玄関
*
私は愛と共に、慎重に階段を降り、一階に着くと、辺りをキョロキョロと見渡しながら歩いていた。
「あれって……」
「まさか!」
彼女が指を指した先には、職員室の扉に凭れるように蹲る銀髪の青年がいた。その人は水色のコートとベージュのズボンを着ていて、黒いブーツを履いている。ってあれ?
「れ……、麗!」
「……あ。の、のぞみ!」
近くまで駆け寄り、声を掛けると、彼は顔を上げて私を見る。透き通った薄紫色の目からは、大粒の涙が頬を伝っていた。まるで小さな子供が怖い物に対し、怯えながら目で訴えている。そんな風に見えた。
いない間に、何があったのだろう。
「一体、どうしたの? 泣いてるけど」
「はっ!」
思わず心配して訊ねると、涙をコートの袖で拭い、すっと立ち上がってこう言った。
「な。何でもない!」
「え?」
「望、僕は大丈夫だからね!」
「あっ。そう」
ポケットに両手を突っ込み、笑顔で返された為、どう言えばいいのか戸惑う。しかし、ブラウン色の目を細めていた彼女は、私の後ろでこう言い返していた。
「でも、大丈夫じゃない様に見える。いつも笑ってる麗さんが泣くだなんてさ」
「そんなことはないよ。気のせいだと思う」
「はぁ? こっちは心配して声かけたっていうのに?」
「あーもぅ!」と怒って茶色の髪をぐしゃぐしゃに掻くと、彼を睨む様にしてこう言い放つ。
「いくら何でも、それはありえなくない?」
「でも、僕が泣いてるとか泣いてないとか、そういうのって、愛さんには関係ないはずだよ」
「何よそれ!」
「まぁまぁ」
二人が些細な痴話喧嘩(麗は戸惑いつつも、微笑みながらあしらっている)をしてる中、私がやんわりと宥める。
「望さんも望さんだって! もうっ!」
「いや。そういうことじゃ!」
「ふぅ」
しかし、彼女は不貞腐れてそっぽ向く。バツ印が付いたマスクで口元は見えないが、頬が膨らんでいた。彼は彼で、深く溜息をつき、前髪を掻きあげると、彼女から視線を逸らしていた。
あれ?
ふと、私はあるものに目がいく。
二人でこの場所に来た時、麗の手には何も嵌めてなかった。なのに今見たら、革製の黒い手袋が、右手に馴染むように嵌められていた。
あんなの、いつ付けてたんだ?
疑問は深まるばかりだ。でも、どこかで拾った物かもしれないし、誰かから貰った物かもしれない。だから、今のところは言わないでおこう。
「あ。それより、望?」
「ん?」
そう思って二人を見ていた時、彼が突然、何かを思い出したかのように訊ねてきた。
「鍵は見つかった?」
「うん。ここにあるよ」
「そっか。扉もほら」
なので、パーカーのポケットから鍵を取り出して見せると、彼は軽く相槌を打ち、玄関の中央側に指を差す。指した先には、一つ前の場所で似た形をした赤い扉があった。その両側には、年季が入った下駄箱。高さは麗より少し高めだ。
「ほんとだ! そこから脱出できそうじゃん!」
「そうだね。愛さん、麗、行くよ!」
「りょーかい」
「うん!」
互いに頷いた後、扉へと向かおうとした。
「クククッ……」
『えっ?』
その時、何処からか声がしたので、思わず振り向く。
「ミイ……ツケタッ! キャハハハハハハハハ!」
校長室の前で血だらけの包丁片手に持ち、悪魔の様な声で笑う黒い影が佇んでいた。真正面から見ると、女子高生みたいなシルエットだが、目は一つしかない。瞳孔は真っ赤でいつ見ても不気味だ。
「はぁ。狂者かよ!」
「こんな時に!」
「早く扉に向かうよ!」
私達は、赤い扉の前まで全力疾走で走る。狂者もこちらに向かってくるが、走ってはいない。その代わり、力任せでバキバキと下駄箱を壊す音が、左側(校長室方面)から聞こえてきた。
「これ、もしかして!」
「下駄箱壊して扉を封鎖するつもりだ!」
「えぇ!? それ、まずいじゃん!」
お互いに言い合いながら青ざめた顔で扉近くまで着いた。短い距離なのに、呼吸せずに全力で走ったせいか、はぁ。はぁ。と息を切らす。そして、慌てながらも赤い鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでガチャガチャと回す。
――ガチャッ
「よし! 開いたよ!」
「早く出よう!」
「あっ!」
その途端、狂者が壊した衝撃で、左側にあった下駄箱がこちらに向かって倒れてきた。
「望! 危ない!」
彼が咄嗟に私を庇おうと前に出る。
――ガシャッ
『えっ!』
すると、麗の前には見慣れた姿が両腕(片方は筋肉が丸見え)で、倒れてくる下駄箱を支えてた。
「模型さん、なんで!?」
「三人共、早く行きなさい!」
「でも……」
「これでもしないと、ここから抜け出せないでしょ?」
「うっ!」
確かにそうだ。今の状況では何もできない。逃げるのに精一杯だ。でも、危ない目に遭ってる模型さんを見捨てることもできない!
