あらかじめ失われた日常 (4)
「簡潔に言うと、私はあんたら人間が呼ぶところの(悪魔)ってやつだ」
亜生の長い話の始めはこうして口火を切る。
「念のために聞いとくけど、このことについては信用できるかな……太知?」
そして、名を呼んだのも始めてだった。
太知の名を。
呼ぶ側だった亜生も奇妙に躊躇を見せたが、太知も少しばかりどう反応していいかと戸惑ってしまった。
人は距離を置いている時以上に、距離を詰めてこられた時のほうが戸惑うものなのだろう。
「信用も……何も、信じるしか俺には出来ないからな。信じるさ」
「有り難いね。そういう感じで柔軟に話を受け入れてくれると、話をするほうとしてもやりやすいよ」
「じゃあ、続きを頼む」
「了解だ」
それからの話はスムーズだった。
いや、スムーズ過ぎて怖いほどに。
有り得ない話を、いとも簡単に許容してゆく不思議な会話。
それが延々と続いてゆく。
「今でこそ悪魔だなんて呼ばれてはいるが、元を辿れば私もその昔は天使の位にいた。神の思し召すまま、何も考えず、何も思わず、言われるままに職務をまっとうする。そんな毎日を数千年、数万年だ。よく気が狂わないなと思わないか?」
「……さあ。俺にはそんなもの、想像もつかないよ」
「狂わないで済む理由は単純。天使は思考しない。意思なんて無いに等しいのさ。何せ、知恵が無いからね」
「知恵が……無い?」
「天使ってのは人間と違って、完全な神の使いっ走りさ。力こそ与えられてるが、それは神の意思を代行するために与えられているだけ。それに、知恵が無いから自分の力を自分のために使おうなんてことも考えない。便利なもんさね。人間が言うところの、ロボットみたいな存在が私ら……おっと、今は違うが、昔の私……天使ってやつの立ち位置だよ」
そう言うと、亜生はなんとなく寂しそうな目をした。
感傷からか。
その他の何かか。
ただ、今はその理由を知る必要は無いように、太知には思えた。
「そんな、操り人形よろしく扱われている天使だけど、こうも長い時間を存在してると、時に面白い間違いが起きる。人間との接触がそれさ。知ってるだろうが、人間は知恵を持ってる。そこでちょっとした事故だよ。人間に触れ、天使は意思を、思考を、自我を、得るに至った。これがそもそもの起こり。悪魔誕生のきっかけさね」
瞬間、
今度は空を、亜生が睨んだように見えた。
「神にとって、知恵を持つことは(穢れ)だ。自分の意に沿わなくなるからね。意思持つものはその時点で罪を負ってる。人間の原罪なんてのがまさにそれさ。で、不思議だとは思わないかい? 人間は何故、神に造られたのにも関わらず、知恵を持っている?」
「あ……なんだっけ……確か、エデンの園で知恵の実を食べたとか……」
「それは後世の人間が自分たちの罪を悪魔になすりつけるために騙った作り話だよ。エデンの園でサタンが蛇に化け、アダムとイブを誘惑し、知恵の実を食わせたというんだろ? けど、実際には人間てのは造られた時点で知恵を与えられてたんだ。何せ、神が戯れに自分に似せて造ったのが人間だからね。真に原初の人間は神人たるアダム・カドモンさ」
「アダム……カドモン?」
「アダム・カドモンこそが唯一にして絶対の存在たる人間だよ。限り無く神に等しい存在だ。それを、神は何を思ったのかバラバラに分解して地上に撒きやがった。ひとりだけじゃつまらなくなったのかもしれないし、力と知恵の両方を備えた自分以外の存在を疎ましく思ったのかもしれない。その証拠に、人間を分解して地上に降ろした時点で、神はあんたらから力を奪った。知恵があるせいで、自分に逆らう可能性があるからね。要はバランス。逆らう恐れの無いものには力を与え、逆らう恐れのあるものには力を与えず、と。そういうわけだったのかもしれない」
「そんな……手前勝手な……」
「仕方ないさ。相手は全知全能の神だ。最強にして最悪の独裁者。神が白だと言えば、黒も白になる。そう決まってるんだよ。けど神のこの不思議な行為は、結果的に天使たちが人間たちと接触する可能性を高めた。事故率が上がったとも言えるね。で、実際に起きたのさ」
「……事故……がか?」
太知の問いに、亜生は無言のうなずきで答える。
