2。モールス符号(前)
ざざーん、と水の音が響いた。
「ん、いい陽気だ」
釣り竿を手に言ったのは、俺と同い年か、もうちょい上くらいの青年である。
レイノというその名前はもちろん初めて聞いたのだが、オーバックという姓は嫌でも聞いている。
つまるところ、エリアム王家の姓だ。
「え……ええと……あの」
「レイノでいいぞ」
彼はあっさりと言った。
「オーバックは王姓だからな。そう呼ばれたのでは誰を呼ばれたのかわからん。
ジナイは家長にナムの尊称を付け、アイゲングレンでは貴族の本家の人間は姓と名の読みを転倒させると聞いたが、エリアムにはそういった文化がなくてな。だからレイノでいい。
そう、転倒と言えば。太陽の国の呼び名は、姓と名が最初から転倒しているらしいな」
「はあ……そうなります」
「では俺もおまえをシュンペーと呼ぼう。
ついでに忠告だがね、シュンペー。おまえ、親しいはずの者から「ソーヤ」と呼ばれてないか? おそらくその連中は、おまえの姓と名を誤解しているぞ。一度は説明しておいたほうがいい」
「そうなんですか?」
「エリアム人で家名をいきなり名乗る人間はほとんどいないよ。呼ぶ文化もあまりない。
ま、そんなことより、シュンペー。せっかく釣りに出てきたんだ。おまえもさっさと釣り糸を垂らせ」
気楽に言って、レイノは水面に向き直った。
俺も仕方なく、その横に座って釣り糸を垂らす。
日がきらきらと水面から返ってきて、美しい光景ではあるのだが、いかんせん、暑い。
(もうちょい薄着のほうがよかったかなあ……)
しかし礼を欠くのもどうか、とか俺が悩んでいると、レイノの方が話しかけてきた。
「美しい運河だろう?」
「そうですね」
「こいつがエハイトンの繁栄の源だ。エリアム半島と大陸を分かつ北のコロン内海と、エリアムとアイゲングレンを分かつ東のレイヴァス海、その二つをつなぐ交通の要衝。マダイ運河。
ま……人によっては、頭の痛い話だと返すかもしれんがね」
「そうなんですか?」
「シュンペーは、エハイトンという街をどう思った?」
レイノは俺に、そう尋ねた。
俺はどうしたものかと迷ったが、結局、正直に言った。
「わりと、雑然としてますよね」
「その通りだ。大陸でも珍しい百万の人口を抱える都市でありながら、王都エハイトンは実に雑だ。
こいつには事情があってね。訝しんだことはないか? なぜ、それなりに広大なエリアム王国の首都ともあろう都市が、よりにもよって半島の付け根――敵国との、国境線沿いにあるのか」
「まあ、気になったのは事実ですけど。事情があるんですか?」
「あるとも。あるともさ。だからここにしたんだ、今日は」
意味深なことを言って、レイノは笑った。
「300年も前にはな、このエハイトンは、単なる国境守備の砦だったのだよ」
「いまの、エハイトン旧市街ですね」
「おや。その程度は知っていたか。その通り、いまのエハイトンは旧市街を中心にして、同心円状に4つの城壁が立って囲んでできている。旧市街の外が第二街区、その外が第三街区、その外が第四街区、そのさらに外、城壁の外側が第五街区だ。
そして、中心に近いほど富裕――というわけでもない。妙な構造だと思わないか?」
「確かに、他の街とはぜんぜん違いますよね」
「その理由は、エハイトンが時代ごとに拡大を続けてきた都市だから、ということになる」
レイノは言った。
「最初はこの運河だ。200年以上前に、賢王ガイと呼ばれる人物がいてな。
この王が、弱っていた老大国フリユにつけ込んで、領土の一部をぶんどってな。それで半島の付け根から、オーリーリュの手前あたりまでが一時期エリアム領だった。その時期に、アイゲングレン半島に遠征する際の、軍事物資の運搬用に作ったのがこのマダイ運河。
そしてそのための人足を集めて住まわせたのが、第二街区だ」
「ああ、なるほど」
「ところが戦争が終わった後、これがものすごく儲かるという事実が発覚してな。トマやクライオルトの商人から通行料を取るだけで大儲けだ。
で、儲け話には人が集まるものでな。その頃に集まった商人どもが作ったのが、第三街区。だから、ほら、第二より第三街区のほうが、なんとなく賑わってただろう?」
「確かに、そうでしたね」
「そしてここに出てくるのが我らがティア・マリイということになる」
レイノは言って、笑った。
「本来、エリアムの首都はアカインという街だったのだが。この街でティア・マリイと王族が政争を繰り返した結果、アカインの街は荒れ果ててしまってな。
そこでティア・マリイが示した解決策が、なら賑わっている街に首都を変えよう。だった。そうしてエハイトンが首都になったわけだ」
「……今も昔も、迷惑ですね」
「そう思うか? だがなシュンペー、これは果断だったと言わざるを得ないよ。