どうしよう。
しかし、彼は「ぅぐぐ!」と言いながら、こう言い放つ。
「貴方達に、あの時のこと、謝ろうと思って、ここに、来たのよ!」
「そんな。模型さん! 私、あの事全く……」
「あっ。望ちゃん、だっけ? 一つだけ、ある人に、伝えて貰っても、いいかしら?」
「あっ。はい」
言いかけそうになったが、思わず返事をした。
彼は力ある限り、両腕で支えながら、話を続ける。
「そう、ね。『滝沢陸斗』を、見つけたら、伝えて、ほしいの!」
「『滝沢陸斗』……ですか?」
「そう、よ。うぐっ! どこかに、いるはず、なの! 『生徒指導室に、お前の大事なもの、隠しといた。藤田、卓』とね!」
「わ、分かりました。でも!」
模型さんを助けないと! そう思い、共に下駄箱を支えようとした。
「望ちゃん!」
「でも私!」
「いいのっ!」
その時、模型さんは声を荒らげ、私に対してこう言い放った。
「私のことは、気にしなくていい! だから、構わずに、行きなさい!」
「えっ……」
「はやく!」
「うっ!」
下駄箱を支えた手を離し、言葉が詰まって何も言い返せないまま、彼を見る。距離はあったが、彼がいる位置の奥側には、狂者がニヤリと口角を上げながら一歩一歩近づいてくるのを見た。
「ごめん、なさい!」
「望さん?」
「愛さん、行こう。でないと……」
殺される!
『死』が音も立てずに、近くまで迫ってきていることに気づくと、恐怖で声が震える。その後ろで彼女は深く頷き、肩にポンと手を静かに置く。そして、彼に視線を送るようにしてこう言い放った。
「わかった。模型さん、望さんの為に、どうか無事でいてよね!」
「分かったわよ。フフッ!」
私達は赤い扉を開け、重たい足を引きづる様に、中へと入る。私はもう一度後ろを振り向き、悲しげな眼差しで彼を見てその場を後にした。
*
――望達が脱出した後。
「くっ! こんなのなんて! こうよっ!」
私は最大限の力を発揮し、体全体で倒れてくる下駄箱を撥ね退けた。こんな馬鹿力が出せたなんて、何年ぶりかしら。
そして、おもむろに閉まった赤い扉を呆然と眺め、一人思う。
望ちゃん達は、無事に脱出できたようね。これが、遠藤側についてしまい、望ちゃんを騙してしまったことに対しての償い。だから、これで私はきちんと役目を果たせた。もう、悔いはないわ。
「クククククッ」
声がしたので振り向くと、忍び寄る怪しい影が、不敵な笑みを浮かべながら、包丁片手にジリジリと近寄ってきた。
「何よ。ていうか、貴女は随分楽なポジションじゃない?」
「……」
「ただ単に標的を追っかけて『殺る』だけで良いだなんて。ねぇ?」
気晴らしに此方から話を振ってみるが、全く反応しない。それどころか、徐々に近づいてくる足音。上から『殺る』事だけしか命令されてないみたいで、正直言うと何だかつまんない奴。
「こっちはこっちで、人を騙さないといけないなんて。やりたくなかったわよ!」
「……ダ、マ、レ」
「ふーん。そう」
そう呟いた途端、たまたま足元に落ちていた血まみれのバールを拾い、狂者に向かって大きく振りかざした。
「ゥガッ!」
狂者は頭に直撃した勢いで、よろけて目を瞑る。しかし、再び目をギッと開け、包丁を私の腹部へ突き刺してきた。柄と刃の間が見えない程、深く刺されたが、痛みよりも怒りの方が上回っていた為、全く痛くない。
「フフッ! 殺そうとするなら、貴方も道連れよ!」
そう呟くと、バール(真っ直ぐの部分)を大きな赤い目に向かって、ブスリと力強く突き刺した。
「ゥガァァァァァァ!」
狂者は耳障りする程の煩い声を放ち、だらんと力なく立ち尽くす。赤くどす黒い液体が、目からダラダラと流れる。
――後は任せたわよ。望ちゃん。
その時、私は狂者に凭れる様な形で、絶え果てた。




