番外編 不思議の国のミシェル 9
――頭が、ガンガンする。
あたりまえだ。昨日は、飲みすぎたのだ。
シャンパンボトル一本プラスα。普段のあたしは、そんなに飲まない。
「おはよう。――ミシェル。気分はどうだ?」
あたしは、その声にがばっと身体を跳ね上げ――それから、目をまん丸くして、めのまえのオトコを見上げる。
「あ……いったぁ……」
頭痛と吐き気に、すぐうつむいたけど。
「レモネード飲むか?」
あたしはうなずき――それから、自分が裸であることを認識して、あわててシーツで身体をくるんだ。
(――!?)
あたしは、昨夜、ロビンにキスされて、そのまま意識を失って――。
あわてて毛布を跳ね上げてたしかめたけど、「寝た」痕跡はなかった。
心底ほっとして、深いため息が出た。ロビンはニヤニヤ笑っている。
「昨夜は、最高だったな?」
「……誤解を生むようなこといわないでほしい」
あのまま抱きかかえられて、パーティー会場から連れ去られた。でも外には出なかった。あたしが今いるここは、ムスタファ氏の私邸で、客用に宛がわれた宿泊部屋らしい。
ホテルのスイートのように、ベッドとソファ、テーブル、バスルームがついている一室。ロビンのための部屋。
ロビンはそこにあたしを連れ込み――失神したあたしを。
ベッドに、寝かせた、だけ?
(だって、エッチした――感じはないわ)
めのまえには、からりと快晴晴れのような、ロビンの笑顔がある。
「寝起きの顔も色っぽいな、ミシェル。炭酸水もあったぜ。レモネードと炭酸水、どっちがいい」
あたしの顔は、二日酔いで、最低のはずだ。
「――炭酸」
「オーケー」
彼は、あたしに瓶ごと、ぽんと投げてよこした。
「俺はシャワーを浴びてくるから。今日は、ゆっくり過ごそう」
ロビンは、あたしのむくんだまぶたに、キスをすることを忘れなかった。
「君を愛してる――。クラウドのこともあるしな。君の返事は、ゆっくりでいい。でも、前向きな返事を期待してるぜ?」
「ちょ、あたしは」
「なにもなかったふりして、クラウドのもとに帰るか?」
「――!」
あたしは答えられなかった。
「言っただろ。アンジェラの望みでもあったが、俺の望みでもある」
ロビンはあたしに渡した瓶のふたを開けた。
「君が、俺のものになることは」
そう言って、彼はあたしにバスローブをふわりと掛けて、バスルームへ向かった。
あたしが、事態を自分の中で処理できずに、二日酔いのアタマを抱えて、瓶に口をつけ、カジカジしていると、部屋のインターフォンを、だれかが鳴らした。
ロビンは入浴中だ。
あたしは、そのとき、なんの考えもなく出てしまった。
「――クラウド」
あたしは凍りついた。
どうして、ここが分かったのだろう。そこには、なんの表情もないクラウドがいた。
彼は昨日のタキシードではなく私服で、いつも本を読んでいるときにかけている、眼鏡をかけていた。あたしは眼鏡をかけている彼が好きだったけど、今の彼の無表情を、眼鏡はひどく硬質に引き立てていた。
彼は、あたしの着替えを差し出すと、冷たい声で言った。
今までに聞いたこともない、機械的な声だ。
「着替えて」
「――え?」
「バスローブじゃ、外に出られないだろう。早く着替えて」
声のトーンは今までの彼と変わらない。でも、冷たすぎる声は、恐ろしく命令口調だった。
あたしは、急いで着替え――クラウドの持ってきた着替えは、あたしのTシャツと、ジーンズだった。クラウドがうながすままに、あたしは部屋を出た。ロビンは、シャワーを浴びている。気付くはずもなかった。
クラウドは一度もあたしを振り返らない。
会場であたしの姿を見失い、きっと彼はさがしたはずだ。あの中でも特に目立っていたスーツ姿のあたしを、抱きかかえて出たロビンは目立っていた。だれかがきっと見ていただろう。周囲に聞きまくれば、あたしがだれと出ていったか、すぐ分かったはずだ。
クラウドほど頭がよくなくても、すぐわかる。
昨日の廊下を過ぎ、階段を下りて、吹き抜けの階下へ向かう。エントランスを出ると、クラウドのシルバーの乗用車があった。
「乗って」
クラウドはそれだけ言って、運転席に乗り込む。あたしもだまって、助手席に乗った。
運転中も彼はだまったままだ。
やがて、グリーン・ガーデンに着くと、彼は「先に部屋に行っていて」とあたしを下ろし、駐車場に車を置きに行った。
クラウドは怒っている。それも、相当。
そのくらい、あたしにだってわかった。
でも、たしかにロビンは、あたしにはなにもしていない。
否定してもくれなかったけど、あたしとロビンは、ホントに、なにもなかった。
(なにもなかったっていえる?)
