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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
144/916

63話 病院にて 1


 ルナのケガは、本当にたいしたことはなかった。表皮が傷ついただけで、数日で治った。


「悪かったよ、ルナ」

 アズラエルは、ルナを抱きしめて、謝った。


「もう、厄はいっぱい落ちたです」

 ルナはそういって、アズラエルを慰めた。

「やく?」

「悪いことは、もう起きないってこと」


 一方、エレナは危ないところだった。彼女はもとが細い上、かなり大きめのワンピースを着ていたため、あまり目立たなかったのだが、お腹のほうはしっかり膨らみはじめていた。


 エレナは母子ともに、危険な状態だった。


 医者は、「あまりストレスをため込まないようにね」とだけ言って、その日から入院の手配をした。


 こんなりっぱな病院に、あたしは入らなくていい。

 エレナはさんざんわめいた。


 エレナは、入院費用や出産費用に、どれだけお金がかかるのか心配していたが、ルナが言ったとおり、この宇宙船はほぼ無償――実際エレナが支払う金額は、費用総額の十分の一にも満たない金額だった。

 それも、実際の処置費用ではなく、今までの生活でだいぶ弱っていたエレナに、健康と美貌を取りもどすための、オマケのような費用だった。


「エ、エエエエステってなんだい!? こんな贅沢(ぜいたく)なメシはけっこうだよ。いったい、だれがこんなことを――あたしは、なるべく節約したいのに」


 犯人は、グレンとルートヴィヒと、セルゲイとカレン以外にあるわけはなかった。

 しかもだ。

 結局、エレナは自分で払わなくてもよくなった。

 というのは、ルートヴィヒがエレナの腹の子の父親と、勘違いされたためである。


 付き添っていたルートヴィヒを、医者は父親だと思ったらしく、彼はしこたま怒られた。


「奥さんがこんな状態になっているのに、どうして早く病院に連れてこなかったの!」


 お医者さんの誤解を解くまで、またルートヴィヒはあわてふためきながら、しどろもどろに説明をしなくてはならなかった。


 あくる日。

 いったん自宅に帰り、ジュリと一緒に、エレナの服や洗面道具を持って病室に現れたルートヴィヒは、今度はエレナに怒鳴られた。


「あんた……っ!」

 エレナは顔を真っ赤にして叫んだ。

「あんた、あたしの亭主だって言ったんだって!? それに、なんだって、ぜんぶお金払っちまったって言うじゃないか! そんなことしてもらう理由がないんだよ! やめとくれよ!」


 すでにルートヴィヒは、医者に説明済みである。夫どころか、彼女に相手にもされていない、ということを――正直、泣きそうになりながら説明したのだが、最終的に分かってもらえなかった。


 ルートヴィヒの派手目の外見も災いしてか――責任を取りたくなくて、逃げている嘘つき男だと思われ――ルートヴィヒはしかたなく、自分はエレナの夫になる「つもり」の男ということを表明した。

 それ自体は嘘ではない。


 ついでに、この宇宙船はほぼ医療が無償なので、出産にかかる費用も無料だが、かなり衰弱していたエレナのために、マッサージ&エステ付きの個室サービス、滋養のある美味しい料理をつくってくれる専用シェフ、その他サービスもろもろ――の費用を実費で払ってきた。


 医者はやっと、ルートヴィヒに対して睨みを利かせなくなったが、今度はエレナが怒ってしまった。


 たしかに、夫になるつもりだなんて、エレナが怒るのも無理はないが、ルートヴィヒは本気だった。


 ――エレナが嫌でなければ、おなかの子の父親になりたかった。


 でも、エレナの意思を無視したいわけではない。医者には自分の「希望」を告げてきたが、エレナにその気がなければ、いつだって辞退する。でも、「友人」として、支援はしたかった。


