63話 病院にて 1
ルナのケガは、本当にたいしたことはなかった。表皮が傷ついただけで、数日で治った。
「悪かったよ、ルナ」
アズラエルは、ルナを抱きしめて、謝った。
「もう、厄はいっぱい落ちたです」
ルナはそういって、アズラエルを慰めた。
「やく?」
「悪いことは、もう起きないってこと」
一方、エレナは危ないところだった。彼女はもとが細い上、かなり大きめのワンピースを着ていたため、あまり目立たなかったのだが、お腹のほうはしっかり膨らみはじめていた。
エレナは母子ともに、危険な状態だった。
医者は、「あまりストレスをため込まないようにね」とだけ言って、その日から入院の手配をした。
こんなりっぱな病院に、あたしは入らなくていい。
エレナはさんざんわめいた。
エレナは、入院費用や出産費用に、どれだけお金がかかるのか心配していたが、ルナが言ったとおり、この宇宙船はほぼ無償――実際エレナが支払う金額は、費用総額の十分の一にも満たない金額だった。
それも、実際の処置費用ではなく、今までの生活でだいぶ弱っていたエレナに、健康と美貌を取りもどすための、オマケのような費用だった。
「エ、エエエエステってなんだい!? こんな贅沢なメシはけっこうだよ。いったい、だれがこんなことを――あたしは、なるべく節約したいのに」
犯人は、グレンとルートヴィヒと、セルゲイとカレン以外にあるわけはなかった。
しかもだ。
結局、エレナは自分で払わなくてもよくなった。
というのは、ルートヴィヒがエレナの腹の子の父親と、勘違いされたためである。
付き添っていたルートヴィヒを、医者は父親だと思ったらしく、彼はしこたま怒られた。
「奥さんがこんな状態になっているのに、どうして早く病院に連れてこなかったの!」
お医者さんの誤解を解くまで、またルートヴィヒはあわてふためきながら、しどろもどろに説明をしなくてはならなかった。
あくる日。
いったん自宅に帰り、ジュリと一緒に、エレナの服や洗面道具を持って病室に現れたルートヴィヒは、今度はエレナに怒鳴られた。
「あんた……っ!」
エレナは顔を真っ赤にして叫んだ。
「あんた、あたしの亭主だって言ったんだって!? それに、なんだって、ぜんぶお金払っちまったって言うじゃないか! そんなことしてもらう理由がないんだよ! やめとくれよ!」
すでにルートヴィヒは、医者に説明済みである。夫どころか、彼女に相手にもされていない、ということを――正直、泣きそうになりながら説明したのだが、最終的に分かってもらえなかった。
ルートヴィヒの派手目の外見も災いしてか――責任を取りたくなくて、逃げている嘘つき男だと思われ――ルートヴィヒはしかたなく、自分はエレナの夫になる「つもり」の男ということを表明した。
それ自体は嘘ではない。
ついでに、この宇宙船はほぼ医療が無償なので、出産にかかる費用も無料だが、かなり衰弱していたエレナのために、マッサージ&エステ付きの個室サービス、滋養のある美味しい料理をつくってくれる専用シェフ、その他サービスもろもろ――の費用を実費で払ってきた。
医者はやっと、ルートヴィヒに対して睨みを利かせなくなったが、今度はエレナが怒ってしまった。
たしかに、夫になるつもりだなんて、エレナが怒るのも無理はないが、ルートヴィヒは本気だった。
――エレナが嫌でなければ、おなかの子の父親になりたかった。
でも、エレナの意思を無視したいわけではない。医者には自分の「希望」を告げてきたが、エレナにその気がなければ、いつだって辞退する。でも、「友人」として、支援はしたかった。
それに、これら一連のサービスは、ルートヴィヒの、いわば、「詫び」だった。