キスをしたのは、たしかだ。
彼の腕を、ふりほどけなかったのも、たしか。
部屋にもどって、クラウドと相対するのも怖い気がして、でも、本当のことを話せば、きっとクラウドは信じてくれるんじゃないかと思って。
あたしは部屋にもどった。
五分としないうちにクラウドももどってきて、彼はベッドに座っているあたしを見て――いつものように隣に座りはしなかった。
ガタン! と大きな音がして、あたしの肩がビクッと揺れる。クラウドが、椅子を引き寄せた音だった。クラウドは椅子に座った。足を組んで。
まるで――尋問官みたいに。
「――どうして、ロビンと?」
どうして、寝たのと聞かれているのだろうか。あたしは、なんていっていいか分からなくなった。
クラウドは、怒っている。冷たい目と、機械的な口調は、やがて、自分を嘲笑うような憤りの声に変わっていく。
「浮気にしては、だいぶお粗末じゃないか」
浮気じゃない。――浮気?
あたしは、間違ったことをしたというのだけは、自覚していた。言い訳になんてならない、でも――。
「俺は――間違っていた」
「クラウ、」
「君が、ロビンに抱かれて会場を出たのは、すぐに分かった。でも、俺は信じてた。君はすぐに部屋を出てくるかもしれない。それに、あの男は無法者だが、女子どもに乱暴を働く人間じゃない。眠ってる女に欲情するヤツでもない。君が拒絶すれば、君を抱いたりはしない。女と見ればすぐ口説きにかかるいい加減なオトコの言葉に、君がふらつくわけは、ない。君がいつまでたっても部屋から出ないのは、君が酔って眠っているせいだと思っていた。――俺も、ずいぶんと腑抜けになったもんだよ」
君を信じてた。クラウドは、繰り返した。
「俺は、君のためならなんでもしようと思っていた。なんでもね。君の希望も、願いも、できるかぎり叶えてあげたかった。たとえ君の中で、一番大切なものが俺じゃなくて、ガラスでもさ」
あたしは、目を見開いた。
あたしは――自分の趣味であるガラス工芸と、クラウドをくらべるようなことを、一度でもしたことがあっただろうか? ない、はずだ。
それはくらべるようなものではないから。
「俺のしたことがお節介なら、それならそれでいい。でも、ほかの男に奪われるためにこんなことをしたんじゃない!」
彼は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。あたしは、本気で恐怖に震えあがった。
「ミシェル……」
「いやっ!」
反射的に、クラウドに抱きすくめられようとしたのを、拒絶した。クラウドは、憤りのなかでもなお、冷静さを保つように、声を押し殺していた。
「なんで? イヤなの? ロビンには抱かれたくせに。俺は、こんなに怒ってるのに君をうらめないんだ。なのに、俺を拒絶するの?」
「……あたしはロビンと寝てなんかいない」
「信じろって?」
待っていたのに、部屋からひと晩出ては来なかった。全裸にバスローブを羽織った姿で、それで、なにもなかったと、信じろと?
