2。第二証言者:トリッティ・ボウト(前)
アイゲングレン諸国は「諸国」であり、都市国家群であるため、厳密にはフリユとの間の「国境線」というのはない。
ないが、なんとなくの縄張りみたいなのはあって、両方共に小さな砦を置いて、牽制し合っている地帯がある。
リガ平原というのはまさにその「国境線」のあたりで、一応ベルキアとヒーレンスの間にあるためにアイゲングレン諸国領という扱いだが、ほんのちょっと北に行くとヒーレンスとフリユの砦がにらみ合うように置かれていたりするという、奇妙な位置にある。
そのリガ平原の村落で、馬牧場をやろうと言い出したのが、かの有名なボウト家である。
……かの有名な、と言って、本当に有名なのかはトリッティにはよくわからなかったが。少なくともベルキアあたりではそこそこ名が知られている、はずだ、と思う。
戦争が発生すればすぐに攻められる危険地帯だが、ここ最近、フリユはアイゲングレンに対して野心を抱いていない。そこで、放牧に有用なこの平原を有効利用しよう、というのが、バイガ・ボウト、つまりはトリッティの父親の狙いだ。
まだ子供のトリッティとしては、特に父親の決断に疑問があるわけでもなく。
ただ、初めての大口の顧客がついたという話を聞いたときに、少し驚いた。
なにしろ、相手は百頭以上もの馬を要求しているという。さすがにそこまでの量ともなると、いい馬だけではなく、さほどよくない馬もかなり混じる。それでもいいというのだから、そうとう変わった話だ。
トリッティは少年だが、少年としては少し、成長してきている。もう二年もすれば成人として扱われる年齢だ。
だから、相手がやってきたら、見定めてやろうという覚悟を密かに固めていた。おおざっぱな父親が詐欺に騙されないか、きっちり見ておかなければ。それが自分の責任だと思っていた。
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そしてトリッティ少年は無力にうちひしがれていた。
「読めない……」
相手が差し出してきたのは、手形と言われる紙切れ一枚。クライオルトの割符屋の保証がついたその紙切れは、決済の手段としては一般的らしい。
トリッティは自分は馬鹿ではないと思っていた。エリアム、フリユの二カ国語に精通し、どちらの商人とも交渉できる自信があった。
だが、文字までは読めなかった。それも、アイゲングレンでいちばん主流の、クライオルト語すら読めなかったのだ。
なにが書いてあるかわからない。
「間違いない。こいつぁすげえや」
だから喜ぶ父を見ても、それが騙されているかどうかの判定すらできないのだった。
「いや、普通そうだろ」
一方で、あっさり言ったのはその取引相手――カシワザキを名乗るエリアム人だ。
彼はエリアム語で、
「いくらなんでも、馬百頭も買える金貨とか、持ち歩けるわけがねーだろ。数千枚だぞ。こういうのは証券を使って取引するもんだ」
「うるさいな」
世間知らずを指摘され、トリッティは憮然と答えた。
「ていうか、テガタってなんだよ。俺は聞いたことねえぞ。聞いたことねえ制度なんだから、それは詐欺だろ」
「頭が固まったジジイみたいなことを言う奴だな。手形の扱いくらいクライオルトでなくとも、ベルキアの両替屋でもやってるぞ。そちらの知識不足を俺のせいにするな」
「うるせえ。説明しろ説明。俺は納得しねえぞ!」
「しょうがねえ奴だな……」
カシワザキは苦笑した。
「まあいい。手形ってのはな、要するに「支払の約束書き」のことだ。何ヶ月後に金貨これこれを支払います、っていう文章が書かれていると思え」
「その約束はどうやって担保されてるんだよ」
「両替所が保証してる。今回のだったら、クライオルトの両替所だな。約束を破ると、両替所のブラックリストに載る。すると手形取引ができなくなる」
「できなくなったらなんの問題があるんだ?」
「さっきから言ってるだろ。大口の取引するのに、金貨何千枚もいちいち相手方に運んでたら、窃盗なり強盗なりのリスクがあって危なくてしょうがない。
大きい商売やるには、両替所で手形使うしかねーんだよ。できなくなったら商人続けるのは無理だ。だから商人はみんな、手形の債務だけはきっちり払おうとするんだ」
「いまいちわっかんねーな……払おうとするって、バックレるのは本当に不可能なのか?」
「実はできなくはない」
けろりと、カシワザキは言った。
「ブラックリストに載ったら、商店の名義変えて人員入れ替えて、またやりゃいいしな。だけどそれをやると、今度は両替所との信用を一から築き直さなきゃならねえ」
「信用?」
