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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
143/942

62話 エレナとジュリ 2


「あんた――」

 エレナのほうが、先に、婦人の正体に気づいたようだった。

「あんた、イハナさん――」


「ごめんよ、エレナさん」

 パンパンにむくんだ赤ら顔は、また涙にぬれていた。

「あたし、あんたにひどいこと言っちまって。でも、ほんとうだよ。そこの――ルナさんが言っていることはほんとう。あたし、この子をここで産んだよ。前いた芝宿(しばじゅく)ってとこで孕んでさ、八ヶ月だったかな。遅れたけども、宇宙船に乗って、この子を産んだの!」


 イハナは、自分の赤子をエレナに見せた。

 エレナは目を見開いて、イハナと、赤子を交互に見――「ほんとうに」とつぶやいた。


「でも、あたし、宇宙船を降ろされてない」


 それが、決定的な言葉だった。エレナの顔から、完全に剣が抜けた。


「あんたはお綺麗なひとだから、あたし、ひがんでた。今日は謝りたくて来たの。でも、あんたが、こんなに困っているなんて、あたし知らなかった」

 イハナは号泣した。

「ルナさんもごめん。あたしがエレナさんの話を、少しでも聞いてあげられていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかな……ごめんよ」


 イハナは責任を感じているようで、顔中涙まみれになりながら、何度もエレナとルナに頭を下げるのだった。


「エレナ、よく聞け」

 グレンが、エレナの細い肩に手をかけても、もう、エレナは怯まなかった。

「俺たちは、おまえを宇宙船から降ろしたりなんかしない。アズラエルもそうだ」


 エレナの唇が、震えた。


「アズラエルも、“大ごと”にしないほうを、選択した」


「――あんたたちは、どうして」

 さすがにエレナはつぶやいた。

 どうして、あたしなんかに、親切にしてくれるの。


「俺とグレンの母さんが……ふたりとも、L44の娼婦だったんだ」


 ルートヴィヒが、どこか泣きそうな笑顔で言った言葉に――今度こそ、エレナの目が見開かれた。

 衝撃と、動揺と――納得に。


 グレンの母親とルートヴィヒの母親は、L44の女だった。

 名は「ジュリ」と「エレナ」。


 それを聞いたエレナは、「うそ」と思わず言った。ジュリもだ。


 彼女たちには、――特にエレナには、なぜグレンが、カラダ目当てでもないのに、優しくしてくれるのかがずっとわからなかった。


 その理由が、氷解した。


 グレンとルートヴィヒの母親はもとL44の娼婦で、それも、エレナとジュリよりもひどい環境で暮らした、下級娼婦。


 おそらく、イハナがいた宿と、地区は同じだったのではないか。

 グレンの母親のジュリは、宇宙船に乗った時点で、すでに病だった。

 病院とは名ばかりの、死を待つだけの施設に入れられ、もう腐って死ぬだけだったグレンの母親――ジュリをパートナーに、ルートヴィヒの母エレナは、宇宙船に乗った。

 ジュリはもう助からないと、エレナも担当役員も、みんな、そう思っていた。


 だが、奇跡が起こった。


 宇宙船には、最新の医療設備が整えられ、その治療がほぼ無償で受けられる。しかも、そこには、当時最先端の治療法を知るドクターも乗船していた。

 母星にいるかぎりでは惨い死に方をするしかなかった「ジュリ」も、清潔な環境と最先端の治療で、症状はみるみるよくなっていった。


 そのドクター、セバスチアンと恋をしたのはルートヴィヒの母、エレナ。

 そして、L18の将校、バクスターと恋をしたのは、グレンの母、ジュリ。


 四人は、地球には行かなかった。

 セバスチアンは貧困地帯の患者を救うため、二年目で降りたし、バクスターは一族から呼びもどされて、L18へもどることになってしまった。


 彼女たちは、夫となった彼らについて行った。

 地球へは行けなかったけれど、グレンとルートヴィヒを産んで、幸せに暮らした。


 グレンの母ジュリは、グレンが幼いころに亡くなってしまったけれど。

 ルートヴィヒの母エレナは息災で、引退したドクターである夫とL53で仲睦まじく暮らしている。


 そんなある日、偶然にもチケットが届いたのは、ルートヴィヒだった。

 ルートヴィヒが、だれと行くつもりだったかなど、言うまでもない。


 グレンは、この宇宙船は奇跡の起こる場所だと、母親から何度も聞かされて育った。記憶もないほど、幼いころ。

 あの宇宙船がなかったら、私もエレナも、生きていなかったと。

 ルートヴィヒの母親も、何度もその話をした。聞きあきるほど。

 あの宇宙船がなかったら、グレンもルートヴィヒも生まれていなかったのだと。


 ――ルーイ、グレン、よく聞いて。あの宇宙船は奇跡の起こる場所なの。あの宇宙船がなかったら、私もジュリも生きてはいなかった。ジュリは腐って死んでいただろうし、私もジュリと同じ運命をたどっていただろうと思うの。セバスチアンはこうしてたくさんの星を奔走して人助けなんかしなかったろうし、バクスターはドーソンの家に押しつぶされてしまっていたかもしれない。当然、グレンもルートヴィヒも生まれていなかった――