なにしろ、首都が国境線のすぐそばにあるんだからな。これは内部対立どころではないという話になって、貴族達は矛先を収めざるを得なかった。内戦になりかけていたエリアムを救ったのが、あのティア・マリイの遷都であることは間違いない」
「…………」
「侮るな。彼女の老獪さは、表層の豪快さと打って変わって、圧倒的に冷徹でしたたかだ。
まあ、それはいい。ともかく首都が移ってきたので、首都に住む層も一緒に移ってきてな。そうなると収容できないっていうので、できたのが第四街区だ。
第五街区は見ての通り、その後に移民してきた連中が自然に作った集落だな。これらを全部ひっくるめて、エハイトンと呼ばれている――もちろん、街区間の人の出入りも非常に激しい。エリアムでもここだけは、別世界だよ」
レイノはそこで言葉を切り、
「と――かかった」
ぱしゃ、と釣り竿を引き上げた。
手慣れた手つきで近くの桶に魚を放り込むと、レイノはまた笑った。
「悪いがこちらの先手だ。このままボウズだと格好がつかんぞ」
「べつに、競ってるわけじゃないでしょう?」
「だがティア・マリイは間違いなく競ってると思うだろうよ。そしておまえに当たり散らす。嫌だったら一匹でも釣ることだな」
「……迷惑ですね」
「俺もそう思う」
いたずらっぽく笑うレイノに対して俺は小さく肩をすくめ、
「よっと」
ぱしゃっ、と、魚を釣り上げた。
あまり手慣れていなかったが、なんとか桶に魚を放り込んで、
「これで振り出しですね」
「……はは。案外やるな」
レイノは苦笑した。
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昼までやって、結局、釣果は5対3で俺の負けだった。
「うちの料理人にさばかせたのを、後でバルチミ家に届けさせよう。夏場だから早めに食べろよ?」
「恐れ入ります」
俺は素直に頭を下げたが、
「……ところで、今回の話は結局、なにが目的だったんですか?」
と、問うた。
レイノは軽く苦笑して、
「連れ立って釣り遊びに行くのに、なにか理由が必要かね?」
「まあ、それ自体には必要はないでしょうけど」
「けど?」
「その相手が俺であることに、理由がないというのは不自然でしょう?」
「まあな」
べつに俺はレイノの友人ではないし、レイノだって友人だと思ってはいないだろう。
「正直に言えば、様子見だな。ティア・マリイの連れてきた連中を見定めたい――が、ナカバヤシ・ヤドリとやらは、ちと危険すぎる。だから周辺から観察しようというわけだ」
「あなたみたいな王族がすることですか、それ?」
「おいおい。わかっちゃいないな、シュンペー。俺は王族って言っても序列はかなり下だ。王位継承権も、お情けでつけてもらってる程度だよ。捨て駒には、ちょうどいい程度の人間だと思わんかね?」
レイノは軽口を叩くような調子で、そう言った。
俺はうなずいて、
「なるほど。わかりました」
「おいおい。そこはお世辞でも否定するところだろ?」
「否定されたいですか?」
「そりゃあ……」
「どっちかというと、あなたは否定されたいのではなくて、否定したいタイプに見えますけどね、俺には」
と、俺は言った。
レイノの目が少しだけ、鋭くなった。
「そう見えるかね。だが、俺は王位には興味がないよ。継承権の順番もどうでもいい。そもそも、こうやって情報収集の手先として使われているということは、神殿に俺と親しい仲の人間が多いということでもある。これは貴族にとっては不評な材料でね、俺が外様扱いされる理由のひとつだ」
「それは因果が逆でしょう」
「逆?」
「ええ。あなたは王位に興味がないから、そういう仕事を自分から買って出ているんじゃないですか? 神殿と貴族のパイプ役、という、おそらくは唯一無二の役を」
「――……」
レイノが沈黙する。
俺は、レイノの目をしっかり見て、言った。
「実を言うと、俺、この国の王様の名前、つい先日知ったんですよ。
もう俺がエリアムに来てから、1年半くらいになります。それなのに、エハイトンに来るまで、王の名前すらあやふやだった。つまるところ、この国の王という役職はその程度まで落ちている。マリイのせいで」
「おい、危険なことを言っているぞ」
「けど自覚はしているでしょう? エリアムでなにか仕事がしたいならば、それは王であってはならない――王であれば封じ込められる。王でないからこそ、できることがある」
「……なにが言いたい?」
「もうすでに言いましたよ。今回はなにが目的だったのか、と問うているんです」
「その目的は、既に話しただろう?」
「なぜ俺なんですか?」
「…………」
「マリイが連れてきた人間を見定めたい。しかし中林は危険すぎる。ここまではわかります。
では、なぜキリアニム・フェ・バルチミを選ばないのです? 単なる神殿の使いっ走りの俺と違って、彼女は貴族だ。彼女とコンタクトを取ることによる貴族からの不評は、俺よりだいぶ低いはずでしょう」
