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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
156/942

番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 7


「エレナ、エレナ……! 起きて。起きてよ」


 エレナはジュリに揺り起こされた。外は、真っ暗になっている。もう夜か。

 ジュリは、ジャックのもとへ行ったのでは。


「ね、ね、一緒に、カレンの部屋に遊びにいこ」

「……あんた一人で行けばいいじゃないか。あたしは寝るよ」


 そんな気分ではない。


「エレナ、今日なにも食べてないでしょ」


 弁当は、手付かずのままだった。


「それに、あたしをひとりでカレンのとこにやって、あたしがしゃべっちゃったらどうするの」


 エレナはぎょっとして起き上がった。コイツは、いつからそんな脅すような口を利くようになった。


「エレナって、あたしがいないとき、……あんまり食べてないよね?」

 最近()せたよ、とジュリが言う。


 エレナは詰まった。たしかに、一日、なにも食べないときもあった。このところ食欲が俄然(がぜん)と落ちていたし、今日もレモン水を飲んだだけで、なにも食べていない。でもまさか、ジュリがそんな心配をしているとは思わなかった。


「ダメだよ。もう、一人の身体じゃないんだから……」


 ジュリから出てくる言葉に、エレナは驚いてなにも言い返せない。コイツは、あたしにおろさせたいのか、産ませたいのかどっちなんだ。


「あんた、なんなんだい。あたしにおろせって、言ったじゃないか」


「うん……」

 ジュリはしょぼんとした。

「でも、でもね、もしかしたら、おろさなくてもいい方法がないかなって、あたしずっと考えてたの」


 マックスさんに聞いてみない? ジュリがおそるおそる言ったが。


「バカかい!? 決まってんじゃないか!」


 あの人のいい老人が、言いづらそうに「ダメですよ」という顔が、エレナには容易に想像できた。


「……そうだよね」


 ジュリは、基本的にエレナのほうがえらいと思っているので、エレナの言うことには逆らわない。


「でも、でも、一緒に行こうよカレンのとこ」

「あたしは行かない」

「でも、あたし、セルゲイせんせがお医者さんだから、もしかしたら聞きたくなって、言っちゃうかもしれないよ」


 このバカ娘! エレナは怒鳴りかけたが、ジュリがえへ、と笑ってエレナの手を取った。


「だから、一緒にいこ。みんな、エレナのこと心配してるよ。一緒に行って、みんなとごはん食べよ」


 エレナがいたら、あたし言わないから。

 ジュリは、邪気のない顔で笑う。

 エレナは、それ以上逆らえずに、ジュリに手を引かれるまま、部屋を出た。


 だが、カレンの部屋で、みんなでおいしいごはん、という計画は実現しなかった。


 ――どうして、一日のうちに、一番見たくない人間を二度も見なくてはならないのか。


 エレナは、来なければよかったと心底後悔した。

 どうして、ルナがこの部屋にいるのか。


 ――いや、アズラエルと付き合っているのだから、カレンらと知り合いでもおかしくないだろう。


 カレンの部屋に入った途端、酔っぱらったカレンがルナの膝枕で寝っ転がっているのを見て、ジュリが大泣きしてわめいた。

 あたしの王子様を取らないで! と絶叫し、ルナを突き飛ばした。小さなこどもは、あっけなく突き飛ばされ、家具にぶつかって気絶。

 ルナが気絶して動かなくなると、ジュリが今度は「殺してしまった!」と泣きわめきだした。


 まったく、うるさいやつだ。


 カレンもすっかり酔いがさめ、エレナと一緒にジュリをなだめる作業にかかった。


 ジュリが落ち着くころには、エレナはすっかりくたびれ果てていた。

 すきっ腹過ぎてふらふらしたし、グレンが大切そうにルナを抱き上げているのも、神経に触った。

