56話 パンイクインザリリザ Ⅱ 2
時はさかのぼる。
ルナが、初めてルートヴィヒやグレンたちと出会い、彼らの部屋に宿泊したあの夜である。
あの日、ジュリはエレナを連れて、つきあっているカレン――の部屋に遊びに来た。
そこで、ルナがカレンに膝枕をしていた――言い直せば、カレンが勝手にルナの膝を借りていた――のを目撃し、ショックでキレて、ルナを突き飛ばした。
その日、ルナの知らないところで、ひとつの恋が生まれていたのだった。
ジュリはともかく、エレナはあまりベタベタした付き合いは苦手なのか、ほとんどグレンたちの部屋には顔を見せなかった。彼女はアズラエルに恋していて――本人は、認めたがらないが、周知の事実だった――その日は、面倒くさがるエレナを、ジュリが無理やり引っ張ってきたのだった。
あの時点で、ルートヴィヒとエレナは初めて会ったのである。
あれほど密着した人間関係の中で、顔くらい見知っていてもいいはずなのに、それがなかった。
ルートヴィヒは、エレナの名は知っていたが、顔を合わせたのは初めてだった。
ルートヴィヒは、エレナにひとめぼれした。
エレナはいままで、彼らの部屋に遊びに来ることはほとんどなかった――滅多に来ることがない彼女が、その日は、めずらしくやってきたのだ。
ルナを突き飛ばし、今度は死んだかと思ってパニックに陥ったジュリが、みんなになだめられて落ち着くと、エレナはすぐ「あたしは帰るよ」といって部屋を出て行こうとした。
理由は簡単。ルナがいたからだ。それに、おそらくこの部屋に来たのは本意ではなかったのだろう。ジュリに無理やり連れてこられたのか。
だが、酔っぱらっていたルートヴィヒは、空気など読めなかった。
突然彼は、エレナに、「俺と付き合ってください!」と叫んだのだ。
それなりの体格と筋肉を備えたルートヴィヒは、グレンほどではないが力は強い。
酔い、加減もしない力で両手を握りしめられて、エレナは痛そうに顔をゆがめた。酔っぱらっている彼は、運命の相手がめのまえに現れたハイテンションで、気づいていない。
「離しなよ!」
エレナがもがいて、やっとルートヴィヒが手を離した。
「あ……ご、ごめん……」
たしかにルートヴィヒは、エレナにひと目惚れしたのだが――間も悪かったし、いきなり初対面の男に「好きです」と告げられて、驚かない人間はいない。
しかも、かなり酔っていることが分かる。
さまざまなことが突然起こったせいで、グレンとセルゲイも、呆気に取られていた。つまり、エレナを気遣う余裕はなかった。
当然怯えて、その場を去ろうとしたエレナを、ルートヴィヒはあろうことか追いかけた。
エレナは早足で逃げた。無理もない。
一度だけ振り返ったが、そのまま階段を駆け下りはじめた。エレベーターを待っている余裕はなかった。
「ま、待ってよ、頼むから――!」
追いかけてくるルートヴィヒに焦ったのか――彼女は、階段を踏み外した。
足をくじいたエレナを、セルゲイが病院に連れて行こうとしたら、殊の外激しく抵抗された。エレナは、みんなが心配するのも振り払って、ひとりで足を引きずって帰ったのだった。
翌日のことだ。
ルートヴィヒが、ルナの作った朝ごはんを食べることができなかったのは、エレナの見舞いに行っていたからだった。
エレナの部屋は、ジュリの部屋でもあるから、グレンたちは住所を知っている。
ルートヴィヒは花束を持っておとずれた。昨夜のことを詫びるため――しかし、彼はなかなか部屋に行けずに、アパートの下の道路でウロウロしていた。
それがまずかった。
エレナが窓から見て、不審者だと思って、役所に通報したのだ。
さっさと部屋に行って、花束を渡して、ほっぺたのひとつでも引っぱたかれて出てくればよかったものを、なまじ躊躇いがちにウロウロしていたため、ストーカーと勘違いされたルートヴィヒ。
誤解を解くのは大変だった。
彼は危うく、宇宙船を降ろされるところだったのだ。
なんとかグレンが間に入って、驚かせたことを謝り、ただ見舞いに行っただけなのだと話して、ようやくわかってもらい、降りなければいけなかったところを取り下げてもらった。
エレナは結局、ルートヴィヒの気持ちを受け入れてはくれなかった。
だが、グレンにはわかった。
