59話 パニックインザリリザ Ⅴ 1
「うっさぎじゃないよ、うさけつだよ! ウサギじゃないよ、プリケツだよ♪」
上機嫌で、草原をスキップするルナの歌う歌を聞いているだけで、頭がラリパッパになりそうだった。
あれは、草原の真ん中にあったウサギ小屋で、ルナが必死で干し草をあげようとしていたウサギがいっさいルナのほうを向かず、尻ばかり向けていたことに対する無念の気持ちを歌った歌だろうか――。
傭兵と軍人は、そう考えた。
そのわりに、ルナはご機嫌だった。目的のウサギは振り向いてくれず、ほかのウサギに横取りされた干し草だったが、ルナは満足そうだった。
草原を抜け、イハナの財布が流れた川を越え、シャイン・システムでジニー・タウンの入り口に着いた。
瞬間、傭兵と軍人の足が止まった。
背には冷や汗が流れ、手が汗ばむのが分かった。いままで、どんな戦場でも尻込みしなかった、歴戦の勇士の足が、あまりの恐怖にすくんだ――。
「ムキャー! ジニー・タウン!!」
うれしげにウサギが振り返る。
「行こう! アズ、グレン!!」
なんて場所だ――!
あまりのファンシーさに、猛獣二頭は戦慄した。
特にグレンは後悔していた。ルナと一緒なら、ジニー・タウンにも行ってやるだのなんだの豪語していた彼だったが、実際の場所を見て、マジで後悔した。お化け屋敷より入りたくない。
「ちょ……待て。ここに入るのか?」
「待ってていいか」
さすがのグレンも足を止め、アズラエルはすでに三歩くらい退いていた。こんなところをルナと歩いたら、確実に職務質問に遭う。むしろ捕まる。
「いっしょにいかないの……?」
とたんに悲しげに目を潤ませた小動物を前に、猛獣どもは決意した。
猛獣二頭が、威圧感で周囲を震撼させながら、ジニー・タウンに一歩踏み出した、一時間前のこと。
ミシェルはロビンと一緒に、リリザのガラス専門店に入っていた。
この辺りは、雑貨店や、お土産売り場がずらりと並んでいるショッピングモールだ。
ミシェルが惹かれて入った店は、外観がまるで城のような造りで、内装も豪奢だった。
一階と二階全部が、ガラスの商品で埋まっている。
ガラスにキラキラと光が乱反射して、荘厳な光景だ。窓ガラスはステンドグラス。奥には大きな水槽が壁一面にあって、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。キラキラモノが大好きなミシェルとしては、一日こもっていたくなる、そんな場所だ。
一階は、リリザのマスコットキャラクターの製品が数多く並び、マスコットの置物だの、グラスだの、ティーセット、ガラスでできたペンダントにストラップ――小物が無限大にあふれている。
ずいぶんたくさんの人でごったがえしていて、ひとつひとつの品物をうっとりと見て歩くうち、ミシェルはいつのまにか、ロビンともはぐれてしまっていた。
ミシェルはガラスでできた動物がついたストラップを、五つ買った。
青いネコは自分に、赤いネコはリサに、七色のネコはキラに。ピンクのウサギはルナに。
そして、ちいさな小鳥のストラップを、ロビンのために買った。
ロビンに買ったグレーの小鳥の横には、カナリアであろう鳥のストラップもある。その小さな金色を見て、クラウドの金髪を思い出し、複雑な思いに駆られた。
結局ミシェルは、カナリアのストラップは買わなかった。
店内を進んでいくと、少し値段の張るものが置いてあるコーナーがあった。そこにはグラスやガラスの器、置物が並べてあって、絶対にお手頃とは言えない値段の横に、おそらく製作者の名前であろうサインが連なっていた。
デザイナー作の、一点ものなのだろう。
ミシェルは冷やかしのつもりでそれらを眺めて、そのうち、ふたつでセットの、美しいロンググラスに目を留めた。
なんて美しさだろう。
濃いブルーのグラデーションがグラスを染めている。真っ青なグラスなのだが、上から下に、浅瀬から海溝にでも至るかのような、絶妙な濃淡――ガラスの気泡が海に浮き、よくみれば、あまりに繊細な線で彫られた魚が、泳いでいる。
美しかった。
この青色が、得も言われぬ味わいだ。どうやって、こんな色を出すのだろう。
思わず見とれ、買えないのをわかっていて値段を見、ためいきをつく。