 気分は、かつてないほど最悪だった。


 ――そんな最悪の今日が、自分の運命の相手との出会いの日だとは。


 エレナは、予想すらしていなかったし、ずっとあとになるまで、それこそばあさんになるまで、それを認めなかった。


 ジュリはカレンにキスされて、やっと静まった。

 エレナは、それを見ているのもバカらしく、「……じゃ、あたしは帰るよ」と言って立ち上がった。


「待ちなよエレナ」


 あんた顔色悪い、なにか食っていきなよ、とカレンが呼び止めるが、エレナは弱弱しく首を振って帰ろうとした。


 ひどくくたびれていた。心身ともに、限界だ。


 これ以上ここにいたら、アズラエルの時のように吐いてしまい、ここにいるみんなにもバレてしまいそうで怖かった。


「ちょ、ちょっと待って!」


 呼び止められて、無意識に振り返る。

 エレナが、一度も見たことがない男がいた。


 金髪で、少し長い髪はワックスでセットされているが、ライオンの鬣みたいだ。着ている服も、洒落ていた。ひとめで、L5系から来たとわかる、裕福でセンスのいい身なり。体格はグレンほどよくはなかったが、背は高い。

 L5系の身なりと、手指や首にジャラジャラとアクセサリーをつけた派手なルックス。


 エレナは、ロミオを思い出して吐き気がした。


「お、俺はその、ルートヴィヒって言うんだけど……」


 ルートヴィヒ? 

 ああ、グレンの同乗者か。名前だけは聞いていた。

 こんなに派手なヤツだったとは。


「あの、お、俺と付き合ってください!!」


 ルートヴィヒが、エレナの両手を握って叫んだ。


 一瞬にして、周囲は静かになった。顔を真っ赤にさせたルートヴィヒのところだけ温度が上がっているようだ。カレンもジュリも、セルゲイも、グレンでさえ目を丸くしてこちらを眺めていた。


 ――エレナは、言われたことを理解するまで、だいぶ時間がかかった。


 手が痛い。ものすごい力で握りしめられている。


「お離しよ!!」


 怒鳴ると、男は大きな犬が叱られたようにしゅんとして、「ご、ごめん」と手を放した。

 男からは酒のにおいがした。そのむっとする臭いに、かるく吐き気がこみ上げる。


 なんなのだ、いきなり。

 こっちが娼婦だと知って、言っているのか?


 酒が入って、いい気分なのだろうが、こちらは史上最悪だ。

 ジュリとカレンがキスをして、グレンがルナを可愛がっているのを見て、自分も彼女が欲しくなったのだろうか。


 エレナは苛立って、無言で背を向けて帰ろうとした。


「ちょ、ちょっと待って!」


 エレナがドアを開けて外の廊下へ出ると、なんとルートヴィヒまで出てくる。

 どうして追いかけられるのか分からず、エレナは怖くなった。


 なぜ、だれも止めないのだ。


 エレナは足早に部屋を出、マンションのエレベーターの前を通り過ぎた。エレベーターを待っている時間はない。階段を駆け下りた。


 まだ、追いかけてくる。

 ほんとうに、今日は最悪だ。来るんじゃなかった。


「ま、待ってよ、頼むから――!」


 あと三段、というところで、エレナは足を踏み外した。


「あっ!」

(……いった)


 左足が、ひどく傷んだ。立ち上がれない。無意識に腹をかばったせいで、変な転び方をしたのだ。


「大丈夫!?」


 ルートヴィヒが追いついたが、エレナは無視した。ルートヴィヒは、ショックを隠せない顔で、立ちすくんだ。


「……あ、足、ケガしたのか?」


 触れたいのだが、それをしたら怒られるだろうかと、逡巡(しゅんじゅん)している様子だ。


 そうこうしているうち、セルゲイをはじめ、ルナ以外の全員が駆けつけてきた。


「だいじょうぶエレナ!」

「おま、なにやってんだルーイ」

「お、俺……なにもしてねえよ」

「足をくじいたんだね。病院に行こう」


 セルゲイにひょいと抱きかかえられ、エレナは蒼白になった。

 病院は、ダメだ。いま、病院なんか行ったら――!