あたしは、思わず叫んだ。
「クラウドだって、どこに行ってたのよ! ララさんと、なにもなかったって証拠でもあるの!?」
クラウドが、鼻で笑った。
あたしが一度も見たことがない、荒んだ笑いかただった。
「バカを言え。俺が、あんな化け物と? 君の願いがなかったなら、二度と近づきたくもないっていうのに」
あたしは、呆然とクラウドを見返した。
「ララのご機嫌取りに行ったのは、君になにかあったときのための保険だ。俺が、君を放っといてララのそばに跪いたことで、アンジェラは満足しただろうな。あの女はずっと、俺と君を見ていた。君がロビンに抱かれて会場を出ていったことも知っていた。焚きつけたのはあの女かもしれない。俺が、どんなふうに嫉妬するか、君が、ララと俺を見てどんな態度を取るか、じっと眺めていた。悦に入った顔でな。君はアンジェラの気を引いたよ。少なくとも、君は彼女の興味を得た。十分すぎるほどにだ」
一気に言ったあと、クラウドは、唖然とするあたしを見て、また嘲笑った。
「あたしはっ……」
「ぜんぶは君のためだ。こんなことになるなら、最初から、ここにくるんじゃなかった。君は、俺のモノなんだ。本当は、アンジェラにだって、ロビンだって、だれにも関わらせたくなんかない。それなのに……っ!」
クラウドがあたしをベッドに押し倒す。ものすごい力だった。細く見えるクラウドのどこに、こんな力が。
「や、やめてよっ!」
「――君は」
クラウドはぞっとする笑みを浮かべた。それは、あたしが恐れていたものよりずっと――酷薄で、容赦のない目だった。
「――知らないだろうな? L18では、従順な女スパイを仕立て上げるのに、どんなことをするのか――」
クラウドがあたしをベッドに押し倒したまま、あたしの喉を指先で撫でた。
「や……やめてよ」
そこにいたのはクラウドじゃない。あたしの知らない、おそろしいことをしてきた心理作戦部の副隊長だった。
めのまえのクラウドは、あたしの怖い想像をふくれあがらせるのには十分だった。
「一日たりともオトコが手放せない下衆女に憧れるくらいだ――素質はあるさ。俺が手掛けるんだから、もっとマシにはなるだろうけどね」
「クラウド!」
お願いやめて。
怖い。
喉に声が張り付いて、出てこなかった。
「君をスパイにするわけじゃない。はっきりさせたいだけだ。……君の恋人は、だれ?」
クラウドが眼鏡を外す。もう、彼はあたしの話を聞いてなんていなかった。冷ややかな目は、あたしが目をそらした雄の目ともちがう。あんなもの、まだ人の温かみがあった。さっきから、クラウドは尋問官だ。
恋人なんかじゃない。
あたしは怖くて、――本当に怖いときは、悲鳴なんて、出ない。
「だれ?」
ぴしゃりと鞭打つような声。
「……ク、クラ――ウド」
あたしは、喉からかすれ声を出すのが精いっぱいだった。
――あたしは、泣いた。声を押し殺して、ずっと泣いていた。
コトが済んだあと――それは、あたしが恐怖していたほどひどいものではなかったけど――クラウドは、後悔していた。
彼はあたしに、「君を抱いてもいいかな」と最初にたずねた。それは質問だったけれど、半ば命令なのはたしかだった。イヤ、と言ったらなにをされるかわからない、そんな怖さがあった。あたしがうなずくと、彼は普通にあたしを抱いた。
合意というなら、合意だろう。でも、それはムリヤリな行為と、なんの変わりもなかった。
あたしが泣くほどに、彼は後悔していく。
クラウドは、泣きやまないあたしに、ついに、「――ミシェル、ごめん」と謝った。
みじめな行為が終わって、クラウドの怒りは冷めたのか。
