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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
155/955

番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 6


 そうやって、穏やかな日々が過ぎた。


 十月も終わりに近づいたころだろうか。

 エレナがラガーに行くと、ミシェルとロイドとクラウド、それからアズラエルがいて、三人が盛り上がり、アズラエルが、彼にはめずらしいほどの、ぼうっとした顔で宙を眺めている。


 なんとなく、エレナは入っていけなくて、ひとりカウンターでその様子を眺めていた。


 エレナがアズラエルたちと飲むようになってから、ピタリと男たちが群がることはなくなった。臭い男も、以前のエレナの客も、エレナに話しかけてこなくなった。

 だから、ひとり、カウンターで飲んでいても平気なのだ。


 アズラエルは、ぼうっとしていたが、やがて、酒を飲みほして、立った。

 それから、エレナに気付かずに、裏口から帰って行った。


 エレナは、よほど後を追おうと思ったが、ミシェルたちに気付かれて、騒ぎに引っ張り込まれた。やがてカレンたちも合流したので、エレナはますますアズラエルを追えなくなった。


 今度、ミシェルたちは合コンをするのだという。クラウドの好きだった子が見つかったらしく、そのともだちも交えてするのだと。


 クラウドは頭が良すぎるため、たまに言っていることが分からないことがあるが、好きな子が見つかった、というのはいいことだろう。


 この宇宙船は、運命の相手が見つかるといううわさがある。


 エレナは、おめでとう、とクラウドにいい、アイリッシュ・ビールを彼に奢った。クラウドはとても嬉しそうだった。いつもクールなクラウドが、こんなに嬉しそうなのを、エレナは見たことがなかった。


 エレナは、ミシェルが言った、男と寝なくても一緒にいられる方法を考えてみたが、今がそれなのではないのか。


 恋人ができる、と喜んでいるミシェルやロイド、クラウドを少し羨ましい気がしないでもなかったが、エレナは、ここにいられるだけで十分だった。


こうして、楽しくみんなといられるだけで。


 十一月八日。

 忘れもしない。


 その日から、ぱたりとアズラエルはラガーに来なくなり――ロイドとミシェルと、クラウドも、ラガーに来なくなった。

 カレンが言った。言いづらそうに。

 彼らは、L7系出身の女の子たちと出会って、付き合い始めた。しばらくラガーには来ないだろうと。


 L7系の女の子?

 寝耳に水だった。


 クラウドたちが合コンすることは分かっていた。でも、アズラエルも、なのだとは、エレナは知らなかった。

 だって、アズラエルはあの日、一人ぼうっとしていて、帰ったではないか。アズラエルだけ仲間外れにされたのかな、とエレナは思っていたのだ。


 アズラエルが、あのアンジェラという女と別れたことも初めて聞いた。


 エレナが信じられなくて呆然としていると、ジュリが、悪気なくこちらの心臓を抉ってくれた。


 アズラエルは、ルナという、L7系の、可愛い女の子に夢中なのだと。


 カレンとセルゲイがあわてて止めたが、エレナは、顔が強張るのを隠せなかった。

 その場にグレンはいなかったが、ジュリは、グレンもその子に夢中なのだと、よけいなことを言った。


 グレンまで? 

 あの、クールで冷徹な男が夢中になる女?

 いったい、どんな女なのだ?


