番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 3
翌日、エレナは、インターフォンの音で目を覚ました。
はっとして飛び起きた。そして枕元に時計があるのに気付き、それを見て、愕然とした。
午前十時を回っている。
あわててエレナは飛び起き、まだ寝こけているジュリを勢いよく踏んでしまった。ジュリの鈍い悲鳴を無視し、エレナは一目散に玄関へ突進した。
寝過ごしてしまうなどとは。
「す、すみません……!!」
ドアチェーンの外し方が分からず、ガタガタやっていると、マックスが扉の向こうから教えてくれて、やっと外せた。そうだ、昨夜、これをかけたのは自分だ。マックスに教わって、安全のためにかけたのだ。
やっとドアを開けると、帽子をかぶったマックスが立っていた。
「起こしてしまったようだね」
彼は微笑んでいた。怒ってはいないようだ。
「お邪魔しても、だいじょうぶかね? なんなら、そのあたりで少し時間を潰してこようか」
「あ、い、いえ! ――ど、どうぞ」
不思議な気分だ。もうここは、自分の家なのだ。お客様が入るとき、どう言ったらいいのか分からなくて、エレナはしどろもどろに返事をした。
部屋に入ると、ジュリも起きていた。
昨日、エレナがしつこいくらい言い聞かせた甲斐があったのか、マックスが来たら起きていなきゃいけない、ということは自覚していたようだ。寝ぼけ眼をこすりつつ、パジャマのまま、ジュリはソファにぼーっと座っていた。
エレナは、昨夜あのパジャマを着ずに、着物のまま寝た。エレナがあのパジャマを着ていないことを、マックスは、気を悪くしてはいないようだった。
「す、すみません、寝過ごしちまって……」
「いや、いいんだよ。L44とこちらは時差があるからね。しばらく慣れるまで大変だろうが、」
起き抜けなら、顔を洗っておいで。マックスはそういった。
そういいながら、ソファに座り、大きなバッグから包みを取り出した。
「家内からの差し入れだ。ちょうどよかったね。朝食がまだだろう」
「家内って、サラ、さん?」
「そう」
「サラさんは――マックスさんの、奥さん」
「そうだよ? きのう、言わなかったかな」
マックスは首を傾げつつ、包みを開けた。中にはたくさんのサンドイッチがあり、マックスの手の水筒には、温かなコーヒーがたっぷり入っていた。
コップはあるかいとマックスが言うので、エレナは戸棚を見ると、食器はそれなりにそろっていて、洒落たマグカップも五つ、置いてあった。そのマグを三つ持ってきて、エレナも一緒にソファに座った。
「――今日は、サラさんは、来ないんですか?」
マックスは、コーヒーを注ぎながら笑った。
「寂しいかね? 残念ながら、サラは今、L55のE.S.C本社勤務なんだよ。だから、今朝このサンドイッチを作ったあと、宇宙船を発ってね。L55へ向かってしまった」
「もう、この宇宙船にはもどってこないんですか」
「うん。……家内は、おととし大病をしてね。派遣役員というのはけっこう激務なものだから、続けられなくなったんだ。病状はいったん落ち着いているんだが、もう派遣役員は無理だから、本社勤務にかえてもらったのさ。でも、どうしても君たちの顔が見たいと言って、きのうは無理やり宇宙船に来ていたんだよ」
「……」
「君たちの名前にまつわる、不思議な縁の話があってね。おいおい、お話したいと思うが」
ジュリはガツガツ、サンドイッチを食べていた。たしかにおいしい食べ物だったが、マックスの話も、ほとんど聞いていないにちがいない。
エレナはためいきをつきたくなったが、今さらだ。自分がしっかり、説明を聞いておくしかない。
「昨日は、すまなかったね」
サンドイッチを食べながら、マックスは突然言った。エレナが何のことかわからずに首をかしげると、マックスは苦笑した。
「うちの、若いののことだ。チャンから聞いてね。女の子の方からも事情は聞いた。本当に申し訳なかった」
頭を下げられ、エレナはやっと昨日のことを思い出した。
