記憶 1
*
「ここは……」
瞼をそっと開け、体を少し起こす。すると、全体的に灰色の景色がぼんやりと見えた。
少し見上げると、灰色に包まれた雲。下を向くと、コンクリートの床。所々にヒビが入っているので、手で触れてみる。湿り気もなく、ザラザラとした感触がした。
年季、かなり入ってる。てことは、ここは、どこかの建物の屋上?
そう考えている時、体中にひんやりと、冷たい風が自身に纏わりつくのを感じた。
寒い……。何かないかな。
そう思い、再び周辺を見渡すと、鉄の柵みたいな物が枠に沿うように取り付けられている。よくある飛び降り防止についてる大きな柵かな。
そう考えていた途端、上下紺色の服を着た人が五、六人程、私の周りをぐるりと囲んでいるのを視界に捉えた。
「え? 誰? この人達!」
突然飛び込んできた景色に思わず身構える。しかし、その人間が誰なのか、全く思い出せない。自分で身なりを確認してみると、何故かその子達と同じ服になっていた。
これは一体、どういうこと?
考えていると、突然、サッカーボールを蹴る様な鈍い音と共に、体中から痛みが容赦なく襲いかかってきた。
背中に何十発、足に何十発、腹に何十発、他に何十発……。冷静に数えきれないほどの激しい音が、体中の至る所に響いてくる。
「うっ!」
私は思わずその場に蹲り、ひたすら激痛に耐えることにした。それしか今は、抜け出せる方法がないと思ったからだ。
少し目を細めると、白い靴と紺の靴下を履いた複数の足が、此方から微かに何本か見える。その時、蹴られてるんだ。と言う事を、意識が朦朧とする中、何とか理解した。
「あぁ……」
痺れる感覚と共に、蹴る音が痛々しく響かせながら続いていく。
少し経つと、あの音はパタリと止んだが、力が全く入らない。なので、気が済んでこのまま帰ってくれるだろう。そう思っていた。
しかし、今度はいきなり髪を鷲掴みされ、思いっきり上へ引っ張られてしまう。このまま抜け落ちてしまうのではないかと思う程、とても痛い。
掴んだ本人とは向かい合う形で目があったが、顔がぼやけていて、誰だかはっきりと分からない。
両手で抵抗しようとしても、いつの間にか後ろにされ、紐みたいな物で縛られていた。その為か、身動き一つもできない状態になっていた。
音もスピーカーのボリュームの様に、罵声が段々と大きくなり、嫌でも耳元に流れ込んでくる。
――何。こいつ。ずっとうちのことみてきてるんだけど!
――わー! マジで気持ちわるぅーい!
――確かに!
――つーか、こっちみんなよ!
――ガンッ、ガンッ、ガンッ
「いっ!」
そいつらは私の髪を鷲掴みしたまま、恨みか八つ当たりなのか楽しんでるのか、顔から入る形で床にガンガンと何度も何度も叩きつける。
――わぁ! めっちゃ惨めやん! こいつ!
――きゃはははははははは!
――もっとやっちゃえ!
その間はガンガンと痛々しい音と共に、耳が劈く程の五月蠅い笑い声が辺りに響く。
その衝撃で顔中、血だらけになってしまった。白い前歯も一本折れてしまい、欠片が無惨にも近くに転がっている。しかし、周りからの暴力は止むことはなく、更にエスカレートしていく。
――やっば! オバケみたい!
――ちょ! そんなこと言ったら絶対呪われちゃうって!
――大丈夫! これでお祓いするからさ!
――バシャン!
「うっ!」
その中の一人が言い放った途端、頭上から大量の冷水が勢いよく流れ落ちてきた。そのせいで髪から全てがびしょ濡れだ。氷の様にとても冷たく、小刻みに震える。それと同時に、目からは大粒の涙が零れていた。
――あはははははははは!
――やーばっ!
――マジでオバケみてぇ!
――ぎゃははははははは!
周りはその姿を見て甲高く嘲笑い、罵声の嵐は止むことを知らない。
「や……め、て……」
必死に抵抗しようとするが、思うように声が出ない。寒さと共に声がガタガタと歯を軋ませ、片言で一語言えるのがやっとだ。
――何? 聞こえないんだけどぉ!
