悪魔は蒼ざめた月のもとに (4)
その光景の異様さを、どのように表現すべきだろうか。
真夜中の校舎。その屋上。
暗い夜空を埋め尽くすが如く輝く月の光に照らし出され、互いに同じ学生服を着た少年同士が戦っている。
少なくとも第三者の目からはそう映るだろう。
ただ、
同じ制服姿。
同じ少年同士。
その共通点以外、ふたりにはあまりに大きな差異があった。
一方は、悠然と立ったまま、何も無いはずの空間から次々に銀色の槍を出現させ、もうひとりの少年に目掛け、手も使わずに投擲している。
一方は、そうして飛んでくる無数の槍を避けもせず、獲物に向かう野獣を思わせる勢いで、槍を放つ少年に向かい、疾駆する。
最中、何本もの槍に貫かれながらも。
すでに体を穿っていた三本の槍に加え、次は左下腹。次は左の二の腕。次は右手の甲。
順々に、
確実に、
急所や致命傷になるような傷を避けつつも、普通なら戦意を喪失するほどの執拗な攻撃を全身に受け止めながら、
それでも、
太知は走った。
何故かなど分かろうはずもない。
何故かなど理解出来ようもない。
天使が知れるのは、ただ太知の感情のみ。
感情の波や、性質の変化によってその思考を予測する。
ところが、
読み取れない。
その思考が。
理由は明白。
太知の感情はこの戦いが始まって以降、波も無く、性質の変化も無く、一定していた。
つまりは愉悦。
これほどに凄惨な姿になりながら、そこだけは一切の変質を見せない。
死と苦痛。
人間に限らず、すべての生物が生存本能によって、もっとも恐れ、嫌悪する現実を鼻先に突き付けられているにも関わらず、太知の心は黒い喜びで一色に染め抜かれている。
まさしく狂気の心理。
読み取ることなど不可能。
狂人の思考は、正常な理屈や論理では計れない。
だからこそ、
天使は急いていた。
自分の理とは異なる理で動く相手は、その動きが読めない。
何をするか分からない相手ほど不気味なものはないという事実は、感情を持たない天使ですら例外ではない。
無論、神から与えられた力と戦術に対して、いささかの不信も抱いてはいなかったが、
そうではあっても、拭えないのだ。
この、たかが人間風情の放つ強烈な狂気の違和感を。
本来、人間が真の狂気に陥ったなら、その人間からは知恵の(穢れ)が薄まる。
狂気が知恵を侵食し、ある意味での浄化を起こすからだ。
そう、普通なら。
普通ならばそうなるのが道理。
だのに、
この人間……太知という人間は、明らかに意識全体が狂気で染まっているというのに、まったく(穢れ)が薄れない。
それどころか、増している。
(穢れ)が。
だとすると、太知は狂気の中にあってなお、正常の思考をおこなっていることになる。
そんなことが事象として可能なのか?
可能だと仮定しても、人間などにそれが出来るものなのか?