「聖書の記述だと、よく天使が人間に知恵を授けたなんて話が載ってたりするが、あれは全部でたらめだよ。知恵をもらったのはこっちのほうさ。知恵なんて天使は欠片ほども持ってやしない。いろんなことを教えてもらって、天使は人間と仲良くなった。ところが、神からするとそれは実に気に入らないことだったらしい」
そこまで言い、亜生は急に空から視線を太知に移すと、突き出すように右手の人差し指を前へ向けると、こう言葉を継いだ。
「人間に関わり、知恵をつけた天使はもれなく、神の逆鱗に触れた。自我のあるオモチャなんていらないってことだろうさ。扱いが面倒だからね。で、天から落としやがった。悪魔の別名を(堕天使)と呼ぶのはそこからきてる」
「ああ……ルシフェルとか、そういうのか?」
「そう。サタンなんかに次いで有名どころの名だね。気の毒なこと極まりないよ。神の怒りをかったせいで、格下の天使だったミカエルなんぞに叩きのめされてさ。だけど神の性格の悪さを示すうえでは貴重な例だね。わざわざ自分よりも格下のやつに負かされるよう、裏から手を回すだなんて……こんなやつに自分は造られたのかと思うと、今でも吐き気がするよ」
しかめた顔でそう言い放つ亜生の様子から、それが紛れもない本心であろうことは容易に察することが出来た。
「だがね、私ら悪魔も黙ってやられっぱなしだったわけじゃない。神の怒りを恐れた人間たちによって裏切られ、神からも人間からも蔑まれる存在にこそなったが、私たち悪魔には、神から預かったままの強力な力と、人間たちから学んだ知恵がある。ただ、力では神に劣り、知恵では人間に劣るというのが本当のところだ。そこで、力は神に近づくことはできないとして、せめて知恵を増やそうと考え、悪魔は何かというと人間に接触するのさ。大抵は人間にいいように利用されることが多いが、それでも長い年月をかけ、私らは知恵をつけてきた。ところがだ。それがまた神には気に入らなかったようで、何かというと私ら悪魔への対抗に天使を送り込んでくる。今回もやたらと強い天使を差し向けてきやがってね。善戦空しく……どころか、あっけなくボロ負けだよ。で、そのせいさ。今回、私が太知を含め何人もの人間を巻き込んで、ゲームなんてすることになった原因ってのは」
「ん……どういうことだ?」
「太知、あんたがフェイト・ヘイトを得た日のことさ。私があのクソ忌々しい天使にボロ負けしたのはね。その時、私の持っていた力は、その天使の攻撃で粉々に砕けちまった。その欠片は、この辺り一帯に降り注いだんだが、それを情けなくチマチマと回収しようとしていたら、あらビックリだよ。その欠片のうち、いくつかが人間の中に入り込んじまってた。そのひとりが、あんたなのさ太知。分かるかい?」
言われて、太知は、
理解した。
理解した、が……、
ショックも大きかった。
なんだそれは?
じゃあ、つまり自分の得た力というのは、この亜生と名乗っている悪魔の力だと?
悪魔の力、手に入れた……なんて、どこかで聞いたフレーズみたいな事実を言われても、一体どうしろと?
「ちょっ……ちょっと待ってくれよ。じゃあ、あの日に偶然、通り魔野郎を病院送りにした力っていうのは……」
「元々は私の力だよ」
「……!」
「なんだい、その反応は?」
「なんだも何もあるかよ! つまりは厄介事の原因はお前の力とやらが勝手に俺の中に入ってきたのが原因なんじゃないかっ!」
「だな。で?」
「で、じゃねぇよ! さっさとこんな力、取っ払ってくれっ!」
怒りより、焦りの上回った態度も露わに太知が言った途端、
亜生は、
突然、噴き出すようにして笑い出した。
笑われた太知は唖然。
注文に対して、いきなり笑われては何事だと思うのも当然である。
といって、黙って笑っているのを見ていても仕方がない。
「お、おい、何を笑ってるんだ……?」
「……はは……はっ……いや、悪い悪い。あんまりに期待通りの反応だったから、なんかおかしくなっちまってさ……ほんと、あんたを選んで正解だったよ」
「……選んだ……?」
「私が私の力を取り戻すにあたって、必要なものだったんだ。ゲームの協力者……パートナーがね。私は太知、あんたを選んだ。あんたにとってはさぞ、迷惑だろうと察せるが、私の見立てに間違いは無いと確信した今、あんたには是が非でも協力してもらう。無用な犠牲者を可能な限り出さずに、このゲームを終わらせるためにも……ね」
落ち着きを取り戻し、亜生が言う。
ふざけた態度の欠片も無く。
その真剣な目で、なお困惑する太知を射るように見ながら。