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キヴォトス  作者: ととこなつ
第二部 ~色街の黒ネコと色街の野良ネコ篇~
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62話 エレナとジュリ 1


「あたしは、なにがなんでも地球に行きたいんだよ!」


 ここに、アズラエルがいないことが不思議だった。


 ルナの目に、泣きじゃくっているジュリの姿が見える。ジュリを抱き起こし、悲しげな目でエレナを見つめるカレン。いつになく顔を緊張させた男のミシェルも。泣きそうなミシェルとリサ――そして、表情の見えないクラウド。ルートヴィヒは青ざめている。


 さっきはいたのに、グレンが見えない。

 ……どこ?


「まあ、そんな大ごとにすることもねえだろ。落ち着けエレナ」


 唐突に――どこからか、グレンの声だけが聞こえた。


「ひぎ!」


 ぎり、と首を絞める力が増した気がした。エレナは答えない。


「エレナ。おまえがしていることは、ここにいる全員が見てる。これが役所に通達されたら、おまえは確実にL44に帰される。事件が起こったら、その辺の星じゃねえ、母星に帰されるんだ。おまえは嫌なんだろ? あそこに帰るのが。大ごとになるまえにルナを離すんだ」


 エレナは前方を睨んだまま、グレンの声に答えようとしない。


「わからねえか? 俺は、穏便にコトを収めようとしてるんだ。おまえがルナを離せば、ここにいる連中も俺も、役所に届け出たりはしねえ」

「……」

「なァ、エレナ――バカな真似はやめとけ」


「うるさい!!」


 グレンが嘆息する。

 説得に応じなかったエレナを見て、リサが決意したように玄関に向かおうとした。


「動くんじゃないよ!」

 ビクリとリサの動きが止まる。


 グレンが腕を組んで、ベッドに腰かけた。エレナからはだいぶ離れた位置で、エレナがそちらから目を離すことはなくても、どこか力を抜いたのを、クラウドも見た。

 だがクラウドは動かなかった。「動くな。グレンにまかせろ」とミシェルやリサに、視線で合図を送った。


 エレナの緊張がほんのわずかに緩んだのは、グレンにもわかっていた。両腕を広げる。

 武器はなにも手にしていない、というジャスチャー。


「……なぜアズラエルじゃなきゃダメなんだ」

「ちがうさ」

「じゃ、なんでそうムキになる。アズラエルじゃなきゃダメだって理由はなんだ」

「アイツが傭兵だからだよ」

「それだけか? それだけじゃ理由にならねえ。傭兵だからって、地球に行けるとはかぎらねえ。それどころか、地球にたどり着く人間は、軍人系統の方が、一般より低い。それを知ってたか?」


 エレナの驚きは、ルナにも伝わっていた。小さな「え……」という声が、ルナにだけ聞こえた。


「それに、そもそも地球に行くのに、試験なんてのはないそうだ。それは、俺もさっき聞いたがな。いろんな噂があるみたいだが、体力知力が試験の合格基準なら、ボケたじいさんと孫のセットなんてのは地球にいけねえだろ。そんなこと、パンフレットを読めば、すぐ分かることだ」


「あ、あたしもエレナも……っ、字が読めないの……っ!」

 泣きじゃくりながらジュリが言った。

「ねえエレナっ! やめようよ! ルナちゃん離してあげてよ……っ!」


 ミシェルが驚いた顔を隠しもせず、ジュリを見た。

 リサや――レディのほうのミシェルも。


 グレンとクラウドだけは、アズラエルの言葉を思い出す――ルナが、「エレナさん、字が読めないっていうことはない?」と、ずっと気にしていたこと。

 ルナが、なぜそんなことを気にし始めたかは謎だったが、それは一応、この時点で証明されたことになる。


 L44は、富裕層と、そうでないものの格差が著しい場所だ。遊郭を経営する者たちと、そこで働く者たち。高級娼婦と、下級娼婦――貧しい星から売られてくる女たちが多く、彼らは幼少から遊郭で育てられるが、身の回りのことや、作法、芸事は身につけられても、字を教えてもらうことは、なかなかできなかった。


 一度売られたら、借金を返し終わるか、死ぬか、身請(みう)けをされるまで星から出られない。


 ルナも、「やっぱり字が読めなかったんだ!」とひとり、見えないウサ耳をぴーん! と伸ばしていた。残念ながら今回は、だれの目にもルナのウサ耳は見えない極限状態だったが――ルナは、なんとなく――自分が考えていたことが当たっているような気がしてきた。