なにせ、ルートヴィヒは最初、酔っていたなどと言い訳も苦しいが、エレナを追いかけ、階段を踏み外させて、流産させかけたのだから。
ほんとうに、大事がなくてよかったと思う。
彼女がルナを傷つけた一連の事件も、腹立たしいというよりかは、そこまで追い詰められていたエレナが、ただ哀れでならなかった。
彼女を、幸せにしたい。
甘いと言われようが、ルートヴィヒはエレナが愛しかった。
「お、おい、エレナ、あんまり興奮するなよ……」
青筋立てての激高ぶりに、ルートヴィヒは持ってきた花束を戸棚の上において、エレナに駆け寄った。
「赤ちゃんもだけど、エレナも安静にしてなきゃいけないんだからさ」
まるで、自分の子どもを心配するかのような口ぶりだ。その言葉にも、戸棚の上の豪勢な花束にも腹が立って――枯れてもいないのに、毎日変えようとするのだ。サービスだといって――エレナは持っていたタオルをルートヴィヒに投げつけた。
「あんたにそんなこと、頼んでなんかいないよ! 金はあたしが医者に言って返してもらうから、出てってくれ!」
ジュリが、オロオロしながらエレナを見る。
「なによコレ! 服なんていらないよ! あたしは今日帰るよ! こんな金ばっかかかるトコにいつまでもいられるかい!」
「だ、ダメだよエレナ! おいしゃさんがしばらく入院って言ったよ」
「バカお言い! あたしは平気だよ! ……あんたも! いつまでいるんだよ! 出ておいき!」
怒られることは覚悟していた――けれど、こんなに興奮させては。
ルートヴィヒは、情けない顔になって病室を出て行こうとしたが――。
「座れ、エレナ」
鋭い声に、エレナはびっくりして思わずベッドに座り直してしまった。ジュリまで、あわてて床にペタンと座った。
命令することに慣れた鞭のような声音は、ドアから入ってきたグレンのものだった。
「気分はどうだ」
グレンは入ってきて椅子に座ったが、エレナはベッドに、ジュリとルートヴィヒは床に正座しているのを見て吹き出した。
「おまえら、なにしてんだ」
「……おまえが座れっていったんだろうーがよ……」
反射的に自分も座ってしまったルートヴィヒは、決まり悪そうに立ち上がった。エレナには格好悪いところを見せてばかりだ。
「俺は、エレナに座れと言ったんだ。暴れんじゃねえよ、エレナ。カリカリすると、腹の子にもよくねえだろ」
グレンの言葉には、エレナは反抗しなかった。
「どうだ、気分は」
「――体調はいいよ。……こんないいとこにいりゃ、すぐよくなるさ」
すっかり気勢をそがれたエレナは、居心地悪そうに、体を揺らしている。だが、ベッドの上で正座を崩さないのが面白くて、グレンは笑った。
「普通に寝ろよ。ジュリも立てよ。おまえがカリカリしてるから、座れと言っただけだよ。なにを怒ってるんだ」
「こ、こいつが、勝手に金を払っちまったんだよ!」
エレナはふたたび顔を真っ赤にした。
自分は、こんなところに長く入院するつもりはない、今日帰るつもりだったのにと、エレナはグレンにまくしたてた。
グレンは眉を少し上げて、くだらねえ、という意思表示をしただけだった。
「払わせとけ、そんなはした金」
「はした金だって!?」
「ああ、おまえには高額かもしれねえが、コイツは水泳のインストラクターだ。しかも金持ちの生徒がいっぱいついてる、セレブ御用達のセンセイだ。そんな、スズメの涙みてえなカネ払わせたぐらいで騒ぎ立てるな。ちゃんと、医者に言われたとおり入院していろ。まともにガキを産みてえならな」
「す、す、すずっ……、っ、」
エレナは、怒りのあまり口が回らなかった。
はした金と言われた、あの金額を稼ぐために、自分たちはどれだけ働かねばならなかったか。一日何人客を取り、幾月働けば、あの金額を手にできるのか。この男はわかっちゃいない。