ためいきをついたのは、値段のせいだけではなかった。
このグラスを見た途端、頭に思い浮かんだことは、「これでクラウドとビールが飲めたら、美味しいだろうな」ということだった。
クラウドはビールが好きだ。濃い色のアイリッシュ・ビール。
「ここにいたのか」
ロビンが少し息を切らして駆け寄ってきた。
ここは値段が別格のこともあってか、人はほとんどいない。
「L77の子って、すぐひとりでいなくなっちまうのな」
危ないぜ、一人でウロウロするなよ。
そういってロビンは笑った。アズラエルが、ルナにさんざん振り回されているのを聞いていたせいなのか。
「なにを見てるの」
ミシェルが見とれていたグラスを、ロビンも見つめ、「キレイじゃないか」と言った。
「うん。買えないけど、あたしこういうの見るの、好きなの」
「ふうん」
「あ、」
ミシェルが戸惑う間もなく、ロビンは無遠慮にグラスをつかみあげていた。
「これ、欲しいの?」
ロビンが値段をたしかめ、いい値段だな、と口笛を吹く。
「だけど、初のプレゼントにはぴったりだな」
「――ちょっと、」
「俺とつかおう。ペアグラスだし」
「ねえ、ロビン」
ミシェルは、男のコートの裾を引っ張った。
「あたしは、あなたとはつきあえないよ」
飄々としたロビンの表情は変わらなかったが、彼はグラスをもとの位置にもどし、それから少し肩をすくめた。
「……それは、俺とこのグラスはつかえないってことなのか?」
ミシェルは、うなずいた。その即答ぶりにロビンは目を泳がせて、それからミシェルを見た。
「どうして?」
「どうしてって……」
「俺のセックスが気に入らなかった? それとも俺のルックス? 性格? それとも気が合わなかったってことか?」
露骨に言われて、ミシェルの頬が染まる。あの朝を思い出して、妙に気恥ずかしくなった。
「えっちはしてないでしょ」
「……」
「そうだよね? あなた、寝てる女の人に手を出すような感じじゃないもん――そんなに不自由してなさそうだもん」
「不自由しているかどうかは、俺が思うことであって、君のそれはただの想像だ」
ずっと余裕しかなかったロビンの顔に、はじめて苛立ちが見えた。
「じゃあ、俺がぜんぶの女と切れるっていったら、つきあってくれる?」
今度はミシェルが言葉を失う番だった。
「出会い方が悪かったのかもしれないな――俺は、アンジェラの手先になったわけじゃない。君を気に入ったのは、バーベキューの会場で、はじめて会ったときからだ」
「……」
「地球行き宇宙船は、運命の相手に出会えるんだろ。クラウドもそうかもしれないが、俺にとって、君がそうだったら」
ロビンは、熱心に言った。ひと気のない二階で、ほんとうによかったと思うほど。
「俺はアズラエルを恨んでる。どうして、クラウドより先に会えなかった――君に。君だって、俺を嫌いなわけじゃない。一緒のベッドに入っても平気なくらいには」
ミシェルは反駁しようと口をパクパク開けたが、言葉は出てこない。
ロビンはてこでも、ミシェルに手を出していない、とは言いたくないようだった。それがなぜなのか、ミシェルにも分からない。
「――でも」
やっと、ミシェルがうつむいて発した声に、ロビンは聞く姿勢を見せた。
むしろ容姿だけ言えば、ロビンのほうが、クラウドより好みだ。性格はいい加減そうだけれど、全開の笑顔は可愛かった。
不満なんてない。クラウドに会っていなかったら、ロビンと付き合っていただろう。
でも。
「あたしはやっぱり、クラウドのことが、……」
「忘れられない?」
それを言ったのは、ロビンではなかった。ロビンもミシェルも、その声がした方向へ目を向けた。
金髪のつむじが見えた。
クラウドは、身体を折りまげて、肩で息をしているのだ。
両手は膝についていた。ふいに、クラウドの匂いがしてミシェルは狼狽えた。クラウドは、いつも香水をつけるのを忘れなくて、クラウドからはあまり体臭はしなかった――まるでヒューマノイドみたいに。
今日はまったく香水の匂いがしない。それどころか、髪さえぼさぼさだった。
「クラ――」
ミシェルはクラウドを見た途端に、踵を返して店から出た。さっき、クラウドを忘れられない、と言いかけたばかりなのに。
あわててクラウドもロビンも、ミシェルを追って店を出た。
「待っ、待って! ミシェル!」