「気にしてません。……あんなもんで腹立ててたら生きてけないよ」
エレナの笑い顔は、マックスの目にどう映ったのだろうか。エレナは焦って、話を継ぎ足すように、「まさか、ほんとにあのひとクビになったんですか」と聞いた。
「それは、さすがに私が決めることではないからね。ただ、L4系の派遣役員にはなれなくなった。それはたしかだ」
マックスは、新たにエレナとジュリのカップにコーヒーを注いだ。エレナとジュリは、勧められるまま、砂糖とミルクをたっぷり足した。
「彼は今、派遣役員になるまえの研修生だった。けっこう厳しいからね。派遣役員になるための試験は。あれがかなりのマイナスになったことにはちがいないが」
あの、泣いていた女の役員は、どうなったんだろう。
エレナは思ったが、それは聞けずに終わった。
食事がひと段落し、小さなテーブルの上を片付け終わると、マックスは書類を取り出した。
エレナとジュリは、マックスの真向かいに座った。
「では、地球行き宇宙船のご案内をさせていただきます」
マックスは、あらたまった口調で言った。
「昨日、チャンから、この宇宙船のシステムの、おおざっぱな説明は聞いたかな?」
エレナはうなずいた。
「では、まず、この部屋のことから説明します。……君たちの居住区はK34区です。主にL4系列の星から来た船客が住む居住区です」
マックスは、紙でできた船内の地図を広げて、ここだよ、とエレナたちに現在地を指し示した。
「この部屋は、船内では一番安い部屋で最低ライン。でも、家賃はかかります。あと、水道光熱費もね。それらのことは、説明しなくてもだいたいわかるかな?」
エレナは深くうなずき、ジュリは大あくびをした。
「そうですか。じゃ、生活費の説明をしますね――君たちには、これから毎月約三十万デルのお金が、定期的に支払われます」
「さ、三十万?」
エレナは聞き間違いかと思った。
「そう。毎月。このなかから、水道光熱費と、ここの家賃が引かれ、君たちの場合――借金も定期的に引かれます。その説明もあとでします。君たちには、その残額で生活していってもらいます。ですが、よほど好き勝手に遊び歩かないかぎり、余裕で食べていける金額です。努力すれば貯金もできる」
ジュリには分かっていないようだったが、エレナは、夢でも見ているような感じがした。
ほんとうに。
昨日から、自分は夢の中にいるんじゃないだろうか。
「……なんのお仕事をすれば、そんな金がもらえるんです?」
エレナは大まじめに聞いた。ただでそんな金がもらえるとは、到底思えなかった。
「いやいや、お仕事はしなくてもいいです。まず、エレナさんたちは、この宇宙船で、この生活に慣れてください」
地球に着いたあとや、お金がたまったあと、L7系やL6系に移住しても普通に暮らしていけるように。
マックスはそう言った。
「この三十万という金額は、L7系で大企業に就職したときの、初任給とだいたい一緒。君たちだけじゃなく、この宇宙船に乗った人はみんなちゃんともらえるんですよ。ここまではいいかな?」
エレナは、呆然と、うなずいた。
「よろしいです。……では、今日の予定を。午前中は、船内の説明で終わると思いますが、午後から私と一緒に街へ出ましょう」
「街?」
「ええ。タクシーの乗り方や、スーパーでの買い物、レストランのことなどお教えしないとね。お金の管理の仕方や、簡単な計算機の使い方、それから、危険な区画のことも説明します。一気に覚えるのは無理かもしれませんが、ひととおり、日常生活に関係するところを巡ってみましょう」
「はい……」
「では、ちょっと横道にそれて、借金のことを、お伝えします」
借金。
エレナは肩にどっと力が入った。
「調べた結果、おふたりの状況はだいぶ厄介だということが分かりました。借金が雪だるま式に増えていく――。そういった状況ですね」
そうだ。
エレナは唇を噛んだ。
エレナは、十歳のころ、母親に連れられて、L44へ降り立った。
