悪魔は蒼ざめた月のもとに (2)
ゲーム開始直後。
太知の間合いを詰める動きは素早かった。
まず一気に天使の眼前、約1メートルほどまで文字通り、飛び込んできた太知は即座、
出現させる。
影の犬、ハインド・ハウンド。
はっきりと、黒い霧のようなその姿を現して。
ただでさえ驚くべき俊敏さを持つこれを、太知は天使に肉迫してから行使した。
理由としては、
恐らく、ハインド・ハウンドの速さですら、接近する前に天使なら対応してしまう。
そこで、自分が単に近づいてくるだけならば必ず様子を見ると踏んだ太知は、あえて距離を詰めるまでハインド・ハウンドを使わなかったのである。
さしもの天使といえど、目の前まで近づかれてからでは反応が遅れるかもしれない。
そういう考えからの戦略。
しかし、
「無効」
無情にも天使の声が響いた。
影の犬が、その牙を、その爪を、天使に喰い込ませるよりも早く。
結果、
ハインド・ハウンドは黒い煙のようにして消える。
太知と天使の、その狭間で。
が、
「甘ぇんだよ!」
叫ぶようにそう太知が言ったのと同時、
気付くと、それはすでに天使の背後へ姿を見せていた。
巨躯の男、ジャイアント・ジャック。
しかも、
振り上げられた拳は十分すぎる加速をつけ、猛烈な勢いで天使の後頭部を目掛けて振り下ろされている。
太知の狙いはこう。
ひとつの力は基本、ひとつの対象にしか使えない。
すべてがではないが、そうした性質の力が多いのは事実。
となれば、
先にわざと一番厄介なデサイデッド・デシジョンを使わせてしまい、その隙に同時使用した他の力で直接攻撃を仕掛ければ、回避は不可能。
そう考えたのだ。
狙いは見事に的中。
ハインド・ハウンドの無効に力を使っている間に、ジャイアント・ジャックの一撃は天使の頭を巨大な拳で吹き飛ばす。
誰もが、この状況を見て想像する結末。
誰もが、確信を持って頭に浮かべただろう。
そう、
太知と亜生。
ふたり以外の第三者ならば。
だが実際には、
予想は裏切られる。
振り下ろされた拳。
ジャイアント・ジャックの強烈なその一撃。
華奢な天使の体を、容易に吹き飛ばすはずだった岩のように頑強で巨大な腕。
それが突如、
止まった。
天使の背後で。
まるで、
デサイデッド・デシジョンによって拳を止められた時の亜生のように。
認識が錯誤しそうになる光景。
まさか、複数の対象にデサイデッド・デシジョンは使用可能なのかと。
普通なら、誤認するかもしれなかったろう。
ところが、
亜生はただ、不愉快そうに顔を曇らせ、真実の断片を一言。
「……ピアス・スピア(Pierce Spear……穿つ槍)」
そのつぶやきを聞いていたか。
または聞いていなかったのか。
それは太知当人にしか分からないが、どちらにせよこの一言を聞かずとも、太知は今、目の前の状況を驚くほど正確に理解していた。
「なるほど……そいつが、てめえの得物かよ……」
不敵に笑いつつ、太知がそう言うと、
天使は、ゆっくりと身を横にずらし、接触しそうになっていた太知から距離を取る。
すると、
そこに見えたのは、
停止したジャイアント・ジャック。
いや……、
停止させられたジャイアント・ジャック。
天使が壁になって見えていなかったが、その天使が位置を変えた今、すべてがはっきりと目に入ってきた。
それは、
腕を、一本の槍で拳から貫かれ、進行を止められた巨躯の男の姿。
不思議なことに、槍は持ち手もいないのにそこへ固定されたように動かず、宙空で完璧にジャイアント・ジャックの拳の進行を押し止めている。
と、瞬間。
「……無効」
天使の口からそう聞こえた途端、
霧散する。
ジャイアント・ジャックが。
砂細工が強風にでも崩されるようにして。
そして一点、
空中に槍だけが残った。