「だ、だいじょうぶ! だいじょうぶだよセルゲイ先生! 降ろしとくれ!」


 エレナは暴れた。その暴れようにセルゲイも驚いて、エレナを降ろした。


「……歩けるかい?」

「あ、歩ける。だいじょうぶ、だいじょうぶだから、」


 セルゲイが支えようとするのも遮って、エレナはゆっくりと、階段を下りた。次の階で、エレベーターに乗るからと言って。


「おいルーイ、送ってってやれよ」


 グレンの余計なセリフに、エレナは怒鳴った。


「そいつだけは寄越さないでおくれ! そいつのせいでケガしたんだからね!」


 ルートヴィヒが、傷ついた顔をする。エレナはそれ以上ルートヴィヒを見ていたくなくて、足を引きずりながら、なるべく早く、階段を下りた。


 ――踏んだり、蹴ったりだ。


 エレナは、腹を押さえていた。自分でも気づかない所作で。


 セルゲイが、見逃すはずもなかった。





 エレナは、ちゃんとタクシーに乗った。セルゲイが、それを見届けた。

 セルゲイは、近くのコンビニにルートヴィヒを誘った。


「明日の、ルナちゃんのご飯、楽しみだね」

「……」


 セルゲイの言葉に、ルートヴィヒは曖昧(あいまい)にうなずいた。すっかりこの大型犬は、落ち込んでいた。


 たしかに酔っぱらっていたし、初対面でいきなり付き合ってくださいもなかったろうが、あそこまで拒絶されるとは思わなくて、ルートヴィヒはたいそう傷ついた。


 この宇宙船で運命の相手が見つかるなんて、嘘だろう。

 あ、嘘じゃないかもしれない。見つかることは見つかるけど、拒絶はされない、なんてだれも言っていないしな。


 ルートヴィヒは、しおれた大型犬の顔で夜空を仰いだ。


 自分の母親と同じ名で、同じ境遇の女の子が目の前に現れて、その子が超好みだったら、どうしますか?


 ルートヴィヒは自問自答し、最終的に「エレナ可愛いなあ……」に落ち着いた。


 ルートヴィヒも、もうずっと前からエレナのことは聞いていた、けれど、そもそもこれまで、ルートヴィヒのほうがエレナを避けていたのだ。なるべく、会わないようにと。


 ラガーにはなるべく行かなかったし――ラガーは、もともとルートヴィヒには合わない場所ではあったが――グレンには、この部屋にエレナを連れてくるなと念押ししていた。ジュリがいきなり飛び込んできたのは予想外だったけれど。


 自分の母親と同じ名で、同じL44の出身――なんとなく気味が悪かったし、ジュリの印象があまりよくなかったせいで、ルートヴィヒは、エレナにもあまり会いたくなかった。


 ジュリはあのとおり男好きで、カレンと付き合っているのにルートヴィヒにまで色目をつかう。


 ルートヴィヒもナンパは好きだし、気が合えばその日のうちに寝て付き合うこともあった。ガチガチに硬派を気取るつもりはないが、基本的に浮気のできないルートヴィヒは、ジュリのそれが仕方ないとは思っていても、気分はよくなかった。


 相棒の第一印象がこのとおりだったため、エレナのこともいい印象は持っていなかったが、グレンが「いい女だぞ。可愛いし」と手放しで誉めるので、ちょっと見てみたい気もしたが、やはり会いたくはなかった。


 でも。

 今日初めて姿を見て、ルートヴィヒは完全にオチた。


 長い、綺麗な黒髪で、線が細くて。気の強そうな、きつい大きな瞳。

 グレンからの話によると、意地っ張りで、強がりで、――ちょっと世間知らずで、それをつつくと顔を真っ赤にして怒る。アイツはネコだ、とグレンが言っていた。

 用心深くてなかなか懐かない、野良ネコだと。


 ルートヴィヒの好みそのままの女の子が、まさか、めのまえに現れるなんて。

 自分の母親と同じ境遇と、名を持って――。


「やっぱ、エレナはアズラエルがいいのかなあ」


 ためいきに乗せてつぶやく。

 自分が、グレンくらい強気に出れたなら、よかったのだろうか。

 ちょっとくらい強引に行っても――いや。

 あのツンデレネコちゃんは、グレンのイジワルにドン引き気味。グレンが自分でそう言っていた。だがグレンは過度な反応を返されるほど、苛めたくなってしまうタチの悪い性格をしている。