 それに、これら一連のサービスは、ルートヴィヒの、いわば、「詫び」だった。

 なにせ、ルートヴィヒは最初、酔っていたなどと言い訳も苦しいが、エレナを追いかけ、階段を踏み外させて、流産させかけたのだから。


 ほんとうに、大事がなくてよかったと思う。


 彼女がルナを傷つけた一連の事件も、腹立たしいというよりかは、そこまで追い詰められていたエレナが、ただ哀れでならなかった。


 彼女を、幸せにしたい。

 甘いと言われようが、ルートヴィヒはエレナが愛しかった。


「お、おい、エレナ、あんまり興奮するなよ……」


 青筋立てての激高(げきこう)ぶりに、ルートヴィヒは持ってきた花束を戸棚の上において、エレナに駆け寄った。


「赤ちゃんもだけど、エレナも安静にしてなきゃいけないんだからさ」


 まるで、自分の子どもを心配するかのような口ぶりだ。その言葉にも、戸棚の上の豪勢な花束にも腹が立って――枯れてもいないのに、毎日変えようとするのだ。サービスだといって――エレナは持っていたタオルをルートヴィヒに投げつけた。


「あんたにそんなこと、頼んでなんかいないよ! 金はあたしが医者に言って返してもらうから、出てってくれ!」

 ジュリが、オロオロしながらエレナを見る。

「なによコレ! 服なんていらないよ! あたしは今日帰るよ! こんな金ばっかかかるトコにいつまでもいられるかい!」

「だ、ダメだよエレナ! おいしゃさんがしばらく入院って言ったよ」

「バカお言い! あたしは平気だよ! ……あんたも! いつまでいるんだよ! 出ておいき!」


 怒られることは覚悟していた――けれど、こんなに興奮させては。

 ルートヴィヒは、情けない顔になって病室を出て行こうとしたが――。


「座れ、エレナ」


 鋭い声に、エレナはびっくりして思わずベッドに座り直してしまった。ジュリまで、あわてて床にペタンと座った。

 命令することに慣れた(むち)のような声音は、ドアから入ってきたグレンのものだった。


「気分はどうだ」


 グレンは入ってきて椅子に座ったが、エレナはベッドに、ジュリとルートヴィヒは床に正座しているのを見て吹き出した。


「おまえら、なにしてんだ」

「……おまえが座れっていったんだろうーがよ……」


 反射的に自分も座ってしまったルートヴィヒは、決まり悪そうに立ち上がった。エレナには格好悪いところを見せてばかりだ。


「俺は、エレナに座れと言ったんだ。暴れんじゃねえよ、エレナ。カリカリすると、腹の子にもよくねえだろ」


 グレンの言葉には、エレナは反抗しなかった。


「どうだ、気分は」

「――体調はいいよ。……こんないいとこにいりゃ、すぐよくなるさ」


 すっかり気勢をそがれたエレナは、居心地悪そうに、体を揺らしている。だが、ベッドの上で正座を崩さないのが面白くて、グレンは笑った。


「普通に寝ろよ。ジュリも立てよ。おまえがカリカリしてるから、座れと言っただけだよ。なにを怒ってるんだ」

「こ、こいつが、勝手に金を払っちまったんだよ!」


 エレナはふたたび顔を真っ赤にした。

 自分は、こんなところに長く入院するつもりはない、今日帰るつもりだったのにと、エレナはグレンにまくしたてた。

 グレンは眉を少し上げて、くだらねえ、という意思表示をしただけだった。


「払わせとけ、そんなはした金」

「はした金だって!?」


「ああ、おまえには高額かもしれねえが、コイツは水泳のインストラクターだ。しかも金持ちの生徒がいっぱいついてる、セレブ御用達のセンセイだ。そんな、スズメの涙みてえなカネ払わせたぐらいで騒ぎ立てるな。ちゃんと、医者に言われたとおり入院していろ。まともにガキを産みてえならな」


「す、す、すずっ……、っ、」


 エレナは、怒りのあまり口が回らなかった。

 はした金と言われた、あの金額を稼ぐために、自分たちはどれだけ働かねばならなかったか。一日何人客を取り、幾月働けば、あの金額を手にできるのか。この男はわかっちゃいない。