エレナは、アズラエルが好きだから、ルートヴィヒを拒絶したのではない。
エレナは、ルートヴィヒの言葉を本気と受け取っていないだけだ。
しかし、ルートヴィヒは本気も本気だ。エレナが運命の相手だと思い込んでいる節がある。ひと目惚れだろうがなんだろうが、ルートヴィヒはエレナに恋をした。
そもそも、今までルートヴィヒは、エレナを避けていた。
ルートヴィヒのほうが避けていたため、これほど密着した人間関係の中で、二人は出会わなかったのだ。
それは――ルートヴィヒの母親の名が、「エレナ」だったからだ。
しかも、L44の元娼婦というところまで同じ。
そして、グレンの母親の名は「ジュリ」。
友人同士の、もとL44娼婦の、ジュリとエレナ。
ここまで運命を匂わせるような名前と出自に、ルートヴィヒは最初、気味悪がっていた。
だからこそ、エレナとは会いたがらなかった。
相方のジュリの貞操観念がゆるすぎたのも原因だった。
オトコなしではいられないジュリは、だれかれかまわず、平気でベッドへ入ってきてしまう。人の部屋にも断りなく入るし、プライベートもあったものではない。
ルートヴィヒもグレンもセルゲイも、手当たり次第に誘惑してくる。娼館育ちだからといっても、あまりにも分別がない。
ルートヴィヒは正直、ジュリが苦手だった。
だから、相方のエレナにも会いたがらなかったし、色眼鏡で見ていたこともたしかだ。
そういっていたのに、初めてエレナの姿を見たときのルートヴィヒの顔と言ったらなかった。
エレナが、ルートヴィヒの母の「エレナ」とは似ても似つかない容姿だったせいだろうか。
名前と出自は同じでも、ふたりは何もかもが違う。
幼少期だけだが、ルートヴィヒとはきょうだいのように過ごしてきたグレンだ。彼の本気は、グレンにもよくわかった。
ルートヴィヒは、気軽に女を口説くが、付き合うときは誠実だ。浮気をしたこともないし、たいてい、バカみたいなのろけ話を聞くほうが、グレンは多かった。ルートヴィヒはバカ正直だから、二股をかけられる器用さもない。
だが、それはエレナには分からないことだ。
いい加減な男の言葉に慣らされてきたエレナにとっては、ルートヴィヒの「ひとめぼれ」など、信ずるに足るものではない。
「……どう説明したら、エレナに信じてもらえるかなぁ……」
ルートヴィヒがドン底の声で、ぼそぼそといった。
「もう……無視されてるしなぁ……、完全に嫌われちゃってるよ、なぁ」
「だったらあきらめて、ほかの女を探せよ」
グレンの投げやりな言葉に、ルートヴィヒがきっと顔を上げた。
「じゃあ、おまえだってルナあきらめて、ほかのコ探したらいいじゃんか! どうせ、アズラエルの女になっちゃってんだろ!?」
「俺は、おまえみてえに暗くなってねえ」
「ンだよ! きょうだいが落ち込んでるときぐらい、励ませねえのかよ! この銀色ハゲ!!」
「だれがハゲだ!! 俺は髪短いだけだろ!!」
「毎日前髪立たせてるからそのうち後退してくんだ、ハーゲ!! ツルッパゲ!」
「ンだとコラ!」
「うるさいよ」
ルートヴィヒが地獄の住人だとしたら、閻魔大王のような声がした。
「うひいっ!?」
ひんやりしたものを項に当てられ、グレンと取っ組み合いになっていたルートヴィヒは、悲鳴を上げて手を離した。
「……ア、アイス?」
「ふたりとも、ちょっとこれで頭冷やしなさい。糖分不足でイライラしてるんじゃないの」
閻魔大王は、セルゲイだった。
親切な閻魔様は、グレンとルートヴィヒに、カップに入ったアイスを手渡すと、自分もベンチに座って、スプーンをくわえた。近くのアイスの屋台で買ってきたのか。
すでにノートパソコンは閉じてあって、ひといきついているようだった。
「おまえな、遊園地来てまで仕事すんなよ」
「仕方ないだろう。明日までにカルテをまとめてメールで送らなきゃ行けないんだ」
コンセルヴァトワールに向かえなくなった手前、多忙な兄の仕事を、できる範囲で手伝おうとしているセルゲイだった。そんなセルゲイを、駄々をこねてリリザに連れ出したのはジュリである。
だが、ついてきてあげるセルゲイもセルゲイだ。
この男は、優しいのか閻魔大王なのか、グレンにも判断がつきかねるところがある。
「やっぱり、うるさすぎて集中できないな、ここだと」
