46話 マタドール・カフェにて 1
午後七時きっかり。
クラウドは、マタドール・カフェの二階の個室にいた。
ワインが二本と、それからすっかり冷めたパエリアが半分、残っている。すでにワインを一本空けていた。
マタドール・カフェは、昼休憩を挟んで、午後六時から開店する。クラウドはその時間から居座り、ゆっくりとパエリアを食べながら、頭の中では、緻密に別のものを咀嚼していた。
ガルダ砂漠と、L18と、L03の関係をだ。
パエリアは、料理上手なマスターがつくった美味なはずのものだが、味が分からない。
もともと意識しなければ食べ物の味など分からない。酒も、酔えたためしなどない。自分がいかに面白みのない人間であるか、ミシェルと付き合ってよくわかった。
アズラエルもスタークもオリーヴも、クラウドの面白みのなさを殊更気にすることはなかった。それは、クラウドの職業の特異さを承知の上でのことだ。幼馴染みだったせいもあるのだろうが。
……ミシェルと、自分たちの生まれ育ってきた環境が違いすぎるのだ。
(予測範囲内だったんだけどな)
クラウドは、めずらしく思考回路を切り替えできない自分にためいきをついていた。ガルダ砂漠や自分のもと職場のことを考えながら、そのうちミシェルに落ち着いてしまう。
後悔先に立たずとはこのことだ。
どうして、あんなに感情的になってしまったのか。
たった一晩のあやまちを許せないほど、自分が嫉妬深いことに、クラウドは驚いてもいた。
ミシェルは、クラウドを愛していた。クラウドが、冷酷にミシェルを抱くまでは。
ロビンと比べるべくもない。ミシェルはそんな簡単に鞍替えできるような、器用な性格ではない。そんな図太さがあったら、あの会場で泥酔などしなかっただろう。
彼女とロビンはなにもなかった――ほんとうにそうなのかもしれない。
聞かなかったのはクラウドだ。
(しかし、ほんとうに?)
疑う気持ちが、消えない。
ロビンがミシェルに手を出さなかったと? ほんとうに?
唇ひとつ、盗まなかったはずはない。
たとえ、からだは奪わなかったとしても。
理性では分かっている。でも、ショックを押さえきれない。
こんなことは、クラウドも初めてのことだった。
(俺は、バカだ)
ミシェルを思うあまりにすることが、逆にミシェルを傷つけることに繋がってしまった。冷静に考えれば、無謀すぎることは分かったはずではないか。
ミシェルをアンジェラに近づけるなど――アンジェラもララも来るパーティーに参加することなど。
ミシェルが、アンジェラをもう一度――ひと目でいいから見たいといった、あの言葉を。
彼女の願いをかなえるために。
(俺は、バカだ)
クラウドは再び自嘲した。
ミシェルがどこにいるか、宇宙船を降りたのか、それとも、まだ宇宙船にいるのか。たしかめることすらクラウドにはできなかった。
その気になりさえすれば、簡単にできる。でも、そうしたくはなかった。軍人としての手段で、ミシェルを追いたくなかったのだ。
――ミシェルは、あきらかに自分に怯えていた。
尋問官の顔をした、自分に。
「待たせてごめんなさい」
ふっと顔を上げると、ヴィアンカが真向かいに座っていた。彼女のコートはクロークに掛けられていた。
外は雨雪だったのか、彼女の肩と髪はいくばくか濡れていたし、冷えた空気が、クラウドの鼻孔をくすぐった。
「待っていないよ」
そう答えるのとほぼ同時に、デレクがプレートを運んできた。ヴィアンカが来たら出してくれるように頼んでおいたものだ。適当に、腹ごなしができるものをと。
デレクはチキンソテーとパン、サラダ、スープがのったプレートを彼女の席に置くと、「ごゆっくり」と微笑んで、階下にもどっていった。
「用意がいいのね。……お腹がペコペコだわ」
彼女はすぐにナイフとフォークを手に取る。クラウドは、彼女のワイングラスに琥珀色のワインを注いだ。
「どうしてわたしの好きな銘柄を知ってるの」
ヴィアンカは、グラスに注がれるワインを横目で見ながら言った。
