60話 パニックインザリリザ Ⅵ 2
日付が変われば、リリザの引っ切りなしのパレードも、なりを潜める。それでも、都市を煌めかせているネオンはまだ輝いている。
ルナたちが宿泊するホテルが立ち並ぶ場所は静かだが、カジノがある地区は、光が二十四時間消えることはない。目がチカチカするほどの派手なネオンサインの群れも、こうして遠目から見れば、一幅の絵画だ。
遊園地が乱立する地域から、車で一時間ほど離れたこの埠頭は、グランポート港の北端。
夜は、まるでひと気はない。ここは、リリザのあらゆる地方を行き来する船が停泊しているが、ほとんど物資輸送船か、観光船――夜は運営していない。
夜の港は静かだ。
深夜ともなれば当然だが、昼も夜も明るいリリザにはないはずの、目を凝らさなければ、人の顔すら分からない暗闇がそこにあった。
カジノ地区へ渡るはずの、小さな船舶が、港から少し離れた岸辺に泊まっていた。照明を落とし、エンジンも切っているため、波の音だけがかすかに聞こえるのみだった。
今夜は、この北岸から出航する船はないはずだった。
「話がちがうぜ、エレナ」
大柄な男が二人と、痩せた小男、女がふたり。
そして、布にくるまれた少女が――ひとり。
小型船と岸の間で、ジュリはぶるぶる震えていた。
さっきエレナに殴られたばかりだ。
もう余計なこと言ってはいけないが、でも、どうしたらいい。このままでは、ルナが。
「俺はよう、栗毛のチビだって聞いてた。L4系から乗った、“あとくされ”のねえ小娘だってな」
体じゅうひげもじゃの、酒臭い男が言った。
この小型船を操る男とエレナは、ラガーで知り合った。L8系から乗ってきたならず者だ。
L87にいたころは、麻薬の転売や人身売買にも手を染めていた男。だが、軽犯罪歴しかなかったため、宇宙船に乗ることができた果報者だ。
男は、毛だらけの芋虫のような指で、失神しているルナの髪の毛をすいた。
「容姿は申し分ねえ。高く売れるさ。当然だな、いいとこのお嬢だ」
「そんなこたあない、L45の小娘だって言っただろ!」
エレナは怒鳴った。
「売り飛ばすまえに、味見してくれてもかまわないっていったじゃないか。怖気づいたのかい」
「そうじゃねえ。オリャアな、L4系の後腐れのねえ小娘ならいいって言ったんだ。俺の目をだませると思ってんのかエレナ。俺は長年この商売をしてきた。見ろよ、このお嬢さんの血色のいいこと!」
ルナの頬を、ぶに、とつまむ。
「こりゃL4系の小娘じゃねえ。L5系かL7系のガキだ。いいか? 俺はL5から7のガキには手を出さねえ。あとで面倒なことになるのが分かりきってるからな。俺は、身寄りのねえ娘ならこの話に乗ってもいいといったんだ。身寄りのねえ小娘ならいなくなっても失踪ですむ。ただでさえ、あの宇宙船は決まりごとが厳しいとこだ。さすがにこの娘がいなくなりゃ、問題になるだろうが」
「あんな宇宙船に乗ってりゃ肥えもするさ! ぐずぐずしてたら人がきちまうだろ! 早く連れてっておくれよ!」
「取引は中止だ」
「なんだって!?」
男が太い葉巻の先端を切り、火をつけた。甘ったるい匂いが漂う。
「おめえはL4系の小娘だって言った。だがそれは嘘だった。小娘が目を覚まさねえうちにとっとと連れてけ。何事もなかったようにな」
「ちょっと待っておくれよ」
エレナが急に猫なで声になった。
「バカお言いでないよ。何事もなかったようにだなんて、無理だよ」
「そりゃ、俺には関係ねえこった。娘をリリザの娼館に売り飛ばせといったのはてめえだ」
「頼むよ、もう後もどりできないんだよあたしらは、」
「だったら今からでもトンズラするこったな。宇宙船に降ろされる前に、このリリザでほかの宇宙船に乗って姿くらますこった。そうすりゃ、三ヶ月後には降船者扱いになるさ」
「……そんな金、たまってやしないよ! まだ乗って数ヶ月なんだよ!?」
今降りても、よそで暮らせるだけの資金はたまってはいない。エレナはギュッと、こぶしを握った。
「な、なあ――コイツを売っ払ってくれりゃ、どこでもいいんだ。ねえ……、あたし、うんとサービスするよ。ジュリもさ。あたしら、これでも母星じゃ中級娼婦だったんだ。中級娼婦をただで抱けるんだよ? 悪い話じゃない――」
