65話 しあわせな結末 2
――エレナは、ふっと目覚めた。
さっきまで、夢を見ていた気がする。
おかしな夢だった。
グレンとルートヴィヒの母親を、写真で見たせいだろうか。
のどが渇いて、ベッドサイドの水を取ろうとして、それに気付いた。ジュリの手の中からこぼれて、シーツの上に転がっていた。エレナはそれを自分の手に取り、優しくなでた。
ルナが、帰り際に置いていってくれたもの。
『本当は、安産守りとかのほうがいいんだろうけど』
やっぱり、ルナは神さまに守られた子だ。
エレナは、さっきまでジュリの手の中にあった、まだぬくぬくとした肌守りを、そっと頬に押し当てて、それから自分のおなかに押し当てた。
(……聞こえるかい? ねえ、あたしの赤ちゃん。ルナがくれたんだよ。素敵だろ?)
ルナが、自分の星の神社に行ってもらってきた肌守りを、帰り際、エレナにくれた。
ジュリがうらやましがって、あたしにも神様貸して、とさっきまで大切そうに握っていた。ジュリは、あたしも欲しいとさんざんわがままを言い、皆を困らせた。
ルナは頭がいい。ちゃあんと、ジュリの機嫌を取る品も持ってきていた。K05区の土産だと言って、――ちょうどルナとジュリが出会ったのが、ジュリの誕生日だったとかで――可愛い縮緬に入ったリップをジュリはもらい、それでようやく、わがままを言うのをやめたのだ。
それでも、やはり肌守りがうらやましいのか、さっきまで手離さなかった。
しようのない子だ。
エレナは思ったが、いまさら、ジュリに呆れてもしかたないのだ。
子どもと一緒だから、ものが見えなくなれば、そのうち忘れる。
(これは、あたしがもらったものだからね。あたしの赤ちゃんに)
勘弁しておくれ。
エレナは、肌守りを、大切そうに懐へ入れた。
そうして、顔を上げてびっくりした。
自分のベッドの右脇に、ジュリがうつ伏せて、いびきをかいている。それはいつものことだ。
なぜか、自分の左側の足元に、ルートヴィヒが眠っていた。
そして、窓側の椅子にはカレンが大口開けて座って眠っていたし、ドア付近の椅子にはグレンが腕組みをして、顔に「赤ずきんちゃん」の絵本をかぶせて、眠っている。
セルゲイもドアを塞ぐようにして、大きな体を壁にもたせ掛けて、寝ている。
いつからいたのだろう。
エレナは呆気にとられ、それから、大口開けて寝ているカレンの顔に吹き出しそうになった。個室とはいえ、この狭い部屋に大きな男が三人。プラス、カレンとジュリ。狭苦しいことこの上ない。
ベッドを降りようとすると、「……どうした、気分悪ィのか」とグレンが声をかけてきた。
「ちがうよ。少し、外が見たいだけ」
寝ていて、とエレナが言うと、グレンはすぐに目を閉じた。
軍人というのも因果な商売だ。わずかな気配で起きてしまう。
エレナは窓辺に立ったが、カレンは起きなかった。ルナからもらったお守りを握りしめ、外を眺めた。
――空は、宇宙だ。
窓の外は、宇宙船のディスプレイが見せる真っ黒の星空で、茶色いマーブルの惑星が、大きく夜空をよぎる。エレナは初めて、この星空の不思議さに気付いた。
そうだ。月がない。夜空に月が、ないのだ。
こんなに煌々と、星々が瞬いているのに。
エレナは、ふと、L44で見た月明かりの綺麗な夜空を思い出した。月が鮮やかで、夜なのに、昼間のような明るさで、星があまり見えず、雲が見えるような夜がある。
夜なのに、暗くない夜。
L系惑星群は、大小さまざまな星が数百を数える。
居住区となった星々は、衛星をたくさん従えていたが、地球人はかならず「月」らしき衛星を選んだ。
中には「月」が数個ある惑星もある。
月がない惑星は、人工的に月を作り出した。
星々は、すべてが二十四時間で一日、の周期ではなく、また、自然環境が厳しすぎて、決められた領域しか人が住めない惑星も多々あるが、朝が来て太陽が昇り、夜には月が上がる。そんな環境を地球人は望んだ。
エレナが暮らしたL44は「地球」に似ていた。月はひとつで、一日は24時間。
目を閉じると、月夜が目の裏に浮かぶ気がした。
