番外編 色街の黒ネコと色街の野良ネコ 1
L歴1414年 8月23日――夏。
「ばかやろう! ばかやろうっ!! っこの、ろくでなしっ!!!」
「ごめんよう、ごめんよう、許してえ、ごめんなさああい……」
娼婦たちは、日課のようなそれを聞き流しながら、あついあついとうちわで扇ぐ。胸元まで塗りたくった白粉の跡が、汗で溶け流れた。
しかし、今日のエレナの怒りは半端ではない。
娼婦たちは、エレナに蹴飛ばされ、布団にくるまって泣きじゃくっているジュリを気の毒には思わなかった。
布団の端からはみ出ているジュリのアフロヘアに、ざまあみろという視線を投げつけている。ジュリには味方はいなかった。ほかの娼婦たちも、ジュリにはさんざん、手痛い目に遭わされているのだから。
なにしろジュリは、分別のない子だった。
母親の借金のカタに、この娼館に売り飛ばされた子ども。容姿が多少良いから、中級娼婦に格上げされたといっても、おつむの悪さは如何ともしがたかった。
ちょっとした決まりごとも覚えられない。姐さんたちの鏡や化粧箱を勝手につかう、風呂の順番もおかまいなし――もっとも許せないのは、なんでもペラペラとしゃべってしまうことだった。
ジュリに伝わったが最後、ウワサは一気に広がる。
そのせいで、男を取られた姐さんもいたし、若い男との密通がばれて、大旦那を逃した姐さんもいた。ひどい仕置きにあった姐さんも。
ジュリに悪気がないのは分かっている。でも、そのせいで痛い目を見た姐さんも少なくないのに、ジュリ本人は、どこかへふらふらと遊びに出かけて仕事時間にもどらなくても、おかみさんのきつい説教ですんでしまうのだ。この子はバカだというみそっかす扱いで。
ほかの女がそれをしたら、脱走と勘違いされて、手ひどい折檻を受けるのはまちがいないのに。
だから、だれもジュリをかまいたがらない。
蹴飛ばしても、殴っても、ジュリをかまうのはエレナだけだ。
「このやろうっ! このやろう……!!」
それにしても、今日のエレナの怒りは激しすぎた。エレナの声には涙が混じっているように聞こえた。
――あれは、男を取られたのかもしれない。
姐さんたちは、だれもがそう思った。
だが、事実はもっと深刻だった。
地球行き宇宙船の乗船チケットを、客に取られたのだ。
ジュリのせいで。
昨夜のことだった。
エレナは、自分あての封筒に、おかしなものが混じっているのに気付いた。
娼婦たちへの郵便は、基本的におかみの検閲を受ける。中身までは見ないが、それでも中級娼婦となれば、化粧品のダイレクトメールや、L44にくる芝居の案内などが送られてきた。
その封筒は、一見、化粧品会社のダイレクトメールを装っていた。
「E.S.C」とある、白い封筒。
エレナは字が読めない。しかし、まったく読めないというわけではない。L55と書いてあるのだけは、読めた。
(L55?)
L55といえば、L系惑星群の中央星。そんなところから化粧品の広告? 中央星の金持ちが使うような高級化粧品は、中級娼婦には分不相応だ。高級娼婦宛てとまちがえていないか――と思いつつ、封筒を開けた。
中にあったのは、厚みのあるチケットだった。
エレナの名と、日付と――。
日付は読める。八月二十三日。
(八月二十三日は今日だ)
もう日付は変わっている。
カレンダーを確認したエレナは、ごくりと唾を呑んだ。
これは、なんだろう。
エレナ様へ、と書いてあるから、自分に来たことはたしかだ。
エレナは、チケットをひっくり返したり、すかしたりしてみたが、これ以上読める字はないし、映画や芝居のチケットにしては、妙だ。
ふいに、姐さん達が話していたことが脳裏に閃く。
地球行き宇宙船のことだ。
地球という星に行く、どでかい宇宙船があるという話で、金持ちばかりが乗るわけではなく貧乏人も乗れる。
ある日突然、白い封筒に入ったチケットが届くのだそうだ。それからまもなく、L55から迎えがやってきて、宇宙船に乗り込める。
そうなったら、もうL44にはもどらなくていい――。
くじみたいに抽選だから、買おうと思って買えるもんじゃないんだよ、と姐さんが言っていた。
(――あたしに、当たった?)