「まあ、そうだな」
レイノはうなずいた。
「では逆に問おう。なぜだと思った?」
「最初はいろいろ勘ぐっていたんですけどね。最もありえそうな可能性は――あなたは、思ったより、神殿の内部事情に精通しているようだ、と」
「内部事情?」
「ええ、まあ」
俺は言った。
事前にキリィには裏を取ってある。このレイノという男と特段の面識はないそうだ。
「『実際に中林の補佐をしているのはキリアニムではなく宗谷だ』という情報を持ってないと、俺と話そうという発想にそもそも至らないでしょう。つまるところ、あなたの神殿内における情報ネットワークはかなり広い――そして俺も、その中に取り込む予定ということだ」
「…………」
「まあ、その狙い自体は特に問題ないんですがね。俺もただ使われるだけでは気に入らないんで、対価となる情報がもらいたいところですね」
「なにが所望だ?」
「暗殺計画」
端的に言った俺の言葉に、レイノの顔が少し曇った。
それは、心当たりがないことを言われていぶかしんだ、という顔では、決してなく。
「あるんでしょう? マリイのじゃありませんよ。記録を見ればわかります。ここ数年、マリイの周辺で不自然に側近が死んでいる。それも、有能で目立った人間からだ」
「……証拠は出ていないがな」
「まあ、そうでしょうね」
「ひとつ、聞かせてもらえないか。シュンペー」
「なんです?」
「おまえが油断ならない人間であることはわかった。だが、ならばなぜ俺にそれを問う? 暗殺計画の首謀者と俺が協調していたら、どうするつもりだった?」
「それならそれで一向に構いませんよ。こちらが警戒しているというメッセージが相手に伝わるのは、無駄ではない」
「なるほど」
レイノは吟味するようにつぶやいた。
「実際のところ、どのくらい相手は現段階で動いてると思います?」
「……そうだな」
レイノは苦々しく、言った。
「現段階で、俺はまだ具体的な計画が動いていることはつかめていない。
だが、この前の実験で、ナカバヤシは少し派手に動きすぎた。なにかが動き出してもおかしくないだろうな」
「やはり、ですか」
「そちらは、どの程度つかめていた?」
「つかむもなにも、俺には情報網がないですよ。頼れる相手はマリイかキリアニムですし、キリアニムにこの手のことを処理させるのは、少し酷だ」
だから俺は、懸念を持ちつつも、ナイエリやキリィの目の前ではこの話を一切していないのである。
エアは頼れるのかもしれないが、微妙に口が軽そうだし……
「それで正解だろう。ティア・マリイ以外に相談するべきではない。
情報収集には、勇気を持って踏み出す必要が時にはある。今日、おまえが俺に対して踏み込んだようにな。だが、やりすぎるとまずいことになる。下手をすると暗殺対象が、ナカバヤシからおまえや、バルチミ家の令嬢に変わりかねない」
「肝に銘じておきます」
「さしあたり、俺も可能な限り情報を集めてみよう。
その代わり、ただとは言わんぞ。おまえにも相応の働きをしてもらう。合法ぎりぎりのラインでな」
「了解してますよ」
「よろしい。
では、魚の鮮度が落ちるから、これで俺は失礼するよ」
言ってレイノは、桶を載せた手押し車を押して、去って行った。
「そちらのかわいらしいお嬢さんにも、よろしく――」
最後に、そんな一言を残して。
俺は、ふう、と小さく息を吐いた。
「危ない橋を渡ったな……まあ、成果はあったけど」
「シュンペー!」
「うごはっ!?」
突如として背中にタックルを浴びて、倒れ込む。
「僕というものがありながらなんであんな都会ボーイと遊んでるのさ! 怒るよ!?」
「怒るのは俺だ! つうかリシラ、てめえあれだけしっかり隠れろっつったのに思いっきりバレてたじゃねえか!」
「えっへへー。かわいらしいって言われちゃった。へへ」
「なんで嬉しそうにしてんのお前。ゲイなの?」
「正直どっちもアリだと思う!」
「ええい離れろテメエ寄るな触るな!」
見苦しく暴れ続ける俺たち。
俺は、全力でちゅーしようとするリシラをなんとか引きはがしつつ、
「しっかし、最後の最後までたいした情報は漏らさないでいきやがったな……もうちょい食いついてくるかと思ったんだが」
「大丈夫大丈夫。このリシラ様が男だっていうトップシークレットはしっかり守り切ったからね!」
「それは心底どうでもいい。
やだなー。相手が敵である可能性、潰しきれなかったな。あんな有能なのとやり合いたくない」
「ま、そのあたりはいいとしてさ。シュンペー?」
「なんだよ、リシラ」
問う俺にリシラはにししと笑って、
「あんな優男と釣りデート受けといて、エハイトンに着くなりいきなり使いっ走りを頼まれた僕に対して、なにもないってのは、ないよね?」
と言った。