息も整えずに、クラウドは叫んだ。ミシェルの背がやっと止まった。
「ミシェ、ミシェル……」
「どうして、あたしのいる場所が分かったの」
ミシェルが振り返って、クラウドを睨み据えた。ミシェルの声は怒りをはらんでいたが、もう、怯えは含まれていなかった。
クラウドはまだぜいぜい言いながら、携帯をミシェルに差し出した。
「追跡装置がある。俺が独自に開発した。それで――」
「追跡装置!?」
ミシェルが絶叫した。周りの人間が振り返って見ていく。
「信じらんない!! おかしいんじゃないの!? つ、追跡装置って……!」
つかつかと歩み寄り、ミシェルは両手で、クラウドの胸ぐらをつかんだ。クラウドは殴られるのを覚悟して、目をつむったが。
ミシェルの両目には、涙があふれんばかりになっていた。
「しんっ、信じられないなにこの変態!! このストーカー!!」
あまり衝撃のない拳が、クラウドの肩のあたりを何度か殴っていった。
「ミシェル……」
「バカじゃないの!? 嫌いって言ったでしょ!? 顔も見たくないって言ったじゃない!!」
「――うん、ごめん……」
クラウドは、固い声音でつぶやき、ミシェルに殴られるままに任せている。やがて、ミシェルのバッグが、クラウドの胸にどさりと伸し掛かった。
ミシェルも、泣くのを我慢しているのと、夢中でクラウドを叩いたことで、息を喘がせていた。
「あんたなんか――」
クラウドの胸に両手をついたまま、唸った。
「あんたなんか、ヘンタイなんだから。ストーカーなんだから、バカなんだから……」
クラウドは恐る恐る手を上げて、ミシェルの呼吸を鎮めようと、背を撫でた。その手がバシっと払われる。
ミシェルは袖で涙をぬぐうと、「ばか!!」と最後にひとつ、怒鳴った。
「ごめん。ほんとに――ごめん」
クラウドの声も、もう泣きそうだった。
「――だから俺、宇宙船降りようと思って。ほんとに。だから最後に、ミシェルにひとことだけ、謝りたかったんだ。ミシェルが宇宙船を降りちゃうんじゃないかって――思って――心配して――ミシェルが降りる必要なんかないんだ。俺が降りる、降りるから。ミシェルが、俺のことが嫌なら、俺は君の前から消える。きっと俺は、君に会うために、宇宙船に乗ったんだ。だから――」
言い募るうちに、クラウドの声がぐずついてくる。奇妙なものでも見るように、ミシェルが顔を上げた。
ああ、ダメだ。
みんな台無しだ。
『好きな女に、本当の自分見せねえで、付き合っていくつもりかよ?』
アズラエルのセリフが頭によみがえる。
でも、アズはルナちゃんに涙を見せたりはしないだろ?
俺だって、ミシェルのまえではカッコつけたかったんだ。
最後までカッコつけて、ミシェルに別れを告げるつもりだった。少しでもミシェルに、自分に対する未練があれば、「宇宙船を降りる」といえば引き留めてくれるかもしれない、そんな打算もあった。
でもダメだ。
ミシェルに手を払われたら、とてもつらくなってしまった。
泣きたくなんかない、俺は泣き虫じゃない。
どんなことがあっても、ミシェルの前では余裕のある男でいたかった。
それなのに。
「うっ……、ぐす……っ」
ダメだ。全開で泣いたら、ミシェルに軽蔑される。
だれに軽蔑されるより、クラウドはそれが怖かった。
「うっ、う……」
クラウドの綺麗な顔が歪み、ぼろぼろっと、その宝石のような切れ長の目から涙があふれるのを、ミシェルは呆然と見た。自分の涙が引っ込んだ。
「うっ、うえ……、うえええええええん」
突然、子どものように泣き出したクラウドに、ミシェルだけではない、ロビンも目を丸くした。
それから恐ろしく動揺しつつ、「お、おい……」と声をかけた。身長のある、ただでさえだれもが振り返る美形男が、往来で声を上げて泣き出すなんて。別の意味で目立つ。
「ちょ、おい、泣くなこんなとこで」
我に返ったのはロビンのほうが先で、あわててクラウドをベンチのほうへ引きずろうとした。だがクラウドは泣きながら後ろを向き、必死で涙をこらえながら歩き出した。この場を去ろうとしているのか。
地に根を張ったミシェルの足が自由になったのは、ここでやっとだ。
「ク、クラウド!」
ミシェルは思わず引き留めてしまっていた。