まさか。
でも、そうでなければ、こんな場末の娼婦に、L55から封筒なんか来るはずがない。芝居やサーカスのチケットや、化粧品の案内は、チラシが一緒に入ってくる。こんな文字ばかりのシンプルな紙が一枚入っているだけなんて、それしか考えられない。
エレナは、やっと意味が分かって、腰を抜かした。チケットを持つ手がぶるぶる震えた。
何度も封筒の宛て人を見返したが、やっぱり自分の名だ。
ここから、――ここから、出ていける……?
エレナは、あわててチケットを引き出しにしまった。しまってから、思い直して自分の懐に入れた。
(見つかっちゃいけない)
キョロキョロとあたりを見回すが、だれもいない。ほっと胸をなでおろした。
エレナはもう一度、チケットを見た。やっと、電話番号の数字を見つけた。電話番号くらいわかる。
今は深夜。みんな仕事中だ。
エレナは軽い風邪を引いたので、今夜の仕事は休んでいた。懐に入れたままにしようと思ったが、いつ落とすかもしれない。エレナはさんざん悩んだ挙句、一生懸命番号を覚え、ふたたび引き出しにしまった。
それからそうっと階下へ行き、おそるおそるおかみさんに聞いた。
「電話、借りていいですか」
金貸しさんに電話をしたいというと、おかみさんは帳簿を睨んだまま「いいよ」とそっけない返事をした。
エレナはあわてて電話のボタンを押す。手が震えた。プルル、と数度の呼び出し音のあと、「はい、こちらマックス」と、初老の男の声がした。
そこでエレナは初めて、今が深夜ということに気付いた。緊張と驚きのため、そんなことは頭からすっぽ抜けていた。いくら字が読めなかろうが、深夜に電話をかけるのは失礼だということは弁えている。
エレナは冷や汗をかきながら、「え、え、エレナ――ですけれども」と、やっとのことで声を絞り出した。
こんな夜更けに電話をしてごめんなさいと言おうとしたが、
「ああ、エレナさん」
相手の男は、まるでエレナを旧知の仲のように呼んだ。
「チケットが届いたんですね?」
深夜の電話を、相手は不愉快には感じていないようだった。それどころか、待ちかまえていたような。
「は、はい……」
「あなたに届いたのは、地球行きの宇宙船の乗船チケットです。ご当選、おめでとうございます」
やっぱり、地球行きのチケットだったんだ。エレナは、心臓がドキドキして、胸のあたりをぎゅっとつかんだ。
マックスは声を低め、言った。
「わたしは、E.S.Cの派遣役員、あなたの担当のマックス・K・ディモンドといいます」
「あっはい……」
「よろしいですか。エレナさん。このチケットが届いたことは、だれにも言わないように。チケットを、みんなの目に触れる場所においてもいけません。そして、これからわたしの言うことにはすべて「はい」か「いいえ」かで返事をしてください。あなたは、簡単に外出できない状況ですね? 外出には、おかみさんの許可が必要ですか?」
「は、はい――」
「地球行き宇宙船に、あなたは乗りたいですか?」
「はい!」
そこだけは、勢いよく返事をした。それならば話は早い、とマックスは言い、「字は読めますか?」と聞いた。
エレナは咄嗟に、「はい」と返事していた。字が読めないことを知られると、なにかと不都合だ。
相手は、「――そうですか」と、言った。リズミカルな応答に、すこしの遅れがあった。
「チケットは、絶対に自分の肌から離さないようにしてください。それでは、あくる朝、いえ、もう今朝ですね。午前九時にお迎えに上がります。貴重品だけお持ちして、部屋でお待ちください。よろしいですか、問題が起こると困りますので、けして出歩かず、お部屋でお待ちください。あなたの借金の残額などについては、わたしが直接あなたの雇い主と交渉いたします。どうか、ご心配なさらず。くわしいことは、そちらへ伺ってからご説明いたします」
――今日!