見たところ、全体が金属製。
長さは1メートル強。
槍としては、さほど長いわけではない。
ただし、曇りひとつ無く、夜の闇の中でさえ、月からのわずかな光だけでも眩く銀色に輝いているその様は、どこか神々しささえ漂っていた。
「幼稚な自分の作戦が失敗に終わったというのに、狼狽しない理性は褒めるべきか……それとも、単に貴様はとうに正気を失っているだけか……」
しばらくして、
距離を取り終え、改めて約5メートル程度、離れた場所に太知へ無防備に背を向け、落ち着いたところで天使は変わらず無感情に話す。
「さてね……どちらにも好きなように受け取ってもらって結構さ。それに……」
「それに?」
「たかが一手目だ。通用したら儲けものってくらいの作戦。通ろうが通るまいが、さほど気にしないのは当然だろ?」
対して、太知は余裕すらも感じさせる口調で、天使のどこか人を小馬鹿にしたような言葉を一蹴にした。
その返答を聞き、
「……なるほど」
興味も無さげに天使は、
「壊れた玩具の分際で、賢しらに作戦か。だが、一手目で勝負をつけられなかった時点で貴様の負け……死ぬのは確定している……」
言って、
反転。
背を向けていた体勢から、天使が太知へ向き直ったその刹那、
太知の目の前、
宙に浮かんだままになっていた槍が、ぐるりと回転するや、切っ先を太知に向けると同時、
突進する。
太知の胸元に目掛けて。
されど即座、
太知は目を見開いて思考した。
(槍は横に逸れろ)と。
転瞬、
周囲が灰色に染まり、貫かれるはずの太知を、槍が横にかすめる。
はずが、
「有効……」
無情な一言。
つぶやくようなその言葉を、太知が認識するより早く、
槍は、
貫く。
太知を。
右胸をすっかりと貫通し、切っ先は大きく背中を飛び出した。
勢い、太知の体は後方へ吹き飛ばされる。
その様子に亜生は、
「太知っ!」
無意識、声を上げたが、
意外。
太知はその状態でも、なお意識を保っていた。
それどころか、
後ろへ飛ばされ、不安定になった体勢から倒れ込まぬよう、姿勢を前傾にし、両足を踏ん張ると靴底でコンクリートの床を踏みしめる。
結局、
太知は2メートルほど、砂煙を立てて床を滑ったのみで、どうにかその場に立っていた。
無論、右胸を貫通した槍はそのまま。
倒れて、傷が広がることは防いだが、槍が胸に突き刺さった事実は変わらない。
そこへ、
「やはり愚かだな。貴様のフェイト・ヘイトではピアス・スピアの軌道は変えられない。私が有効とさえすれば、貴様が何をしようと、槍はその身を確実に貫く」
言ったかと思うや、
天使の右側。
右肩の辺り。
現れる。
新たな槍が。
その切っ先を、早くも太知へと向けた状態で。
「急所は外している。加えて刺さったままの槍が止血になり、そう早い段階では失血死もしないだろう。ただし、右肺を貫かれている以上、手当てをしなければ持ったとしても残り20分の命。そして次の攻撃も、その次の攻撃でも、急所は狙わん。せいぜい己が罪を悔いながら、ゆっくりと時間をかけて……死ね」
残酷に、
一切の逡巡無く、機械的なまでの死刑宣告。
そう言い終えると、
天使は、ことさら冷淡な目で、かろうじて立つ太知を見る。
獲物としてすら見ていない。
単なる……道端の石くれでも見るような目で。
それに対して太知はただ、肩を落とし、うつむく。
抵抗する力も無いように。
抵抗する意思も無いように。
そうとしか、見えない姿。
そうとしか、見えない状況。
ところが、
これだけの絶望的状態にありながら、うつむいた太知の口元は、
笑っていた。
依然として。
肺から上ってくる血を面倒そうに、ぺっと床に吐きつけつつ、
黒く、強固な意志により、太知は邪悪な笑みでその顔を大きく歪め続ける。




