あらかじめ失われた日常 (3)
黒葉矢中学の校舎はふたつある。
元々からある旧校舎。
他校との併合で増えた生徒を割り振るために建てられた新校舎。
旧校舎のちょうど西側にあることから、西校舎とも呼ばれる。
旧校舎は一年生から三年生までのクラスが存在するため、人口密度は高い。
対して、西校舎は二階建ての一階部分に一年生のクラスがわずか2クラス入っているだけで、二階部分は普段、人のいない図書室と視聴覚室。残りは空き教室のみという、過疎地のような校舎だ。
当初に想定していたよりも転入してきた生徒が少なかったため、こうした事態になったわけだが、それによってこの学校には人口のエアポケットが発生することになった。
西校舎、屋上。
前述した通り、西校舎の人口は主に一階部分の一年生クラスに割り振られている。
よって、授業中以外では二階部分の人口は限り無くゼロに近い。
読書好きが図書室にいるか、次の授業の準備で視聴覚室に教師がいるかという程度。
この条件に加え、西校舎は基本的に屋上へ上がる手段が無い。
実質、生徒には開放していないからだ。
だが知っての通り、何事にも抜け道はある。
生徒に開放していないだけで、屋上自体は存在する以上、上がる方法は存在する。
それは、
旧校舎側から、西校舎に向かう渡り廊下から、普段は使われない非常階段を用いて上る方法。
校舎内の階段は一階から二階までしか繋がっていないが、非常階段は旧校舎から西校舎を迂回して屋上へと向かう特殊な構造。
そのうえ、普段から施錠されているので、生徒はおろか教員ですら鍵が無ければ上れない。
だから普通に考え、西校舎の屋上は人口ゼロ。
ほとんどの場合。
ところが、
今日はその、ほとんどの場合に含まれない日であった。
西校舎、屋上。
基本、人の出入りを想定していない造りのため、旧校舎の屋上などと比べると大きく違和感を感じる。
まず、フェンスが無い。
手すりすら無い。
人が入ることを念頭に造られていないので、事故や飛び降り防止用の対策が一切無いのだ。
二階建てのため、高さこそそれほどではないが、高所恐怖症の人間なら断じて近づきたくない場所だろう。
そこに、
今日は人影ひとつ。
高所特有の強い風に髪をなぶられながら、屋上中央辺りに、じっと立ち尽くしている。
すると、
風の音の中に、小さく甲高い音が混ざり出す。
カンカンと、金属製の階段を上る音。
その音が次第に大きくなってゆく。
直後、
ガチャリとドアノブが回転する音とともに、
ドアが開く。
西校舎、屋上への唯一の入り口ドア。
入ってきたのは、
太知だった。
そのことに気付き、先に来ていた人影が振り返る。
黒いポニーテールをはためかせて。
「いらっしゃい。ちゃんと渡したメモは見てくれたみたいだね」
そう言うのは、件の転校生。
柔和な微笑みを浮かべ、太知を見つめていた。
それへ、太知は表現の難しい感情を押し隠して近づいてゆく。
手には、渡された紙片を握って。
「我ながらどうかとも思ったよ。(昼休みに西校舎の屋上へ。鍵は開けておく)なんて、こんなメモに従って、ほいほいと顔出すなんてな」
「それでもちゃんと来てくれたじゃない。私はそういう素直な性格の人、好きだけどなあ」
「……気持ち悪い……」
「え?」
「……その、すました口のきき方と態度が気持ち悪いって言ってんだよっ!」
半分、叫ぶような声を上げて太知は言い、握り潰したメモを転校生へと投げつけた。
瞬間、
こともなげに転校生の少女はそれを容易に左手で受け止めると、同時、
クックッと、声を殺した笑いを上げる。
顔を歪め、さも愉快そうな表情で。
「悪かったよ。別にからかってたわけじゃない。私もこう見えて常識のあるタイプなんでね。TPOに合わせてただけのことなんだ。けど、ふたりきりならそんな気兼ねも必要無いか」
言った声は、すでに昨晩の時と同じ。
男とも女ともつかない声。
それが意味するのはすなわち、
昨日、太知が体験したことすべてが、現実であったという確証であった。
「いや、昨日は途中で切り上げて悪いことしたね。でもこれで安心だろ? 私はいつでもあんたの側にいる。聞きたいことはいつでも聞いてくれて構わないよ。私は歩く説明書みたいなものだからさ」
「……だったらまず、ひとつ聞きたいことがある」
「よしよし、何でも聞きな。今度はおあずけ無しだ。ちゃんと何でも答えてやるよ」
「なんだって、俺の学校にまで入ってきやがった!」
今度はさらに叫びに近い。
というより、怒声だろうか。
何にせよ、太知の機嫌が誰から見てもよろしくないのは確かだった。
のだが、
それを見ての少女……陰淵亜生と名乗っていた転校生は目を丸くしている。
(何をそんなに怒っているのか?)