 テレビに出てくるような、そういった特別に可愛い子なのかと聞くと、カレンは会ったことがないと言った。

 でも、アズラエルは、試験のパートナーもその子に決めたのだと。

 アンジェラを振って。


 だから、アズラエルはあきらめろと、カレンはエレナに言った。


 エレナは信じられなくて、腹立たしくて、その日はさっさと退散した。アズラエルにちゃんと聞くまでは、信じられなかった。


 それから、数日して、アズラエルはラガーに現れるようになった。エレナがそばによると、アズラエルは「よう」といった。

 いつもの彼だ。

 エレナは、アズラエルの顔を見るなり、のどにため込んでいた言葉を吐き出してしまった。


「あんたと付き合ってる子は、あんたをちゃんと満足させてあげてる?」


 エレナの言葉を聞くなり、アズラエルとラガーの店長が顔を見合わせ、大笑いをした。

 エレナは気分を害した。


「あんたは素人女じゃ無理だよ」


 L7系の子どもみたいな女なんてやめなよ、あたしが寝てあげる。天国に連れてってあげるというと、アズラエルはエレナの頭をぽんぽん、と優しく撫でた。


 やめとけ。おまえはもう娼婦じゃねえんだから、好きな男を見つけて、そいつと寝ろと言った。


 あたしはあんたが好きなの、というと、アズラエルは驚いた顔をして、ちょっと遅かったな、と笑った。

 俺は、ルナが好きなんだ。

 そういった。


 どうして。

 おまえは、綺麗だと、そう褒めてくれたのに。


 一度もあたしと寝ずに、あたしの知らないところで、アズラエルはほかの女を好きになっている。


 エレナは、取り残された気がして、うつむいた。





 ――11月17日の夜。


 その日、カレンがマタドール・カフェというところに連れて行ってくれた。セルゲイの知り合いがバーテンダーをやっているという、すごくお酒の種類が豊富で、食事もおいしい店。


 カレンはもちろん、エレナもジュリも、そこにアズラエルたちがいるとは思わなかった。


 マタドール・カフェに入ってすぐ、アズラエルを見つけたのはジュリだった。彼は大柄なので、とても目立つ。


「アズラエル!」


 エレナと、カレンは硬直した。カレンは、エレナのことを思って、すぐ引き返そうとしたが無駄だった。


 ジュリには遠慮というものがない。アズラエルだけでなく、久しぶりのミシェルやロイドの顔も見つけ、大喜びで駆け寄っていった。


 エレナは、アズラエルの隣にいる子どもみたいな女を見つけ、目を丸くした。

 栗色の長い髪をした、幼いと言ってもいい容姿の女だった。


 まさか。

 まさかあれが、アズラエルが夢中になっているという女?


 子どもみたいな女と言ったのはほぼ出まかせ――素人女であることはまちがいないとは思っていたが、これでは本当に子どもではないか。

 特に美人というわけでもない。どこにでもいそうな――しかも、素人を通り越して――。


 エレナは想像以上の相手に、絶句した。

 だまって通り過ぎようとしたが、ダメだった。

 なにか言っていかなければ、気分が悪かった。


 ジュリが先に声をかけたので、エレナも、負けじとアズラエルの肩を撫でて、しなだれかかった。

 アズラエルも顔をゆるめ、おう、と短く返してくれた。

 カレンはフンと鼻を鳴らしたまま奥へ行ってしまった。ジュリもアズラエルに甘えているのが気に入らなかったのか。


「久しぶりね」


 アズラエルの肩を撫でて、しなだれかかった。

 アズラエルも、おう、と短く返した。


「最近、ぜんぜん顔を見ないから――この子だれ?」


 ――カレンのいる席へ行くと、ジュリははしゃいで言った。


「あのちっちゃい子、アズラエルを手玉に取ってるみたい! すごいね!」


 的外れな感心をしていた。まあ、遊郭では男を手玉にとれとさんざん言われてきたし、「したたか」も「小悪魔」も褒め言葉だ。もっとも、あの子どもにはそういう意味で届かなかったかもしれないが。


「ルナちゃんすごいなあ! ともだちになってくれないかなあ」


 のんきなジュリの言葉は、エレナを苛立たせるだけだった。しかし、少なくともエレナとジュリの存在は、彼らの席に波紋を呼んでいた。エレナが留飲(りゅういん)を下げるには、まるで足りないちいさな騒ぎだったけれども。


