番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 9
カレンたちは次の日の昼まえ、エレナの部屋を訪れた。
エレナを食事に連れて行こうとしたのだ。
ジュリは、エレナに謝らない、とずっとふて腐れていたが、それどころではなくなった。
チャイムを押してもだれも出てこなかったので、ジュリの鍵で部屋に入った。
カレンが最初に、その不自然に気付いた。エレナの部屋のドアはいつも閉まっているのに、今日は開け放たれている。
ジュリも、はっきりとではないが、いつもと違うことにようやく気付いたようだ。
「エレナ……」と少しあわてた様子で、エレナの部屋をのぞいた。
ジュリはそこで、ペタン、と座り込んだ。
エレナの部屋は、整然と片づけられていた。数少ないエレナの私物も、服も、なにもなかった。
布団は綺麗に畳まれてベッドの上にある。昨夜ジュリが投げ散らかしていった紙袋や包みは、ジュリの部屋に置かれていた。
ジュリはあわてて洗面所へ走った。エレナの歯ブラシも、シャンプーなどの類もない。冷蔵庫のうどんも、跡形もなかった。
「エレナ……」
「まさか――オイ、出てったのか」
グレンが、決定打を口にした。途端に、ジュリが泣き出す。
「エ、エレナ、エレナああ」
どこ行ったの、と座り込んで大泣きを始めるジュリを、カレンがあわてて慰めていると、セルゲイが言った。
「マックスさんのところに行ってみよう。なにかあったのかもしれない」
中央役所の役員室に向かうと、マックスが自分のデスクにいた。
彼はいつもとは違う固いまなざしでジュリたちを出迎えた。来るのを待っていたようだった。
「少々お待ちください」
マックスは、いつも持っているクラッチバッグに書類などを詰め直し、もどってきた。
「ここではなく、近くの喫茶店でお話をしませんか」
マックスに案内され、中央役所の応接室ではなく、役所を出て、歩いて五分ほどのところの喫茶店へ移動した。
昼時だが人は少ない。ここは役員御用達で、一般の船客はあまり出入りしないのだとマックスは言った。
音楽も控えめで、静かな喫茶店だ。マックスが、「ここはなんでも美味しいですよ」と勧めたが、だれも食事の類は頼まなかった。腹が減れば我慢できずに騒ぐジュリでさえ、今日は食べたいと言わなかった。
「では、そちらのご用件を先に」
マックスが口火を切り、カレンが話した。
自分は、昨日初めて、ジュリやエレナに借金があったことを知った。エレナは完済したようだが、ジュリの分がまだ残っていることも。その分を、カレンが肩代わりして返済したい――今日はその話をする気でいたのだが。
さっきエレナの部屋に寄ったら、エレナの部屋がすっかり片付けられていて、まるで引っ越したようだった。自分たちはなにも聞いていない、なにかあったのかとカレンは問うた。
「はい。エレナさんは引っ越しました」
マックスは、どんなときでも柔和な笑みを崩さない。口調もいつも通りだった。
「引っ越した?」
ルートヴィヒも聞いた。「ジュリも知らないんですよ?」
「ええ。――ジュリさんにはお伝えしないように、私は依頼されております」
それを聞いて、ジュリはアワアワと取り乱し、やがて泣き出した。
「なんでですか。もしかして、昨日のケンカが原因なんですか」
カレンが聞いたが、マックスは「そうだとも、そうでないとも言えます」と曖昧な表現をした。
そして、バッグの中からお金の入った封筒を取り出し、ジュリのほうへ差し出した。
「これは、あなたの今月分の生活費になります」
お金を出し、目の前で数えて、それから再び封筒にしまい入れて、ジュリのほうへ置いた。
「エレナさんに申し付かっていた分です。これからは、エレナさんはあなたのお金を管理しませんから、ジュリさんに直接お渡しします。これは借金額を引いた金額ですが、ジュリさんがお望みなら、毎月の返済額を少なめにし――-そうなりますと、完済までにもう少しかかりますが――もっとたくさんお渡しすることもできます。どうなさいますか」
マックスの声はいつもと変わらなかったが、どこか冷たい気がした。キッチリと、線を引いてしまったような。
