番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 7
「エレナ、エレナ……! 起きて。起きてよ」
エレナはジュリに揺り起こされた。外は、真っ暗になっている。もう夜か。
ジュリは、ジャックのもとへ行ったのでは。
「ね、ね、一緒に、カレンの部屋に遊びにいこ」
「……あんた一人で行けばいいじゃないか。あたしは寝るよ」
そんな気分ではない。
「エレナ、今日なにも食べてないでしょ」
弁当は、手付かずのままだった。
「それに、あたしをひとりでカレンのとこにやって、あたしがしゃべっちゃったらどうするの」
エレナはぎょっとして起き上がった。コイツは、いつからそんな脅すような口を利くようになった。
「エレナって、あたしがいないとき、……あんまり食べてないよね?」
最近痩せたよ、とジュリが言う。
エレナは詰まった。たしかに、一日、なにも食べないときもあった。このところ食欲が俄然と落ちていたし、今日もレモン水を飲んだだけで、なにも食べていない。でもまさか、ジュリがそんな心配をしているとは思わなかった。
「ダメだよ。もう、一人の身体じゃないんだから……」
ジュリから出てくる言葉に、エレナは驚いてなにも言い返せない。コイツは、あたしにおろさせたいのか、産ませたいのかどっちなんだ。
「あんた、なんなんだい。あたしにおろせって、言ったじゃないか」
「うん……」
ジュリはしょぼんとした。
「でも、でもね、もしかしたら、おろさなくてもいい方法がないかなって、あたしずっと考えてたの」
マックスさんに聞いてみない? ジュリがおそるおそる言ったが。
「バカかい!? 決まってんじゃないか!」
あの人のいい老人が、言いづらそうに「ダメですよ」という顔が、エレナには容易に想像できた。
「……そうだよね」
ジュリは、基本的にエレナのほうがえらいと思っているので、エレナの言うことには逆らわない。
「でも、でも、一緒に行こうよカレンのとこ」
「あたしは行かない」
「でも、あたし、セルゲイせんせがお医者さんだから、もしかしたら聞きたくなって、言っちゃうかもしれないよ」
このバカ娘! エレナは怒鳴りかけたが、ジュリがえへ、と笑ってエレナの手を取った。
「だから、一緒にいこ。みんな、エレナのこと心配してるよ。一緒に行って、みんなとごはん食べよ」
エレナがいたら、あたし言わないから。
ジュリは、邪気のない顔で笑う。
エレナは、それ以上逆らえずに、ジュリに手を引かれるまま、部屋を出た。
だが、カレンの部屋で、みんなでおいしいごはん、という計画は実現しなかった。
――どうして、一日のうちに、一番見たくない人間を二度も見なくてはならないのか。
エレナは、来なければよかったと心底後悔した。
どうして、ルナがこの部屋にいるのか。
――いや、アズラエルと付き合っているのだから、カレンらと知り合いでもおかしくないだろう。
カレンの部屋に入った途端、酔っぱらったカレンがルナの膝枕で寝っ転がっているのを見て、ジュリが大泣きしてわめいた。
あたしの王子様を取らないで! と絶叫し、ルナを突き飛ばした。小さなこどもは、あっけなく突き飛ばされ、家具にぶつかって気絶。
ルナが気絶して動かなくなると、ジュリが今度は「殺してしまった!」と泣きわめきだした。
まったく、うるさいやつだ。
カレンもすっかり酔いがさめ、エレナと一緒にジュリをなだめる作業にかかった。
ジュリが落ち着くころには、エレナはすっかりくたびれ果てていた。
すきっ腹過ぎてふらふらしたし、グレンが大切そうにルナを抱き上げているのも、神経に触った。
気分は、かつてないほど最悪だった。
――そんな最悪の今日が、自分の運命の相手との出会いの日だとは。
エレナは、予想すらしていなかったし、ずっとあとになるまで、それこそばあさんになるまで、それを認めなかった。
ジュリはカレンにキスされて、やっと静まった。
エレナは、それを見ているのもバカらしく、「……じゃ、あたしは帰るよ」と言って立ち上がった。
「待ちなよエレナ」
あんた顔色悪い、なにか食っていきなよ、とカレンが呼び止めるが、エレナは弱弱しく首を振って帰ろうとした。
ひどくくたびれていた。心身ともに、限界だ。
これ以上ここにいたら、アズラエルの時のように吐いてしまい、ここにいるみんなにもバレてしまいそうで怖かった。
「ちょ、ちょっと待って!」
呼び止められて、無意識に振り返る。
エレナが、一度も見たことがない男がいた。
金髪で、少し長い髪はワックスでセットされているが、ライオンの鬣みたいだ。着ている服も、洒落ていた。ひとめで、L5系から来たとわかる、裕福でセンスのいい身なり。体格はグレンほどよくはなかったが、背は高い。
L5系の身なりと、手指や首にジャラジャラとアクセサリーをつけた派手なルックス。
エレナは、ロミオを思い出して吐き気がした。
「お、俺はその、ルートヴィヒって言うんだけど……」
ルートヴィヒ?