「……気が済んだ」


 カレンが、苦笑いしてエレナの顔を覗き込んでいた。


「気が済んだって、どういう意味」

「そのままの意味さ。……ねえエレナ。アズラエルはやめておきな。アンタには合わないよ」


 合う合わないなんて知らない。あたしは、アズラエルに試験のパートナーになって欲しいだけ。


 そういうと、カレンは微笑んだ。


「自覚なしか。恐れ入ったね。まあ、あんたがそうなら、それでいいけどさ、あたし、アンタには、もっと、大らかなヤツがいいと思うよ」


 セルゲイなんてどう? とカレンが言うと、エレナは目をぱちくりさせた。

 セルゲイ先生なんて、あんな裕福なえらいひとと、あたしじゃ釣り合わないよ、とエレナが呆れたようにこぼす。カレンは目をぱちくりさせた。


「あ、そうか。そういうことなんだ。……なあるほど。そういう意味なんだな、なんでアズラエルが良くって、グレンがダメなのか、……そっか、そういうことね、」


 カレンは一人で納得して、うなずいていた。


「……なんだい。ひとりで納得しちゃって……」


「な、エレナ」

 カレンはビールをぐっと飲みほして言った。

「あんたにはさ、もっとのんびりした奴が似合うよ、きっと。あんたのその、ピリピリした神経を休めてくれるような――強がりを優しく包んでくれるような男がさ」


 ジュリが、分かっているのかいないのか、うんうんとうなずく。

 あたしはべつに、強がってなんかない。


「……アズラエルだって、優しいよ」


 カレンは笑って、首を振った。


「それはそうかもね。だけど、あたしが言ってんのは――あんたのその深い傷を、癒してくれるような、傷の少ない人間のことを言ってるのさ」


 アズラエルは、傷があるの。

 エレナは、つぶやいた。

 だったら、あたしが慰めてあげたいのに。


「アズラエルも、グレンも、言いようのない傷を抱えてる。そういう点ではアンタと同じだと思う。だからアイツらは、アンタのことを可愛いと思っても、惹かれない」

「……」


 あのこどもには、惹かれるの? アズラエルが? グレンが?


「アズラエルはやめておきなよ。ついでにグレンもね」

「なんでさ」


 カレンの目が、急に底の見えない暗がりに落ち込んだように沈んだ。カレンは、なにも見ていなかった。


 エレナは背筋に寒気が走った。カレンの言葉のせいではない、カレンの目の持つ、暗さのせいだった。


 その目の暗さは、一瞬でほどけて消えた。


「エレナの運命の相手は、セルゲイとか、ルーイとか、優しくて穏やかなタイプだと思うんだけどなあ」


「あたしの運命の相手は、カレンだよね♪」

 能天気なジュリの言葉に、カレンは「当たり前だろ!」とウィンクしてみせる。さっきの暗さは、跡形もなく消えていた。


 ……運命の相手なんて、あたしにはいらない。


 エレナは、目を窓の外にやった。

 アズラエルが好きだ、と、思った。

 カレンに何を言われようが、とても好きだし、できるなら試験のパートナーになって欲しい。でも、アズラエルはあのこどもが好きだ。

 アズラエルがあのこどもと別れたら、自分にもチャンスが回ってくるかもしれないが。


(そうだ。長続きするなんて、そっちのほうがきっと無理だ)


 アズラエルはすぐ飽きるだろう。あの、なんのとりえもなさそうな素人娘に。


「三年もあるんだから、多分あたしは、アズラエルのパートナーになれるさ」


 カレンは苦笑したきり、なにも言わなかった。


 カレンたちのおかげで、今は穏やかな暮らしが手に入っている。

 ロミオは脅してこないし、仕事のために客を取る必要もない。ジュリの面倒は、今はカレンが半分見てくれているようなものだから、負担にならない。


(あたしはただ、お金を貯めて、地球に行って)