「ちょっと待っておくれ! そんな……!」
今日だなんて、早すぎる。エレナは叫んだが、相手は電話を切った。
エレナは、呆然として受話器を置いた。その様子を伺っていたおかみが、ためいきをついた。
「……どうしたい、利子の値上げかい? まったく、あんたらも大変だねえ」
今日だなんて。
エレナは青ざめ、挙動不審そのままにおかみの部屋をあとにした。
「エレナ、あんた、熱下がったのかい」
廊下ですれちがった仲間の声にも気づかず、夜着を翻しながら、胸元を押さえて部屋に向かって駆けた。
(――いやだいじょうぶだ。だいじょうぶ。こんなに早く出ていけるなんて、嬉しいじゃないか)
エレナは、自分に言い聞かせるように、何度もうなずいた。顔がほころぶのを懸命に我慢しながら。
(荷物なんてたいしたことはない。服はいらない。どうせ、服なんて一枚きりしかないんだから。いつも、その辺の茶屋に行くような感じで――用意して)
落ち着け、落ち着けと自分にい聞かせるエレナの頭の中は、大混乱だった。
そうだ。おとなしくまってりゃいいんだ。
マックス……さんもそういった。余計なことをすると、いけない。
借金のこともおかみと話し合ってくれると言った。どうなるんだろう。
でも――ほんとに、地球行きの宇宙船なんだろうか。
こういうのにサギってあるのかな、サギだったらどうしよう……。
もっとひどい娼館に売られたら?
いまさらどこに売られたってきっと一緒だ。
あれは本物だろうか、だれかに聞いてみたほうがいいだろうか。
でも、姐さんたちにも聞けない。本物だったら、取られちまうかもしれないし……。
エレナは足早に部屋にもどった。
そして部屋を見て――慄然とした。肌が粟立った。
エレナの部屋は、引っ掻き回されたようになっていた。正確に言えばエレナの部屋ではない。
ここはエレナと同期の娼妓ふたりと、……ジュリの部屋。
エレナの引き出しが開けられていて、封筒やら化粧道具やらが畳の上に散らばっていた。あわてて引き出しを引っ張り、逆さにして中身を全部出して探したが――、ない。
ない、ない、……ない!!
宇宙船のチケットが、どこにもなかった。
エレナにはわかった。
ジュリのしわざだ。
ジュリは、勝手に仲間たちの化粧道具をつかう。エレナも引き出しを引っ掻き回されるのは日常茶飯事のことだった。この、空き巣が現れて散らかしていったような状態にしていくのは、ジュリしかいない。
まさか、ジュリに見られていたのか。でもまさか。
あのとき、周りにはだれもいなかったはずだ。
「エ、エレナ……」
エレナの背後から、おそるおそるといった声が聞こえた。そこにはジュリがいた。
(あたしのチケットを、あんた、どうしたんだい!)
エレナはかっとなって怒鳴ろうとしたが、そのまえにジュリが寄ってきて、エレナに袋を渡した。中には札束ともいえないもみくちゃの紙幣が、折りたたまれて入っていた。
数えると、およそエレナたちの三ヶ月分ほどの賃金に値する金額だった。今日のジュリの客は、L5系の、金持ち爺だ。いくら金回りのいい客だからと言って、こづかいというには、大きすぎる金額だった。
「あ――あんた、なによこれ――」
嫌な予感がした。
「だ、だって、あたしも行きたかったんだもん……」
ジュリは怒られるのを承知で、上目づかいで言った。
エレナが、あの「白い封筒」を出したりしまったりするのをジュリは見ていた。
ジュリはちょうど、エレナを呼びにきたのだ。
今日の客は、エレナをお気に入りの爺で、エレナが咳き込んで休んでいるのだと聞いて、寝なくてもいいから酌をしにこいとうるさかった。
運が悪かった。ジュリは、エレナが大切そうにチケットを隠しているのを見た。ジュリは、その封筒は、「お芝居のチケット」だと思い込んだ。
娼婦たちには、ほとんど娯楽というものがない。だが、気のいいおかみさんであれば、年に一度くらいは、街に来るサーカスや芝居に、仕事ではなく、客として行かせてくれる場合があった。エレナたちの娼館のおかみは、そういうところは気前が良かった。息抜きを与えてくれる、だから娼婦たちもがんばれた。
物見遊山はいっせいに、というわけではなく、交代である。今回はエレナがチケットをもらった。ジュリはそう思った。
エレナだけずるい。あたしも行きたい。
ジュリは、いったいなんの芝居か好奇心を押さえられなくなって、それを見た。ジュリも同様、字など読めるはずもない。だが、L55というのはジュリにも読めた。分別のないジュリは、そんなことがあり得ようはずはないのに、エレナがL55にお芝居を見に行くと思い込んだ。どうしても、このお芝居がなんなのか、知りたかった。
だからそれを、爺に持って行ったのだ。字を読んでもらおうと思って。
「あ、あんた――!」
なんてことをしてくれたんだい!
