間章*林檎の篇
以前に予告してました『彼』視点スタートですヽ(´o`;
『彼』の回想はそれなりに重いものになりそうですが、宜しければ最後までお付き合いください。
彼は『彼女』のことを見てきた。
それは彼が『彼女』に恋をしたからであり。
幸福の始まりは、今はまだ遠く……
*****
「榊様?……授業中に余所見とはどうされました?貴方様らしくありませんね」
教室に響く声に、周囲が驚いた様に視線を向けてくる。
それが『彼』には滑稽に思えてならない。
彼らはまるで気付かない。
あの板書の明らかな間違いにも。
そんな板書を恥ずかしげもなく晒したままの教師の存在にも。
指摘したら、どんな反応を返すだろう。
過った考えに、内心で苦笑する。
それをするだけ時間の無駄だと醒めた思考が囁く。
『彼』が教室にいる彼以外に向ける感情は、道端を這い回る蟻ほどに平淡なものだ。
しかし、それを周囲に覚らせないくらいには覆い隠して見せている。
それが『彼』の日常であり。
それは彼にとって息をするのと同じ程度に自然である。
偽りに親しみさえ覚える感性は、周囲に知られることのない『彼』の内面である。
偽りの上で彼は今までもこれからも生きていく。
無感情にほんの僅か口許の笑みを付け足して、彼は告げた。
「なんでもありません、先生。授業を続けて下さい」
この無意味で惰性に満ちた学園生活ほど『彼』を退屈させるものはない。
幼い頃から『彼』はあらゆる諦念を身の内に感じながら成長した。
榊家。それが彼の生家である。
彼がそこで与えられている役は、次代の依り代。
継嗣と呼ばれるその席に、虚しさを覚えるようになって大分経つ。
正直な話、あまり思い出したくもない。
それはもう、悪趣味な。
気持ちが悪いだけの、それに過ぎない。
噎せ返る様な、林檎と血の香。
色の無い目を。
それはまだ、自分を見上げている。
遡ること、五年前。
正午の昼食会でそれは起こった。
柔らかな春の日差しの下で、母と弟それから自分は叔母とその子供たちと共に席に着いていた。
振る舞われた焼き色の見事なアップルパイ。
それは叔母の手作りだった。
母が口に入れ、弟が笑顔で頬張ったところで全てが終わっていた。
穏やかな日の差し込むテーブル。
そこに転がった母と床に膝を付いて喉を掻き毟りながら自分を見上げた弟。
見開かれた双眸に、何も映さなくなった時。
目の前に叔母がいた。
呆然と立ち竦む自分の口に、押し込まれようとしているモノを見て自分は気付いた。
狂った人間の眼は、異様に澄んでいる。
微笑む叔母は、今まで見たなかで最も幸せそうで。
自分の口許で崩れ落ちていく林檎の香りが、甘い。
それをただ笑って見守る従兄弟たち。
ああ、そうか。
彼らは、自分がいらないのだ。
手にしたナイフは、叔母の頬を裂いた。
案外人の皮膚は脆い。
それが分かれば、あえて血流の多いところを選んで刻んだ。
一転して向けられた、恐怖の色。
上がった悲鳴が可笑しくて笑う。
へぇ、そこはどうして普通なんだろう。
不思議で、どうしようもなく滑稽に思えた。
広がる血の色。
アップルパイの甘い香り。
虚の双眸。
それが母と弟を目の前で毒殺された自分が一番鮮明に覚えていることなのだから…
救いようがないね。
その事件の後『彼』は沈黙した。
ただ唯一、当主である父の問い掛けにあらましを一度語ったきりだ。
その後は全てが迅速に進んだ。
榊家の毒殺事件は、公には知られていない。
榊家の持てるだけの権威を用いて箝口令が敷かれたばかりか、報道管制も行われた結果だ。
灰色の不変律が、あらゆる歪みを肯定する。
叔母は、最早この世にいない。
自殺をしたらしい。
従兄弟たちも、遅かれ早かれさほど変わらない道を辿ることだろう。
それらも全て『彼』にとってはどうでもいい話だ。
母は戻らない。弟も同じだ。
彼らの目を通して見た死の感覚は『彼』のなかにあった生への執着を希薄にした。