 宇宙船を降りたらL7系あたりの田舎に行って、身体を売るんじゃなく、普通の仕事について、心静かに暮らしていきたい。

 小さな庭のある家に住んで、花を育てたり、一ヶ月に一度くらい、レストランでケーキを食べる。

 真っ白なケーキ。イチゴののった。

 豊かでなくていいから、小さなころ、ばあちゃんと二人で暮らした日々のような、穏やかな生活をしていきたいだけなんだ。

 のぞみは、ただそれだけ。

 運命の相手はいらないから、そのかわり、穏やかな生活があたしは欲しい。


「――そうだよね。まだ、三年もあるんだもんね」


 エレナは自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。

 少し、胸やけがした。胸がいっぱいなのかもしれなかった。


「悪いねカレン、せっかく連れてきてもらったのに。……あたし、今日は帰るよ。なんだか、胸やけがして、」

「え? 大丈夫かよ。じゃあ、一緒にかえろ」

「いいよ。あたしは平気。だけど、今日のとこはジュリをあんたのうちに泊めてやってくれない? ゆっくり寝たいんだ」

「それは――いいけど」

「ごめんよ。じゃあお願い」


 エレナは、自分が一杯だけ飲んだカクテルのお金を置くと、裏口から外へ出てタクシーに乗った。

 本当に胸やけがした。気分が悪かった。





 次の日、エレナは気分が悪くて起き上がれなかった。

 なにか悪いものでも食べただろうか、それとも風邪かと思ったが、熱は高くない。胃薬を飲んだが治まらず、エレナは一日寝込んだ。


 ジュリは帰ってこなかったが、かわりにカレンとグレンが見舞いに来てくれた。


「昨日食った肉が生焼けだったんじゃねえのか」とグレンがエレナをからかった。


 昨日、マタドール・カフェに行く前に、三人で焼肉を食べに行った。あんなに大量に、肉ばかりを食べたのは、初めてだった。

 そのせいだろうか?

 それとも、最近うどんばかり食べていたからだろうか? うどんが腐っていたとか。


 カレンがたしかめてくれたがうどんは無事で、冷蔵庫の中にうどんばかりがぎっしり詰め込まれているのを見てグレンがめずらしく声を上げて笑い、カレンも「なんでこんなに……」とあきれ返った。


 エレナは少し恥ずかしい思いをした。安売りのときに、一気に買い込んだのだ。でも、うどんばかりなのはさすがにおかしかったか。


 なにも食べていないんだと言ったら、カレンが素麺を煮てくれた。

 それは卵とねぎが入っていて、おいしかった。ねぎは風邪にいい、とカレンは言った。卵を入れる方法もあるのか。エレナが、これからは必ず卵を入れる、と重々しく宣言し、二人を息も詰まるほど笑わせた。


 エレナが、食事は毎日素麺とうどんの繰り返しだというと、二人はまた大笑いした。


 グレンがこんなに笑うのだとは、エレナは思ってもみなかった。だけれど、さっきから自分のなにがそんなにふたりを笑わせているのか、エレナは分からなくて困った。


 グレンもめずらしく、いつもエレナの頬をつねるような悪態は、今日はなかった。


 二人は夕方に帰った。

 エレナは一日寝たら、少し胸やけが残っているものの、元通り元気になった。二人が来て、エレナを元気づけて行ってくれたからかもしれない。

    

 人がぶっ倒れているのに、一度も顔を見せなかった薄情なジュリが、次の日の夕方、帰ってきた。


 またロミオにひどい目に遭わされていやしないかと、エレナは少し心配したが、ジュリはいたってピンピンしていた。今までジャックのところにいたのだという。シャワーを浴びて、それからロミオにラガーに会いに行く。だけど、そのあとはカレンのうちに行くのだと聞いて、エレナは少し安心した。


「ラガーに行くなら、あたしも行くよ」とエレナは言った。

 もしかしたら、アズラエルがまた来ているかもしれない。


 ラガーにアズラエルはいなかった。でも、夜半までは待ってみようと思って、エレナは、ジュリとロミオが陣取っているボックス席で一緒に飲んでいた。


 今はロミオも、奥の席に行くことはない。ちゃんと、ラガーの店長の目の届く、真ん中あたりのボックス席で飲んでいた。なにもやましいことはない、という意思表示なのだろう。


 ロミオは、エレナたちに対しても、まえのような脅しはしないが、いつそれが豹変するかも分からないので、エレナは不安で、ジュリを見張るようにしていた。していたところで、盛り上がって二階の個室に行ってしまえば、そこで終わりだけれど。さすがに個室までエレナはついて行かない。


「ねええ。ロミオ。あたしの赤ちゃん欲しい?」


 唐突に、ジュリがいい、ロミオだけでなく聞いていたエレナも酒を吹き出した。


「いったい何の話だよ? ――ああ? おまえ、まさか孕んだんじゃねえだろうな?」


 胡散臭そうにロミオが吐き捨てた。


 エレナは呆れた。ジュリがそれをロミオに聞いたということは、相当ロミオにイカれているのだ。分かってはいたが、ジュリの学習しないオツムの弱さには、ほとほと呆れ返る。


 ロミオと、結婚できるとでも、思っているのだろうか。

 だとしたら、救いようのないヤツだ。


「ジュリ、あんたね。ピル切れたんなら言いなさいよ」


 エレナは、自分のバッグから、ピルを出してジュリに渡した。エレナの予想どおり、ジュリは手持ちのピルがなくなっていたのだ。明日あたり、ジュリを連れて病院に行って、ピルをもらってこなければならないな、とエレナは思った。