ジュリはなにも言わず、泣いたまま、金も受け取らない。
「……ちょっと待って。エレナは、ジュリの世話を放棄したってこと?」
カレンが言うと、マックスは、「お言葉ですが」と遮った。
「エレナさんは、ジュリさんの世話係として宇宙船に乗り込んだわけではありません。彼女は彼女なりに、この宇宙船で生活し、新たな人生を歩む権利があります。それはジュリさんも同様です。同じように、ジュリさんが、エレナさんの生活を阻害する権利はないのです」
「だって、このとおり、ジュリはひとりにしたって生きていけないの、分かってるじゃないか」
「私が役員としてご説明できる部分は、ここまでです」
マックスはきっぱりと言った。
「ですが――役員としてではないお話をするために、ここに来ました」
役所内では、それ以上の話はできない、マックスはそう言った。
「エレナさんは、昨夜遅くに私を尋ねてきて、無理を言ってすまないと何度も謝られ、引っ越しなさいました。昨日の夜のうちにです。居住区はK34区の中ですが、だれにも住処は知らせないでほしいと、そういわれました。私は、役員の義務として、自分の担当客が隠したいと願っているものを、お教えすることはできません」
「エレナは、病気かもしれないんだぞ」
グレンが思い余って言った。
「エレナだって、ひとりにしておけないだろう」
「私が毎日、通いますので」
あっさりマックスに返され、グレンは拍子抜けした。
「私が所用で出向けない場合は、ほかの、女性役員を向かわせます。きちんと三食取っていただき、病気と判断した場合は、すみやかに病院へご案内します。エレナさんのことは心配いりません。――今、彼女はとても傷ついています。ひとりにしてあげてください」
マックスは、エレナとジュリがこの宇宙船に乗ったときと同じ説明を、グレンたちに繰り返した。
ジュリにも、もう一度、言い含めるように。
カレンたちは、説明を受けるにつれ、L44の娼婦がこの宇宙船で生活していくことがどれだけ大変なのかが、分かってきた。
借金のことも、――どれだけ、エレナたちが「ものを知らない」のかも。
「L44の娼婦さんでも、短期間務める娼婦さんたちとは違い、エレナさんたちは十歳ころからずっとL44で育っています。それがどれだけ、世間と隔絶された環境なのかは、おそらく皆さまには想像もつかないと思います。ですから、L4系から乗られた方は総じて、この宇宙船内の生活に慣れていただくことから始めてもらいます」
ルートヴィヒは、ある程度母親から聞いていたので、L44育ちの娼婦が宇宙船に乗って――L44を出てからが、どれだけ大変だったかは知っているつもりだった。
母親たちも、見るもの聞くもの初めてのものばかりで、最初の一年は特に難儀したと言っていた。借金を返済しながらという生活も、エレナとジュリとさほど変わらなかったろう。
だが、母親たちとエレナたちが違うのは、母親たちはふたりとも分別のある大人だったということだ。
危険だと説明を受けた界隈には近づかなかったし、セバスチアンたちと出会うまでは、近所と病院の往復ばかりで、地味な暮らしをしていたから問題も起こらなかった。
エレナは子ども同然の、わがまま放題の相棒を抱えていた。ジュリは、なりは大人だが、頭の中身は子ども。
基本的に、人のいうことは聞かない。危険をいくら言い聞かせても、危険な場所もかまわず行く、贅沢を覚えれば、我慢できずにそれをねだる。辛抱を言い聞かせても、聞く耳を持たない。
どれだけエレナが大変だったか、知るべくもない。
「物を知らないということは、ほんの些細なことでも不安や心配の種になるものです。エレナさんがいったい何に不安がるか。私たちには想像もできないことで不安になったり、心を痛めたりするものなのですよ。L44から来た方は、そういう方が多いです。ですから私たちは、おせっかいと言えるほど、乗船者の身の回りに気を配らねばなりません。乗船者の方のプライバシーを損害せずに、どこまでお世話させていただくか、それはいまだにL44の役員の間でも難しい問題です」
マックスは、柔和な顔でつづけた。