ワインはL42を意味する「パジャトゥー・ラ(色彩の神)」ブランドのラベルが貼ってある。ヴィアンカの出身星であるL43の隣星、L42の肥沃な土壌でつくられたワインだ。
スラムが多いL42では、これ一種類きり。
L5系の富豪が、温厚な原住民に働き場を提供し、傭兵グループをまとめて雇いあげてまで警備し、広大な敷地でつくらせている、じつに希少価値の高いもの。ほぼL43のDLと富豪が買い占めるため、一般にはほとんど流通しない。
彼女も故郷にいたころ、飲んでいたかもしれないワイン。
「偶然じゃないかな」
ヴィアンカの口と手は、チキンソテーを頬張るのに集中している。
「あなたにかぎって偶然はありえないわ。怖い人」
「……俺もびっくりしたんだ。これがここにあるなんて」
クラウドは、瓶を持ち上げ、ラベルを仰ぎ見ながら言った。
「俺じゃなくて、怖いのはデレクだろ。どういった経路でこれを入手したんだか」
ヴィアンカが、L43出身の、原住民の血が入った革命家の一団の出身だというなら、この宇宙船の外にいたら、確実にふたりは敵同士だ。
L43――L系惑星群の中で、もっとも原住民のテロリストが多い灼熱の星。
L18が長年出兵を繰り返しても、決して根こそぎ鎮圧できないテロ集団。クラウドたち心理作戦部も、何度もとらえた原住民を尋問した。
「L18陸軍心理作戦部副隊長、特別調査班B所属、クラウド・A・ヴァンスハイト軍曹。二十歳から七年間心理作戦部に在籍。特殊能力を評価されて、陸軍部隊からの移籍。三年まえ、副隊長に昇進。今年八月に、一身上の都合で退職。……退職後も、所属していた部署の特殊性のため、いまだ心理作戦部の監視下に置かれる」
すらすらと、ヴィアンカは読み上げた。
「趣味はピアノ、なんて、ずいぶん優雅なのね。お父様は、ハーベスト・G・ヴァンスハイト、L19の特別捜索隊第二連隊隊長。お母様の経歴も――ものすごそうね。アナクル・ヴァンスハイト。ミドル・ネームがないところを見ると、お母様のほんとうのお名前じゃないんでしょう?」
「うん。……ママの名は、パパがつけたんだ」
「ママにパパね。あなたの口から出ると、不思議感がいや増すわ。――あなただってわかってるでしょう? わたしのことを、十分に」
クラウドは、うなずいた。
「ヴィアンカ・L・ヴァレンチーナ。L43のテロリスト「DL」の出身。母親はL43の原住民。父親は不明。母親は、君を産んだあと、すぐになくなったんだ。君はDLで育てられた。二十歳のとき、君は身重の体で地球行き宇宙船に乗船。三年後に地球へたどり着く。その後、二十五歳で、宇宙船役員に。派遣役員になって十七年か――長いね。俺が分かったのは、このくらいかな」
「自己紹介を他人の口から聞くほど、気持ち悪いことはないわね」
ヴィアンカは、恐るべき速さでプレートをかたづけた。もう、プレートの上には野菜くずひとつ残っていない。
「付け加えるなら、わたしはDLで、あなたと似たような仕事をしていたわ。いわゆる組織の諜報部員のまとめ役」
聞いてもいいかしら、と彼女は言った。
「あなたは、まだL18の監視下にあるそうだけれど、……まさか、あなたと一緒に乗ってきた傭兵が、あなたの監視役なの」
「ちがうよ。彼は単なる幼馴染みだ」
クラウドが、まだ心理作戦部の監視下に置かれているのはほんとうだ。心理作戦部は、L18の暗部ともいわれる部署だった。ほんとうなら、やめようと思って、やめられる部署ではない。やめるなら、「その存在自体を消されるか」、記憶操作が行われることはたしかだ。
「監視下には置かれてるよ。俺はまだ、L18のパスカードを捨てることはできない。だからといって、監視人が一緒に乗ってきているわけでもないよ。俺は、隊長の手のひらで転がされているんだよ。いくばくかの自由とひきかえにね」
心理作戦部隊長のエーリヒは、クラウドとは比べるべくもない、ほんとうに恐ろしい男だ。その洞察のするどさと、だれよりも一手先を読む深謀遠慮は、クラウドとて敵わない。
彼は、知りたいだけだ。