ああ、グレンの同乗者か。名前だけは聞いていた。
こんなに派手なヤツだったとは。
「あの、お、俺と付き合ってください!!」
ルートヴィヒが、エレナの両手を握って叫んだ。
一瞬にして、周囲は静かになった。顔を真っ赤にさせたルートヴィヒのところだけ温度が上がっているようだ。カレンもジュリも、セルゲイも、グレンでさえ目を丸くしてこちらを眺めていた。
――エレナは、言われたことを理解するまで、だいぶ時間がかかった。
手が痛い。ものすごい力で握りしめられている。
「お離しよ!!」
怒鳴ると、男は大きな犬が叱られたようにしゅんとして、「ご、ごめん」と手を放した。
男からは酒のにおいがした。そのむっとする臭いに、かるく吐き気がこみ上げる。
なんなのだ、いきなり。
こっちが娼婦だと知って、言っているのか?
酒が入って、いい気分なのだろうが、こちらは史上最悪だ。
ジュリとカレンがキスをして、グレンがルナを可愛がっているのを見て、自分も彼女が欲しくなったのだろうか。
エレナは苛立って、無言で背を向けて帰ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
エレナがドアを開けて外の廊下へ出ると、なんとルートヴィヒまで出てくる。
どうして追いかけられるのか分からず、エレナは怖くなった。
なぜ、だれも止めないのだ。
エレナは足早に部屋を出、マンションのエレベーターの前を通り過ぎた。エレベーターを待っている時間はない。階段を駆け下りた。
まだ、追いかけてくる。
ほんとうに、今日は最悪だ。来るんじゃなかった。
「ま、待ってよ、頼むから――!」
あと三段、というところで、エレナは足を踏み外した。
「あっ!」
(……いった)
左足が、ひどく傷んだ。立ち上がれない。無意識に腹をかばったせいで、変な転び方をしたのだ。
「大丈夫!?」
ルートヴィヒが追いついたが、エレナは無視した。ルートヴィヒは、ショックを隠せない顔で、立ちすくんだ。
「……あ、足、ケガしたのか?」
触れたいのだが、それをしたら怒られるだろうかと、逡巡している様子だ。
そうこうしているうち、セルゲイをはじめ、ルナ以外の全員が駆けつけてきた。
「だいじょうぶエレナ!」
「おま、なにやってんだルーイ」
「お、俺……なにもしてねえよ」
「足をくじいたんだね。病院に行こう」
セルゲイにひょいと抱きかかえられ、エレナは蒼白になった。
病院は、ダメだ。いま、病院なんか行ったら――!