エレナは怒りのあまり、髪の毛が逆立ちそうだった。
爺は、そのチケットを買うと言い出した。そして、ジュリに、「いっぱいお芝居を見に行きなさい」と金をくれた。
ジュリは能天気な笑顔で笑った。
「これでね、お芝居いっぱい見れるって! L55でお芝居見れるってさ! エレナと二人でおいしいもの食べて、お芝居見てもまだお金があまるって――」
「バカお言いでないよ!!」
怒鳴られて、ジュリはビクッと体を揺らした。
バカもいいとこバカだ。普段の近所の外出さえ、おかみの許可なしに出て行くことができない、借金を返すまでは、エレナたちはL44を出られないのだ。L55になど、行けるわけがない。いくら金があろうが。
「あんた――なんてことを、あれは、あれは……芝居のチケットなんかじゃ……、」
あまりのことに、エレナはへなへなと崩折れた。
「……あのクソじじいは、どこだい」
「もう帰ったよ」
聞いたとたん、エレナはジュリを平手で打った。ジュリが弾かれたように泣き出す。
「あんたは……、あんたは……っ!!」
気が狂ったように、ジュリを殴りだした。その騒ぎを聞きつけ、周りの部屋から姐さんたちがやってきて、エレナをジュリから引きはがした。
「どうしたんだいエレナ!!」
「離しておくれ! もう我慢できない! コイツをぶっ殺してやる!!」
「落ち着きな、エレナ!」
大声で泣くジュリはうるさいので、隣の部屋に連れて行き、障子を閉めた。客の迷惑になる。
姐さんたちは、エレナも別の部屋に連れて行き、必死でエレナをなだめた。
こういった光景はめずらしいことではない。今、エレナを止めている姐さんの三分の二は、同じように、ジュリに殴りかかったことがある。
「落ち着きな、エレナ。どうしたんだい? ジュリのせいでどんなひどい目に遭った?」
普段は冷たい姐さんも、ジュリに関しては、自分も手ひどい目に遭わされたことがあるため、親切だった。
エレナもまた、泣きじゃくった。客の迷惑にならないよう声を押し殺して。
なんてことだ。なんてこと……。
せっかく、ここを出て行けるかもしれなかったのに。
ジュリにさえ、見られなければ……。
エレナはショックで、激しく咳込んだ。身体から力が抜けて、動けなくなった。
日が昇って朝になり、エレナは髪を振り乱したボロボロの状態で、フラフラと部屋にもどった。
布団にくるまって、のんきにいびきをかいているジュリを見た途端に怒りがこみ上げ、エレナは蹴飛ばし始めた。
もう、どの姐さんも止めなかった。客は皆帰ったあとだ。ジュリがエレナに蹴り殺されようが、どうということもない。
むしろ、だれでもいいからジュリを消してほしかった。
エレナに見捨てられたら、ジュリはもうだれもかばってくれる人間はいない。ジュリはもう下級娼婦に格下げだな、と姐さんたちは踏んでいた。もともと、この分別のつかない娘を、中級として雇っていたことが不思議なのだ。
その点、いままでジュリは運が良かった。だが、その運も今日で終わりだ。
「ばかやろう! ばかやろうっ!! っこの、ろくでなしっ!!!」
「ごめんよう、ごめんよう、許してえ、ごめんなさああい……」
それにしても、エレナの怒りはものすごかった。喧嘩は日常茶飯事だが、こんなにエレナが怒っているのもめずらしい。
やがて、ほかの姐さんたちも起きだした。ずいぶん威勢よくやってるなあと、芝居か見世物のように眺めている。
一時間もそれが続いたろうか。やがてエレナがぐったりとして、座り込んだ。柱に背をもたせかけ、しくしくと泣き始めた。
エレナは気の強い子だ。男に騙されたときでも、泣くことはなかった。そのエレナの乱心ぶりに、エレナを可愛がっている姐さんが、ようやく腰を上げてエレナに近づいた。
「……なに、エレナ。ジュリが勝手におまえの芝居のチケットを持ち出して、爺に売ったんだって?」
エレナは、涙まみれの顔を少し上げた。
「かわいそうに。でも、あの爺、なにか勘違いしたんじゃないか? たいそうな金額入ってたじゃないか。あれをもらっといて、チケットは今回、あきらめな。なんなら、あたしの芝居のチケットをあんたにやるよ。あんみつおごってくれればさ。……もしかして、芝居の会場でオトコと待ち合わせしてるとか、そんなとこかい?」