クラウドを泳がせて、この宇宙船がいったい、どのような場所であるのかを。
地球とは、どんな惑星なのか。
L18の幸先に、この宇宙船は、地球は、どう関与するのか。
彼にしてみれば、クラウドを宇宙船内に密偵として放った――そういう感覚なのだ。
だからクラウドは、消されもせず、脳をいじくられることもなく、表向きは退職した軍人として、この船に乗っているわけだが。
「あきれた。言っておくけど無理よ。あなたがこの宇宙船の中枢に近づくなんて」
「知ってるよ。俺はそんなことをするつもりもないし、できないよ。もともと、もう心理作戦部の仕事なんてしたくないんだから。エーリヒも、そんな極端なことは望んでない。エーリヒは、俺を通じて少しでも情報が欲しいんだ。たとえば、俺がきのうなにを食べて、どこに行って、いつシャワーを浴びたかとかね」
「……変なひと」
「心理作戦部は俺も含めてみな変人だよ。一見くだらないように見える報告だけど、俺がこの宇宙船で送る日常生活のパターンから、生活の様式、宇宙船内の特異性が見えてくるんだ」
「そのエーリヒとやらが自分で乗ればいいんじゃないの? この宇宙船に」
「俺もそう言ったけどね。無理だよ。彼はあそこから離れられないし」
「心理作戦部の連中が、変人で、油断できない人物の巣窟なんだってことは分かったわ。じゃあ、あなたはいま、直接だれかに監視されていたり、盗聴されているってことはないのね」
「それはないよ」
君も、十分用心深いし油断できない人物だよ、とクラウドは笑った。
「俺に、なにを教えてくれるの?」
クラウドは率直に聞いた。
「――なんでも。あなたが知りたいことを」
ヴィアンカはナプキンで口をぬぐい、やっとワインを口にした。ワインについての感想はない。
「そのパエリア、食べないの」
クラウドが皿をヴィアンカへ押しやると、
「小食ね。わたしがそれとも、大食漢なのかしら」
そう言って、スプーンで冷えたパエリアをすくいはじめた。
「なんでもって――なぜ?」
ヴィアンカはスプーンを口に運ぶのをやめた。
「なぜって。マリアンヌのことを知りたいんでしょう?」
「それはそう。でも、なぜ君が今、それを教えてくれるのか分からない」
「マリアンヌの――わたしの担当船客の願いなのよ。自分が死んだら、クラウドには知りたいことを教えてやってくれって」
「マリアンヌが?」
「そう――でも、いくらわたしがあなたの知りたいことをぜんぶ教えても、それはなんの役にも立たない。あなたの役に立つのは、マリアンヌが最後に教えたパスワードだけ、だそうよ」
「……」
「予言師というのは、ほんとうに不思議な生き物だわ。どこまで先が見えていたのか、わたしには分からない」
「……俺は、今日君と会って話したことも、エーリヒに報告しなきゃならない」
「それはご自由に。でも、わたしが知っていることはわずかなことで、あとはわたしの皮相な想像なの。あなたが、もしわたしに、マリアンヌがどのようにして宇宙船に乗ったかを聞こうとしたところで――」
ヴィアンカは、いたずらっぽくウィンクした。
「図星? 聞こうとしていたのね? それをわたしから聞いて報告したところで、それはエーリヒがとっくに知っていることだわ」
「君はきっとエーリヒと互角に渡り合えるな――女性ではなかなかいないよ。そんな知性の塊で、強靭な怪物は」
「あなたそれ、セクハラよ」
ヴィアンカが怒ったように眉をひそめた。クラウドは肩をすくめる。
「ごめん。怪物なんて言いすぎた。君は美しい才女だよ」
「それってお世辞のつもりなのかしら、許す気にもなれないわね」
「さっきのセクハラと相殺して」
「ダメよ」
ヴィアンカは笑った。そして、すぐに真顔になった。
パエリアはすっかり、影も形もなかった。
「――宇宙船のチケットが届いたのは、マリアンヌじゃないの」
「え?」
「宇宙船のチケットが当選したのは、メルーヴァ・S・デヌーヴよ。L03で革命を起こして、今L系惑星群を騒がせている革命家」