「エレナさん自身も、本当は人の世話などできる状況ではないほど、いっぱいいっぱいだったと思います。分からないことだらけなのですから。ジュリさん、あなたは毎回わがままを言って、エレナさんを困らせましたね。そのストレスだけでも、エレナさんにはきつかったと思います。ましてや、あなたがラガーから連れてきた男性たちのことで、エレナさんがどんな目に遭ったのか、忘れたとは言わせません」
ジュリはあの事件を思い出し、ますます強く泣き出した。静かな店内に、ジュリの泣き声だけが響く。
ジュリは、あの事件のことをすっかり忘れていた。どうして自分は、いつも忘れてしまうのだろう。
「エレナが、どうかしたんですか?」
カレンが、青ざめた顔で聞いたが、マックスは答えないし、ジュリも泣き続けるばかりで言わない。
「マックスさん」
グレンが口を挟んだ。
「その、……エレナの部屋に不法侵入したヤツら」
「不法侵入したヤツら?」
カレンは聞いたが、グレンは答えず、さらにマックスに聞いた。
「――そいつらはもう、宇宙船にはいないのか」
マックスはうなずいた。
「……ええ。彼らはL25で服役中です」
でも、エレナさんの心についた傷は、一生消えないでしょう、とマックスは言った。
それでカレンはすべてを察し、見てわかるほどにきつく唇をかんだ。
マックスは、ジュリに向かって言った。
「ジュリさん、私は、君に何を言っても無駄だとは思わない」
エレナはマックスにそう言った。ジュリには何を言っても無駄なのだと。
「ジュリさん、エレナさんは君のお母さんじゃない。それに、エレナさんだって人間なんだよ。ひどいことを言われたら傷つくし、我慢できないことだってある」
それに、と付け加えた。
「エレナさんは、ちゃんとジュリさんの分と自分の分は分けて数えていて、君が働いて稼いだ分は、ちゃんと君の借金の返済分として受け取っている。そして、自分の借金を返したあとは、自分の分もジュリさんの返済に回している。だから、君の借金はあとふたつきほどで返せるんだよ」
「オイ待て。自分の服も買わないでか!?」
グレンは危うくまたキレそうになり、すんでで押さえた。
食うものも、この寒いのに着るものも我慢して、――どこまでお人好しなんだアイツは。
食事もまともにとっていないようだった。作る気がないなら食べに行けばよかったものを、おそらく節約のために我慢していたのだろう。
今までの説明を聞けば、デリバリーという選択肢も、考え付かなかったに違いない。考えなかったというより、知らなかっただろう。
グレンはついに舌打ちした。
このことをもっと早く知っていたなら、無理やりにでも自分の部屋に住まわせていたのに。
「私が前回、エレナさんのもとに駆け付けたときは、エレナさんは、うどんを生のままかじっていました」
ルートヴィヒはもとより、グレンとカレンもがく然として、マックスを見た。
「そんなふうにしてがんばっているエレナさんにかける言葉としては、ジュリさん、あまりにひどかったのではありませんか? たしかに、無理な借金返済はあなたが望んだことじゃなかったかもしれない。でも、エレナさんは、あなたの借金のことも考えて無理をしていたんですよ。あとふたつき我慢すれば、ふたりで十分贅沢な生活ができたんです。しかもあなたは、具合の悪いエレナさんを放って、遊び歩いていたそうですね。エレナさんが、具合の悪いことを知っていたでしょうに。なにもできなくても――どうして、そばについていてあげることすらできなかったんですか。それは一緒に暮らしているおともだちとしては、あまりに冷たくありませんか」
それには、カレンもなにも言えなかった。ジュリはただただ、涙を流している。
「あなたが美味しいものを食べているあいだ、エレナさんはあの味気ないうどんを、そのままかじっていたのですよ。体調が悪くて、うどんを煮る気も起きなかったと彼女は言っていました。あなたがなにも作れなくても、なにか食べるものを買って、エレナさんに持って行ってあげてもよかったでしょうに。私は、エレナさんになりかわって、あなたに言います。あなたが、分からないというなら、なおのこと言わねばなりません。彼女はあなたにいっても分からないといったけれど、そうは思えません。人としての思いやりは学んでほしい。……あなたは少し、エレナさんの苦労を知ってみるべきです。それが分かっていただけるまでは、あなたにはエレナさんの住処をお教えできません」
