52話 リハビリ夢の中 Ⅴ ~小さな仏僧と盗賊の首領~
ざああ。ざああ。ざあ。
波の音に聞こえますが、そうではありません。目を開ければ、たちまちに砂埃が目に入る砂漠です。
砂漠。
果てさえ見えぬ、砂塵の世界――。
ウサギさんは、よろよろとまろびより、やがて、砂の大地に倒れ伏しました。縄をつけられて引きずりまわされた首と、背中が痛みます。身体は打撲傷だらけでした。
もはや、これまで。
ウサギさんは、遠のく意識の中で、それでも前へ這おうとします。
身体は、動きません。
L05は、星の半分が砂漠地帯です。L05のとある僧館の、見習い僧であるウサギさんには、大本堂のある地区へ、この広い砂漠を渡って、大切な書物を届ける役目がありました。
大切な、大切な、仏典。
もはや力尽きたウサギさんの懐にあるものは、全六巻のうち、一巻のみです。
ウサギさんは、口に入る砂を、吐きだす力さえありません。
この砂漠を縄張りとするライオンの盗賊団が、ウサギさんを襲ったのです。彼らは、ウサギさんのラクダを奪い、水と食料を奪い、ウサギさんが動けなくなるまで小突き倒しました。そうして、砂漠の真ん中に放り出したのです。
大きな褐色のライオンの首領は、大切な仏典を踏みにじりさえしました。
ああ、大切な仏典を、届けられずにわたしはここで命尽きねばなりません。
どうか、どうか、仏様。
大切な、この仏典だけでもどうか。
ウサギさんの願いが届いたのか、ウサギさんをだれかが抱き起こしました。ウサギさんは仏様かと思いましたが、ちがいました。一枚布を身体に巻きつけただけのトラさんでしたが、その威厳ある姿は、ウサギさんのような見習い僧ではありません。
その目の輝きと、全身から発する威厳は、偉大なる高僧にちがいありませんでした。
高僧のトラさんは、ウサギさんに水を飲ませようとしましたが、もう、ウサギさんには水を飲む力も残ってはいません。
この長い旅路、ウサギさんはひとりでした。身体の小さなウサギさんが、ひとりでこの旅をすることは、過酷でもありました。ほんとうは、ウサギさんはひとりで向かうはずではなかったのです。
同じ修業仲間の、銀色のトラさんと旅立つはずでした。
銀色のトラさんは、強い僧でしたし、盗賊団に捕まらない道も知っていました。けれど、そのトラさんは、出発直前に、僧になることを反対していた一族の者に、家に連れ戻されてしまったのです。
仲間の修行僧たちは、トラさんを罵りました。あの砂漠に入るのが怖くて、逃げ出したのだと。それほどこの砂漠は危険で、そしてそれこそが修業でもありました。
この修業――大本堂まで仏典を届ける役目を担うことは、とても名誉なことだったのです。そして、それはとても勇気のいることでもありました。
ウサギさんも、心の中で、トラさんを軽蔑しました。
親友を、軽蔑したこころが、仏のこころにそぐわなかったのだと、ウサギさんは思いました。
だから、仏のばつを受けて、わたしはいまここで死のうとしている。
親友が、この行に挑むことをどれだけ誇りに思っていたか、知っていたはずなのに。
ウサギさんは、一巻だけ残った仏典を僧に渡しました。
「どうか、どうか、これを大本堂へ」
高僧のトラさんはうなずきました。
「承知いたしました。ご安心ください。……ご存じであろうか。わたしは太陽を司る者でありました。月を司るあなたとはご縁が。太陽を司る者は導くことしかできませぬ。わたしはあなたの命を救えませなんだ。しかし、仏典は必ずや本堂へ導かれましょう。……また、いずれ」
ウサギさんは、安心して、眠るように息絶えました。
高僧のトラさんの後ろに、ひとりの大きい影が立ちつくしていました。
ライオンの盗賊団の、首領です。
高僧のトラさんは、静かに言いました。
「蛮人よ。おのが所業を見たか」
ライオンさんは、答えません。
「おまえたちは罪もない弱いものを、弄び、愚弄し、この砂漠を引きずりまわした。その意が分からぬというのなら、……その仏典を持ってついて参れ」
ライオンさんの手には、この小さな僧見習いから奪った、五巻の仏典がありました。
この星の原住民であり、L系惑星群共通語が分からないライオンさん。このウサギさんから奪った仏典は、奇しくも、原住民のためにわかりやすく砕き書かれた、原住民の言語の書物だったのです。
生まれてこの方、奪うことと殺すことしか知らなかったライオンさんにとって、この仏典は衝撃でもありました。なにしろ、「殺すなかれ」と書いてあるのですから。
仏典と、ウサギさんのか細い身体を抱きかかえた僧は、砂漠の中へ消えてゆきました。
ライオンさんは、だまってそのあとを追いました。
ウサギさんの躯は、大本堂で、この仏典の到着を待っていたパンダの大僧正に、丁重に葬られました。
じきに、僧となったライオンさんの姿が、この大本堂で見られるようになります。
――数年後、彼が仲間たちに見つかって、彼がウサギさんにしたのと同じ方法で、殺されるまで。
バラバラになったライオンさんの躯は、砂漠に消えました。