思っている間にも、太知は接近を続けていた。
突き刺さる槍の勢いをも無視し、
突き刺さる槍の痛みをも無視し、
歪んだ笑みを浮かべて真っ直ぐに走ってくる。
瞬間、
再び揺らいだ天使の意識が、さらなる槍を放たせた。
右膝。
関節部分のちょうど中心に。
まともに考えたならば狙わない部位。
膝の関節には大きな血管が密集している。
刺さったままの槍が止血になったとしても、これは大量出血のリスクが高い。
ゆっくりと時間をかけて殺すよう命令されているはずが、何故にこんな危険な場所への攻撃をおこなったのか。
答えは単純ながら、不可解。
天使の、恐怖。
感情を持たないはずの天使の、恐怖。
これ以上接近されれば太知が何をするか分からない。
それゆえの恐怖。
未知の行動への恐怖。
そのため天使は咄嗟、失血死の危険性を考慮から除外し、最優先事項を変更した。
前進の阻止。
これ以上、太知が自分に近づくのを阻止することに重きを置いた。
結果、
太知はその場で立ち止まる。
片足で。
左足一本を支えに、関節を破壊され、膝を貫かれた状態でぶらぶらと力無く揺れる自分の右足を引きずるように。
だとしても、
全力で走り寄ってきていた姿勢に、利き足である右足の膝を貫かれ、この体勢を保てただけでも奇跡に近い。
放たれた槍の勢いで、そのまま前のめりに転げていても不思議ではなかった。
床に突っ伏し、惨めに這いつくばっていたとしても、それこそ逆に自然。
だが、
太知は立っていた。
前進を貫く無数の槍を気にもせず、残された左足一本で、コンクリートの床に根を張る。
とはいえ、
普通に見たなら、これで終わり。
天使までわずかにあと2メートル。
まさに目と鼻の先。
そこまで近づいたが、そこが終点。
天使が宣言していた通り、今の太知はもうかろうじて立っているだけの存在。
戦うことはおろか、歩くことすら出来ない。
勝負は決した。
だからだろう。
天使は先ほどまでの異様な動揺を払拭すると、もはや脅威とは成り得ない太知を見つめ、改めて落ち着いた口調で話し始める。
「……何を企んでいたかは分からないが、どちらにしてもこれで貴様の勝利する確率は紛う事無くゼロだ。この距離からどんな力を使おうと、すべて私のデサイデッド・デシジョンが無効にする。対して貴様は短い時間で楽に死ぬことも叶わず、延々と私のピアス・スピアで全身を貫かれ続ける。どうだ、狂ったその頭でも、この状況がどれだけ絶望的であるかくらいは理解できるはず……」
「……不正解」
「?」
一瞬、
天使は自分の話に差し挟まれた一言を理解出来なかった。
というより、
言葉としてすら理解出来なかったというべきか。
この状況。
この状態。
よもや太知が言葉を発するなどとは思ってもいなかったというのが真理。
そう、
どこをどう考えようと文字通りの絶体絶命である太知が、まだ言葉を口にできようとは、誰も想像できなかったはずである。
しかし、
確かに太知は発した。
右胸、左脇腹、右肩、左下腹、左の二の腕、右手の甲、右膝。
まるでハリネズミの様相。
体中から7本もの槍を突き出し、留まった槍によって止血されているとはいえ、内部出血の多さに顔を死人の如く蒼ざめさせ、
太知は発した。
しばし、
天使はそれを言葉だと理解し直したところで、改めてその意味を考える。
不正解?
何がだ?
誰が、何に対して不正解だというんだ?
思い、無意識に眉間へしわを寄せた天使へ、
「……てめえさ……」
またしても、太知は口を動かした。
「今……目の前にいる……俺のこと、何だと思ってる……?」
言われて、天使は迷うことも無く即答する。
「決まっている。貴様はただの人間。あの汚らわしい悪魔から力を得ようと、そんなものは何の役にも立たん。何がどうあろうと所詮、貴様がつまらん人間風情であることは……」
「だから……不正解」
「……?」
この不可解な問答に、天使が少しくも動揺したかは定かでない。
ただし、
「少なくとも今、てめえの目の前にいるのは……人間なんかじゃあねえ……」
そう言い、
ふいと、左手を前に差し出すまでは。
そして、
静かに二の句を継ぐ。
「獣だ」
転瞬、
急に太知は天使の視界から消えた。
もちろん、本当に姿を消したわけではない。
ではあるが、