エレナは首を振った。
勘違いではない。あれは、ほんとうに宇宙船のチケットだったのだ。
爺があんな大金を出して買っていったのが、いい証拠だった。
だがチケットのオークションの相場の真実を知ったら、エレナは激怒ではすまなかったろう。一億で売れるチケットが、三十万デルほどで買われたのだから。
エレナがふたたび泣き出すと、姐さんは、しかたないねえとため息をつきつつ、言った。
「あのヘンタイ爺は、一度L44に来たら、一週間はあちこちはしごするからね。昨日帰ったってんなら、お次は大連宿に泊まってるよ。あたしがおかみさんに許可もらってやるから、行ってみな。なんとか、話つけてみなよ。ありゃジュリが勝手に売ったんだって。娼妓がおかみの許可なしに、勝手に物の売り買いはされないんだから。もともとご法度だ。芝居のチケットごときに、L5系のじいさんがゴネたりしないだろうよ」
……そうだ。
エレナは涙でくずれた顔を上げた。
自分はあの爺のお得意様だ。どうしてそのことに気付かなかったんだろう。あの爺は、L44に来て泊まるルートは決まっている。
最初にエレナたちの満格楼、次に河岸を変えて大連宿、――次は。
まだ、あの爺は、目と鼻の先にいるのだ。
「姐さん、ありがと……」
「行ってみな。返してもらえるといいね」
エレナは、金の入った袋を持って立ち上がった。涙で濡れた顔を拭って、さっと小袖のうえから上着を羽織る。
自分の貴重品を入れた小さな風呂敷を持って、エレナは足早に階下を降りて行った。
それを見届けると、姐さんたちは、申し合わせたように布団の中で泣いているジュリを蹴った。
「アンタも行くんだよ!」
「早くお行き!!」
ジュリは訳が分からず、布団の中から顔を出した。
「アンタが売っぱらったんだろ? エレナの大切なモンを。だったら、アンタが土下座して爺に謝るんだよ! エレナに返してもらえるようにさ!」
意味が分かっていないジュリは、「だって、いっぱいおカネもらって……、」
お芝居に行きたい、とつぶやいた。
「察しの悪い子だね! あんたは、売っちゃいけないもんを売ったんだよ! でなきゃなんでエレナがあんなに怒るんだよ! あれじゃエレナは一生、アンタを許してくれないさ」
エレナが許してくれない。そこでジュリは初めて青ざめた。
ジュリは、エレナに嫌われてしまうのがなにより怖かった。そのわりには、毎日怒らせているのだが。
「今度こそ、本気でアンタを嫌いになっちまうよ。エレナに謝って、爺に土下座して、チケットを返してもらいな」
ジュリは大慌てで、飛び出していった。着物も髪もボロボロのまま。
芝居のチケットがあったって、一人さびしく行くのはいやだ。エレナと一緒に遊びたいのだ。エレナに嫌われたら、一緒にお芝居もサーカスも見られなくなる。
「あんた! エレナは大連宿だよ!」
エレナ、ごめんなさい。嫌いにならないで。
叫びながら往来に飛び出していくジュリは、あれがジュリだと分かっていなかったら、だれもが警察に通報していたことだろう。まるで狂気の沙汰だった。
大連宿は、満格楼のはす向かい。
近所のこともあって、大連宿の娼妓やおかみとも、エレナは顔なじみだった。昨日、うちに泊まった客と話がある、というとおかみは少しいやな顔をしたが、それでもエレナが面会を求めているのは爺だ。どうあっても色恋沙汰のもめごとにはならんだろうと判断して。
「うちの商売の邪魔はなしだよ。五分だけにしな」
と言って、爺が泊まっている部屋へあげてくれた。
その時点で、午前九時に十分まえだった。エレナは気づかない。
爺は起きていた。三人の美人に囲まれて水タバコを吸い、ご満悦だった。
おかみが部屋の前までエレナを連れてきて、また階下に降りて行ったのを見計らい、エレナは娼妓に、自分と爺を二人にしてくれとこっそり頼んだ。
自分のなけなしの財布からいくらか取り出し、娼妓に握らせる。彼女は五分だけならと承知してくれた。エレナは、近所の顔なじみで、知らない顔ではない。
娼妓がほかの二人と隣の部屋に消えたあと、エレナは爺だけが待つ和室に入った。
「おお、エレナ」
爺は、機嫌が良かった。
「昨日は来てくれんでな、さびしい思いをしたわい」
「それは、申し訳なかったです――あの、それより」