「俺が知るかそんなこと。どうせなら、もっと貢がせろ。いい金ヅルだぞコイツは」
「お、おい、グレン……」
さすがにルートヴィヒが苦笑いする。しかしルートヴィヒは、エレナに望まれたら、そのぐらいのことはしそうだった。グレンの皮肉の混じったセリフを聞いても、金ヅルと言われても、ルートヴィヒはうれしそうに笑うだけだ。
実際、彼の頭の中では、エレナにどんなことをしてあげようか、ああ、そうだ、グレンの言うとおりだ。あらん限りのサービスをつけてあげればよかったな、などとバラ色の妄想が浮かんでいるだけだ。エレナの笑顔が見られるためなら、この男は本気でなんでもするだろう。
エレナは、そんなルートヴィヒを呆然と眺めた。
「その服――浴衣、だったか? いつから着てるんだ。遊郭時代のやつだなんて言わねえよな? そこにある高級シルクのパジャマ着ないのか。ぜんぶサービスだぞ」
グレンは、未使用のまま放置されている化粧品の瓶を、呆れた目で見つめた。
「そっちの化粧品、おまえくらいの年ごろなら小躍りするブランド品だぞ。エステ、せっかくサービスつけてもらったのに、一回くらい試したんだろうな」
「よ――よしとくれ!」
そんなのは、柄じゃない。エレナはあわてて両手を振って、遮った。
さえぎった、が。
エレナの手のあいだをぬって現れた、太い指がエレナの顎をすくう。グレンの指が自分の顎を持ち上げたのだと分かるまで、しばらくかかった。
「バカ。……だからおまえは中級なんだよ」
至近距離で見るグレンの目は、恐ろしく美しいブルーグレーだ。低められた声は、そばにいるジュリまでがトロンとする、色気のある声。おまえがオチてどうする、とエレナはジュリに怒鳴りたくなったが、エレナの顔が赤くなったのは、今度は怒りのためではない。
「高級娼婦が、どんな手管でオトコに貢がせるか、もっと勉強しろ」
この男は、高級娼婦を相手にしたことがあるのか。グレンの言い分はもっともだった。そんなことができたなら、エレナは高級娼婦になれていたはずだった。
エレナは、あわてて目をそらすと、この悪党……! と喉奥でつぶやいた。
グレンの人差し指が、エレナの頬を、からかうように撫でていく。
心臓がはねた。グレンの男らしい掌の感触に、エレナは焦った。
こんなふうに触れられるのは久しぶりのことだったが、エレナの心臓がドキドキするのは、久方ぶりだからというだけではない。
これだから嫌なのだ。この男は、ひとを落ち着かなくさせる。からかわれるのは、エレナは好まない。
「あっ! なにすんだよグレン!!」
バラ色の妄想からもどってきたルートヴィヒが、グレンの手をエレナから離した。グレンはあっさりと引いた。
この男が、将校だなんて。
エレナは詐欺だ、と言いたくなった。
大抵L44では、将校クラスは上級娼婦が御用達だ。中級や、下級を買いに来る将校なんていうのは、「訳あり」が多かった。異常なくらいのサディストだったり、変な趣味を持っていたり。
自分に声をかけるくらいだから、グレンもそうなのかとエレナは思っていたが、どれにも当てはまらない気がした。
でも、――やっぱり、彼は将校なのかと聞かれたら、そういう感じはした。
荒っぽい態度が傭兵のような気もするが、傭兵より、雰囲気が厳しい感じがした。エレナは、グレンのその厳しさが少し苦手だった。だから、グレンよりもアズラエルが好きだった。
アズラエルはやはり傭兵だから、陰惨な顔も見せることはある。そっけなくて冷たいが、――本当は優しい。
でも、グレンは。
厳しい顔をするくせに、ふいに甘くなる声とのギャップに、エレナは戸惑っていた。
こういう男は、よくない。
危険な男の類なのだ。
(一度でいいから、アズラエルに、こんなふうに触れてもらいたかった)