遊園地で仕事をするほうが間違っている、とグレンは言いたかったが、仕方ないだろう。セルゲイが来ないとなると、またジュリをなだめるのにひと苦労だ。
ジュリは子どもそのものなので、とにかく一緒について来ればいいだけだ。おもりは、カレンがしてくれる。
「――なあ。こういうアイスしかなかったのか?」
グレンのセリフに、セルゲイは「嫌だった?」と尋ねた。
三人が手にしているアイスは、それはそれは可愛らしい代物だった。大きな男どもの手にはすっぽりおさまるサイズの、ピンクの水玉模様のカップに、カラフルなアイスが三つも重ねられていて、棒状のチョコレートと、動物クッキーがトッピングされている。
ちなみにグレンのはトラ、ルートヴィヒのは犬、セルゲイはパンダだった。
「動物クッキーの種類が、選べるんだよ。そのクッキーを崩して混ぜ込むと、チョコクッキーのアイスになるみたいだよ」
「おまえはやっぱ、大物だよ……」
あの、女子どもがキャピキャピ騒ぎながら並んでいるアイス屋に、平然と並んだのか。
しかも、オーソドックスなバニラアイス以外は、女子高生が選びそうな変わった類のアイスだった。
ミント味で、パチパチ弾けたりするやつ。
――やはりグレンには、セルゲイという男が分からなかった。
「こういうところに来たんだから、それらしいもの頼んでみなきゃ」
ルナちゃんて、こういうの好きそうだよね、と、セルゲイがパンダさんクッキーをくずし、混ぜていたところにジュリとカレンが帰ってきた。
「たっだいまー!!!!」
「たっ、ただいま……」
寒くはないが、暑くもないこの気候で、ジュリのおへそは今日も丸出し。
本気で子どもなのではないか。
飛び跳ねながら帰ってきたジュリとは対照に、カレンは前かがみになって唸っていた。心なしか、息が苦しそうだ。
「あっ! アイスー! あたしも食べたあい!! 一口ちょうだあい、ちょうだいー!」
ジュリがグレンに飛びついて、アイスをねだる。子どもに餌付けしている感覚だ。グレンがひとさじ口に入れてやると、ジュリは「おいしいー!!」と叫ぶ。
これがルナだったら、百倍しあわせだった。
グレンは何度思ったかしれない。
「……信じらんない。ジェットコースター十回連続で乗って、なんであたしより元気なんだよ……」
「軍人が泣くぜ、カレン」
グレンに背中をばしっとやられて、「おえっ」と変な声を上げた。
「アイス、うまそうだね。あたしも買ってこようかな」
ぐらぐらする頭をおさえて、ようやくまともに立ったカレンは、目線の先にアイスクリームの屋台を見つけてそういった。
「セルゲイの、何味なの? 一口ちょうだいよ」
カレンがセルゲイの前でぱかっと口を開ける。セルゲイは、自然なしぐさで、カレンにアイスを食べさせた。
思わず、グレンはジュリを目で探したが、ジュリはすでにアイスクリームショップに直行していて、見ていなかった。
口に出したのは、ルートヴィヒだった。彼は小声で、思っていたことを口にした。
「……な、やっぱ、あのふたりって、つきあってんじゃねえんだよな?」
「……」
カレンは男で、グレンやルートヴィヒに対しても男として接する。カレン自身が望むので、ふたりもそう接していた。
ジュリは無論のことだ。カレンを「王子様」だと思っている。
人類はL系惑星群に移住したころから、ジェンダーの境を簡単に飛び越えるようになっていた。
性転換手術の技術も発達したことによって、男から女へ、女から男へ、パーツでも付け替えるように変わる人間は多い。
そもそも、雌雄が最初から存在しない民族だって、L系やS系、リリザなどにもいるわけで、そういう意味では、ジェンダーそのものが、富裕層――主に都心部では崩壊しているといっていい。
それでも、生まれたときの性を簡単に変えてしまうのは、人口的に見れば少数派に位置することは違いなかった。
しかしL20という星は、環境もあって、女から男になる人間は多数派に属した。
L20は女系の軍事惑星であり、L18とも肩を並べる軍事惑星のひとつだ。女性としての特徴を生かして軍人を続けているものもあれば、やはり身体能力では男にかなわないと思うものも多くいる。
男としての身体機能を手に入れるため、あえて男に性転換する女もかなりいた。