 俺も、昔っからグレンにさんざん突かれてきたからなあ。

 ルートヴィヒはため息をつく。

 俺とエレナで、「グレン被害者の会」でも作ろうか。


 悶々(もんもん)と、つぶやきながら歩いていると、セルゲイが爆弾発言を投下した。


「ルーイ、エレナちゃんは、もしかしたら妊娠してるのかもしれないねえ」

「はあ!?」


 ルーイは、深夜というのに近所迷惑もかえりみず、でかい声をだし、セルゲイにたしなめられた。


 青天の霹靂(へきれき)だ。


 どうやってエレナと親しくなろうか、一生懸命画策していたルートヴィヒの頭に、氷河が激突した感じだった。


「ご、ごめん――でも、な、なんでそんなことわかったんだよ」

「顔色は悪いし、ジュリちゃん曰く、エレナちゃんは最近、ぜんぜん食べてないんだって。カレンとグレンが、エレナちゃんちに遊びに行ったときのことを聞いてもね――吐き気に食欲減退――つわりかもしれない。さっき、おなかを押さえていたしね」


 さっきまでのエレナの様子を思い出し、心当たりがなくもなくて、凍った。エレナは、階段で変な転び方をした。……腹をかばって。


 ルートヴィヒは、なんとか笑うのに成功した。


「――なんか、悪いモン食ったんじゃねえの?」

「案外、そうかもしれないね」

「……。……に、に、に、妊娠って――」

「エレナちゃんが宇宙船に乗ったのは八月の半ば。今日は十一月二十一日。……宇宙船に乗る前かも」


 ルートヴィヒが、歩むのをやめた。悄然(しょうぜん)と肩を落としている。


「エレナちゃんの職業を考えればさ。そういう可能性もなくはないでしょ」

「それはさ……そう、だよ……な」


 自分の母親が娼婦だったから、わかる。

 ルートヴィヒの母エレナも、一度堕胎(だたい)したことがあるのだ。遊郭時代に。


 ルートヴィヒは、たしかにセバスチアンと、ルートヴィヒの母、エレナの子だった。だが昔、セバスチアンの家の口さがない親戚連中に、ルートヴィヒは「どこの馬の骨ともしれない男の子ども」だと、陰口を叩かれたこともあった。エレナが娼婦だったから。


 どこからどう見ても、ルートヴィヒはセバスチアンそっくりなのに。


 学校のともだちにも、娼婦の子、と苛められたこともある。グレンがL18に行くまでは、そういう連中はグレンが片っ端から殴り倒していた。


「エレナは、彼氏とか……いないんだろ?」


 アズラエルが好きで、追いかけているとは聞いたが。


「うーん、聞いていないね。エレナちゃんはだれとも付き合ってはいないはずだよ」


 だとしたら、相手は、遊郭時代の、知らない相手。

 ルートヴィヒはショックだったが、相手はエレナの恋人などではない。すこし安心している自分がいる。そんなことを考える自分が嫌になって、髪をかきむしりたい衝動に駆られた。

 今、一番つらいのはエレナだろう。


「エレナ――産む気なのかな」


 ルートヴィヒは、立ちすくんだままぼそっと言った。


「悩んでいるのかもしれないよ」

 セルゲイは、白い息を吐いた。

「さっき、病院に行きたくないと駄々をこねたのも、そのせいかもしれない。産むのか、産みたくないのか分からないけれど、エレナちゃんなりに今、とても悩んでいて――私たちにも言えない理由があるんだと思うよ」


「……」


「だから、このことは、私とルーイの間だけの、秘密だよ。グレンやカレンにも言っちゃだめだ。あのふたりは、おせっかい焼きだすからね。エレナちゃんが言うまで、だまっていよう。だまっていても、おなかが出てきちゃえば、どうしたってバレてしまうから」