ジュリはわっと泣いた。
エレナに、もう会えないと思ったのだろう。
「マックスさん」
カレンがあわてて言った。
「……ちょっとジュリには厳しすぎるんじゃないですか」
「厳しくなどありません」
マックスは、バッグを持って立った。
「あなたは、ジュリさんに分別を教えず、そうやって甘やかして、生涯面倒を見ていくつもりなのですか」
カレンは詰まった。
「そうでないなら、それはあなたの言う言葉ではありません。エレナさんにだって、ジュリさんの面倒を見ていく義務はないし、それはあなたも同様です。私は、宇宙船役員として、できうるかぎりのことは致します。ジュリさんが字の読み方や、計算方法を習いたいのなら、いくらでもお教えします。生活の仕方も、わからないことはなんでも」
ジュリは号泣していた。
「この宇宙船のなかでも、外でも、ジュリさんが生きていくのです。……ジュリさんの借金をあなたが返済したいというならば、役員の私はそのとおりにいたします。ですが」
マックスは、皆の分のレシートを持った。
「人間としての私は、賛成できません」
ジュリは、マックスの言葉の意味がすべては分からずとも、ジュリなりにひどく思うところがあったらしい。
ジュリは、それから数日間、「あたしが悪かった」と泣きながら、エレナの姿を求めて探し回った。
一日中、朝早くから暗くなるまで探し回り、足が動かなくなってそのままベッドに倒れこむほど、歩き回った。人に聞いたり、一軒一軒、部屋を訪ね歩いた。
エレナが、複数の男たちに乱暴されただろうこと――それを知ったカレンは、急に暗くなって引きこもってしまった。
部屋から出てこようとしないし、ジュリに会おうともしなくなった。カレンの部屋に入ることができたのは、セルゲイだけだ。
「エレナを見てるとさ、ぜんぜん知らない母さんを想像しちゃうんだ」
カレンは、膝の間に顔をうずめてぼんやりと言った。
「どうして、もっと楽に生きられないんだろう。なんであんなに頑張っちゃうんだろう。――正しいことも、……愛情も、報われないことだってあるのに」
カレンが部屋を出てくるには、あと十日は必要だった。
グレンもエレナを心配してはいたが、探すことはしなかった。ひとりにしてほしいエレナの気持ちもわかったからだ。
それに、セルゲイとルートヴィヒと、グレンの頭の中には、もしかしたら病院かもしれない、という考えがあった。グレンは栄養失調を心配していたが、セルゲイとルートヴィヒは妊娠のことだった。だが、マックスがちゃんと様子を見ているというなら、だいじょうぶだろうと三人は思った。
病院にいてくれた方が、よほどいい。三食食べさせてもらえるだろうし、温かい環境だろうし。
そのかわりグレンたちは、いつエレナがもどってきてもいいように、ラガーの店長とマックスにだけは言づけておいた。もどったら、すぐ自分たちのもとに来るように。
ルートヴィヒが、「俺が絶対、エレナにひもじい思いはさせないから!」とマックスの手を握って熱く宣言すると、ようやく微笑んでくれた。
グレンたちはジュリをなだめたが、ジュリは、エレナを探して謝る、の一点張りだった。
探すことをやめようとしなかった。
ジュリが、エレナの妊娠を口にしなかったのは、奇跡と言えば奇跡だった。
ジュリにしてみれば、言うなと言われていたものを言ってしまえば、今度こそ嫌われてしまう、といった思いからだったろうが、それでもめずらしく、ジュリは、今回ばかりは絶対にエレナの妊娠のことは洩らさなかった。
逆に言えば、洩らしたほうが良かったのかもしれない。この時点でジュリがいつものように、みなに妊娠のことを話していたら、エレナがルナを襲う事件まで発展はしなかったろう。
セルゲイとルートヴィヒも、そしてマックスも。
まさか、エレナが、「妊娠したら宇宙船を降ろされる」と思っているとは、想像もできなかった。
ジュリが足を棒のようにして探しても、エレナは見つからない。