からかわれていると、分かるような触れ方でも。
もう、叶わないけれど。
「わ……、わかったよ。金はもらっておく。それでいいんだろ!」
エレナが目を逸らしたまま怒鳴ると、ルートヴィヒが嬉しそうにうなずいた。
つくづく、分からない男だ。エレナの周りに、こういう男はめずらしかった。
エレナはため息をついて、ベッドに横たわった。
ジュリが甲斐甲斐しく、エレナの世話をする。普段、エレナに迷惑をかけてばかりだと自覚しているのか、ジュリはこういうときとばかりに張り切っていた。エレナに毛布をかけ、ぽんぽん、と上からおなかのあたりを撫ぜる。
「飯は食ったのか」
グレンの言葉に、エレナは首を振った。
「――あんまり食欲なくて」
持ってこられた病院食は、あまりに豪勢で、逆に吐き気を催してしまったのだった。
「じゃあ、ちょうどよかった」
グレンの手土産は、レモンゼリーだった。
「俺が護身術教えてる生徒に、身重の妻がいてな。このゼリーしか食ってねえんだとよ。逆に言えば、このゼリーなら食えるって」
本当に、いちいちひとを戸惑わせる男だ。
座れと厳しく命令した口調は、怖かった。だのに一方で、食欲のない自分のことを考えて、食べ物をもってきてくれたりなどする。
ルナを傷つけた自分を、許すとも、グレンは言っていない。
絶対、怒っているはずなのに。
エレナが戸惑っていると、ジュリが勝手に受け取った。
グレンの持ってきた紙袋から綺麗に包装された包みを取り出し、箱を開け、一個取り出してふたを取った。
レモンのいい香りが病室に広がった。ジュリはゼリーをプラスチックスプーンですくって、「あーん」とエレナに差し出す。
「バカだね! 一人で食えるよ!」
さすがにそれは嫌だったのか、エレナはジュリからぶんどって、スプーンを口に運んだ。とてもおいしいレモンゼリーだった。さっぱりとしていて、つるんと喉を滑り降りていく。
「ほんとだ……これなら、食べれる」
真っ赤な顔でぼそぼそと言い、瞬く間にカップを空にした。
ジュリが、うらやましそうにそれを眺めているのを見て、エレナは嘆息しつつ言った。
「グレン、ジュリにもあげていいかい?」
「ジュリ。あとでケーキ買ってやるから、それは我慢しろ。エレナは、それしか食えねえんだ」
グレンは言ったが、ジュリはほぼ五歳児に等しい。我慢して、しゅんとしているのを見ると、エレナは仕方なく新しいレモンゼリーのふたを開け、ジュリにスプーンと一緒に手渡してやった。
ジュリは大喜びで口に運んだ。
「――あんたも、お食べよ」
エレナはそっぽを向いたまま、ルートヴィヒに、乱暴にレモンゼリーを渡した。
ルートヴィヒは呆気にとられ、「い、いいよ。エレナが食えよ」と遠慮していると、グレンが横から肘で突いた。
「あ、あたしがいいって言ってんのに、食わないつもりかい!?」
ルートヴィヒはあわてて、ゼリーを受け取った。エレナはグレンにも渡した。
「これ、どこに売ってるの」
「K11区だ」
「いくらするの」
「一個、千……デルくらいだったかな」
エレナはゼリーを吹き出しかけた。
エレナがよく買うゼリーは、スーパーに売っている、三つで二百デルのやつだ。一個千デルもするゼリーがあるなんてことを、エレナははじめて知った。
二十個も入っている箱の中身。エレナは頭痛がした。
このセレブどもめ。入院費用をはした金というだけはある。ひょっとしたら、これがグレンなりの嫌がらせなのだろうかと、エレナは本気で考えた。
そんなはずは、あるわけがないが。
グレンは笑う。
「わざわざこんなもん買いに行くなよ?」
そのお高いゼリーを二口で飲み込んでしまった軍人は言った。
「明日、もっと美味いのを持ってきてくれるヤツがいるからな」