「何……で、こ、んな、こと」
――はぁ?
「する、の?」
それでも私は、傷だらけになっても、必死にやめるよう訴える。これでも精一杯、声を出していたが、あいつらは全く耳を傾けず、さらなる仕打ちを行おうとしていた。
――オバケの分際でいちいち口答えすんじゃねーよ!
――グシャッ
「あ゛ぁぁ!」
突然、冷酷な暴言と共に、上から布とゴムの匂いが漂ってくる。力強く踏み付けられていると分かったが、その直後、私の視界は真っ暗になり、意識が遠くなっていった。
*
頭の中で、カメラのシャッター音が遠くから聞こえ、それと同時に私は目が覚める。
しかし、そこには全く違う光景が、目の前に映しだされていた。場所はおそらく台所。ここだけはぼやけることなく、高画質の画面の様にはっきりと細かく映っている。
木目が綺麗に出ているテーブルに椅子。まな板と包丁が置かれていて、生活感が溢れる小さな台所。その上には、色鮮やかなサラダや美味しそうな魚料理が並べられていた。
もしかして、私の家、なのかな?
「えっ! ちょっと、一体どうしたの?」
そう思っていると、エプロン姿の女の人が青ざめた顔をし、びしょ濡れになった私を軽蔑するような目で見つめて言い出した。
「あのね。お母さん……」
「貴方はなんでそんなに濡れているの? それと、今日って雨だったかしら?」
「これはちが……」
言いかけたが、彼女は全く耳を傾ける素振りすらしない。それどころか「あーやだやだ」と愚痴ばかり漏らす。
「冬なのに、まだ遊ぶ元気があるのね。でも望、テストはいいの?」
「本当にこれは違うの!」
声を荒げて聞いてもらおうと説得したが、状況は変わるどころか悪化の一行を辿っていた。
「またそうやって言い訳をする。まぁ、いいわ。とっととシャワー浴びて来なさい」
「……はい」
此方を見ずに冷めた顔で言い放った後、母らしき女の人は、また台所に立って料理の続きを黙々と行っていた。
その場に取り残された私は浴室に向かう途中、ぼそぼそと独り言のように呟いた。
*
「そっか……。そうだよね」
いつも、心から安心できる居場所なんて、何処にも無かったんだ。外に出る度に、みんな私のことを軽蔑した目で見ては笑ったり、血だらけになってるのに、誰も見てみぬふりをする。そして、手を差し伸べようともしてこない。
寧ろそれを話しの材料にしてまた嘲り笑ったり、私のことを『オバケ』だと言って、根拠もない理由を勝手につけられる。しまいには、あいつらの憂さ晴らしの標的になって、次の日も殴られ蹴られ……、それが毎日だ。
「何だ」
全員馬鹿だってことか。親も、見てみぬふりをする大人、生徒すらも。普段は『笑顔』の仮面を何重にも覆い被さっているからそうは見えないけど、中身はひどく濁ってるんだよね。
本当は剥がれたら傲慢で、冷酷で、外道でずる賢い「化物」になって集まってるのが、今のこの『腐った』世界だよね。
そう自分に言い聞かせ、日々を生きてきた。
だから、相手に迷惑をかけたくないと思って、自分の短所を無くすよう人一倍努力もしてきたし、長所も伸ばしながら精一杯頑張った……、つもり。
みんなの話に付いてこれる様に、話題をテレビからネット、ゲーム、雑誌など、あらゆる所から漁って情報を収集した時もあった。
「私、できる限り頑張ったのに」
これじゃ、理不尽よね。相手からは裏切られて、冷ややかな視線で突き刺してきて。挙句の果てには、心も体もボロ雑巾のように酷く汚くなっちゃった。
とても悲しい。悲しいけど、どんなことがあっても泣かない。絶対泣かないと我慢しちゃって。だから、どう泣けばいいか分かんない。
「どうすれば……」
虚ろな目で呟いた途端、また強烈な痛みが容赦なく襲う。
「いたっ! まただ!」
脳が絞られたタオルの様に締め付けられ、とても痛い。視界はぐるぐると歪んで回ってを繰り返され、段々と体全体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
「うっ! ううっ! うわぁぁ!」
叫びながら意識が吹き飛び、その場でバタリと倒れた。