「だ、だいじょうぶ! だいじょうぶだよセルゲイ先生! 降ろしとくれ!」
エレナは暴れた。その暴れようにセルゲイも驚いて、エレナを降ろした。
「……歩けるかい?」
「あ、歩ける。だいじょうぶ、だいじょうぶだから、」
セルゲイが支えようとするのも遮って、エレナはゆっくりと、階段を下りた。次の階で、エレベーターに乗るからと言って。
「おいルーイ、送ってってやれよ」
グレンの余計なセリフに、エレナは怒鳴った。
「そいつだけは寄越さないでおくれ! そいつのせいでケガしたんだからね!」
ルートヴィヒが、傷ついた顔をする。エレナはそれ以上ルートヴィヒを見ていたくなくて、足を引きずりながら、なるべく早く、階段を下りた。
――踏んだり、蹴ったりだ。
エレナは、腹を押さえていた。自分でも気づかない所作で。
セルゲイが、見逃すはずもなかった。
エレナは、ちゃんとタクシーに乗った。セルゲイが、それを見届けた。
セルゲイは、近くのコンビニにルートヴィヒを誘った。
「明日の、ルナちゃんのご飯、楽しみだね」
「……」
セルゲイの言葉に、ルートヴィヒは曖昧にうなずいた。すっかりこの大型犬は、落ち込んでいた。
たしかに酔っぱらっていたし、初対面でいきなり付き合ってくださいもなかったろうが、あそこまで拒絶されるとは思わなくて、ルートヴィヒはたいそう傷ついた。
この宇宙船で運命の相手が見つかるなんて、嘘だろう。
あ、嘘じゃないかもしれない。見つかることは見つかるけど、拒絶はされない、なんてだれも言っていないしな。
ルートヴィヒは、しおれた大型犬の顔で夜空を仰いだ。
自分の母親と同じ名で、同じ境遇の女の子が目の前に現れて、その子が超好みだったら、どうしますか?
ルートヴィヒは自問自答し、最終的に「エレナ可愛いなあ……」に落ち着いた。
ルートヴィヒも、もうずっと前からエレナのことは聞いていた、けれど、そもそもこれまで、ルートヴィヒのほうがエレナを避けていたのだ。なるべく、会わないようにと。
ラガーにはなるべく行かなかったし――ラガーは、もともとルートヴィヒには合わない場所ではあったが――グレンには、この部屋にエレナを連れてくるなと念押ししていた。ジュリがいきなり飛び込んできたのは予想外だったけれど。
自分の母親と同じ名で、同じL44の出身――なんとなく気味が悪かったし、ジュリの印象があまりよくなかったせいで、ルートヴィヒは、エレナにもあまり会いたくなかった。
ジュリはあのとおり男好きで、カレンと付き合っているのにルートヴィヒにまで色目をつかう。
ルートヴィヒもナンパは好きだし、気が合えばその日のうちに寝て付き合うこともあった。ガチガチに硬派を気取るつもりはないが、基本的に浮気のできないルートヴィヒは、ジュリのそれが仕方ないとは思っていても、気分はよくなかった。
相棒の第一印象がこのとおりだったため、エレナのこともいい印象は持っていなかったが、グレンが「いい女だぞ。可愛いし」と手放しで誉めるので、ちょっと見てみたい気もしたが、やはり会いたくはなかった。
でも。
今日初めて姿を見て、ルートヴィヒは完全にオチた。
長い、綺麗な黒髪で、線が細くて。気の強そうな、きつい大きな瞳。
グレンからの話によると、意地っ張りで、強がりで、――ちょっと世間知らずで、それをつつくと顔を真っ赤にして怒る。アイツはネコだ、とグレンが言っていた。
用心深くてなかなか懐かない、野良ネコだと。
ルートヴィヒの好みそのままの女の子が、まさか、めのまえに現れるなんて。
自分の母親と同じ境遇と、名を持って――。
「やっぱ、エレナはアズラエルがいいのかなあ」
ためいきに乗せてつぶやく。
自分が、グレンくらい強気に出れたなら、よかったのだろうか。
ちょっとくらい強引に行っても――いや。
あのツンデレネコちゃんは、グレンのイジワルにドン引き気味。グレンが自分でそう言っていた。だがグレンは過度な反応を返されるほど、苛めたくなってしまうタチの悪い性格をしている。
俺も、昔っからグレンにさんざん突かれてきたからなあ。
ルートヴィヒはため息をつく。