切り離されたものは、二度と同じ形には戻らない。
それから暫く経った頃。
父の指示があり、ある学園の入学試験に臨んだ。
白鴛清華大付属学園。
それは亡き母の母校であると同時に、全国からあらゆる名家の令嬢子息を集めて運営されている有名私立校だ。
入学後、少しは退屈も紛れるかと欠片ばかり期待していた自分も大概愚かだ。
今になって思い返しても、馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
授業のレベルは想像より遥かに低く。
周囲にいるクラスメイトたちも、それに見合う退屈さを『彼』に覚えさせた。
それだけならまだ良かった。
当初は周囲ともそれなりに円滑な関係を作った方が良いだろうと、出来の悪い笑みを始終張り付けて生活を送っていた。
出来の良い笑みを張り付けたところで、それらの違いに気付かない彼らには、労力を割くことさえ面倒になったというのが真相だ。
それが自分の首を絞める結果を招くとは、当時は思いもしなかった。
愚かさもここに極まれり、と言ったところかな。
始終纏わりつくようになった集団は、それの醜悪さに時折吐き気を覚えるほど酷いものだった。
害悪あって、一利無しという面々だ。
所謂、名家の令嬢たち。
事あるごとに自分の周りに寄ってきては、生産性の欠片もない会話を繰り広げる。
見目こそ秀麗と称される彼女たち。
果たして自分達が欠片ほどの価値も無い現実を知っているだろうか。
彼女たちは家名を最大の武器のように振りかざして周囲に示すが、それは自分には滑稽さしか覚えさせない。
謙虚を知らず。
身の程を知らない。
家名が時にその首を狩り落とすものであることを、理解もしていない。
その全てを揃えた時点で、視界に入れることさえ不快感を覚えるようになっていた。
目に余るものは、忠告を与えることもあった。
この時々で、学園新聞が嗅ぎ付けて来たこともある。
一面を潰すことは出来ないことでは無かった。
しかし、役立つこともあるだろうとこの時点では放っておいた。
忠告後、改善が無い場合もある。
その時は学園から追放する方向へシナリオを動かした。
父の意思もあり、自分がここを去るのは難しい。
そうなれば、向こうに消えてもらうしかなかった。
残酷?
そうかも知れないね。
けれども結局はそういうものだろう。
突き詰めていけば。
人は、要るか要らないか二択しかない。
自分が学園を追放される時が来れば、その時は受け入れよう。
その結論が出たときには、潔く去るつもりでいる。
学園が、自分を要らないと判断したその時には。
足掻くことなく堕ちよう、と。
その覚悟を持って今までも彼女たちを追放してきた。
自分は今も学園に留まっている。
それが答えだ。
……間違っているかな?
これからもこの先も、喪われたそれを悼みながら生きていく。
それに何一つ疑問を覚えずに来た。
少しずつ元の形を保てなくなっていく、虚の記憶。
傷だらけで血塗れのそれに、誰が自ら触れようとするだろう?
月日は過ぎていく。
入学後二年。
『彼』は生徒会長の役に付いてからも、感慨なく淡々とそれなりの成果を積み上げていた。
この学園では、それなりが相応。
彼は十分認識していた。
ある日、叔父が幾分唐突に学園を訪ねてきた。
その時も、彼は特別な関心も抱かずに迎えていた。
それが『彼』の転機になることなど、欠片も予期するものではなかった。
『彼』の人生における最大の誤算にして。
『彼』の人生における最大の幸福の道筋。
後に、彼が振り返ることになる。
『彼女』に繋がる道筋が開ける時が訪れた。
ここまで読んでいただいている方々へまず感謝を。
次回は出逢いの篇です。
近々投稿予定ですヽ(´o`;
もしかすると、『彼』視点は3部に分かれるかも知れません……
今暫くお付き合い頂けると、幸いです。