「……そりゃ悪かった。知らなかったんだ」


 グレンが、抑揚(よくよう)のない声で言う。だがそれに、エレナはついに噛みついた。


「悪かった!? 悪かったじゃないよバカにして! あんたたちみたいに、ご立派な惑星から来たやつらなんか、娼婦なんかゴミと同じだろ!? ひとを便所かなにかとカンちがいしてんだろ!! たしかにあたしらは字も読めないし、できることったら性欲のはけ口くらいだよ! あたしらなんかパートナーにしたって、足手まといになるのは分かってるさ! でも……!」


「そんなことだれも言ってねえだろ!!」

 ルートヴィヒがたまりかねたように叫んだ。

「娼婦がゴミ!? ンなことだれが言ったよ! そりゃ、そういうこというバカもいるだろうけど、ここにいるやつらひとりも、おまえのことゴミだなんて思ってねえよ!!」


 エレナが、圧倒されたように息を呑んだ。


 緊張しかなかった部屋に、静寂が訪れた。

 叫んだルートヴィヒの、息遣いだけが聞こえる。ルートヴィヒは、すこし涙ぐんでいるようだった。


 エレナの力がさらに緩む。今だったら、ルナは振りほどいて逃げられそうだったが、動かなかった。


 エレナがどうして、こんな凶行に至ったのか、ルナなりに考えていたのだ。数少ないエレナの情報を手掛かりに、ずっと。


 妊娠、が。

 もしかしたらすべての発端かもしれなかった。


 エレナは自分を無知だといってはいるが、たとえどんな理由であれ、事件を起こせば宇宙船にはいられない。それくらいのことがわからないほど無知には見えなかった。それに、なにがあっても地球に行きたい人が、突然、こんな自棄を起こしたのは、なにかしら理由があるはずだ。


 さっき、ジュリが言ったように、「妊娠したら、宇宙船を降ろされる」ということ。


 ロミオというバカ男は、一回殴ってやらなきゃいけないが、きっと、その言葉のせいではなかったのか。


 ルナたちは眉唾と笑い飛ばせるが、字も読めず、パンフレットも読めなかったエレナは、それを言われて信じてしまったのかもしれなかった。

 ただでさえ、L44で、子どもを産んだらおろせと告げられていたのだから。


 イハナたちのように、過酷な過去を経て、この宇宙船に乗ったのなら。

 だったら、地球に行きたい気持ちは、ルナたちよりよほど強いはずだ。星にもどされたら、もしかしたら今度こそ、L44から死ぬまで出られないかもしれないのだ。


 なのになぜ、それらすべてをぶち壊すような真似をはじめたのか。

 それを考え、たどり着いた結論は、ひとつだった。


 エレナは知らないだけなのだ。

 知らなくて、追い詰められてしまっただけなのだ。


 妊娠したら、宇宙船を降ろされるかもしれない、というひとつの恐怖に、すべてが追い詰められてしまった。


 アズラエルを好きな気持ちも、妊娠してしまったことも、――L44で生きてきた、彼女の人生そのものが、彼女を限界まで追い詰めた。


 ますます自棄(やけ)を起こすかもしれなかったが、ルナは、口にしてみることに決めた。


(だいじょうぶ、グレンもいる)


 あたしは、怖くない。

 怯えているのは、エレナのほうだ。


「――エレナさん」


 エレナがあわてて腕の力を強めたが、先ほどに比べたら、力はずいぶん弱かった。


「妊娠してても、地球には行けます!」


 ルナは、断固として言った。

 エレナの腕が、ビクッと揺らいで、それからすっかり力が抜けた。それが答えも同様だった。

 驚いて目を見張ったのは、エレナだけではない。その場の全員だ。

 ルナは大きく唾を飲みつつも、なるべく明るい口調で、続けた。


「も、もしかして、妊娠が分かって、それでヤケになっちゃったのかなと思って……。でも、あの、大丈夫だよ。あのね、エレナさんは、妊娠したら、宇宙船を降ろされると思ってるみたいだけど、ちがうよ」