とでも言いたそうに。
「訳の分からないことに関わっちまった不運は甘んじて受けるさ。ああ、不幸には生まれてこのかた何度も遭ってるから、慣れっこなんでね。けど、これはやり過ぎだろ!」
「やり過ぎ……っていうと?」
「人の日常生活にまで干渉してくるなって言ってんだっ!」
ここまで聞き、
亜生は納得したようにして、自分を睨みつけている太知と目を合わせつつ、小さくうなずく。
しかし、そのすぐ後、
口元を歪ませると、鼻で、ふっと小馬鹿にしたように笑った。
「……なるほどね。プライベートに干渉するな、というわけか。まあ、会った時からそうじゃないかとは思ってたけど、あんたってやつはほんとに誰かと関わるのが嫌いらしい。でもそれは謹んで却下させてもらうよ」
「なんでだよっ!」
「これは好き嫌いで片付けられる問題じゃないんだ。私は別にあんたに嫌がらせをするために張り付いてるんじゃない。あんたの身の安全を思えばこそ、出来るだけ近くにいようと工夫した結果がこれだっただけさ。もう言うのは三度目だが、私は初心者には優しいんだよ」
「だとして、何でお前が俺と一緒にいることが俺を守ることになるんだっ!」
「おや、ひどいね。前は(君)だったものが(お前)に格下げかい? それとも、これは親しくなった証と受け取るべきなのかな?」
からかっているようにも取れる。
ふざけているようにも取れる。
ゆえにこそ腹が立った。
真面目な理由があるなら、それ相応の対応をしろと。
怒鳴りつけても、のれんに腕押し。
袖にするような態度ばかり。
ただでさえ、自分の立ち位置が掴めずに苛立っているというのに。
癇癪を起こしかけ、太知は思わず頭を抱えると、天を仰いで唸り声を上げた。
「そういきりたちなさんなよ。分かったからさ。あんたの疑問を一気に解決してやる。それで文句は無いんだろう?」
言って、亜生は両手を広げてみせる。
(それなら満足か?)
とでも言わんばかりに。
そんな亜生の様子を、太知は顔を覆った自分の手指の間から覗き見ると、つぶやくようにして一言、
「……本当か?」
憐みすら漂う声音で言った。
「本当だ。もう下らない前置きは無し。最初に言った通りにすべてを話すよ。あんたが抱いているであろう疑問、それら全部を解決してやる。ただし……」
「なんだ……?」
「覚悟しておいてくれ。これから話すことを聞こうが聞くまいが、もうあんたは首を突っ込んじまった。私と一緒にゲームを終わらせるまで、あんたが日常に戻ることはできない。そしてもうひとつ」
この時、出会ってから始めて、
亜生は真面目な口調で語った。
「これも前置きしたと思うが、このゲームには危険が伴う。命に関わるほどのね。大切なのは生き残ること。そのためには知恵を絞りな。あんたら人間が、私らより優位に立っている部分はそこしか無いんだから」
急な変化。
これまでと違い、ひどく空気が重苦しく感じた。
それは亜生が発した真剣さのゆえか。
それに……、
「……分かった。始めから俺はすべてを聞くつもりだった。それに、限りなく詐欺に近い方法で勧誘された結果とはいえ、お前の言うとこのゲームに参加したことも了解してる。覚悟については……正直、もっと話を詳しく聞いてからでないと、なんとも言えないが、ある程度のことなら覚悟できるつもりだ」
「そいつは結構」
「だけど……」
「ん?」
「先に……ひとつだけ聞いてもいいか?」
「なんだい?」
「今、言ったよな。(あんたら人間が、私らより)って。その言い草だと……お前、人間じゃないってことか?」
「……だね」
「じゃあ……何者なんだよ……」
最初に出会った時から思っていたこと。その疑問。
その抱き続けていた亜生への疑問を、直接に問う。
と、
「……それも、これから話すさ」
亜生はただ、冷たい視線のまま、口元だけに笑みを浮かべてそう言った。