父親は知らない。売られたことも、最初は分からなかった。自覚したのはいつからだったか、男に貢ぐ母親の借金を返すために、自分が売られたというのに気付いたのは。
L44に来る前の記憶は、ほとんどない。L4系のどこかの星にいたのは事実だ。そのころから母親の影は薄かった。面倒を見てくれていたばあさんが死んで、エレナは母親に連れられてL44へ来たのだ。
客を取り始めたのは十六歳のころ。エレナは、男と寝るのは仕事だと思っていた。
子どものころからL44にいたせいで、エレナは、L44の世界しか知らず、エレナにL44の外の世界を教えてくれたのは客だ。
字も読めず、単純な計算しかできないエレナは、借金額が返しても返しても、減らないことにいつしか気づいた。そしてあきらめた。自分は、ここで一生男と寝て金をもらい、いつなくなるかも分からない数字を、減らしていく運命なのだと。
どこでどう借金が膨らみ、なにがどうなっているのか。
L44を出ることもできず、母親からの電話が年一回しかないエレナには知るすべもなかった。いつも母親の話は違った。事業の失敗、自分の親の病気、……嘘ばかりだった。男に貢いでいたのだ。
返済額と食事代を引かれた、スズメの涙のような小銭が、毎月エレナのところへ返ってくる。
エレナはいつからか自覚していた。この借金は、なくならないのだと。自分は一生、満格楼で働いて、死んでいく。
早く借金を返したければたくさん客を取る――だが、それで身体を壊して死んでいく仲間を、エレナはたくさん見てきた。
仲間が皆、そういった借金の持ち主ではない。
借金を完済して、遊郭を出ていく仲間も、エレナは何人も見送ってきた。
「ジュリさんも、似たような状況ですね。単に借金を完済すればいいケースと違います。……こういう泥沼の場合は、ひとつ、エレナさんとジュリさんも決断をしていただかねばならなくなります」
マックスの、今までにない厳しい声に、ジュリもやっと真面目な顔をした。
「エレナさんもジュリさんも、お母様が借金の原因となっています。事業関連ではなく、お母様方の性癖からくる借金で、おそらく改善の余地はありません。――大変に厳しいことを承知で言わせていただきますが、お母様と縁を切られる覚悟は、おありですか?」
――母親と、縁を切る、覚悟?
「そうです。……言うまでもないとおり、エレナさんたちは、L44の娼婦でした。L7系や、L5系などから乗られる方々は、この地球行きを、旅行と言っても差し支えないですが、あなたたちは違う。この宇宙船のチケットが当選し、この宇宙船に乗るということ――それは、あなたたちの新しい人生が始まるということだと、当方としても考えています」
――新しい、人生。
「せっかく、新しい人生を歩みだしても、このままでは元の木阿弥にもどる可能性があります。……以前のケースでは、せっかく宇宙船に乗ったものの、連絡先をご両親に教えてしまったために、お金をためて宇宙船を降りたのち、借金取りとご両親に捕まって――せっかくためたお金も取り上げられ、本人もふたたび娼館に送られるということが実際、ありました」
エレナはぞっとした。そんなことになったら――。
「ええ。もといた娼館にもどされたのですから当然です。……彼女は亡くなりました」
マックスがくわしく語らずとも、ジュリでさえ分かった。
仕置きで、殺されたのだ。
ジュリのマヌケ面が、めずらしく強張っていた。
「私たちは、あくまで宇宙船の役員です。降りたのちのことは、関与することはできません。だからこそ、あえて厳しいことを承知で言わせていただきます。過去とは、決別していただきたい」
「――過去?」
「そうです。今日から、いいえ、きのうからでもかまいません。自分は新しい人生を始めるのだと、そう思っていただきたいのです」
「……あたしは、もうお母ちゃんとは会いたくない。電話もしたくない」
ジュリが、うつむいたまま言った。過去と決別、という意味は分からなくても、ジュリだって、娼館にはもうもどりたくないだろう。