ジュリはだんだん元気がなくなり、憔悴していった。今度は、ジュリが病気になりそうだった。
ジュリはロミオのもとへも、ジャックのもとへも、ラガーへも行かなくなった。みんなが、エレナは元気でやっているから大丈夫だと言っても、ジュリはダメだった。
いつもすぐに悪いことは忘れて、はしゃぐジュリにしては、今回ばかりは一向に元気を取りもどさなかった。
グレンたちにもわかった。ジュリにとって、エレナがどれだけ大切な存在なのかが。
ジュリはただ、エレナがいないのが寂しいのだ。たとえどこかで元気でも、今ここにいないのが、寂しいのだ。
エレナが見つからないのも当然だった。エレナはK34区にはいなかったからだ。
エレナはK34区の次に家賃が安い、K18区に引っ越していた。ここは老人ばかりが住んでいて、活気にはかけるが、広い公園のなかに居住区があるような景観で、のんびりとした環境だったので、エレナの神経を休めてくれた。
マックスが宅配の手配をしてくれたので、エレナには毎日、あっさりした和食の――故郷の遊郭で食べていたような食事が、二食分、届けられた。
昼食は、マックスと一緒に取った。エレナと一緒に、近くの食堂でうどんや蕎麦を食べた。食堂までのちいさな散歩で、エレナは体を動かすこともできたし、少しずつ元気を取りもどしていった。
数日経って、あまりに弱っていた体と神経が休められて、少し持ち直してきたので、エレナは、ララを訪ねていくことにした。
もっとのんびりしていたくても、腹は出てきてしまう。
マックスが毎日来るのでは、いつか気づかれてしまうだろう。ジュリが漏らしていないのがまだ救いだが、それも時間の問題だ。
高級娼婦であるララなら、なにかいい方法を提案してくれる気がした。高級娼婦というのは、美しさに加え、教養も高い。金持ち相手の娼婦だから、頭もよいのだ。
前回、事前に電話連絡せずに失敗したので、ララのところへは電話連絡をした。いつ会いに行っていいか、聞くために。
取次ぎの男性が出て、「おつなぎいたします」と言われ、優雅な音楽の後に、ハスキーな女性の声がした。
ララは、ひどく気さくな人物だったが、「ああ、いいよ。今日でもおいで」と一方的に、電話を切られた。
エレナはなんだか不安だったが、「おいで」と言ってくれるので、なるべく綺麗に身支度をし、タクシーで向かった。
相手は高級娼婦だし、エレナたちからすれば身分はずっと上だ。失礼のないようにしなければいけない。
L44でも、高級娼婦の住む区画は別格だったし、エレナたちは入ったこともない。
ララの住まいはK11区。
美しく剪定された芝生や常緑樹が並び、一定の間隔で置かれたひとつひとつの屋敷の大きいこと! 庭やプールは当たり前。たくさんの人間が集まってパーティーをしている光景を何度も見た。
なんだか、別世界のようだ。同じ宇宙船のなかなのに。
やがて、タクシーは大きな屋敷の門をくぐり、広すぎる庭を抜け、大きな扉のまえに横付けた。
男性に案内されて入った屋敷は恐ろしく広く、宇宙船に乗った最初のころ、マックスが連れて行ってくれた博物館のようだった。エレナは相当歩いた。帰るとき、一人でこの屋敷から出ろと言われたら、出られないような気がした。
やがてひとつの扉前で、前を行く男性の足が止まった。
「エレナ様がいらっしゃいました」
「お入り!」
強い声が返ってくる。
「どうぞ、ごゆっくり」
扉を開け、男性は小さく会釈をして、去っていった。
緊張で吐きそうだったが、エレナはぐっと我慢して、おそるおそる、室内に入った。
部屋の中の様子に、エレナは驚いた。
広い部屋。だが、薄暗い。黒髪の美しい女が、豪奢な椅子に座っている――あれが、ララだろう。
エレナが驚いたというのは、一辺が一メートルはあろうかという紙が、あたり一面に散らばっているのだ。絨毯の上、足の踏み場もないくらい。
紙には、絵ともいえない、ただ色をぶちまけただけのようなものが描かれている。
「悪いねえ。座る場所もなくってさ。――ああ、そうだ、そこが空いてる。お座り」
ララは顎をしゃくり、辛うじて紙の被害に遭っていない長椅子に、エレナを座らせた。