 満格楼では避妊のためにピルを持たされていた。それは一年分、一気に手渡される。飲み忘れたり、なくしたりして大抵、一年が終わるころには数が合わなくなっていることが多い。エレナは、自分の持ち分が少なくなってきたのを見て、ああ、そろそろ一年が終わるんだな、と見当をつけていた。


 店からもらってきた分を、宇宙船に乗ってからもちゃんと飲んでいる。ジュリも、こればかりはちゃんと飲むように躾けられてきた。だが、満格楼のピルは粗悪品が多く、たまに効かないこともある。


 来ないはずの毎月のアレが来てしまったり――エレナもかつて、二度ほど堕胎したことがあった。ジュリも一回、経験がある。それ以来、忘れないようにちゃんと飲んできたが――。


「おまえな、気をつけろよ。……妊娠したら、宇宙船降ろされちまうぜ?」


 ジュリにピルを渡すエレナの手が、ピタリと止まった。


「ええ!? 妊娠したら降ろされちゃうの!?」


 ジュリが素っ頓狂(す とんきょう)な声をあげる。ロミオがしいーっと指を立てた。


「決まってんだろが。おまえら、ふたりで乗ってきただろ? 一人増えたら、どっちかひとりが降りなきゃ、数が合わなくなっちまうだろうがよ」


 あ、そうか、そうだね、とジュリがうなずく。


「それに、ガキができたら、おまえとヤレなくなっちまうだろうが」

「ロミオ……そんなにあたしのこと好き?」

「おうよ。……ガキなんか孕むんじゃねえぞ? いいな」


 孕んだら、おろせよ、とロミオが言った。ジュリは、うんうん、とバカみたいにうなずいて、ロミオの胸に顔を埋める。


 動揺を抑えようとしたが、うまくいかない。

 エレナは、胸がむかむかした。このあいだのような、込み上げるような、むかつき。


 さっと立つと、エレナはカウンターで勘定をし、店を出た。

 雪の中を、走って家に帰った。

 




 次の日、エレナは一日中身体がだるくて起き上がれなかった。


 雪の中を走ったから、今度こそ風邪を引いたのか。でも、相変わらず熱はない。だれかがインターフォンを鳴らしたが、エレナは出なかった。ベッドから出るのも億劫(おっくう)だった。


 訪問客はカレンと、グレンだった。エレナは電話にも出なかった。


 夜、玄関に出ると、シチューの鍋が置いてあり、エレナは、ドアを開けなかったことを後悔した。


 カレンに礼の電話をし、シチューを温めて啜っていると、ジュリが上機嫌で帰って来た。

 また酔っぱらっているのか。

 だれも止める人間がいないから、昼も夜も、好き放題ジュリは酒を飲んでいる。最近、始終酔っぱらっているようになったな、とエレナは思った。


 ジュリは上機嫌でハイテンションの上、エレナですら訳の分からないセリフを吐いて、エレナを呆れさせた。


「あたしの誕生日パーティーやるの。カレンがね、計画してくれたの。でね、アズラエルがケーキ作ってくれるの。アズラエルの部屋でパーティーよ! ロミオやジャックも呼んで、ロミオはアズラエルと仲良くなりたいんだって。すごいでしょ!」


 そういえば、コイツの誕生日とやらが近いのか。

 だからといって、誕生日パーティーだって? なんだそれは。

 エレナは、胸やけが頭痛に変わった。


「あんたそれ……アズラエルはいいって言ったのかい」

「うん! だってアズラエルの部屋でやるもの。それからね、ルナちゃんも呼ぶのよ。アズラエルの彼女だからね!」


 ルナと聞いて、エレナは眉間(みけん)(しわ)がよるのを止められなかった。

 いつもなら、それを見たらジュリは、即座に「ごめんなさい」と謝り始めるものだが、今日に限っては違った。


「エレナ」


 真剣な顔で、ジュリがエレナの手を握った。どうしたというのだろう。


「――ルナちゃんはね、アズラエルと寝てないの」


 ジュリは、困ったように眉をへの字にした。

 エレナは口をあんぐりと開けた。


(冗談だろ)