「だって、お母ちゃん、お金の話しかしないもん」
マックスは、だまって、ジュリを見つめた。
「エレナさんや、ジュリさんから電話をしないかぎり、この宇宙船内の電話番号がお母様方に知られることありませんし、たとえ知られたとしても、彼らがここに来ることはできません。私たちは、あなたたちに電話をするなと強制することはできない。でも、なるべくなら、過去とは一切手を切って、新しく生まれ変わってほしい。私たちは、そのお手伝いを最大限させていただくつもりです」
マックスは、書類を出した。
「まず、当座の借金額は、半年で返済できる額です。エレナさんもジュリさんもね」
エレナは驚いた。
半年でだって? 十六のころから働いて、八年たっても返済できない借金をどうやって。
「L44の貨幣価値はL55とは違いますから。この宇宙船内はL55が基準です。正確な借金額は、満格楼のおかみさんのサイン入りでここに記されています。おかみさんからあなたたちのお母様に、あなたたちが宇宙船に乗ったと連絡が入るでしょう。となると、なんらかのアクションが必ずあります。みな、そうです」
エレナは、ゴクリと唾をのんだ。
「この宇宙船に乗ったとはいえ、まだおふたりは満格楼の娼婦です。このあいだに、また借金額がお母様たちの行動で水増しされれば、今までと同じことです。ですので、E.S.Cがあなたたちの借金を、いったん、全額一気に返済いたします。ようするに、あなたたちを「身請け」する、ということです」
「身請け……」
「はい。となると、おふたりはこの時点で完全に満格楼との縁は切れます。借金は水増しされません。そして、エレナさんたちはL4系の惑星生まれで、苗字はありません。調べたところ、L55にもL36にも戸籍の記録はありませんでした。ですので、弁護士が間に入り、あなた方を戸籍から抜く、という手順もいりません。ただ、多少お母様に手切れという形で、示談金を払わねばならないケースも出てくるかと。そうなりましても、E.S.Cがいったん、全額引き受けます。あなたがたの借金返済は、結果として一年ほどかかるかと思いますが、返済先はE.S.Cになります。こちらは、利子はありません。額面通り、返していただければそれでけっこうです」
「利子なしだって!?」エレナが叫んだ。「そ、そんなこと、あるのかい!?」
「もちろんこれは特殊ケース。よそもこんなに親切だと思ってもらっては困るよ」
マックスは笑った。
「さっきから言っているとおり、E.S.Cは、乗船客が新しい人生を歩みだす、最大限の手助けをする、これもその一環です。……これは、君たちの借金ではない。君たちは、親の借金に縛られて今まで暮らしてきた。それが、今日終わるんです。君たちの決断次第で」
「エ、エレナ……」
ジュリがエレナをつつく。言われなくても、決まっていた。母親となど、会いたいわけがない。できるなら、もう関わり合いたくないとずっと思っていたのだ。
「あ、あたし、もう二度と、母親とは電話しないよ」
「あたしも!」
もし、お金をためて、この宇宙船を降りることがあったとしても、連絡は取らない。
もともと、自分から母親に電話したことなどない。年一回の電話すら、楽しみに待っていたころが懐かしい。
不思議だ。
本当に不思議だ。
なにか重い縄のように、常に自分を縛っていたなにかが、ぶつりと音を立てて切れた気がした。年一回電話だけ、エレナのことなど聞きもせず、ただ借金のことだけを一方的に話す女を、母親とは思えなくなっていた。
顔も、もうほとんど覚えていないというのに。
縁を切りたいと、願っていた。それが、こんな形で叶えられるなんて。
「これはひとつ、伝えておこうと思いまして」
マックスが、エレナに向かって言った。
「満格楼のおかみさんは、遊郭のおかみさんとしてはいい方ですね。あなた方に宇宙船のチケットが当選したことを告げると、……まあ、毎回多少ゴネられるものですが、比較的今回はあっさりと。『二度とここにもどってくんじゃないよ』と言ってましたね」
