49話 リリザ Ⅰ 4
豪奢なイタリアンレストランの隣に、中華料理店「シャンパオ」はあった。篆書で書かれた漢字は、ルナには読めないし、分からない。ただ、立派な店構えだということくらいはわかった。
中に入ると、ガラス戸を境に広いホールがあって、大勢の客がにぎやかに会食を楽しんでいる。支配人はルナをそちらへ連れて行こうとはしなかった。
まっすぐ、金の装飾が施された赤い廊下を進み、奥の個室へ案内した。
赤い垂れ幕の向こうに、白壁の部屋があった。ひとりで座るには大きすぎる丸テーブルと、大輪の牡丹が生けられた花瓶だけが調度品。
「どうぞ」
支配人は椅子を引いてルナを座らせた。それを合図に、チャイナドレスを着た美しい女の人が、薫り高いお茶を運んできた。ピンクがかった琥珀色のお茶には、白い花弁が浮かんでいる。
「こちらの席にご案内するお客様には、通常、メニューはお出ししないのですが」
鳳凰の刺繍が施された、緑の布地でできたメニュー表を差し出された。
「お好きなものを、お好きなだけどうぞ」
さまざまな中華料理のコースや単品、デザート、ドリンク、お茶、酒がこれでもかと並んでいる。
「わあ」
お金はいただきませんとおじいさんは言ったが、ひとつひとつの品が豪華で、値段もけっこうする。ルナは一応、財布の中身を思い浮かべた。電子マネーもあるし、カードもあるし、いざとなったら支払いは心配なくても、リリザで遊ぶためのお金を算段してしまうルナだった。
(ううむ……麻婆豆腐とか、エビ餃子とか、翡翠餃子とかおいしそう……からあげ食いたい)
どれもこれもおいしそうだったが、量も多そうだ。
ルナは決めた。
「では、広東麺と餃子と、デザートに杏仁豆腐ください!」
注文を聞いたチャイナドレスの美女と、支配人おじいさんが吹き出した。
「な、なにか、おかしかったですか……」
ちょっと頼みすぎただろうか。餃子は六個からだし、広東麺も大盛りに見えるし。
さっき、イマリたちに笑われたばかりだったルナは、ウサ耳をぺたりと垂れさせたが、「いやいや、失礼」と支配人は真顔で詫びた。
「タツキさまのおっしゃったとおりじゃ」
「お客様、失礼ながら」
チャイナドレスの美女は、やんわりと微笑んだ。それは、先ほどのイマリたちとの笑いとは、まったく別種類のものだ。
「支配人は、『お好きなものを、お好きなだけ』とおっしゃいました。つまり、満漢全席もご用意できますよ、という意味です」
「まんかんぜんせき?」
ルナは首を傾げた。おじいさんは、知らぬのも無理もない、と丁寧に説明してくれた。
「百種類以上の料理をですな、二、三日かけて食べる宴会料理です。実は、すでに材料はご用意しております」
「へげ!?」
ルナは叫んだ。
「二、三日もかかって、食べるんですか!?」
支配人と美女は同時にうなずいた。
「地球では大昔、そんな文化があったようですよ。演劇などを見ながら宴会をするんです」
「ふわあ」
百種類以上の料理なんて――つくるとしたら、どれだけ時間がかかるのだろう。しかも、食べるのはルナひとり。
まさか、おじいさんと、チャイナの美女もいっしょに食べてくれるというわけではなかろうし。
「ルナ様おひとりでしたら、五十種くらいにしぼって、一口ずつ食べていただいて、あとは残されてもけっこう」
「もったいなくないですか!?」
ルナの叫びを聞いて、ふたりはまた笑った。
「オーナーのお客様ですから、最上級のおもてなしを」
「よいのですよ。実は、タツキさまも、こう申されましてな」
――ルナのことだから、「もったいない」とか言い出して、逆に食事が楽しめなくなるだろうから、それだけのもてなしができるってことだけは知らせておけ。食事もそこそこにリリザで遊びたい気持ちが上だろう。メニューを出して、好きなものを食わせろ。――
「タキおじちゃん……」
ルナの独白に、ひと壁置いた隣室で「おにいちゃんですよ」とタツキ本人が訂正していることなど、ルナは知る由もない。
――それから、これから先、“大人数で”会食や会議があるときは、ウチをつかってもらうように。――
「大人数の、会食や会議?」
ルナは首を傾げた。そんな予定は、よの字もなかった。
「あたし、ともだち、少ないです」
言っていてふたたび落ち込みかけたが、事実だった。
「覚えておいていてくださるだけでけっこうですよ。地球行き宇宙船の中央区に、本店があります。わたしは、もともとそこの支配人です。今日はこちらに出張しています」