 でも食事だけは、ちゃんと取らせなきゃダメだなあ、とセルゲイは独り言のようにぼやいた。

 セルゲイは、エレナがおろすかもしれない、ということは考えないのだろうか。

 ルートヴィヒは、思った。

 この宇宙船は、子どもを育てるのに最適な環境なのだ。エレナはそれを知っているだろうか。


「せっかく好きな子が見つかったのに、水を差すのは悪いと思ったけどね。妊娠している女性は、すごく神経過敏になるものだよ。ルーイ」


 ルートヴィヒは、決まり悪げにポリポリと顎を掻いた。


「……明日、謝りに行くよ」

 で、ともだちから始めてもらう、とルートヴィヒはつぶやく。


 セルゲイは、「驚いた。エレナちゃんをあきらめるわけじゃないんだね」と目を見張った。


「なんでだよ。俺、エレナを支えるぜ? エレナが産むにしろなんにしろ。男の俺が代わりに産んでやることはできねえけどさ」

 言いかけて、笑う。

「あ、セルゲイせんせはさ、まだ運命の相手がいねーからわかんねーんだよ。ンなカンタンに、引けるよーな相手は、ちがうんだって」


 こう、運命の相手を見た衝撃ってのはさ、こうばーんと、ぼーんと。

 心臓のところにさ、隕石落ちたみたいなショックが来るんだよ。


 ルートヴィヒは、コンビニに着くまで、ぼーんとかばーんとか、ばばんとか、えんえんと繰り返していた。


 セルゲイは、それをにこにこしながら聞いていた。





 エレナは、布団にくるまったまま、目が覚めた。


 昼を過ぎていた――そんなに、寝ていたのか。

 外は晴れていたが、寒い。


 この先もっと寒くなると言っていたから、電気代節約のために、せめて今年はヒーターを我慢しようと心に決めていたエレナだったが、この寒さには敵わない。


 きのう捻った足は、大して痛まなかった。そんなにひどく、くじかなかったのかもしれない。


 リモコンのどのボタンを押せばヒーターがつくのか分からず、あちこち押してみた。冷風が吹いてきて、エレナは悲鳴を上げ、赤いボタンを押した。すると、やっとぬるい風が吹いてくる。


 エレナは毛布にくるまりながら着替えた。コートは買ったが、夏に買ったワンピースでは寒すぎる。

 着物を引っ張り出してきて着替えた。まだましだが、これも夏用だ。


 L44の居住区は、比較的年間を通して温暖な気候で、雪は降らない。降ってもちらつくだけだ。

 雪の降る冬というのが、こんなに寒いとは。


 もっと生地の厚い、冬用の服を買ってこなければ。それより、ジュリのピルを。

 ……物入りなことだ、なにかと。


 あまりに腹が減ったので、エレナは、インスタントラーメンを探した。あれは、お湯を入れるだけで、温かい汁が飲める。温かいものがエレナは欲しかった。

 探したが、ラーメンはない。しかたなく、エレナは湯を沸かし、砂糖をたっぷり入れて飲んだ。やっと人心地がついた。でも、空腹はおさまらない。冷蔵庫からうどんの袋をだし、煮る気にもなれなくて、生のままかじりだした。ベッドに腰掛けて、ぼうっと外を眺めながら。


「……!」


 エレナは、戦慄した。

 窓の外――アパートの下に、昨日の金髪男がいるではないか。

 ウロウロしながら、こちらを見上げ、様子を伺っている。


 エレナは、あわてて隠れた。

 どうして、ここがわかったのだ。


 エレナは震えた。


 どうしてうちまで来たのだ。あれだけきつく拒絶したはずなのに。


 ロミオが、あの若者たちが、この部屋に来たときの記憶が急によみがえり、エレナは恐慌状態に(おちい)った。


 極度の空腹と、体調不良と妊娠で、エレナの精神状態は、最悪だった。


 いやだ。もういやだ。

 だれとも、寝たくない。


 恐怖に駆られたエレナは、這いつくばりながら電話にしがみつき、半泣きでマックスに電話していた。


「マックスさん、マックスさん、助けて……! 外に変な男がいるんだよ……!!」


 電話の効果はてき面だった。

 十分もしないうちに警察車両が来て、いったい何が起こったか分からずあわてているルートヴィヒを乗せて去っていった。


「エレナさん! 大丈夫ですか!」


 マックスが来て、布団をかぶってガタガタ震えているエレナも、中央役所に連れて行かれた。


 エレナが冷静にならなければ、その場で救急車を呼ばれ、病院に直行しているところだった。マックスは、エレナの痩せ細った様子を見て、病院に行かねばならないと決断したが、エレナが頑強に反対した。


 結果。


 エレナは病院には行かず、中央役所で、マックスとチャン――以前、L44の宇宙港で会ったが、エレナは気づかなかった――と、ルートヴィヒとグレンと、応接室で向かいあうことになった。


「……では、この件は、解決ということでよろしいですね」


 チャンが、相変わらずの冷徹な声でそう言った。チャンは、グレンとルートヴィヒの担当役員だったのだ。


「エレナさんが不審者と勘違いした男性は、グレンさんの同乗者で、エレナさんに謝罪しに訪れていたそうです」


 チャンの言葉に、エレナは、小さくうなずいた。

 そして、小声で謝った。自分も軽率すぎたと。びっくりして、思わずマックスに電話してしまったが、冷静な頭に返れば、そこまでするほどのことではない。べつに、部屋に押しかけられたわけではなかった――まだ。