それがどういった理由で視界から消えたのかを知った時にはもう、すべてが始まり、同時に終わっていた。
突如、太知は前のめりに倒れ込んだかと思いきや、左手を床につき、そこから片手で倒立するようにして体を回転させると、これも左足一本で着地して直後、曲げて力を溜めた膝をバネの如く弾けさせ、宙を舞う。
2メートル。
残されていた間合いは瞬く間で詰まる。
その時、太知の動きがどれほどに常軌を逸していたか。
それは、
刹那に接近され、上から太知に覆い被さられた天使の反応が教えてくれた。
倒れ込み、太知に馬乗りになられた天使の顔。
そこには、
鮮明に驚愕の色が映っていた。
狂った笑みに顔を歪め、倒れた天使の腹の上に乗り、振り上げて広げた左手を月の光で照らしながら、今にも振り下ろそうとしている太知の姿。
その異様に、
感情を持たないはずの天使が、見るもはっきりと驚きと動揺の表情を浮かべている。
かくして、
「……さあ」
とうに人の姿を失った太知が口を開き、
「予言の証明だクソ天使。この攻撃……無効にできるもんなら……」
不快な笑い声に似た声でそう言い放ち、
「無効にしてみやがれっ!」
一声、
叫ぶと同時、
振り下ろす。
左手を。
倒れた天使の胸元へ目掛け。
が、
「無効っ!」
天使もまた、同時に叫んだ。
デサイデッド・デシジョン。
明確なる決定。
逃れることは出来ない。
どんな力の行使も問答無用に無効化される。
もちろん、
今、太知がおこなおうとしている攻撃も例外ではない。
結局は徒労。
勝てるはずもない。
次の瞬間には不自然に停止し、無防備な体へさらなる槍を打ち込まれるだけ。
そうだと天使は確信していたし、誰の目からもその結果は明らかだった。
はずが、
次の瞬間、
起きた現象は違う。
ドンッ、と鈍い衝撃を天使が受けたのが先であったか。
自分たちを取り巻く視界全体が、濃密な朱色に変化したのが先であったか。
どちらにせよ、天使がその事態に困惑したのは確かだった。
何がどうしたのやらと視線を巡らせてみるが、見える世界はすべてが深紅。
だが、
それもほどなく正常の色を取り戻す。
本来の世界が持つ色に。
そこへ、
「……おい」
太知の声が頭上から降ってくる。
「ぼんやりしてるみたいだが……いいのか? そんなのんきにしてて」
言われて、
ほどなく散漫になっていた意識を修復した天使は、まず思った。
何がだ?
攻撃は防いだ。
無効にした。
逆に同じ質問をしたいくらいだ。
そんな無駄口を叩く暇で、さらに連続して攻撃を仕掛けたほうがまだ有益なのではないか?
それとも、たかが馬乗りになっただけのことで勝ったつもりにでもなっているのか?
馬鹿馬鹿しい。
どれだけ距離を詰めたところでデサイデッド・デシジョンの絶対的優位は揺るがない。
この先の展開も変わることは無い。
攻撃されれば無効に。
攻撃する時は有効に。
ただこれだけで勝利は確約されている。
それなのに……。
と、
「……まだ気づかないのかよ間抜け……」
再度、太知の問い。
それは天使の表情に、浅からぬ混乱を見ぬいてか。
おかしなほど余裕に満ちた笑顔で太知は言い、首を軽く縦に振って、天使の視線を促す。
下を見るように。
この動きを見て、
天使はさらに疑念を強めた表情をしつつも、顎を引き、視線を落とした。
途端、
急変。
天使の意識は混乱に染まる。
手も付けられないほどの雑駁。
もはや修正不能なまでの乱脈。
混沌で満たされる意識。
感情を持たないはずの天使が、目にもはっきりと取り乱した。
理由は、
見たから。
顎を引き、視線を落とし、
目にした自分の胸元。
そこに、
太知の左手が肘より先、手首より奥まで、すっぽりと埋まり込んでいるのを。
何故だ?
何故こんなことが?
攻撃は無効にしたはず。
デサイデッド・デシジョンの力が優先順で負けることは無い。
もちろん、使い方を誤ってもいない。
確かに無効にした。
確かに無効にしたのだ。
なのに、
何故?
何故だ?
目にした光景を理解出来ず、天使は狼狽し続ける。
その姿を見ながら、
太知は、ことさらに意地の悪い笑みを満面に浮かべると一言、
「だから……無効に出来ないっつったろ。このバーァカが……」
そう言い、広げた口の端から白くぎらついた犬歯を覗かせた。