「落ちたモンだなエレナよう」
男が、下卑た声で嘲笑った。
「娼婦が、女衒のまねか」
「おめえはなにか、カンチガイしてねえか、エレナ」
欠けた歯の男が、ヤニ臭い息を吐き出しながら笑った。
「俺らは、おめえらがただで寝てくれるし、小娘を売っぱらった金ももらっていいというから乗ったんだ。おめえらがしつこくごねるってンなら、おめえらを売っぱらっちまってもいいんだ」
ジュリがヒクッと喉を鳴らした。怯えたのだ。
「そうだな。その小娘より、よっぽど後腐れがねえ」
ヒゲもじゃの男が、おかしげに笑った。
エレナは歯噛みしたが、どうにもならなかった。
後ろで、運転手をしていた小男が、寒さに足を踏み鳴らしている。このこすい顔をしたチビは、L8系でスリをしていた小物だった。
女日照りのしわくちゃな顔をした小男は、ずっとエレナとジュリを舐めるような視線で見ている。報酬の一晩を、待ちわびているのだ。
「……しょうがねえ。小娘は、俺たちが宇宙船へもどしてやる」
そういった雰囲気は、伝播するものなのか。小男の執拗な期待が、ほかの男二人にも伝わった。
「そのかわり、ここで楽しませてもらうぜ」
小さなたるのような腕が、ジュリの細い腕をつかんだ。
「カレン! カレン助けて!」
ジュリが悲鳴のような声を上げるが、声にならない。
エレナも蒼白になった。背後に、ねっとりと生臭い小男の息がある。
鳥肌立って、思わず振り払ったが、もう一人の男に羽交い絞めにされた。身動きできない。
だれかが、殴った音がした。わめくジュリが、船内に引きずられていく。
ダメだ。今は、ダメだ。
男に乱暴されたことなど、数え上げればきりがない。乱暴な客は結構いたから、こんなことは慣れっこだ。だが、今はだめだ。今、そんなことをされたら――。
どっと、冷や汗が背筋を伝った。
嫌だ。
エレナまで、足がガタガタと震えだした。
――おやめなさい。
涼やかな、声がした。
潮臭い匂いの漂う埠頭を、一気に聖域に変えてしまうような声だ。
ひと気はなかったはずだ。
警備員かと思って、泣きわめくジュリから手を離した男は、がくりと膝を崩して、呆然とそちらを見た。
決してライトなどではない――暗闇にぽっかりと、自然発光したような――まばゆいばかりの虹色の光のなかに、美しいストールを巻いた人物の影があった。
ならず者の男たちが、その声の主の姿を見た途端に、「ひいっ!!」と叫んで頭を抱えてうずくまった。
見てはいけないものを見るように、全身で震えている。
ジュリも、「神様、神様、」とガタガタ震えながら、腰を抜かしていた。
警備員ではない。
ならず者にはそれがなんなのか、よくわかった。
あのオッドアイ――褐色の肌――L03の民族衣装。
どうしてこんなところに、サルーディーバが。
エレナのめのまえに現れたのは、ただの人間だ。
足がある。エレナはそれをたしかめた。
厚いストールを巻いた、背の高いオッドアイの――。
その人は、エレナに向かい、言った。
――あなたは娼婦としてのおのれを厭うていたはず。なのになぜ、やっとその役目から逃れた今、また娼婦にもどろうとするのですか。
「な、なんだいあんた……」
エレナだけが食ってかかろうとしたが、ジュリがものすごい力でエレナにつかみかかった。近づいちゃダメと、言っているようだ。
――その子を地球行き宇宙船にお返しなさい。その子は神に守られた子です。
厳かな声に、男たちとジュリは平伏して「へい、へい!」と何度も返事をした。
エレナがなにか言おうとするのを、男が無理やり髪を引っつかんで頭を下げさせた。
――約束しましたよ――。
生き神の姿が、虹色に消え去るのを、男たちは見た。ジュリは、今まで以上に震えだして、失禁していた。
「バカ野郎っ!!」
虹色の光が消えると、急に、男が怒鳴った。
「とんでもねえことに巻き込んでくれたな!? 冗談じゃあねえ!! 早くその娘を連れていけ!!」
「なにをそんなに怒っ――」
「連れていけ!!」
目も血走り、すさまじい形相で叫ぶ男に、あわててエレナとジュリは気絶したルナを布にくるんで抱えると、運転手の小男とともに車に乗り込んだ。