 グレンの話を、エレナは食い入るように聞いていたが、やがて。


「――あんたは」


 その先は言葉にならなかった。ただただエレナは、グレンとルートヴィヒを交互に見つめた。

 まるで、初めて見る人のように。


「俺とルーイの話を信じるか? 信じるなら、ルーイを嫌わないでやってくれ」


 アイツは、本気でおまえが好きなんだ。


 ルートヴィヒは、これ以上ないほどの情けない顔で立ち尽くしていた。泣くか笑うかどっちかにしろ、と言いたくなるような。


 エレナは、ルートヴィヒになにか言いかけたが、ふいに腹を押さえてうずくまる。ちょうど良いタイミングで、クラウドの声がした。


「救急車呼んだから。エレナとルナちゃん二台分ね」


 クラウドの声で、皆が我に返る。

 エレナは、腹を抱えてうめいていた。


「エレナさん!」

「エレナ!!」


 イハナとルートヴィヒが同時に手を出し、ふたりで苦笑いをして手を引っ込め、ルートヴィヒが再度、エレナに触れた。

 今度は、エレナも、おびえもしないし、抵抗もしなかった。


「ごめんな、さわっていい」


 ルートヴィヒは聞きなおした。エレナはうなずいた。

 エレナの体を抱きかかえ、「ちょっと、ベッドに寝かせてくる」と部屋を出ていった。


「みんな、今日ここであったことは、俺たちの中だけでおさめるってことでいいな。……ルナも、それでいいんだろう?」


 グレンの言葉に、ルナはしっかりうなずいた。

 レディ・ミシェルとリサも、強張った顔のままうなずく。メンズ・ミシェルも、ほっとしたため息をついた。


「ルナ! 大丈夫!?」

「ごめんね、ルナちゃん、ごめんね……」


 泣きそうな顔で駆け寄ってきたリサとミシェル、一歩引いたところで、ぐしゃぐしゃに泣いているジュリに囲まれたルナをちらと見て、グレンは、ルートヴィヒがエレナを連れて行った別室の方に歩いていった。


 ルートヴィヒがエレナの背をさすり、「がんばれ、もうちょっとだからな、救急車が来るからな」と言っているのが聞こえる。


 グレンはドアから少し覗いて、親友の邪魔をしないよう、自分に気付いたエレナだけにウィンクしてドアを去った。エレナは泣きそうな顔でグレンを見つめ返した。


「グレンさん」

 初老の男が、グレンに頭を下げていた。

「ありがとう。大事にせず、おさめてくれて」


 彼は帽子をかぶり直し、エレナの様子を見、救急隊員を出迎えるために玄関のほうへ行った。


 入れ替わりに、カレンが入ってくる。カレンはグレンにウィンクをして、通り過ぎた。


「礼はいい」

 グレンは、だれにともなく言った。


 ジュリとエレナと会ったとき、グレンは、ふたりを守ろうと決めていた。これが縁という名の運命かもしれない。ふたりがどう思うかは別として、だ。


 グレンは、エレナとジュリ――に同情する気はなかったし、恋人になる気もなかった。だが、放っておくこともできなかった。


 娼婦、というレッテルが差別を生む。事実、ふたりはこの宇宙船内にあっても、差別という名の不幸に見舞われることは少なくなかった。


 なるべくなら、ふたりの悲しむ顔は見たくない。


 しかし、エレナは、グレンのほうはパートナー候補とは考えていなかったようだ。ルートヴィヒに交際を申し込まれたときでも、からかわれていると怒ったくらいだ。


 さっきエレナ自身が言ったとおり、グレンがもと将校だということで、雲の上にでも見ていたのだろうか。エレナはアズラエルが傭兵だと知ってから、目の色を変えて追いかけまわしはじめたし、グレンには見向きもしなくなった。


 グレンはルナの無事な姿――多少傷は負ってはいるが、大ケガもなく、貞操も無事な、友人に囲まれている今の姿に、やっと胸を撫で下ろしていた。


 これでルナになにかあったら、アズラエルだけではない、自分が理性を失っていたかもしれない。そう思うと少しぞっとした。

 自分が、エレナを、傷つけることになっていたかもしれない。


「すっごい血が出てるよ」


 ルナは、落ち着いたら、急に頬が痛くなってきた。


「いででで……」


 リサが頬と首のところの血をティッシュで押さえてくれる。


「あの、ここに救急箱とかありませんか!?」ミシェルが叫んだ。


 まだみんな、緊張状態の興奮が抜けていないのか、声がでかい。


「ああ、ちょっと待ちな」


 グレンがいい、まだ開けたこともなさそうな、新品の救急箱を持ってきた。


「どの部屋にも最初から、ついていたみたいだぜ? ――ああ、心配すんな。皮膚が浅く切れてるから、出血がひどいんだ。キズ自体は、大したもんじゃねえ」


 グレンが消毒液とテープを出し、きびきびと処置してくれる。


「ちょっとしみるぞ」

「……っ!! いったあ……!!」


 ちょっとどころではなかった。


「でも、あたしの分まで救急車いらないよ」

 ルナは言った。

「ダメだ。一応、病院で見てもらえ」

 そういって、グレンはペタンとルナの頬にばんそうこうを張る。

「カラダ、どこも大丈夫か。ケガは首と頬だけか? ほかに痛いとこはないか?」

「う、うん」


「ケガ人はどこですか!?」


 担架を持った救急隊員が、やっと駆け込んできた。

 エレナは一足早く運ばれたようで、玄関先が騒がしかった。


 ルナが、どんな大ケガだと報告されていたのだろう。救急隊員は、ルナを見て、目をぱちくりさせた。泣いてはいるが、予想より軽症の患者はしっかり歩けたし、意識もこれ以上なくはっきりしていた。


 救急車に乗る直前、ルナは、九庵とイハナが、道路の向こうで手を振っているのを見た。

 思わず振り返し――そのことに気づいた。


「キューちゃん、ホントにたすけてくれた……」


 九庵より先に部屋に突入したのはグレンたちだったが、なぜか九庵も、イハナを連れて駆けつけてくれていた。


「ほんとに、『キューちゃんヘルプ!』ってゆったら、助けてくれるんだ……」


 ルナは、小さくなっていく九庵たちを、ウサ耳をぴこぴこさせながら、見つめていた。





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