「俺が知るかそんなこと。どうせなら、もっと貢がせろ。いい金ヅルだぞコイツは」

「お、おい、グレン……」


 さすがにルートヴィヒが苦笑いする。しかしルートヴィヒは、エレナに望まれたら、そのぐらいのことはしそうだった。グレンの皮肉の混じったセリフを聞いても、金ヅルと言われても、ルートヴィヒはうれしそうに笑うだけだ。


 実際、彼の頭の中では、エレナにどんなことをしてあげようか、ああ、そうだ、グレンの言うとおりだ。あらん限りのサービスをつけてあげればよかったな、などとバラ色の妄想が浮かんでいるだけだ。エレナの笑顔が見られるためなら、この男は本気でなんでもするだろう。


 エレナは、そんなルートヴィヒを呆然と眺めた。


「その服――浴衣、だったか? いつから着てるんだ。遊郭時代のやつだなんて言わねえよな? そこにある高級シルクのパジャマ着ないのか。ぜんぶサービスだぞ」


 グレンは、未使用のまま放置されている化粧品の瓶を、呆れた目で見つめた。


「そっちの化粧品、おまえくらいの年ごろなら小躍りするブランド品だぞ。エステ、せっかくサービスつけてもらったのに、一回くらい試したんだろうな」


「よ――よしとくれ!」


 そんなのは、柄じゃない。エレナはあわてて両手を振って、遮った。

 さえぎった、が。

 エレナの手のあいだをぬって現れた、太い指がエレナの顎をすくう。グレンの指が自分の顎を持ち上げたのだと分かるまで、しばらくかかった。


「バカ。……だからおまえは中級なんだよ」


 至近距離で見るグレンの目は、恐ろしく美しいブルーグレーだ。低められた声は、そばにいるジュリまでがトロンとする、色気のある声。おまえがオチてどうする、とエレナはジュリに怒鳴りたくなったが、エレナの顔が赤くなったのは、今度は怒りのためではない。


「高級娼婦が、どんな手管でオトコに貢がせるか、もっと勉強しろ」


 この男は、高級娼婦を相手にしたことがあるのか。グレンの言い分はもっともだった。そんなことができたなら、エレナは高級娼婦になれていたはずだった。


 エレナは、あわてて目をそらすと、この悪党……! と喉奥でつぶやいた。


 グレンの人差し指が、エレナの頬を、からかうように撫でていく。

 心臓がはねた。グレンの男らしい掌の感触に、エレナは焦った。

 こんなふうに触れられるのは久しぶりのことだったが、エレナの心臓がドキドキするのは、久方ぶりだからというだけではない。

 これだから嫌なのだ。この男は、ひとを落ち着かなくさせる。からかわれるのは、エレナは好まない。


「あっ! なにすんだよグレン!!」


 バラ色の妄想からもどってきたルートヴィヒが、グレンの手をエレナから離した。グレンはあっさりと引いた。 


 この男が、将校だなんて。

 エレナは詐欺だ、と言いたくなった。


 大抵L44では、将校クラスは上級娼婦が御用達(ごようたし)だ。中級や、下級を買いに来る将校なんていうのは、「訳あり」が多かった。異常なくらいのサディストだったり、変な趣味を持っていたり。


 自分に声をかけるくらいだから、グレンもそうなのかとエレナは思っていたが、どれにも当てはまらない気がした。


 でも、――やっぱり、彼は将校なのかと聞かれたら、そういう感じはした。

 荒っぽい態度が傭兵のような気もするが、傭兵より、雰囲気が厳しい感じがした。エレナは、グレンのその厳しさが少し苦手だった。だから、グレンよりもアズラエルが好きだった。


 アズラエルはやはり傭兵だから、陰惨な顔も見せることはある。そっけなくて冷たいが、――本当は優しい。


 でも、グレンは。

 厳しい顔をするくせに、ふいに甘くなる声とのギャップに、エレナは戸惑っていた。

 こういう男は、よくない。

 危険な男の類なのだ。

 

(一度でいいから、アズラエルに、こんなふうに触れてもらいたかった)