「いったいなんだってんだい!」
エレナは憤怒していたが、助かったのも事実だ。あのままでは、自分たちはどうなっていたことか――。
さっきまで、エレナをよだれも流さんばかりに見つめていた小男は、すっかり怯えきって、ハンドルを持つ手もガタガタいっていた。
「あんた、知らねえのか!? ありゃサルーディーバだ!」
「……サルーディーバって……。あの神様の?」
ジュリが泣き出した。「かみさまが助けてくれたんだ!」
「そうだ。ちくしょう、あんた、罰があたるぞ! 神様に守られた娘を売り飛ばそうとするなんて!」
小男も半泣きだった。
「俺もばちがあたるのかなあ。知ってたら、いくら女日照りだからってよう、こんなことしなかったのによう。俺は降りるぞ、今日宇宙船を降りる」
「バカじゃないのかい怯えちゃって。なにが神様だよ、足があったじゃないか」
エレナもサルーディーバの名くらいは知っている。
だが、あれは人間だ。
神様なんてのがいてたまるかい。
「エレナ、ほんとに見えなかったの」
「なにがだよ」
「かみさま――キラキラしてたんだよ――キラキラ」
うっとりと目を細めたジュリは、ルナをしっかり抱きかかえた。ジュリは、ルナが神様に守られた人間で、大切にしなければならないと思ったらしい。
もとから、ジュリにルナを害する気はなかった。エレナに命令されたから、しかたなくルナをホテルの外に連れだしただけなのだ。
バカげている。
みんな、バカげている。
(――なにが神さまだ)
エレナは、ルナを憎々しげに見つめた。
こんな小娘のどこがいいというのだ。
エレナは理解できなかった。美人でもなく、身体がふくよかなわけでもない。――男を楽しませるすべも知らず、身体も未熟だ。
それなのに、アズラエルに愛される――そんな価値が、この小娘のどこにある。
アズラエルの激しさを、この小娘が受け止められるとも思えない。
それとも、アズラエルは、この娘を大切に扱うのだろうか。
決して己の劣情をぶつけるような真似はせず、慈しむような抱き方をするのだろうか。
壊れ物でも扱うように。
それを考えると、エレナは、はらわたが煮えくり返りそうだった。
アズラエルはこんな女が良かったというのか。
アズラエルが愛した女が、バーガスの妻のように、強く賢い女の傭兵だったら、まだあきらめがついた。そんな女ならアズラエルにはふさわしい。けれど、アズラエルを体で慰めることもできない小娘が、アズラエルの恋人だなんて。
納得いかない。できない。許せない。
(ねえ、アズラエル)
あんたはそのうちこの娘に飽きるよ――きっとそうだ。
あんたにこんな女はふさわしくない。
あたしなら、あんたをもっと包んであげられるのに。優しく、慰めてあげられるのに。
もっとも、それしかできないけれど。
神様に守られ、――アズラエルにも、グレンにも、セルゲイにも愛されているルナ。
サルーディーバがなんだというのだ。
神様がいるのなら、なぜこんなにこの世は不公平に満ちているのか。
だれにでも愛され、地球に行くのになんの問題もない娘がいて、たったひとつの欲しいものすら手に入らず、……命がけで乗った宇宙船なのに、もしかしたら、もう降ろされるかもしれないあたしがいる。
神様がほんとうにいるのなら、あたしにアズラエルをおくれ。
あたしはもうそれしかいらない。あたしはどうせ、「地球には行けない身体」になっちまった。
彼がこっちを向いてくれるなら、ほかになにもいらない。
アズラエル、あんたのためなら、あたしはもう一度L44にもどって娼婦になってもいいんだ。あんたがあたしを愛してくれるなら。
でも、もう無理なのはわかっている。
アズラエルもグレンも、あたしを憎むだろう。
エレナは、ぼんやりと考えた。
自分を好きだといった、マヌケ面の男の顔を、一瞬だけ思い浮かべた。
ルートヴィヒと言ったか。
アイツもルナ同様、なんの苦労も知らない、育ちのよさそうな男だった。
そんなにあたしが好きなら、いっぺんくらい抱かれてやってもよかったかもしれない。この車を運転している小男よりは、よほどマシだっただろうに。