「おまえ、なんの実績もない自称商人が、簡単に両替所の割り印付き手形を発行できると思ってんの? 最初は両替所も小さい額しか許さねえよ。何年も商売してる先だから、金貨何千枚ってレベルの手形が出せるようになるんだ」
カシワザキは言って、にかっと笑った。
トリッティはそれでも不審顔で、
「でもこれ、払う日が数ヶ月後なんだろ。それまで払い込まれないのは、気持ち悪いぞ」
「じゃあ割引すればいいんじゃないか?」
「割引?」
「そう。手形割引。金額は少し安くなるが、ベルキアあたりの両替所にこの手形を買い取ってもらうんだよ。どこの両替所でもそういうサービスはやってるぜ?」
「そういうもんか……」
「おう! そういうもんよ! がはは!」
言ったのは親父のバイガだ。すでに酒が入っていて、えらく上機嫌だ。
トリッティも、さすがにこの状況でこれ以上疑っても仕方がないことはわかっていた。
実のところ、それほど深刻に疑ってたわけでもない――単に、自分が役に立てなかったのが、面白くなかっただけである。
一方でバイガは酒をかっくらいながら、
「とはいえよお、商人さん……えーと、カシワザキだっけ?」
「ああ」
「いくらなんでも、供も連れずに来るとは思ってなかったぜ。馬百頭なんて、一人で連れていけるはずもないだろうによ」
「さっき言わなかったっけか? 俺は一人で先行してそちらと契約をまとめる。後から追いついてくる連中がいて、そいつらが馬を連れて行く係だ」
「で、契約の内容は、そいつらに馬を渡すことまで含まれている、と……つまり、ベルキア方面にリガ平原の途中まで、俺たちの使用人が馬を連れて行くってことでいいんだよな」
「おう」
「そこまで急ぐ必要があるのかい? あんたの取引先だっていうエリアムじゃ、情勢がそこまで逼迫しているのか?」
「いやいや、こいつは俺たち、商売人側の都合さ。
いよいよやばくなってきたら、他の商人どもも動き出す。馬に限らず、武器、食料、その他諸々とな。だからいまの時期が重要なのさ。この時期に、連中に先んじて売買することがな」
「だが、戦争が始まってからの方が高く売れるんじゃないかね?」
「それも計算済み。
あのな、商人ってのは『信頼』が重要なんだよ。戦争がいざ始まってから、どこの馬の骨ともわからない奴に食料を発注して、毒仕込まれたら大事だろ? だからいまのうちに取引実績を作っておいて、相手に信頼されておくのさ。売値が安いのなんてのは、後からどうとでも回収できる」
「そんなもんかねえ」
「おう。そんなもんよ」
言って、カシワザキは笑った。
バイガはまだ、首をひねっていたが、
「まあいい。ともかく、代金は完璧だからな。今日はここで泊まっていくんだろ?」
「そうしてもらえると助かる。食料と水は迷惑かけないが、屋根がないと雨が降ったときに困る」
「この季節は天気、毎年どうなるかわからんからねぇ……リガ平原はあんまり降らんところだけれども」
「迷惑だったら、馬小屋の軒先でも構わんよ?」
「いやあ、迷惑なことはねえよ」
言ってバイガは笑った。
「空いてる部屋はそこそこある。好きなのを使いな。それに、上客をうちでもてなすのに食い物は出さないなんて、せこい真似もできねえ。いいもん食わせてやるから期待しとけ! な!」
「そりゃあ楽しみだ」
談笑するバイガとカシワザキをよそに、トリッティは一人、考えていた。
(上客……ねえ)
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夜。
「いやー、いーい取り引きだったぜ。こんな顧客がいきなりつくたぁ、俺たちはツイてるな」
バイガは上機嫌で言った。
一方で、トリッティは微妙に納得できていない。
「なんだよトリッティ。おまえそんな顔して、まーだ手形の件で引っかかってるのか?」
「いや、それはいいよ。親父が本物って言うんなら本物なんだろう。
だけど、それでも納得いかなくてさ。たとえテガタとやらが本物だったとしても、あのカシワザキってのをやけに早く信用したじゃん。家族の食卓にまで招待したりして、もうちょっと警戒したほうがいいんじゃねえの?」
「お、なんだよ。俺がそんなに迂闊に見えるか?」
「そりゃそうだろ」
トリッティの目から見れば、バイガは見たこともないほどの金額の取り引きに有頂天になって、警戒を忘れているように見えるのである。
が、バイガは薄く笑った。
「だったら浅薄ってもんだぜ、トリッティよう。
俺はあんなエリアム人かどうかも怪しい商人、カケラも信用してねえよ。それどころか、商人かどうかすら怪しいもんだ」