大きな月が夜空を照らし、雲さえ見える、そんな明るい夜を。
L44を出て、こんなふうに穏やかな気持ちで、夜空を見上げたのは初めてだった。
――ルナ。
ルナはあたしにpi=poをくれ、ゼリーをくれて、本や字を書ける道具や、お守りをくれた。
でも、あたしがなによりうれしかったのは。
――L44を出たのはいいが、あたしたちにとって、この世界は厳しかった。
あたしは、宇宙船にさえ乗れれば、幸せになれると思い込んでいた。
好きでもない男と寝なくてもいい、借金のことを心配することもない――だけど、そうじゃなかった。字も書けず、娼婦仲間の世界だけで暮らしてきた、世間知らずのあたしらは、ほかの連中にとって騙しやすい、いいカモだった。
娼婦生活を抜け出て、やっと救われたと思ったあたしは、甘かった。
娼婦だったからというだけで蔑まれ、だまされ、せっかく娼婦でなくなったのに、――あたしらを無理やり抱こうとする男たちがいる。
あたしは、あの星を出ても、娼婦のままだった。
そんな中でも、あたしに優しかった男がいた。身体を要求するわけでもなくて、なんの見返りも求めずあたしに優しくしてくれた。その男は、ルナ、あんたを愛してた。
「ふたりとも」。
そして、あたしは望みもしなかった赤ん坊ができたために、唯一の希望だった宇宙船からも、降ろされようとしていた。
あたしは絶望した。
だれも信じられなかった。幸せそうな奴らが憎かった。
ルナ、あんたが憎かった。
今だって、あたしはルートヴィヒを心の底から信じることなんてできない。人は心変わりするものだ。今は愛していても、いつか、その愛がなくなることだってある。
あたしみたいな女が赤ちゃんを産んだって、育てていけるかどうかも分からなかった。
あたしは字が読めない。娼婦以外の仕事に就いたことなんてない。最初から世界に拒絶されたあたしは怖かった。この子を育てるために、あたしはまた娼婦にもどることになるかもしれない、そんなことを考えて、絶望した。
この宇宙船に乗って、新しい人生をはじめるんだと思うたびに、片っ端から希望は打ち砕かれた。
あたしは、結局、娼婦という名の輪廻から、抜け出せないのか。
だけどあんたは、そんなあたしにいくつも、可能性をくれた。
あたしに、夢と希望を与えてくれたのは、あんただルナ。
この、絶望の輪廻から、抜け出すきっかけをくれた。
一歩踏み出す、希望をくれた。
産んでもいいんだよ、子どもができても宇宙船を降ろされることなんてないんだよ。
あんたは、あたしにこの子を産めと言ってくれた。
おろせとは言われても、産んでと言われたのははじめてだった。
それは、みんなにとっては、当然のことなのかもしれない。でも。
少なくとも絶望の淵にいたあたしには神様の声だった。
あの優しい声を、あたしは忘れられない。
あたしに――この上ない安心をくれた、あの優しい声が。
自分が、だれかに愛されているなんて、考えもしなかった。
自分が、字を書けるかもしれないなんて、考えたことなかった。
あたしだって勉強すれば、もうすこし賢くなるかもしれない。たとえ、ルートヴィヒとうまくいかなくても、今度は娼婦じゃない仕事で、暮らしていけるかもしれない。
そんな希望を、くれたのはあんただよ、ルナ。
みんなの優しさも、あたしは今まで見えなかった。
セルゲイ先生まで――こんな狭い部屋に、あたしを心配して駆け付けてくれている。
あんたの声が、グレンやルートヴィヒ、カレン――マックスさんたちの優しさも見えなくしていた黒雲を吹き払ってくれた。
あたしの世界は夜の闇。
なにも見えなくなっていた夜の雲を吹き払い、その帳からあたしを照らし出してくれた、明るい月。
――あんたみたいだ。ルナ。
エレナは、ストールを、カレンの膝にかけてやった。ベッドにもどり、ルナのお守りを抱きしめながら眠った。
なんて、幸福なのだろう。
『そ――そんな、下心なんて、ないよ……』
情けない、男の声。
……ああ、これは、さっきの夢の続きだ。エレナは思った。
