわなきゃね)


 宇宙船のカレンダーは、十二月九日を示して点滅していた。


 エレナが自分のところに帰ってきてくれた、とジュリは大喜びし、それからみるみる元気になった。だが、エレナはまだK18区のアパートは引き払わなかった。いざというとき、使えると思ったからだ。


 まだアンタをちゃんと許したわけじゃない、あたしはこの部屋にはもどらない、というと、ジュリはまた少し泣いたが、エレナに許してもらえるまで、あたしもがんばってここで暮らす、と泣くのを我慢した。


 エレナはK18区のアパートに帰って計画を練った。

 ルナをL44に送るか? それとも、ほかの星の遊郭に。


 エレナは、以前、ラガーで商売をしたときに会ったひと買いの男を思い出した。


 彼は、L4系の小娘なら売り飛ばすのに協力してもいいと言った。彼からの情報で、エレナは、リリザにも遊郭があることを知った。カジノ界隈にある店で、エレナが予定していたほどひどい場所ではないが、それでもいい。


 ルナを売り飛ばし、アズラエルと別れさせて不幸な目に遭わせることができるなら、もうどこでもいい。


 ジュリが彼とただで寝ること、ルナを売り飛ばした金も彼のもの、という条件付きで彼は依頼を引き受けた。


 一番難しいのは、ルナから、一時的にアズラエルを引き離さなければならないことだ。

 ルナがひとりでいるところを掻っ攫わなければならない。

 しかも、宇宙船内でなく、できればリリザで。


 どうするか。

 なんとかして、ルナをひとり、リリザに呼び出せないか。

 ジュリに誘わせるか。


 エレナが一生懸命考えていると、まるで天がエレナに味方しているかのように、簡単にチャンスはやってきた。


 ルナが、リリザに降りたのだ。

 しかも、アズラエルから離れてひとりで。


 ジュリはエレナが見つかったことで元気を取りもどせたし、カレンもセルゲイの根気強い慰めで、元気を取りもどしていた。


 景気づけにふたりはリリザに行くことにし、ルートヴィヒやグレン、セルゲイも巻き添えにしてリリザへ向かった。彼らは、エレナも誘うようジュリに言ったが、ジュリも、エレナのK18区のアパートの住所や電話番号を知らない。


 仕方なくエレナ抜きでリリザに向かい――そこには、ルナもともだちと一緒に降り立っていた。


 ジュリが、あの赤い携帯電話を使えるときがついにやってきた。

 彼女は、携帯電話を使いたくて、何度もK34区の部屋にくだらない電話をかけた。エレナはリリザの様子を知りたかった。勿怪の幸(もっけ さいわ)いと言うやつだ。


 そして、くりかえす電話のうちに、エレナは知った。ルナが、リリザにいて、グレンたちが接触したことを。

 そして、リリザのホテルに宿泊することを。

 このチャンスを、逃がしてはならない。


 ジュリに、リリザから宇宙船に帰ったら、ひとりでK34区のアパートへおいで、と告げ、エレナは最後の電話を切った。


 なにも知らないジュリが、大はしゃぎでアパートへもどってくる。エレナへの土産を持って。


 ジュリは、土産も渡さぬうちに、計画をエレナの口から聞かされた。ジュリは必死で止めたが、もうダメだった。エレナの決意は固かった。


「ジュリ――どうせこの子も死ぬ。あたしも死ぬ。……あんたには、別にむごいことはさせないよ。でも、協力だけはしておくれ」


 ルナを呼び出さなければ、エレナが死ぬ。

 ジュリはそう解釈し、泣きながらもう一度、リリザへもどった。

 ルナを、ホテルから、呼び出すために。


 小男の運転する車に乗って、リリザの夜景を見ながら、エレナは、ひどく心が冷えていた。


 ――ああ、この、景色。


 宇宙船に乗った最初の夜、タクシーに乗ったときに見た夜景とは別物だ。同じくらい華やかで美しいが、あのころは希望に満ちていた。

 L44から飛び出して、新しい生活を始める期待と、不安。でも、胸は弾んでいた。今のように、凍ってなどいなかった。

 この夜景が、人生最後に見る夜景かもしれないと思うと、エレナの目が涙でにじんだ。


 ――ごめんね、あたしの赤ちゃん。

 産んで、あげられなくて。




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