「あんたそれ、だれから」

「このあいだラガーで会ったとき、ミシェルがラガーの店長さんにいってた」


 エレナはさすがに絶句したが、ジュリは悲しげに顔をゆがめた。


「あんなに優しいアズラエルのこと、嫌いなのかな? でもね、アズラエルはルナちゃんが好き。ものすごく好き」


 エレナは、辛うじてジュリを突き飛ばして駆け去るのを我慢した。

 心臓が痛くて、仕方がなかった。気分の悪さが、一気にぶり返してきそうだった。


「あたしたちよりも、アズラエルはルナちゃんが好きなの……!」


 ジュリが泣いていた、顔をくちゃくちゃにして。

 ジュリの泣き顔が、昨日テレビで見た動物園のサルそっくりで、エレナは思わず吹き出しかけた。ちょっと気分が悪いのが、おさまった。


「なんで笑うのよう」


 ジュリが不満げに言って、音を立てて鼻をかんだ。


「だからねエレナ」


 エレナの両手を握って、ぶんぶん振る。


「今夜、アズラエルに夜這いかけよう!!」

「ええ!?」


 どうしていつもこいつは、自分の予想とはまったく違う方向から奇襲をかけてくる。


「あたしね、アズラエルと一回寝て、それでアズラエルはあきらめる。ね、エレナもそうしよう。それでね、すっきり、あきらめよ? ね?」


 ……すっきりあきらめるって……。

 エレナは、ジュリの目をみたが、ジュリはいつになく真剣そのものだった。

 ジュリはまるで、エレナのためにそうしようと言っているようだった。

 ジュリのことだから、本当にそうかは分からないけれど。

 ――ジュリなりに、自分のことを心配してくれていたのだろうか。


「ふたりでアズラエルをメロンメロンにしちゃおうよ! 満格楼の中級娼婦をなめるなってんだー!!!」


 エレナの手をつかんで、おー! と歓声を上げるジュリに、エレナは苦笑するほかなかった。





 勢いでアズラエルのマンションに特攻をかけたが、彼はいない。クラウドも、だれもいなかった。留守だった。

 深夜近くなるまで、エレナとジュリはアズラエルの部屋の前で待っていた。

 吐く息が白い。


「ほんとうに、アズラエルはこの部屋に帰ってくるのかい……」

「うん、今日は帰るはずだって」


 アズラエルはK27区のルナの部屋に入り浸りだが、たまに、着替えを取りに自分のマンションへ帰ることがある。今日は帰るはずだと、ジュリはどこから仕入れた情報かは知らないが、そう言った。


(でも、こいつの言うことだからなあ……)


 エレナは、深夜を過ぎても来なかったら、帰ることにした。それでなくても、このあいだから体調がよくないのだ。


 しかし、アズラエルは、日付が変わる直前に部屋に帰ってきた。


(ほんとに帰ってきた)