エレナはおかみの口調が似ていたので笑いかけたが、
「あなたがたの借金の形をくわしく教えてくださったのも、あなた方のお母様のことを教えてくださったのもおかみさんです。おかげで、スムーズに調査が進みました。エレナさんと親しかった女性も、あなたが宇宙船に乗ったことを知ると、涙を流しておられました」
エレナは、ふいに思い出して、胸が熱くなった。心配してくれた姐さん。さようならも言わずに来てしまった。
不思議。
エレナは、ジュリを横から眺めた。
どうしてこいつをパートナーに連れてきてしまったのか、本当に謎だった。咄嗟にあそこにジュリがいたから、引っ張ってきてしまったけれど。
同じく小さいころから売られて、一緒に暮らしてきた腐れ縁とはいえ、……旅立ちに余裕さえあったら、エレナはその姐さんと宇宙船に乗りたかった。
新しい人生を始めるなら、その姐さんと一緒のほうが良かった。
優しい人だった。
もっとも、エレナは遊郭の仲間には感謝されているだろうことは違いなかった。
どういう結果にしろ、ジュリをあそこから連れ出してくれたのだから。
「――さて、説明はそろそろ終わりになりますが。これが終わったら、近くの町を散策してみましょうか」
マックスはにっこり笑って書類をしまい、紙袋をふたつ、エレナとジュリに差し出した。
中にはカレンダーと、大判の分厚い冊子、タオルやコップなどが入っていた。
「カレンダーには、宇宙船が惑星に立ち寄る日付などが書かれています。それからこれはパンフレット。この宇宙船の決まりごとや、船内の地図、過去の当選者の記録などがすこし書いてあります」
マックスは、日記帳の説明はしなかった。
「さて、最後に、これだけは守ってもらいます。この宇宙船内は、とても犯罪に厳しいところです。ちょっとしたことでも、もめごとや盗みや、そういったことが中央役所に通報されれば、宇宙船を降ろされてしまいます。自分で降りるのはどこに降りてもいいのだけれど、そういった犯罪で降ろされるときは、自分が来た星へ帰されます。エレナさんたちの場合、――わかりますね?」
エレナは、まじめな顔でうなずいた。マックスは、ジュリにも言った。
「お店でものを盗んだり、だれかと喧嘩しちゃいけないよ。悪いことは絶対だめだよ。エレナさんの言うことをよく聞いて、わがままを言わないように。満格楼に帰されてしまうからね」
ジュリは、顔を強張らせて首を縦に振った。
「ここは、L4系の住人が多数住んでいる。ほかの惑星の住民と違い、軽犯罪歴のある人間が多いから。けっこう物騒な地区なんだよ。だから、どうしても住みにくかったら、ほかの地区への移転もできるけど、家賃はそれだけ高くなる。となると、借金を返す一年目は、できるかぎり辛抱してもらった方がいいんだよ。そのほうが早く借金を返せるから」
エレナもうなずいた。こんないい部屋に入らせてもらって、我慢できないことなど、あるはずがない。
マックスは、エレナとジュリに三十万ずつ、現金でその場へ置いていった。
銀行の通帳の扱い方を教えると言ったマックスに、エレナは遠慮したため、現金での支給になったのだ。
銀行に行けば、字が読めないことがばれてしまいそうで、怖かったのだ。
結局毎月、マックスが届けにきてくれることになった。
マックスは、ジュリにしっかり、言い含めてくれた。
遊郭のときと違い、これから自分の生活費を、自分で管理しなくてはならない。だから君より頭のいいエレナさんに管理してもらうこと、と。
エレナは助かった。
ジュリにすべて預けたのでは、本当に好き勝手使ってしまいそうだった。
マックスが、だいたいこのくらいになるよと、水道光熱費と借金分を含んだ金額を差し引いても、かなりのお金が手元に余った。
宇宙船に入って一週間、エレナは大忙しだった。
その日の午後は、エレナたちははじめてレストランに入り、はじめてスパゲティランチを食べ、ジュリは昨日同様、ひっきりなしにはしゃいでいた。
次の日は中央役所にタクシーを使って行き、宇宙船に乗ったあとのさまざまな手続きで一日が終わった。