 ルナもエレナも知らないうちに、グレンが移動していた。クラウドの姿もなかった。


「だからね、だから――エレナさんは、赤ちゃんを産めます」


 エレナが、怯えたようにルナから手を離した。


「ここは、赤ちゃんを産む女性に、とってもよい環境だって、レイチェルが言ってました。病院も、設備が整ってるし、無料だし、定期的にママ会とかもあるんだって。……だから、エレナさん、べつに妊娠したから降ろされるって決まりはないの。試験もないよ。地球に行く、試験なんてない」


 ルナはきっぱりと言った。


「“エレナさんが、最後まで地球に行くことをあきらめなければ、”必ず、地球には行けるんだよ」


 ルナは言いきって、部屋の空気が凍り付いているのが分かった。みんな驚くだけ驚き過ぎて、声も出ないらしい。

 なにに驚いたのだろうか。妊娠のことか。


 エレナも、どうしたらいいのかすっかり毒気を抜かれて、座り込んでしまった。


 ルナの言葉は、ほとんどエレナにとっては爆弾みたいなもので、でもそれが爆弾になったということは、ルナの予想はほぼ当たっていたということだ。


 気づけば、グレンがそばにいた。クラウドもだ。


 グレンが、エレナから刃物を取り上げた。そしてルナに手を伸ばし、引き寄せようとしたが、ルナが首を振った。

 ルナはエレナに寄りそうように、しゃがみこんだ。


「……アズは病院に行けって言わなかった?」


「……アイツの部屋にいったときだ。……二回目。二回目だったかな……。あたしは、今度こそアイツに抱かれたいと思って――なのに。……急に気分悪くなって、吐いちまって」


 エレナが、なにも見ていない目で続ける。


「妊娠なのは分かってた。よくあることだから。あたしはすぐにでもおろすつもりだったけど、」


 エレナの言葉が、急に湿った。


「……なんか、あそこ出た時点で生ぬるくなっちまってたのかなあ……。急におろしたくなくなって。時期的に船に乗るまえで、そりゃ、だれの子かわかんない子だけどさ。――あたしはもうあそこにもどんなくていいんだ。地球に行くんだって、そう覚悟するたびに、おろしたくなくなって……。産んだっていいんじゃないか。あたし、今まで二回もおろしてきたんだ。これ以上おろしたら、もうきっと産めなくなっちまう。でも怖くってさ。妊娠してたら、試験受けらんないかもとか、いろいろ不安になっちまって……。だれかに聞きたかったけど、カレンやセルゲイさんには怖くて聞けなかった。セルゲイさん医者だろう? じゃあ、おろせって言われたら、あたし、おろせんのかなって」


 次第に、エレナの声が潤みを帯びてくる。


「……あたし、どうしたらいいか分からなくなっちまった。だまってても、このまま腹が出てくればみんなにバレちまう。アズラエルには、吐いたときに気づかれちまったけど、おろしたらとかおろすなとか、なんにも言わなかった。でもさ、……なんかあたしの妊娠分かってから、へんに優しくなっちまって……。父親になる気もないのにさ」


 やっぱり優しくしたんじゃないか。

 ルナはウサ耳を立たせたが、今はそれどころではない。


「――不思議だね。あそこ出たら、あたしみたいなやつでも、なんだか幸せになれるかもしれないってへんな期待がでてきちゃってさ……。じぶんが、もう娼婦じゃない、もう好きでもない男と寝なくていいんだって思うたびに、娼婦扱いされて期待なんかすっ飛んだりして――。

 あたし――、一回くらい、自分がいいなって思った男と、恋人の振りしてみたかったんだ。傭兵ってさ、はぐれ者だろ? あたしらとおんなじ――だから、カンちがいしちまったんだ。アイツとあたしがおなじ人間だって。だからあたしの気持ちわかっててくれるんじゃないかって。だから――」


 エレナは訥々(とつとつ)と話し、やがてうなだれた。


「産んでいいのかって――あたしなんかが産んでいいのかなあ。ほんとうかな。産んだとたん、親子ともども、宇宙船を降ろされたらどうしよう」


 エレナはまだ、信じていないようだった。グレンとルナは顔を見合わせた。


「あたしは、あんたを――もう傷つけてしまったし」


「ほ――本当だよ!」


 ルナたちは、いきなり現れた「第三者」に、目を見張った。だが、彼らが怪しい人間でないとわかったのは、セルゲイとマックスがいっしょだったからだ。

 袈裟(けさ)をつけたお坊さんが、少年とともに立っている。髪が爆発したじょうぶな婦人が、赤ん坊を抱いて、エレナのそばに寄っていった。



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