クラウドは、大声で泣くのはやめたにせよ、まだしゃくり上げている。本当に、幼児のような泣き方だ。だが一応は成人男性たるクラウドは、ミシェルに鼻の頭まで赤くなった泣き顔を見せたくないのか、顔を逸らした。
「なっ、」
ミシェルはきつく怒鳴ろうとしたが、口調はフェードアウトした。
「なに、泣いてんのよ……」
泣きたいのはこっちよ、と言いかけて、ミシェルはクラウドの袖をつかんだままうつむいた。
「ごっ、ごめ、」
謝ろうとすると、ますます涙があふれてくるようだった。クラウドは必死で堪えているが、やがて、しゃくりあげながら言った。
「お、俺――泣くのだけは、我慢できないんだ」
掌で口を覆った。
「しん、りさくせんぶの訓練で……俺、色んな感情をリセットして出さないように訓練受けたけど……泣くのだけは、」
赤ん坊の大泣きは、それ自体がストレス解消の手段だという。クラウドは、小さなころから感情の乏しい子どもだったが、泣くのだけは派手だった。ほかの感情が乏しいせいで、突発的に泣き出すと、その感情の激しさに周囲は怯んだものだが、親だけはそれを理解し、そのままにさせてきた。
そういった理由はわからずとも、アズラエルもそうだった。クラウドの泣きっぷりを呆れながらも、止めようとはしなかった。
感情がおさまれば、泣き止むのだ。
ミシェルは、そんなことは知らなかったが、クラウドが泣くのを止めようとはしなかった。そのあいだにも、クラウドは、必死で泣くのをやめようとしている。
しかし、無理のようだ。嗚咽は、止まる様子を見せない。
ミシェルは、驚きを通り越して、なんだかおかしくなってきた。
――すごい泣き方だな。
クラウドを下から眺めて、ぼんやりとそう思った。
泣き顔というのは、あまり綺麗なものではない、顔はくしゃくしゃになり、鼻水と涙で顔はべどべとになる。だけど、ミシェルは、クラウドの泣き顔が嫌だとは思わなかった。
(――あたしは、なにが怖かったんだろ)
このひとの、なにが。
今となっては、理由づけもくだらない気がした。
ミシェルは、初めてクラウドを近くに感じていた。香水の匂いに包まれて、絹みたいな金髪の、モデルみたいな完璧な男じゃなくて。
たしかに心理作戦部の、軍曹たる彼の顔は怖かった。今思い出しても身震いするくらい。けれど、クラウドがしてきたことは、みんなミシェルのためだった。
もともと、不思議な、つかみきれない人だとは思っていた。
あの怖い顔も、クラウドの一部だけれど、今めのまえで、鼻水もぬぐわず泣いている、子どもみたいなクラウドも、また彼の一部なのだ。
ミシェルは、嬉しい気持ちがあることが、不思議だった。こんなクラウドを見られたことが。
クラウドの頑丈な壁がはがれて、少しは、彼の本当の顔が見えた気がした。
――あたしは、ずっと恋なんて言われても正直、分からなかった。
クラウドがあたしを好きになってくれるほど、あたしは彼を好きになれないかもしれない。
だけど――あたしが好きだと泣いている彼を、放っておくことも、できない。
綺麗なグラスを見て、彼と過ごす時間を思い浮かべてしまうくらいは、あたしはクラウドが好きだ。
「俺を――嫌わないで」
ミシェルの心の内を知るはずもないクラウドは、泣きながら言った。
「君が俺を嫌なら、宇宙船を降りるから。嫌ったままにならないで。……いつかでいいから、俺を許して」
ミシェルは、ハンカチを取り出して、クラウドに渡した。そして顔を真っ赤にしたまま、うつむいたまま答えた。
「――あたしも、悪かったの」
クラウドのコートの裾を、ぎゅっと握って。
「あたし、酔っぱらいすぎてたと思う」
それに、アンジェラを見たいと言ったのはあたし。あたしのせい。
ぜんぶ、あたしのせい。
ミシェルが言い終えないうちに、クラウドに抱きすくめられた。クラウドの両手は震えていた。
なんでコイツ、震えてんの?
本当に、どうしてここまであたしを好きなのか、分からない。
ミシェルの照れ隠しを悟る余裕も、今のクラウドにはなかった。
「ちがう。……俺がひどいことをした」
ごめんね、ごめんね、と繰り返すクラウドの背を、ミシェルはようやく、同じくらい震える手で抱き返すことができたけれど。
「お二人さん。俺の存在忘れてねえか?」
ついでに、注目の的だぜ、と取り残されたロビンは、ふて腐れ顔で言った。