その後も、マックスは、あちらこちらと船内を案内してくれ、エレナたちの部屋で料理を作ってふるまってくれた。一週間たって、ようやくエレナたちは、船内の設備がだいたい分かってきた。
「今日で一週間だね。おつかれさまでした。あと、もうどこにも引っ張りまわしたりしないよ」
K35区のレストランで、マックスは笑いながら言った。慣れないことをたくさんしたせいか、エレナの顔に疲労がたまっているのを見て取って、そういったのだ。
ジュリの代わりに覚えなきゃいけない、といったエレナの気負いは相当なものだっただろう。
「これで、君たちを引っ張りまわすのは終わりだ。明日から私は来ないから、自由に過ごしていってください」
「マックスさん、来ないの?」
マックスと遊べなくなるのが寂しいのか、ジュリは口をとがらせた。
「うん。私は、中央役所にいるので、いつでも遊びに来てください。なにか困ったことがあったら、すぐ電話して」
マックスは、エレナたちの部屋の電話機の上に、携帯電話の番号を書いて貼っておいてくれた。
別れ際に、彼は言った。
「これは、私のL44担当役員としての意見だけれども」
マックスは、今度もゆっくりと、言い含めるように言った。ジュリにもわかるように。
「しばらくは、特にK34区にいる間は、だれにも、L44から来たと言わないように。娼婦だったことも、言わないほうがいい」
君たちの身の、安全のためにも。
マックスはそう言って、話を切り上げた。
九月になった。
エレナは、なるべく地味に暮らしていたが、問題は山積みだった。
原因は、やはりジュリだった。
マックスが来なくなって退屈になったのか、遊びに行きたがって大変だったが、「満格楼にもどりたいのかい!?」が決まり文句でジュリは黙った。
まるで、でかい子どもを世話している感覚だ。遊郭にいたころは、仕事があったせいで一緒にいることは少なかったが、今は始終顔を突き合わせていなければいけない。
ジュリを勝手に遊びに行かせるのは、まだ怖かった。
遊郭にいたころ、さすがによその店で万引きをしたことはなかったが、勝手にエレナの引き出しを探る悪癖は今も治っていない。エレナは耐えかね、マックスに相談して金庫を買った。
小さなものだが、鍵がついていて、鍵を持つエレナしか開けることはできない。それを、自分の寝室のクローゼットの、一番上へこっそりしまいこんだ。これで、勝手にジュリに金を奪われることもない。
ジュリがあまりに騒ぐので、一回だけ街へでかけた。
エレナたちは服の持ち合わせがまるでなかった。下着などの類も。
着物ではない洋服を買いに行くことにした。この宇宙船内は、さまざまな服装の人間がいるため、着物姿でも目立たなかったが、エレナは自分をすっかり模様替えしたかった。
エレナは青地のワンピースを数枚買い、ジュリは店員に勧められたものを素直に買っていた。あれだけ褒められれば買う気にもなるだろう。ジュリはピアスもしたし、二人の装いは今までとはまるで別物になって、そのおかしさに、久々に二人で笑いあった。
エレナは、なんだか過去と決別した気分になっていた。
娼婦のエレナは、もういない。
その日だけはタクシーに乗り、レストランで食事をし、帰りに映画を見た。マックスが連れて行ってくれたコースだ。
ジュリは楽しんだ次の日はおとなしかったが、すぐに駄々をこねる子どもにもどった。
金を貯めるために節約しているのだと言い聞かせても、聞かない。
「あたしのお金を返して」と言われ、エレナはあやうくジュリを追い出すところだった。勝手にのたれ死んでいいなら金はやるよ、というとジュリは泣きわめく。
日々が、その繰り返しだった。
一番厄介なのは、ジュリの、娼婦としてのさがだった。
できるなら男と寝たくないエレナと違い、ジュリは男好きも男好き。男なしではいられない性質だった。
エレナとて、ジュリを四六時中見張るわけにもいかない。
事件が起こったのは、九月に入ってまもなくだった。