俺とエレナで、「グレン被害者の会」でも作ろうか。
悶々と、つぶやきながら歩いていると、セルゲイが爆弾発言を投下した。
「ルーイ、エレナちゃんは、もしかしたら妊娠してるのかもしれないねえ」
「はあ!?」
ルーイは、深夜というのに近所迷惑もかえりみず、でかい声をだし、セルゲイにたしなめられた。
青天の霹靂だ。
どうやってエレナと親しくなろうか、一生懸命画策していたルートヴィヒの頭に、氷河が激突した感じだった。
「ご、ごめん――でも、な、なんでそんなことわかったんだよ」
「顔色は悪いし、ジュリちゃん曰く、エレナちゃんは最近、ぜんぜん食べてないんだって。カレンとグレンが、エレナちゃんちに遊びに行ったときのことを聞いてもね――吐き気に食欲減退――つわりかもしれない。さっき、おなかを押さえていたしね」
さっきまでのエレナの様子を思い出し、心当たりがなくもなくて、凍った。エレナは、階段で変な転び方をした。……腹をかばって。
ルートヴィヒは、なんとか笑うのに成功した。
「――なんか、悪いモン食ったんじゃねえの?」
「案外、そうかもしれないね」
「……。……に、に、に、妊娠って――」
「エレナちゃんが宇宙船に乗ったのは八月の半ば。今日は十一月二十一日。……宇宙船に乗る前かも」
ルートヴィヒが、歩むのをやめた。悄然と肩を落としている。
「エレナちゃんの職業を考えればさ。そういう可能性もなくはないでしょ」
「それはさ……そう、だよ……な」
自分の母親が娼婦だったから、わかる。
ルートヴィヒの母エレナも、一度堕胎したことがあるのだ。遊郭時代に。
ルートヴィヒは、たしかにセバスチアンと、ルートヴィヒの母、エレナの子だった。だが昔、セバスチアンの家の口さがない親戚連中に、ルートヴィヒは「どこの馬の骨ともしれない男の子ども」だと、陰口を叩かれたこともあった。エレナが娼婦だったから。
どこからどう見ても、ルートヴィヒはセバスチアンそっくりなのに。
学校のともだちにも、娼婦の子、と苛められたこともある。グレンがL18に行くまでは、そういう連中はグレンが片っ端から殴り倒していた。
「エレナは、彼氏とか……いないんだろ?」
アズラエルが好きで、追いかけているとは聞いたが。
「うーん、聞いていないね。エレナちゃんはだれとも付き合ってはいないはずだよ」
だとしたら、相手は、遊郭時代の、知らない相手。
ルートヴィヒはショックだったが、相手はエレナの恋人などではない。すこし安心している自分がいる。そんなことを考える自分が嫌になって、髪をかきむしりたい衝動に駆られた。
今、一番つらいのはエレナだろう。
「エレナ――産む気なのかな」
ルートヴィヒは、立ちすくんだままぼそっと言った。
「悩んでいるのかもしれないよ」
セルゲイは、白い息を吐いた。
「さっき、病院に行きたくないと駄々をこねたのも、そのせいかもしれない。産むのか、産みたくないのか分からないけれど、エレナちゃんなりに今、とても悩んでいて――私たちにも言えない理由があるんだと思うよ」
「……」
「だから、このことは、私とルーイの間だけの、秘密だよ。グレンやカレンにも言っちゃだめだ。あのふたりは、おせっかい焼きだすからね。エレナちゃんが言うまで、だまっていよう。だまっていても、おなかが出てきちゃえば、どうしたってバレてしまうから」
でも食事だけは、ちゃんと取らせなきゃダメだなあ、とセルゲイは独り言のようにぼやいた。
セルゲイは、エレナがおろすかもしれない、ということは考えないのだろうか。
ルートヴィヒは、思った。
この宇宙船は、子どもを育てるのに最適な環境なのだ。エレナはそれを知っているだろうか。
「せっかく好きな子が見つかったのに、水を差すのは悪いと思ったけどね。妊娠している女性は、すごく神経過敏になるものだよ。ルーイ」
ルートヴィヒは、決まり悪げにポリポリと顎を掻いた。
「……明日、謝りに行くよ」
で、ともだちから始めてもらう、とルートヴィヒはつぶやく。
セルゲイは、「驚いた。エレナちゃんをあきらめるわけじゃないんだね」と目を見張った。