支配人は、ルナをもてなすためだとは言わなかった。
「では、少々お待ちくださいませ」
チャイナドレスの美女は、軽く一礼して下がった。
「さあ、どうぞ」
支配人が再度お茶をすすめたので、ルナははっとお茶の存在に気づいて、飲み干した。
「とってもおいしい! それにいい匂い!」
「これは最高級のジャスミン茶と、リリザの花茶のブレンドです。ジャスミン茶はL82産ですが、この花弁はリリザの花です」
老人は、手ずから二杯目を注いでくれた。
「ここは――タキおじちゃんのお店なんですか?」
ルナは二杯目のお茶を飲んでようやく落ち着いた。そして、タツキから教えてもらったお店の中に「シャンパオ」があったことを思い出した。
「そうです」
支配人はうなずき、「ところで、お願いがあります」と前置きしてから言った。
「タツキさまは、あなたを、“陰ながら”お守りしたいと思っております」
「え?」
「ですので、あなたのまえに姿を現すことはありません。あなたも、タツキさまと関わりがあることを、だれにも言わないでください。それは、あなたを危険にさらすことにもなりうるからです」
ルナは口を開けたが、やっと「はい」と返事をした。
「タツキさまご自身のことや、お仕事を知ろうとなさらないでください。そして、タツキさまになにをもらっても、お礼を申し上げることもなさらないでください。タツキさまになにかおっしゃりたいとき、助けが必要なときは、どうかわたしを通じてご依頼なさってください」
ルナは、ごくりと息をのんだ。
「もし、あなたのそばにいる方が、タツキさまとあなたの関係に気づいた場合、それはこちらで対処いたします。あなたが困らないように――なに、物騒な話ではありません。ご心配なく」
「……」
「ただ、あなたは、タツキさまとのご関係を、極力、周囲に知られぬようになさってください」
「は――はいっ」
ルナが肩を強張らせて返事をしたとき、とてつもなくいい匂いが鼻をついた。
「お待たせいたしました」
「おいしそう!!」
ルナはすかさず叫んだ。
チャイナドレスの美女は三人に増え、それぞれがお盆を持っていた。
メニューの写真で見たより小さめの器に広東麺が盛られ、小鉢の中華サラダ、麻婆豆腐、唐揚げが二個、焼き餃子が三個、リリザの特大エビの蒸し焼き、ツバメの巣のスープ、小ぶりなアワビのステーキ、蒸し器には、五種類ほどの点心が一個ずつ入っていた。
「豪華だ!!」
「勝手ながら――料理人が食べていただきたいと」
そもそも、ルナのために満漢全席ができるだけの用意があったのである。それはこのあと、別の客のために供されることになるが、料理人は、オーナーの客を、広東麺と餃子だけで帰すつもりはなかった。
「デザートはのちほどお持ちします。お茶をどうぞ」
美女はジャスミン茶のポットをルナのそばに置いた。
「では、ごゆっくり、お食事なさってください」
美女と老人は退室した。
ルナはずらりと並んだ豪華な食事に目を輝かせ、「いただきまーす!」と手を合わせた。
「よしよし……席を離れたな」
VIP経験などないルナは、いっしょに食事するわけでもない人間が、給仕のためだけにそばにいるのは居心地が悪いだろう――サービスは最低限にして、放っておいていいといったタツキの意見は正解だったようだ。
ルナは急にリラックスして、「おいしい!」だの「ムキャー!」だのウサ耳を立てつつ、食事を楽しんでいる。
たまに、動きが一時停止されて、ぼうっと宙を見つめながら考えごとにふける様子も見られたが、タツキの鼻の下が伸び切る以外に、影響はなかった。
「タキ」
「ああ、これは、アイゼンさま」
身を乗り出さんばかりの姿勢で、幕と中途半端な壁にへだてられた隣室からルナを伺っていたタツキは、「主人」の姿を認めて、やっとテーブルのほうに身体をもどした。
「ルナ、なに食ってんだ」
「広東麺と餃子ですよ」
「広東麺? マジか。満漢全席って話はどうなった――アワビ食ってんじゃねえか」
アイゼンと呼ばれた男は、ひょいと幕を押し上げ、隣室を覗き見た。タツキがあわてる。
「見えちゃいますよ!」
「だあいじょうぶだって。――え? あれ、ルナか?」
「そうですよ」
ニヤケていたアイゼンは、いきなり幕を下ろして引っ込み、真顔になった。
「アイツ、三歳から成長してねえんじゃねえのか」
「それはいいすぎでしょ」