 からかわれていると、分かるような触れ方でも。

 もう、叶わないけれど。


「わ……、わかったよ。金はもらっておく。それでいいんだろ!」


 エレナが目を逸らしたまま怒鳴ると、ルートヴィヒが嬉しそうにうなずいた。

 つくづく、分からない男だ。エレナの周りに、こういう男はめずらしかった。


 エレナはため息をついて、ベッドに横たわった。

 ジュリが甲斐甲斐しく、エレナの世話をする。普段、エレナに迷惑をかけてばかりだと自覚しているのか、ジュリはこういうときとばかりに張り切っていた。エレナに毛布をかけ、ぽんぽん、と上からおなかのあたりを撫ぜる。


「飯は食ったのか」


 グレンの言葉に、エレナは首を振った。


「――あんまり食欲なくて」


 持ってこられた病院食は、あまりに豪勢で、逆に吐き気を催してしまったのだった。


「じゃあ、ちょうどよかった」

 グレンの手土産は、レモンゼリーだった。

「俺が護身術教えてる生徒に、身重の妻がいてな。このゼリーしか食ってねえんだとよ。逆に言えば、このゼリーなら食えるって」


 本当に、いちいちひとを戸惑わせる男だ。

 座れと厳しく命令した口調は、怖かった。だのに一方で、食欲のない自分のことを考えて、食べ物をもってきてくれたりなどする。

 ルナを傷つけた自分を、許すとも、グレンは言っていない。

 絶対、怒っているはずなのに。


 エレナが戸惑っていると、ジュリが勝手に受け取った。

 グレンの持ってきた紙袋から綺麗に包装された包みを取り出し、箱を開け、一個取り出してふたを取った。


 レモンのいい香りが病室に広がった。ジュリはゼリーをプラスチックスプーンですくって、「あーん」とエレナに差し出す。


「バカだね! 一人で食えるよ!」


 さすがにそれは嫌だったのか、エレナはジュリからぶんどって、スプーンを口に運んだ。とてもおいしいレモンゼリーだった。さっぱりとしていて、つるんと喉を滑り降りていく。


「ほんとだ……これなら、食べれる」


 真っ赤な顔でぼそぼそと言い、瞬く間にカップを空にした。

 ジュリが、うらやましそうにそれを眺めているのを見て、エレナは嘆息しつつ言った。


「グレン、ジュリにもあげていいかい?」

「ジュリ。あとでケーキ買ってやるから、それは我慢しろ。エレナは、それしか食えねえんだ」


 グレンは言ったが、ジュリはほぼ五歳児に等しい。我慢して、しゅんとしているのを見ると、エレナは仕方なく新しいレモンゼリーのふたを開け、ジュリにスプーンと一緒に手渡してやった。

 ジュリは大喜びで口に運んだ。


「――あんたも、お食べよ」


 エレナはそっぽを向いたまま、ルートヴィヒに、乱暴にレモンゼリーを渡した。

 ルートヴィヒは呆気にとられ、「い、いいよ。エレナが食えよ」と遠慮していると、グレンが横から肘で突いた。


「あ、あたしがいいって言ってんのに、食わないつもりかい!?」


 ルートヴィヒはあわてて、ゼリーを受け取った。エレナはグレンにも渡した。


「これ、どこに売ってるの」

「K11区だ」

「いくらするの」

「一個、千……デルくらいだったかな」


 エレナはゼリーを吹き出しかけた。


 エレナがよく買うゼリーは、スーパーに売っている、三つで二百デルのやつだ。一個千デルもするゼリーがあるなんてことを、エレナははじめて知った。

 二十個も入っている箱の中身。エレナは頭痛がした。


 このセレブどもめ。入院費用をはした金というだけはある。ひょっとしたら、これがグレンなりの嫌がらせなのだろうかと、エレナは本気で考えた。

 そんなはずは、あるわけがないが。


 グレンは笑う。


「わざわざこんなもん買いに行くなよ?」


 そのお高いゼリーを二口で飲み込んでしまった軍人は言った。


「明日、もっと美味いのを持ってきてくれるヤツがいるからな」



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