病室のベッドに、黒髪のジュリ――グレンの母が座っていて、ルートヴィヒの母、エレナがその脇に立っている。彼女は肩をいからせ、ドア付近の男を威嚇している。
今までの、あたしのようだ。だれも信じられず、親切心をひけらかして近づく男は、ぜんぶ下心があると思っている。
情けない男は、昼間写真で見たセバスチアン――ルートヴィヒの父だ。
若い彼は、とてもルートヴィヒに似ていた。情けない声も、大型犬が叱られて、耳がヘタレているような様子も。
『わ、わたしはただ――その、え、絵本を読んであげようと思って――』
『そんなこと頼んでやしないよ! 第一、お忙しいエリートさんが、なんでこんなに毎日来るんだい!?』
『そ、それは――その、』
セバスチアンは耳まで真っ赤になる。
『き、君に、あ――会いたくて』
やっとの思いで振り絞ったような言葉に、エレナが鼻で笑う。
『正直に言えばいいのに。寝たいなら寝たいって』
『そ、そんなこと! そうじゃなくて!』
『ハン! カラダ目当てってんなら寝てやらんこともないよ。あんたはジュリの恩人だ。だけど、下級娼婦と寝るなら、ビョーキうつされる覚悟で来るんだね!』
『……え? 君は健康体だよ? ちゃんと検査したじゃないか』
『イヤミも通じないのかい!?』
『そう騒がないの、エレナ』
傍らのジュリが、穏やかにエレナの手をとって、笑った。
『セバスチアンさん。エレナは照れているだけなのよ。分かってちょうだい。だって、あなたみたいなエリートは、あたしたち、今までお目にかかったことはないのよ』
『そのとおりだ』
セバスチアンを押しのけて入ってきたのは、背の高い銀髪の男。鋭い三白眼と怖そうなしかめっ面はグレンそっくり。でもバクスターは、グレンより意地が悪い、というか性格が悪い。それはさっきまでの夢でよくわかった。
『私たちのようなエリートから学べることを、感謝するんだな』
彼はセバスチアンに、『邪魔だ。入らないなら帰れ』と言い捨て、サッサと病室に入ってジュリのそばに、椅子を引いて座った。
『なんて病室だ。花はいつ代えた? この最悪な座り心地の椅子! 濁った空気! 君たちはまったくバカだ! こんな環境で満足していられるなんて』
ジュリが微笑む。
『花は今朝かえてもらったのよ。それに、ここはあたしたちには、贅沢すぎる環境よ』
『花は朝、昼と二度かえるよう、私が指示しておく。私が持ってきた花を君の目に触れさせず枯らせるつもりなら、すぐさま担当を変えてもらう。部屋が空いたらすぐ、別の個室に移ってもらう! 君も君だ。私と交際するつもりなら、少しは贅沢に慣れてもらわねば困る。言っておくが、私は生活環境を君に合わせるつもりなどないぞ』
『はいはい、分かっています』
『ハイは一度だ』
『こ、交際――? バクスター、君、……』
ジュリと交際をはじめたのかい。真っ赤な顔で震えるセバスチアンに、バクスターは冷酷な視線を寄越す。いかにもバカにした目つきを。
『だからなんだというのだ? 私が下級娼婦ごときに本気になると思うのか? この宇宙船にいる間だけの、暇つぶしだ。君こそ男なら、正々堂々、女のひとつも口説けるようにしておくことだ』
気性の荒い母エレナが、バクスターの言葉に怒らないことが、エレナは不思議だった。
『あ――エ、エレナ……』
セバスチアンはバクスターの言葉に押されるように病室に入り、エレナの目前まで近づいた。そしてごくりと唾をのみ、
『わわわたしと――わ、わ、わたしと――結婚前提でおつきあいをしてください!』
深く頭を下げ、手を差し出している彼にエレナは呆気にとられ、そして――、
『け、けけ、け、結婚だって!? あたしは下級娼婦だよ!? バ、バカにおしでないよ!! あたしをからかってんのかい!?』
顔をセバスチアンより真っ赤にして、手を振り上げ絶叫したエレナに驚き、セバスチアンはあわてて病室から逃げ出していった。
バクスターとジュリの笑い声が、響く。そのバクスターの顔は、ほがらかなものだった。
結末は、エレナは見なくてもよかった。
きっと、しあわせな結末だ。