「んん?」
「昨日、ジュリがあなたに売ったチケットを返してほしいんです」
エレナは、金の入った袋を差し出した。
「ジュリが勝手に持ち出して、あんたに売った。あれはあたしのなんです。あたしはこんな金いらないんです。どうかそのチケットを返して」
爺は、まあまあ、とネコ撫で声で言った。
「ありゃ、おまえのか。あれはジュリにやった分じゃから、おまえにもやるわい。ほれ、倍くれてやる」
爺は財布を出して、中から札束をつかみだした。エレナが見たこともない厚さの紙幣。爺の革の財布の隙間に、エレナは、チケットがあるのを見た。
「金はいらないってば。チケットを返しておくれよ!!」
「のう、エレナ」
爺の声が、切羽詰まったものになってくる。
「この爺はな、老い先短いんじゃ。老い先短い爺に、最後の長期旅行をくれてやってもいいじゃろうが、な? エレナ?」
エレナは、旅行などしたことがない。地球行きの宇宙船に乗ることが、この爺にとっては旅行なのか。こっちは、死活問題なのに。
「金は返した。チケットを返しておくれ……!」
エレナは袋を爺に放り投げ、つかみかかった。財布からチケットを抜き取る。
「な、なにをするんじゃ! どろぼう!!」
爺の悲鳴を聞きつけて、隣の部屋に待機していた娼妓が部屋へ駆け込んできた。
「なにしてんだい、エレナ!!」
「そいつが、そいつが……わしの財布からスッた!」
「エレナ、本当かい!?」
「あたしは返してもらっただけだ! 盗人はコイツだよ!!」
娼妓同士で言い争っている中で、爺がエレナにつかみかかった。チケットを奪い返そうとしたのだ。
エレナは棚の上にある手鏡を、思い切り爺に投げつけていた。
ぎゃっという悲鳴がして、爺が頭を血まみれにして転げまわった。
鏡の破片が、散らばっている。娼妓たちが、悲鳴を上げた。
頭がまっしろになり、そのまま、部屋から逃げ出していた。階下に降りると、おかみのまえでジュリが泣きわめきながらなにか言っている。エレナの顔を見ると、嬉しそうに顔をほころばせた。
エレナは、咄嗟にジュリの手を引いて、大路に出、駆け出していた。チケットを右手に握りしめたまま。
「捕まえろ!!」
「脱走だ!!」
「ふん縛れ! 殺すなよ!!」
仕置きの男衆の声だ。
彼らは、脱走する娼婦たちを捕まえて、むごい仕置きをする。そのまま死んでしまう娼婦もたくさんいた。
エレナは絶叫して泣きわめきたかった。もうわめいていたかもしれない。
殺される、殺される……!
あたしもジュリも、殺される。
大路を走り、橋の近くまで来ると、スーツを着た男女の集団が見えた。車から降りている。この界隈では、異相であることは違いなかった。スーツの男は見るが、スーツ姿の女を見たのは、エレナは初めてだった。
息が切れる。
仕置き衆は、間近まで迫っていた。ジュリがぎゃあぎゃあ泣いている。
助けてえ、助けてえ――!
どっと、大きな男の胸板にぶつかって、エレナはつかまった。仕置き衆にではない。
「……エレナさんですね?」
ぶつかった男からではなく、隣から、そのおだやかな声は聞こえてきた。
「はじめまして。マックス・K・ディモンドと申します」
彼は帽子を脱ぎ、会釈した。
マックス――そうだ、電話に出た、じいさん。
エレナは、L55からの迎えだとわかり、急に力が抜けた。へたり、としゃがみこみそうになったのを、その大柄な男が支えてくれた。
あわてて、チケットを差し出したが、だれも受け取らない。
マックスは、安心させるようにエレナの手を握り、持っていなさい、というように、チケットごとエレナの手を乾いた掌で包み込んだ。
「そちらの方が、ご同行のパートナーですか?」
マックスは、あきらかにジュリのことを聞いていた。
パートナー?
そんなものがあるとは知らなかったが、ジュリも乗せてもらえるのだろうか。
「そちらの方の、お名前は?」
マックスはエレナに聞いた。
「ジュ、ジュリ……」
エレナたちを追ってきた仕置衆は、橋の目前で立ち止まった。マックスがまえに進み出て、胸元からなにかを取り出してちらつかせた。
「わたしたちは、地球行き宇宙船、E.S.Cの派遣役員です。エレナさんとジュリさんを保護します。あなたがたは、解散してください」