「なんでだよ。俺、エレナを支えるぜ? エレナが産むにしろなんにしろ。男の俺が代わりに産んでやることはできねえけどさ」
言いかけて、笑う。
「あ、セルゲイせんせはさ、まだ運命の相手がいねーからわかんねーんだよ。ンなカンタンに、引けるよーな相手は、ちがうんだって」
こう、運命の相手を見た衝撃ってのはさ、こうばーんと、ぼーんと。
心臓のところにさ、隕石落ちたみたいなショックが来るんだよ。
ルートヴィヒは、コンビニに着くまで、ぼーんとかばーんとか、ばばんとか、えんえんと繰り返していた。
セルゲイは、それをにこにこしながら聞いていた。
エレナは、布団にくるまったまま、目が覚めた。
昼を過ぎていた――そんなに、寝ていたのか。
外は晴れていたが、寒い。
この先もっと寒くなると言っていたから、電気代節約のために、せめて今年はヒーターを我慢しようと心に決めていたエレナだったが、この寒さには敵わない。
きのう捻った足は、大して痛まなかった。そんなにひどく、くじかなかったのかもしれない。
リモコンのどのボタンを押せばヒーターがつくのか分からず、あちこち押してみた。冷風が吹いてきて、エレナは悲鳴を上げ、赤いボタンを押した。すると、やっとぬるい風が吹いてくる。
エレナは毛布にくるまりながら着替えた。コートは買ったが、夏に買ったワンピースでは寒すぎる。
着物を引っ張り出してきて着替えた。まだましだが、これも夏用だ。
L44の居住区は、比較的年間を通して温暖な気候で、雪は降らない。降ってもちらつくだけだ。
雪の降る冬というのが、こんなに寒いとは。
もっと生地の厚い、冬用の服を買ってこなければ。それより、ジュリのピルを。
……物入りなことだ、なにかと。
あまりに腹が減ったので、エレナは、インスタントラーメンを探した。あれは、お湯を入れるだけで、温かい汁が飲める。温かいものがエレナは欲しかった。
探したが、ラーメンはない。しかたなく、エレナは湯を沸かし、砂糖をたっぷり入れて飲んだ。やっと人心地がついた。でも、空腹はおさまらない。冷蔵庫からうどんの袋をだし、煮る気にもなれなくて、生のままかじりだした。ベッドに腰掛けて、ぼうっと外を眺めながら。
「……!」
エレナは、戦慄した。
窓の外――アパートの下に、昨日の金髪男がいるではないか。
ウロウロしながら、こちらを見上げ、様子を伺っている。
エレナは、あわてて隠れた。
どうして、ここがわかったのだ。
エレナは震えた。
どうしてうちまで来たのだ。あれだけきつく拒絶したはずなのに。
ロミオが、あの若者たちが、この部屋に来たときの記憶が急によみがえり、エレナは恐慌状態に陥った。
極度の空腹と、体調不良と妊娠で、エレナの精神状態は、最悪だった。
いやだ。もういやだ。
だれとも、寝たくない。
恐怖に駆られたエレナは、這いつくばりながら電話にしがみつき、半泣きでマックスに電話していた。
「マックスさん、マックスさん、助けて……! 外に変な男がいるんだよ……!!」
電話の効果はてき面だった。
十分もしないうちに警察車両が来て、いったい何が起こったか分からずあわてているルートヴィヒを乗せて去っていった。
「エレナさん! 大丈夫ですか!」
マックスが来て、布団をかぶってガタガタ震えているエレナも、中央役所に連れて行かれた。
エレナが冷静にならなければ、その場で救急車を呼ばれ、病院に直行しているところだった。マックスは、エレナの痩せ細った様子を見て、病院に行かねばならないと決断したが、エレナが頑強に反対した。
結果。
エレナは病院には行かず、中央役所で、マックスとチャン――以前、L44の宇宙港で会ったが、エレナは気づかなかった――と、ルートヴィヒとグレンと、応接室で向かいあうことになった。
「……では、この件は、解決ということでよろしいですね」
チャンが、相変わらずの冷徹な声でそう言った。チャンは、グレンとルートヴィヒの担当役員だったのだ。
「エレナさんが不審者と勘違いした男性は、グレンさんの同乗者で、エレナさんに謝罪しに訪れていたそうです」
チャンの言葉に、エレナは、小さくうなずいた。