「あたしの相棒は芸術家でね――おっきいもんを仕上げるときは描きまくる、男と寝る、……くりかえすのさ」
エレナはごくりと、喉を鳴らした。
ララは変わった形の長いパイプから、煙を吸っている。
酔った顔をしているが、美しい女だ。エレナの発育不良の黒髪とは比べ物にならない、艶やかさを持った、長い黒髪。まるで精巧な作り物のようだ。厚いまつ毛。口もとのほくろ。ただ、年齢が分からない不気味さを感じさせた。
「そう、かしこまっちゃこっちもタバコがまずくなるよ――あんた、名前なんて言うんだい? ううん?」
ララが手招きする。エレナを椅子に座らせたばかりなのに。
仕方なくそちらへ行こうとすると、隣の部屋か――壁から、女の咆哮が聞こえた。咆哮としか表現するすべはない。エレナはビクリと怯えて、声がしたほうを向いたが、そこは壁だ。
部屋に窓がなく、薄暗いのも、エレナの恐怖を煽った。
「ああ、ああ、心配しなくていいさ。女のアノ声なんて聞きあきてんだろうに」
ララは、そばによると、ずいぶん大柄なことが分かった。手も、足の長さも、エレナよりひと回り大きい。少し離れたところから見ると、ひどく華奢にさえ見えるのに。血管が透き通るほどに白い肌も、薄気味悪さしか感じさせない。
まるで、むかし芝居小屋で観た、魔女のようだ。
エレナはどうにも、このララという女が怖くなって、早くここから逃げ出したい気持ちに襲われた。
「綺麗な子だねえ……名前は?」
名乗ったはずなのに忘れているのか。エレナだというと、ララは微笑んだ。
「うん、そう、エレナ――ン?」
ララは、エレナの腹に目を留めた。「あんた、孕んでいるのかい」
エレナはギクリとした。まだ腹はそんなに出てきていないはずなのに――。
急にララは不機嫌になり、「好いた男の子かい」と聞いてきた。それに気づかないエレナは、やっと話ができそうだと、ほっとして、
「い、いいえ、あの、多分L44にいたときの……」
「あんたはどこ」
「ま、満格楼でした……」
「満格楼? 知らないねえ。L44ったって、広いからねえ」
高級娼婦が、星の数ほどもある場末の娼館を知っているわけはない。
ララは一服吸い、「……好いた男のコじゃないんなら、おろしちまいな」と吐き捨てた。
エレナの顔が強張った。
「ダメダメ。そんなもん抱え込んでたってロクなことにならないさ。身重の娼婦なんて、新しいオトコもできやしない。まあ――ここに来たのもなにかの縁だろ。あたしは綺麗な子が好きなんだよ。男も女もね。どうだい? あたしがアンタの面倒を見てやるから、その子は捨ててきな」
ララがどろりと目を歪ませる。大きなまつ毛に縁どられた目が、エレナをますます怯ませた。妖怪にでも、睨まれている感じだ。
エレナが返事をできずに唇を噛んでいると、ララは再び問うた。
「あんた男はいるのかい」
「い、いません――」
「なら、不便してるんじゃないのかい。可愛がってくれるオトコが欲しいだろ」
「い、いいえ、あたしは――」
「あたしのペットは嫌かい? ……まあ、産んだってロクなことにはならんだろうけどね。せっかくここまで来たんだから、新しいオトコ紹介してやってもいいけど」
ララが、さっき、恐ろしい声がした壁に向かって叫んだ。
「ドム! ドム、いるんだろ!? そのM女放ってこっちへおいで!」
しばらくすると、素っ裸の巨躯の男が、部屋に入ってきた。ロミオくらい大きかった。
「あんた妊婦好きだろ?」
エレナは思わずララを見、巨躯の男を見た。
男が薄ら笑いを浮かべる。エレナに手を伸ばしてきた。
「おまえ、孕んでんのか――」にやにやと、不気味な笑いを浮かべて。
エレナは、悲鳴を上げた。
そのまま、どこをどう走って部屋を出、屋敷を出たかわからない。ララの屋敷を飛び出し、舗装された道路を、泣きわめきながら走った。
「……あの子、どうかしちまったのかね」
ララが、呆気にとられた表情で、ドムという男を見た。ドムは肩をすくめ、「さあ……」と言ってもといた部屋へもどっていく。アンジェラの絶叫がふたたび聞こえてくると、ララは優雅な音楽でも聞くように、柔和な笑顔で、またタバコを吸い始めた。
ララの頭の中から、エレナのことはすっかりなくなっていた。