 エレナは目を見開いて、久しぶりに見る愛しい男の顔を見つめた。


「なにしてんだ、おまえら」


 部屋の前にエレナたちがいるのを、アズラエルは思いっきりしかめっ面で眺めて、「……ずっとここにいたのか?」と言った。

 その声には迷惑そうな響きが込められていて、エレナは一瞬ひるんだが、すごみすら利かないのが、ジュリのいいところだ。


「うん!」

「あのなあ、遊びに来るなら昼間にしろ。送るから、今日は帰れ」


 明日は、雇い先の子どもの護衛で、朝が早いのだとアズラエルは言った。


「アズラエルちょっとだけ入れて。自分たちで帰るから」


 ジュリがアズラエルの二の腕に腕をからませると、アズラエルはちっと舌打ちして、荒々しくドアを開けた。エレナも一緒に入る。

 真っ暗な部屋をアズラエルは大股で歩いて、自分の寝室のベッドに、仰向けになった。どすん、という音がした。


「今日はかまわねえぞ。気がすんだら帰れ」

 エレナたちに言い捨てて。


 アズラエルはルナと寝ていない。それが本当なら、かなり欲求不満のはず。

 いつもより冷たいアズラエルの態度に意気消沈しそうだったが、おそらくこれを逃したら、二度とアズラエルの部屋に、夜入ることはかなわないだろう。

 エレナは、ネコのようにしなやかな身のこなしで、アズラエルの上に乗った。白い掌でやんわりと、アズラエルの頬を撫でる。


「かまわなくていいさ。――あたしが、あんたを気持ちよくしてあげるだけだから」


 アズラエルが、骨がきしむような力で、エレナの手を握った。


「その気はねえんだ」

「いいよ。あたしをメチャクチャにして」

「エレナ」


 アズラエルは深々と嘆息し、今度は少しおだやかな声で、いいから帰れ、とまた言った。


「いいさ、こっちに聞くだけだからね。このこは慰めてほしがってるさ」


 エレナはアズラエルのジーンズに手をかけ、ボタンをはずした。


「無駄だって。オイ、エレナ――」

「エレナ、あたしにもやらせて」

 ジュリが、キラキラと目を輝かせている。

「おまえら、ソレはおもちゃじゃねえんだ」

「分かってるよ。可愛がってあげるさ」

「……あのな、」

「ジュリ、さがってな、あたしが、」


 エレナが、アズラエルの上に、もう一度乗り上げたときだった。

 急に喉を突き上げるものがあって、エレナはアズラエルの上から飛びのいていた。

 うずくまり、必死にそれを我慢して――、


「――っと、トイレ、どこ……!」


 アズラエルがジュリを退けて、エレナを抱き上げた。わずかな時間のあとに「ここだ、吐け」とアズラエルの声がして――エレナは、便器にしがみついて、吐いていた。


 ……出すだけ出すと、エレナはぐったりと、狭い個室で壁に背を預けて、へたり込んだ。


 水が流れる音。ずきずきするこめかみ。胸やけは、おさまっていない。

 エレナはやっと、自分の身体の異変を悟った。


「うがい」


 アズラエルが、水の入ったコップを差し出してくれた。エレナは、それを受け取ると、口をすすぐ。すこし、気持ち悪さがなくなった気がした。


「……エレナ。だいじょうぶ?」


 ジュリが心配そうに廊下から、こちらを眺めている。アズラエルはエレナのコップをジュリに渡した。ジュリはコップを受け取って姿を消した。


 ――なんてことだ。

 よりによって――今、気づくか。

 どうして、今まで気づかなかったのだろう。


 ぼうっとした頭で便器を眺めていると、急に視界が変わった。アズラエルに抱き上げられたのだ。

 アズラエルはだまって、エレナをベッドに運んだ。自分のベッドに。


 エレナは、急に恐ろしくなった。

 アズラエルに、気づかれてはいないだろうか。


「……く、腐ったうどんを食っちまって……」

 奇妙な言い訳が口をついて出た。


「腐ったうどん?」

 アズラエルがしかめっ面で、でも口調は呆れたように笑いに揺れた。これ以上ないくらいの優しさで、エレナをベッドに下ろす。毛布を掛けてくれた。

「腐ったうどんだか知らねえが、おまえ、ほとんど食ってねえんじゃねえのか」


 ジュリがもどってくる。それと入れ違いにアズラエルが部屋を出――しばらくしてまたもどってきた。

 ロンググラスに、炭酸の入った飲み物を持って。


「……飲めるか」


 エレナは、ひやりとしたそれを、ずきずきする額に押し当てて、それから口に含んだ。

 おいしい。

 レモンが入った炭酸水だ。あまり甘くなくて、さっぱりして、飲みやすい。胸に詰まったものが、洗い流されていくようだった。胸やけが、徐々におさまってきた。


「俺のおふくろが、妹を生むときつわりがひどくてな。親父がしょっちゅうコレを作ってたんだ」