「え、でも、あのテガタってのは本物だったんだろ?」
「手形は本物だよ。だけど手形の振り出し先があいつらとは限らねえ。
ぶっちゃけ、俺が警戒してるのは、あいつが野盗一味の手先だってことだよ。明日、連れに引き渡すって言ってただろ? その引き渡し先の相手が野盗で、馬を奪ったらそのままそれに乗って牧場にとって返して、そんで手形をぶんどって逃走。後はその手形を、借りていた知り合いの商会に返して終わり、ってパターンだな」
ぽかーん、としたトリッティに、バイガは笑って見せた。
「な、そうなったらヤバいだろ?」
「だったら、なんで親父は、あいつとの取り引きに乗ったんだ?」
「そりゃ、手形自体は本物だからだよ。
いいか? 手形、つまり金は確実に支払われてるんだ。しかも前払いで全額だ。後は、まっとうな取引相手だったらそれでよし。そうでなかったら、要は撃退すりゃいいだけだろ」
「撃退って……」
「明日、相手に受け渡しする使用人、おまえが率いていけ」
バイガは言った。
「その間に、俺ぁちょっくら、近くの砦に駆け込んでくる。野盗が狙ってる可能性があるんで兵士よこしてくださいってな。後は兵士たちが野盗を撃退すりゃ、馬は戻ってきて、金だけ丸儲けだ。いいことづくめだよ」
「…………。
そんなにうまく行くかな」
「行くさ! だから俺はこの平原に牧場作ったんだからな!」
「それはまあ、何度も聞いたけど……」
国境沿いで兵士たちのいる砦も近いこの平原には、野盗の危険が少ない。それが、バイガが昔から何度も言っていることだった。
「後はおまえだけだ。いいか? 人質には取られるなよ? 連中に馬を引き渡したら、全力で逃げ帰れ。場合によっては隠れてやり過ごせ。なあに、こっちの方がこのあたりの地理には詳しいんだ。なんとでもなるさ」
「……それ、俺がいちばん危ない仕事するってことだよな?」
「おうよ。成人前に、一人前の一仕事ってとこだ。こいつが務まらねえようじゃ、ボウト牧場の跡継ぎにゃなれねえと思えよ?」
がははと笑うバイガに、トリッティはため息をついた。
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そうしてトリッティが廊下に出ると、廊下の窓から外を見ているカシワザキと出くわした。
「げっ」
「げっ、はないだろ。げっ、は」
「いや。……なんでここにいるの?」
まさかさっきの部屋での話を立ち聞きされてないだろうな、と警戒したトリッティだったが、カシワザキは笑って、
「その様子だと、俺に聞かせられない話を親父さんとしてきたところだな?」
「いや、その……」
「ま、そうだと思ったよ。馬小屋でいいっつったのにあえて手元に置いたのといい、家族の食卓に案内して身動きを制限したのといい、おまえさんの親父さんは、信用しているようでいて、決して俺に油断してない。
正直、素人離れしてて驚いたよ。もしかして軍務経験者か?」
「いや、俺も親父の昔の経歴とかは、実はよく知らないんだけどさ……」
ごにょごにょと言う。
気まずい。なにより気まずいのは、トリッティが危ないと思っていたバイガと、怪しいと思っていたカシワザキが、共にトリッティの理解できないレベルでやり合っていたことだ。
自分ひとりが思い上がっていたのかと、落ち込む。
「まあ、安心しとけよ」
と、その心を知ってか知らずか、カシワザキは気楽に言った。
「俺の言葉にどれくらい信用性があるかはわからんがね。とりあえずおまえら一家に対する害意はない――それに、アイゲングレンの兵士とやり合うような真似も、できればしたくないね」
「それが信用できればいいんだけどな」
「でも他人事じゃないかね? どうせ危ないことがあったとして、せいぜい明日馬を運ぶ使用人くらいだろ」
「その使用人の指揮を取れって言われてるんだよ、俺」
言うと、カシワザキはさすがにあきれ顔になった。
「剛毅だなー。おまえさんの親父さん。普通、そんなヤバいところに息子を送るか?」
「昔からボウト家はこうなんだ。……最大のリスクは一家の者が負う。そうすることで、使用人からの信用を得るんだってさ」
「そういうもんかねえ」
カシワザキは首をひねった後、
「ま、じゃあ明日はよろしくってことだな。おやすみ」
と言って、普通に部屋に戻っていった。
トリッティは、それを複雑な顔をして見送っていたが、
(決めた)
明日、こいつとなるべく長く話して、いろいろ勉強しよう。そう、トリッティは思った。
理解できないものを見つけたら、理解できるようになるため研鑽する。
ボウト家の長男として、トリッティは学ぶことに貪欲であった。