それはきっと、いつものクラウドにもどっていたのだろうけど、あたしはさっきまでの恐ろしいクラウドがあまりに鮮明に焼き付いてしまっていて、それに答えることはできなかった。
答えたくなかった。
クラウドは、嫌がるあたしにバスローブを着せて、部屋を出ていった。
彼は、あたしと部屋を別にした。三日間、あたしはベッドで泣いた。そのあいだに、お風呂も入ったし、あんまりお腹が空いたから、ルームサービスでなにかを食べた。でも、なにを食べたか覚えてないほど、あたしは泣きっぱなしだった。
何回か、クラウドがあたしの様子を見に来た。でもあたしは、「来ないで!」と叫んで、クラウドを絶対部屋に入れなかった。しまいには、彼の声を無視した。彼が、ドアの向こうで悲しんでいるのは分かる。
でも、あたしには無理だった。彼の姿を見るのが、怖かった。
三日目、あたしはやっと荷造りをした。
ここにはいたくない。この部屋には、クラウドといっしょにすごした気配が、いやというほど残っていて、あたしを混乱させる。
彼の荷物もこの部屋に残っていた。あたしのものと一緒に荷づくりしたトランクの中に、たぶんL18にいたころの、パスカードが入っていた。
なんの表情もない――冷たい顔をして、軍帽をかぶった写真付きの、パスカード。
L18陸軍心理作戦部副隊長、特別調査班B所属――クラウド・A・ヴァンスハイト軍曹。
あたしには、分からない。ルナが言っていたように、あたしたちと、彼らは――クラウドは、生きてきた世界が違いすぎるんだ。
あたしは、怖かった。ほんとうに、怖かった。
――でも、クラウドを、本当に嫌いになれない自分がいる。
その事実も、怖かった。
あんなことをされたのに、あたしはまだ彼が好きなんだろうか。
この三日、夢を見た。チェシャネコは、泣きそうな顔をしていた。とても傷ついた顔をしていた。そうして、迷路にはまったあたしに、さみしそうな顔で出口をうながすのだ。
あたしは、そのチェシャネコのさみしそうな顔のせいで、なかなか出口のドアを開けられないでいる。
なんて夢。
あたしは氷で冷やしたまぶたが、すこし落ち着いているのを鏡でたしかめて、こっそり荷物を持って外に出た。もうタクシーは呼んである。廊下にはクラウドはいなかった。逃げるように、あたしはタクシーに乗り込み、行き先を告げた。
「K23区にお願いします」
なんとなく、すぐ家に帰るのは怖かった。K36区の、クラウドと過ごした家にも、ルナが住んでいるはずのアパートにも。すぐに見つけられてしまいそうな気がして。
だからあたしは、別の場所を選んだ。
もしアンジェラが、まだルナを降ろすことをあきらめていないというなら。
アズラエルが、解決できていないというなら。
ルナと一緒に宇宙船を降りよう。それしか、解決の方法はない気がした。
だって、まだアンジェラは宇宙船にいる。
カザマさんにも相談してみて、どうしようもなかったら、そうしよう。
まさか、この自分が、恋愛沙汰で宇宙船を降りることになるなんて思わなかった。
よく考えたら、すごい恋愛だったかもしれない。あたしの一生分、みたいな。
思い出になるよ。きっと――そうしたい。
あなたとの恋愛を、イヤな思い出にはしたくない。
(ねえ? クラウド)
また涙ぐみそうになるのを、こらえた。
(さよなら)
ホントに、不思議な宇宙船だった。
この宇宙船に乗らなかったら絶対出会うはずもなかった、チェシャネコ、クラウド。
あたしは降りるね、この不思議な宇宙船から。
ドアを開けるよ。
――この、不思議の国から、あたしは出ていく。
さようなら、クラウド。




