8話 ジャータカでもないその隙間 Ⅱ
高層マンションの窓からは、海が見えた。
さっき、ガソリンスタンドで店員をやっていたはずのアズラエルは、ルナと同じマンションの部屋にいて、夜景を眺めていた。その恰好は、ガソリンスタンドのオーバーオールではない。
高級な黒いスーツになったり、Tシャツとジーンズになったり、軍服になったりした。
アズラエルは、ソファで眠るルナの寝顔をのぞき込んでは、そっと離れて、窓際に戻ることを繰り返した。
そのあいだ、一度もルナには触れなかった。まるで、触れるのを怖がっているかのように。
――のろわれろ!
この愛しい、小さな唇から吐き出された絶望の言葉を、アズラエルは忘れたことなどない。ずっと。
この、気の遠くなるような年月、ずっと。
もう、いいだろう、ルナ。
……俺を、許してくれ。
アズラエルは、切なる想いで、そう祈った。
まだ消えないんだ。あの言葉が。
おまえに何度愛してると言われても。慈しまれても。
あの言葉が、消えない。
それでもいいといったのは俺だけれど。
おまえと永遠にいっしょにいられるなら、のろわれてもいいと言ったのは俺だ。
くりかえし、おまえに憎まれて、おまえを憎んで。
おまえを失い続けて。
アズラエルは、感傷に浸りそうになる自分を叱咤した。もうすぐ、弱みを見せてはならない相手が来る。
そう思っていたら、まるでタイミングを外さずチャイムが鳴った。
アズラエルが玄関へ行き、ドアを開けると、濡れたキャメルのコートの男が立っていた。深く帽子をかぶっている。
あまり見たくない顔。相手だってそう思っているはずだ。でも、まだこうして顔を見れるようになっただけでもマシなのだろう。
男は背が高く、アズラエルよりわずかに大きいくらいだ。だが、容姿はアズラエルとは対照的に、色が透きとおるように白い。同じなのは、黒髪であるところくらいだ。
「顔を見にきたんだよ」
セルゲイは言った。
「そのくらいかまわないだろう? どうせ、“キョウカイ”に連れてくる気はないんだから」
水が透きとおるように淡く微笑んでセルゲイは言った。この男は、こうしておだやかに微笑んでいる時が一番危険だった。だが、それが偽物なのか本物なのか、そのくらい見分けがつく程度には、アズラエルは経験を積んできた。
「寝顔でいいなら」
「承知の上だ」
セルゲイは帽子を取って玄関にあがった。濡れたコートを脱ぎもせず勝手に部屋にはいっていく。これで靴も脱がなかったら、アズラエルは殴ろうと決めていたが、靴だけは脱いで上がった。
ソファのすぐそばまでくると、セルゲイは、やっと気づいてコートを脱いだ。
ルナに水滴がかかるのを気に病んだらしい。絨毯が濡れるのは平気らしいが。濡れたコートをそのまま床に置かれたので、アズラエルは顔をしかめた。
どうこう言っても始まらない。アズラエルだって多分、こいつの家に行ったら同じような嫌がらせをして帰ってくることは間違いない。
セルゲイは、ソファの背もたれに軽く腰掛け、ルナの頬を撫でた。
いまはとてもおだやかな気持ちでおまえに触れられる。
おまえもそうであるといいけれど。
きっとこの次出会えるときこそ、おまえの兄としてただしくあれるかもしれない。
「変わっていない。……この寝顔は」
「なにも変わらない。ルナはな。――なにも」
「変わらないものなんてない。君も、私も、グレンも」
セルゲイはそう言った。
「もちろん、ルナもだ」
アズラエルは錯覚かと思った。セルゲイが見たことのない顔をしている。
どうにも油断ならない顔ではなく、なんというか、自然だ。
ルナにしかしなかった顔。見せなかった顔。
アズラエルにも、胸襟を開いているような顔をしていた。
――ありえない。
セルゲイは、すぐに立った。コートを抱え、「ではまた」と、アズラエルの肩をポンと叩いて玄関に向かった。
その後ろ姿を、アズラエルは複雑な表情で見つめていた。