 ルートヴィヒは花束を持ってきていたし、エレナに、平謝りに謝っているのが、逆に哀れになるくらいだった。


 グレンも、苦りきった顔で二人を見下ろしている。

 さっきまで、グレンが嫌というほど、周囲に説明した。


 ルートヴィヒは、きのうエレナを怒らせたことを謝るために出向いたのだと。

 俺もついて行かなかったのは悪かった。エレナを驚かせたことは、謝る、と。

 それはまぎれもなくほんとうだったし、ルートヴィヒのしょぼくれた犬のような顔がそれを証明していた。

 結局エレナの早とちりということで、ルートヴィヒは宇宙船を降ろされずに済み、話は終わった。


 マックスは、こっそり、エレナは以前、部屋に不法侵入を受けたことがあると、そう説明した。そのせいで、とても怖がっているのだと。


 チャンは肩をすくめ、「……そうでしたか」と眼鏡を押し上げた。


 グレンもルートヴィヒも、そんなことは知らない。マックスは、具体的な話はしなかったが、しなかったことが、逆にふたりにそれがとても言い難い内容なのだと悟らせた。


 ルートヴィヒは青ざめて、「……ごめん」と再びつぶやき、グレンは舌打ちした。いますぐにでも彼は、エレナがそんな目に遭った経緯を聞き、元凶を殴り倒すか宇宙船からたたき出すかしたかったが、今はできない。

 エレナを、なんとかするのが先だ。


(コイツ、すっかり顔色悪くなりやがって、病気じゃねえのか)


 ――あたしってば、なんてバカなことを。


 当のエレナ本人は、まるで周囲の話が耳に入ってこない。腹がすきすぎて、考えもろくにまとまらなかった。ぼうっとして、役所の応接室を出た。


「エレナ、ちょっと一緒に来い」


 応接室を出ると、グレンが怒りを押し殺した声で、そういった。その声の不穏さに、ルートヴィヒもチャンも、立ち止まった。

 いまは、グレンに付き合っている余裕がない。早く家へ帰って、うどんをかじりたい。


「悪いね。今日は気分がすぐれないからこのまま帰るよ」


 いい加減にしろとグレンは怒鳴りたかった。

 自分が、どんな状態なのか分かって言っているのか。


 グレンが乱暴にエレナの腕をつかんだ。


「い、痛いじゃないか……! 離してよ!」

「グレンさん、いけません」


 チャンが、冷静な声で止めたが、グレンは無視した。

 何をそんなに怒っているのだ。謝ったではないか。エレナは、グレンの怒りの理由を勘違いした。それが、グレンの苛立ちに火をつけた。


「悪かったよ、あんたの相棒を宇宙船から降ろすとこだっ――」


「エレナっ!!」

 一喝する。


 廊下の端まで響き渡るような元少佐の一喝に、エレナだけでなくルートヴィヒまでビクリと怯んだ。


「……グレンさん、どうか、穏やかに」


 マックスの、落ち着いた声がする。エレナは半泣きになってマックスを見たが。


「家に帰ってなにを食う気だ。ちゃんと食い物はあるんだろうな?」

「……」

「おまえが明日の朝、餓死(がし)死体で発見されたなんて、後味の悪い連絡は聞きたくねえぞ」

「グレンさん」


 マックスが再度、グレンを止めようとしたが、止められなかった。グレンはエレナを抱き上げた。グレンを拒否して強張る体と、ますます軽くなったその体重に、ますます腹が立った。


「エレナにメシを食わせるだけだ。ここの食堂は、うまいんだろ」


 中央役所の一階にある食堂は、基本的に役員専用だが、役員でなくても入れる。

 グレンとマックスと、ルートヴィヒが、エレナがうどんを啜るのを、だまって眺めていた。


 三人の男に凝視されながら食事をするのは、普通なら居心地が悪いものだが、エレナは恐ろしく腹が減っていた。無我夢中でうどんを食べるエレナを、グレンは極度のしかめっ面で、ルートヴィヒは嬉しそうな顔で、マックスは、エレナが以前、金を持って現れたときと同じ顔で――じっと見守っていた。