だが、やはり自らの生まれついての性を変えることの裏には、それなりの事情があり、デリケートな問題だということは一貫して変わらない。
たとえ、アクセサリーのパーツを付け替えるように性転換できる時代になってもだ。
カレンはマッケランという姓を持っていて、グレンはドーソンという姓を持っている。
互いに、その姓がもつ重みは承知していた。軍事惑星群では知らないものがいない、その姓。
マッケランは、L20の代表たる名家だ。
そして、カレンの母、アランがどんな末路をたどったか――グレンは同じ軍事惑星の名家、ドーソン一族の嫡男だからこそ知っていた。だから、ふたりはこの宇宙船に乗ってから、一度たりとも自分の一族や、内面に踏み込んだ話はしていない。
もっとも、軍事惑星にいたころは、名前は知っていても、会うことはなかったふたりだ。
宇宙船ではじめて出会ったとき、カレンはグレンに、ひどい嫌悪を示したのだが、ルートヴィヒとセルゲイ、周辺の友人の協力によって、ただの「カレン」と「グレン」として、友人になることができたのだった。
グレンは、自分がそういった複雑な事情を抱えているため、不用意にだれかの内面に踏み込むことはしない。ルートヴィヒもまた、そうだった。
スポーツインストラクターという、人と接することが多い職業柄か、微妙な空気を読むのが上手だった。
だから、ルートヴィヒはカレンとジュリのことも、根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。
これまでは。
「――カレンが付き合ってるのは、ジュリだろ」
グレンが言うと、
「ああ――まあ、そう、だよな」
ルートヴィヒが、カリカリと顎をかく。
ルートヴィヒが、彼らの関わりについて、口にしたのはこれが初めてだ。
たしかに今、グレンもギクリとした。ルートヴィヒも同じことを思ったのだということは、そういう雰囲気が、駄々漏れだったということだ。だからあわててジュリを探した。こういった空気は、女のほうが感じ取りやすいものだ。ジュリが、このまえのルナのときのように、暴れだしたらたまらない。
カレンが男で、ジュリと付き合っているというわりには、あの二人の間に男女の空気は存在しない。どちらかというと仲のいい姉妹だった。
そのかわり、セルゲイといるときのカレンは、不思議と女を匂わせることがある。だからといって、彼らの間に、男女の関わりがあるかといえば、そうでもないのだろう。
カレンが、女を捨てきれていないのだ。
身体が男になったとはいえ、カレンは女のままだ。
一人称は「あたし」だし、乱暴だとはいえ、女言葉のまま。
女を捨てきれていないくせに、性転換したのは、なにか特別な理由あってのことだろう。
「……な、グレン。もしかしたらさ」
ルートヴィヒがためらいがちに言った。
「カレンって、ジュリと寝てないんじゃ――むぐっ!」
「カレンがもどってくる。だまってろ」
グレンはスプーンごと、ルートヴィヒの口を塞いだ。
アイスを手にしたカレンとジュリが仲良くもどってくる。その姿は本当に、女同士の友人か、きょうだいのようだった。
ジュリはパンダベンチのセルゲイの隣に腰かけて、セルゲイのアイスもひと口くれとせがんでいる。カレンだけが、グレンたちのほうに寄って来ていった。
「ねえ、あんたら退屈だったでしょ」
「見てわからねえか」
グレンが不機嫌に言うと、カレンは、
「悪かったってば。悪かったついでにさ、今度はあたしがここで待ってるから、ジュリと一回だけデートしてやってくんない? ジニー・タウンとペーター・タウンと、パプリカのほうはあたしが一緒に行くから。ジェットコースター、まだ乗りたいんだってさ。ルートヴィヒとグレンで、一回ずつ一緒に乗ってやってよ。そうしたらもう帰っていいから」
パプリカ・タウンにジュリと行けと言われるより、ましな選択だ。
「ま、……仕方ないっか。せっかく来たんだしな」
ルートヴィヒは、どうせならエレナと、とはもう言わなかった。
「セルゲイ先生は?」
「ジュリがコースターに夢中になってるあいだに、帰るかも」
「わかった。それよこせ」
グレンは、カレンとルートヴィヒの、空になったカップを受け取って、
「トイレついでにゴミ捨ててくる」
と言って、その場を立ち去った。