 ぎくりとして息が詰まった。

 エレナは、がたがたと、震えだした。やっぱり、バレたのだ。

 ――妊娠していること。


「お願い」

 エレナは必死に、アズラエルを見上げた。

「お願い。……だれにも言わないで」


 アズラエルは片眉を上げ、「……言わねえよ」とエレナの頭を撫でた。安心させるように。


「俺は、クラウドの部屋で寝る」


 今日はふたりともここで寝ろ、と言ってアズラエルは出て行った。


 行かないで。

 一緒にいて。なにもしなくていいから――。


 エレナは、急に心細くなって、つぶやきかけた。だけど、口をついて出てくることは、なかった。

 アズラエルの背が、ドアの向こうに消えた。


「エレナ……」


 ジュリと一緒にベッドで眠るのは、この宇宙船に入ったとき以来だ。

 サラさんは、元気だろうか。エレナは、ぜんぜん関係ないことを考えた。

 ジュリが、エレナをよしよし、というように抱きしめて髪を撫でている。

 ほんとうは、ジュリはエレナのひとつ年上だから、エレナの(ねえ)さん的立場なのだ。いつも立場が逆転しているけれど。ジュリに慰めてもらうことがあるなんて、エレナは思ったこともなかった。


「エレナ、あたし今度こそ絶対言わないからね。言わないからね。エレナが妊娠してること」


 今さらなんだ、とエレナは思ったが、たしかに言いふらされても困る。でもなんだか、今は、どうでもよかった。


「あたしは、ロミオとは会わないことにするよ」


 ロミオが一番、危ないから。ジュリはそう言って、ひとりでうなずいた。

 ジュリがロミオと関係を切るというのなら、それは願ったりだ。あの男は危ない。


「……おろしに、行かなくちゃね、エレナ……」


 鼻声が聞こえる。ジュリ、アンタが泣いてどうすんだい、とエレナは思ったが、子どもを生むなら、ジュリかエレナが降ろされるともなれば、やはり子どもはあきらめねばならないだろう。


 ――あたしは、二度と、子どもが産めなくなるかもしれない。


 エレナは、そう思って沈んだが、もう涙も出なかった。


 翌日、目覚めたらアズラエルはもう部屋にいなかった。エレナは自分の部屋に帰って、毛布に潜った。

 今日は雪が降るかもしれない、ひどく冷え込む。クローゼットの中には厚い布団があった。


 本当によかった。マックスさんとサラさんに感謝しなければ。


 ジュリはエレナに、コンビニの弁当を買ってきてくれたが、エレナはまったく食欲がなかった。やがて、いつものとおり、なにもかもをすぐ忘れるジュリは、夕方になると弾丸みたいにジャックのところへすっ飛んで行った。


 スーパーでレモン水を買ってきて飲んだが、食欲は、まるでなかった。

 腹をさすりながら、エレナはぼうっと考えた。


(多分、宇宙船に乗る前だな――)


 ――病院へ、行けばいい。


 病院へ行って、だまっておろしてくれば、それで済むのだ。

 やってきたことだ。二回も。

 遊郭のときは、あの優しい姐さんが付き添ってくれたが、今はそれがないから、不安なのだろうか。


 ……いや。

 ――やっぱり、ダメだろうか。おろさなきゃ、ダメなのだろうか。

 相手はだれとも知れない子だ。

 でも、あたしの子だ。

 産んだら、この子が、あたしのかけがえのない「家族」になる。

 今は、おかみさんにおろせとは、言われない。


 エレナは、金庫を持ち出した。

 この金があれば、自分と子どもが宇宙船を降りても、しばらくはやっていけるだろうか。いや、無理だろう。この金額では、二、三か月で底をつく。アパートなども一から借り直さなければいけないし――それに、字も読めない自分が働ける場所など、遊郭以外にあるだろうか。


 エレナは、自分が驚くほど世間知らずなのだということに気付いた。

 マックスが言った意味が、ようやく腑に落ちる。


「エレナさんたちは、この宇宙船の中で、この生活に慣れてください。どこに行っても、生活できるように」


 マックスの言ったとおりだ。カレンたちとともだちになって分かったが、世の中は、エレナたちが知らないことであふれていた。

 十歳のころから、隔絶されたL44で暮らしてきた自分は、知らないことが多すぎる。


 どうしよう、おろしたくない。

 産んじゃ、、ダメなんだろうか。

 黙って産んで――隠していれば、だれにもバレない?


 そんなわけはない。ジュリがばらしてしまうだろう。


 ああ、ああ、――どうしよう。どうしたらいいの。


 エレナは、頭を抱えた。相談する相手が見つからなかった。

 やがて、深い眠りがエレナを襲った。




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