そして、小声で謝った。自分も軽率すぎたと。びっくりして、思わずマックスに電話してしまったが、冷静な頭に返れば、そこまでするほどのことではない。べつに、部屋に押しかけられたわけではなかった――まだ。
ルートヴィヒは花束を持ってきていたし、エレナに、平謝りに謝っているのが、逆に哀れになるくらいだった。
グレンも、苦りきった顔で二人を見下ろしている。
さっきまで、グレンが嫌というほど、周囲に説明した。
ルートヴィヒは、きのうエレナを怒らせたことを謝るために出向いたのだと。
俺もついて行かなかったのは悪かった。エレナを驚かせたことは、謝る、と。
それはまぎれもなくほんとうだったし、ルートヴィヒのしょぼくれた犬のような顔がそれを証明していた。
結局エレナの早とちりということで、ルートヴィヒは宇宙船を降ろされずに済み、話は終わった。
マックスは、こっそり、エレナは以前、部屋に不法侵入を受けたことがあると、そう説明した。そのせいで、とても怖がっているのだと。
チャンは肩をすくめ、「……そうでしたか」と眼鏡を押し上げた。
グレンもルートヴィヒも、そんなことは知らない。マックスは、具体的な話はしなかったが、しなかったことが、逆にふたりにそれがとても言い難い内容なのだと悟らせた。
ルートヴィヒは青ざめて、「……ごめん」と再びつぶやき、グレンは舌打ちした。いますぐにでも彼は、エレナがそんな目に遭った経緯を聞き、元凶を殴り倒すか宇宙船からたたき出すかしたかったが、今はできない。
エレナを、なんとかするのが先だ。
(コイツ、すっかり顔色悪くなりやがって、病気じゃねえのか)
――あたしってば、なんてバカなことを。
当のエレナ本人は、まるで周囲の話が耳に入ってこない。腹がすきすぎて、考えもろくにまとまらなかった。ぼうっとして、役所の応接室を出た。
「エレナ、ちょっと一緒に来い」
応接室を出ると、グレンが怒りを押し殺した声で、そういった。その声の不穏さに、ルートヴィヒもチャンも、立ち止まった。
いまは、グレンに付き合っている余裕がない。早く家へ帰って、うどんをかじりたい。
「悪いね。今日は気分がすぐれないからこのまま帰るよ」
いい加減にしろとグレンは怒鳴りたかった。
自分が、どんな状態なのか分かって言っているのか。
グレンが乱暴にエレナの腕をつかんだ。
「い、痛いじゃないか……! 離してよ!」
「グレンさん、いけません」
チャンが、冷静な声で止めたが、グレンは無視した。
何をそんなに怒っているのだ。謝ったではないか。エレナは、グレンの怒りの理由を勘違いした。それが、グレンの苛立ちに火をつけた。
「悪かったよ、あんたの相棒を宇宙船から降ろすとこだっ――」
「エレナっ!!」
一喝する。
廊下の端まで響き渡るような元少佐の一喝に、エレナだけでなくルートヴィヒまでビクリと怯んだ。
「……グレンさん、どうか、穏やかに」
マックスの、落ち着いた声がする。エレナは半泣きになってマックスを見たが。
「家に帰ってなにを食う気だ。ちゃんと食い物はあるんだろうな?」
「……」
「おまえが明日の朝、餓死死体で発見されたなんて、後味の悪い連絡は聞きたくねえぞ」
「グレンさん」
マックスが再度、グレンを止めようとしたが、止められなかった。グレンはエレナを抱き上げた。グレンを拒否して強張る体と、ますます軽くなったその体重に、ますます腹が立った。
「エレナにメシを食わせるだけだ。ここの食堂は、うまいんだろ」
中央役所の一階にある食堂は、基本的に役員専用だが、役員でなくても入れる。
グレンとマックスと、ルートヴィヒが、エレナがうどんを啜るのを、だまって眺めていた。
三人の男に凝視されながら食事をするのは、普通なら居心地が悪いものだが、エレナは恐ろしく腹が減っていた。無我夢中でうどんを食べるエレナを、グレンは極度のしかめっ面で、ルートヴィヒは嬉しそうな顔で、マックスは、エレナが以前、金を持って現れたときと同じ顔で――じっと見守っていた。
すっかりうどんを食べ終えると、エレナの頬にすこし赤みが差した。