 すっかりうどんを食べ終えると、エレナの頬にすこし赤みが差した。

 エレナは気づいていなかったが、だれもが尋常でないと感じるほど、エレナの顔はやつれていたのだ。

 グレンのさっきの言葉は、だれもが冗談にはとらえていなかった。


「いつから食ってねえんだ」


 グレンが、エレナに聞いた。睨んでいるつもりはなかったが、グレンはアズラエルと同じく、もとの顔が怖すぎるのでしかたない。


「……」


 エレナがだまっていると、グレンの怒りが弾けた。バンっとテーブルを叩く。

 エレナの肩が、怯えて揺れた。

 周囲の視線が集まる。


「おい、グレン落ち着けよ」


 ルートヴィヒが止めたが、グレンはガタン! と椅子を蹴飛ばして立ち上がった。


「ああ分かったよ、俺がいると、言いたいことも言えねえか。ならいい。俺は帰る。もう用は済んだからな!」


 そういって、ジャケットをひっかけて荒々しく食堂を出て行った。

 それを眺めて、ルートヴィヒも立った。エレナと少しでも一緒にいたかったが、エレナの自分に対する印象は今のところよくない。自分がいては、ほんとうに話したいことも話せまい。今日は引き下がろう。


「エ、エレナ……」


 エレナを見たが、エレナは視線すら返してくれなかった。


「あの……、今日はほんとゴメン。びっくりさせて悪かったけど、俺、エレナと仲良くなりたいんだ。ひとりで来てほんとうにごめん。今度はちゃんと、カレンやセルゲイと一緒に会おう――その、もし、許してくれるなら」


 うどんが好きなら、うどんのうまい店に連れてく。俺探しておくから、と妙に明るい声で言い、それから、言おうかどうしようか、迷っている調子で付け加えた。


「あの――俺もグレンも、ほんとうにエレナが嫌なら、もう会うのはやめるよ。でも、できるなら、俺たちを信じてほしい。エレナが嫌だって思うことは絶対しないから。もし会ってくれるなら、ひと気のあるところにしよう。グレンも、短気で乱暴だけどさ、エレナを心配してんだ。アイツ、そういうの素直に出せないヤツだから……」


 エレナからの返事はない。

 ルートヴィヒは、「じゃ」とマックスにも礼をして去っていく。こっそりと、エレナのレシートを持って。


「――エレナさん」


 マックスの、静かな声がした。エレナは、はっと顔を上げた。


「どこか、体調が悪いんですか」

「え? い、いや――」


 エレナは、心ここにあらずと言った顔だ。


「……ずいぶん、痩せましたね」


 エレナは、うつむいたまま答えない。もとから丈夫とは言えない体つきだったが、ますます細くなったようだ。顔色も悪い。


「病院には?」

「えっ? あ、いや、たいしたことないさ、食欲ないだけ」


 エレナは明るく笑おうと試みたが、元気のなさは隠せなかった。


「エレナさん――」

「あ、あのさ、マックスさん」


 エレナが、決心したように、マックスの目を見つめて言った。


「あの――ダメだったらいいんだけど、教えてくれないかな。この宇宙船に乗ってるL44出のひとって、あたしとジュリだけかい?」


 エレナは、自室の布団にもぐったまま、マックスのくれたメモを眺めていた。


 何時間そうしていただろう。やがて腹が減ったので、真っ暗闇の中を起きて、部屋の電気をつけ、湯を沸かした。役所からの帰り際に、インスタントのうどんを大量に買ってきておいた。


 湯が沸く数分のあいだ、またメモを見る。ずっと今日は、そのくりかえしだった。


 メモには、ふたりの女性の名前と写真、連絡先と住んでいる区画と、簡単な地図。

 一人は高級娼婦のララという女性で、彼女は知人の芸術家と一緒に乗った。もうひとりは、もとL44の娼婦。息子と一緒に乗っている。


 ふと気づいたのだ。同じL44出の娼婦なら、もしかしたら同郷のよしみで相談に乗ってくれるかもしれないと。片方が子持ちだということも、エレナに希望を与えた。


 妊娠してしまったら、やはりおろすしかないのか。産むことはできないのだろうか。


 もしかしたら、なにかいい方法が見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。でもダメもとだ。


 エレナは、会いに行ってみようと決めた。



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