エレナは気づいていなかったが、だれもが尋常でないと感じるほど、エレナの顔はやつれていたのだ。
グレンのさっきの言葉は、だれもが冗談にはとらえていなかった。
「いつから食ってねえんだ」
グレンが、エレナに聞いた。睨んでいるつもりはなかったが、グレンはアズラエルと同じく、もとの顔が怖すぎるのでしかたない。
「……」
エレナがだまっていると、グレンの怒りが弾けた。バンっとテーブルを叩く。
エレナの肩が、怯えて揺れた。
周囲の視線が集まる。
「おい、グレン落ち着けよ」
ルートヴィヒが止めたが、グレンはガタン! と椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「ああ分かったよ、俺がいると、言いたいことも言えねえか。ならいい。俺は帰る。もう用は済んだからな!」
そういって、ジャケットをひっかけて荒々しく食堂を出て行った。
それを眺めて、ルートヴィヒも立った。エレナと少しでも一緒にいたかったが、エレナの自分に対する印象は今のところよくない。自分がいては、ほんとうに話したいことも話せまい。今日は引き下がろう。
「エ、エレナ……」
エレナを見たが、エレナは視線すら返してくれなかった。
「あの……、今日はほんとゴメン。びっくりさせて悪かったけど、俺、エレナと仲良くなりたいんだ。ひとりで来てほんとうにごめん。今度はちゃんと、カレンやセルゲイと一緒に会おう――その、もし、許してくれるなら」
うどんが好きなら、うどんのうまい店に連れてく。俺探しておくから、と妙に明るい声で言い、それから、言おうかどうしようか、迷っている調子で付け加えた。
「あの――俺もグレンも、ほんとうにエレナが嫌なら、もう会うのはやめるよ。でも、できるなら、俺たちを信じてほしい。エレナが嫌だって思うことは絶対しないから。もし会ってくれるなら、ひと気のあるところにしよう。グレンも、短気で乱暴だけどさ、エレナを心配してんだ。アイツ、そういうの素直に出せないヤツだから……」
エレナからの返事はない。
ルートヴィヒは、「じゃ」とマックスにも礼をして去っていく。こっそりと、エレナのレシートを持って。
「――エレナさん」
マックスの、静かな声がした。エレナは、はっと顔を上げた。
「どこか、体調が悪いんですか」
「え? い、いや――」
エレナは、心ここにあらずと言った顔だ。
「……ずいぶん、痩せましたね」
エレナは、うつむいたまま答えない。もとから丈夫とは言えない体つきだったが、ますます細くなったようだ。顔色も悪い。
「病院には?」
「えっ? あ、いや、たいしたことないさ、食欲ないだけ」
エレナは明るく笑おうと試みたが、元気のなさは隠せなかった。
「エレナさん――」
「あ、あのさ、マックスさん」
エレナが、決心したように、マックスの目を見つめて言った。
「あの――ダメだったらいいんだけど、教えてくれないかな。この宇宙船に乗ってるL44出のひとって、あたしとジュリだけかい?」
エレナは、自室の布団にもぐったまま、マックスのくれたメモを眺めていた。
何時間そうしていただろう。やがて腹が減ったので、真っ暗闇の中を起きて、部屋の電気をつけ、湯を沸かした。役所からの帰り際に、インスタントのうどんを大量に買ってきておいた。
湯が沸く数分のあいだ、またメモを見る。ずっと今日は、そのくりかえしだった。
メモには、ふたりの女性の名前と写真、連絡先と住んでいる区画と、簡単な地図。
一人は高級娼婦のララという女性で、彼女は知人の芸術家と一緒に乗った。もうひとりは、もとL44の娼婦。息子と一緒に乗っている。
ふと気づいたのだ。同じL44出の娼婦なら、もしかしたら同郷のよしみで相談に乗ってくれるかもしれないと。片方が子持ちだということも、エレナに希望を与えた。
妊娠してしまったら、やはりおろすしかないのか。産むことはできないのだろうか。
もしかしたら、なにかいい方法が見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。でもダメもとだ。
エレナは、会いに行ってみようと決めた。




