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悪魔は蒼ざめた月のもとに  作者: 花街ナズナ
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目覚める魔性 (2)

曖昧になってゆく意識の中、


サヤは浅い夢のような、幻覚のような光景を見ていた。


月並みな表現ならば走馬灯。

記憶の海を漂い、沈みゆく。


自然、もっとも印象の強い記憶が浮き上がる。


半年前に亡くなった犬の記憶。

飼い始めた経緯は多少、複雑だった。


母の妹夫婦はボルゾイのブリーダーをしていたのだが、ちょうどサヤが三歳の頃、生まれてきた子犬のうち、一頭が先天的に尻尾の奇形を持っていた。


猫で言うところの(かぎしっぽ)といった風な、相当に珍しい特徴を持って生まれたのがきっかけである。


健康上の問題は一切無かったが、ペットとして売買するという視点からすると、これは大きなマイナス要因。

もちろん、ドッグショーなどに出せる代物でないことは明白。


そこで、

そんな子犬を引き取ってはくれないかと持ちかけられ、人の良いことに引き受けたのがサヤの父親であった。


利益を考えてブリーディングをしている以上、こうした(不良品)は生まれてすぐに殺処分されても普通のこと。


ところが、妹夫婦も望んでそうした結論は出したくなかったのだろう。


駄目でもともとという気持ちで母に話を持ちかけたところ、大型犬を飼うことに少なからず躊躇していたのを諭し、父は子犬を引き取ることを了承した。


理由は、まだ小さかったサヤの情操教育によろしかろうという考えだったらしい。


結果として、それが父の思惑通りとなったかは怪しいが。


幼かったサヤは、まさかこの犬種が自分よりもよほど大きく成長するなどとは想像だにせず、子犬の姿そのままの印象で「コロ」と名付けた。


一年と経たず、この犬が自分より大きくなることも知らず。


しかしそうしたことがサヤと犬との間に問題を発生させることは無く、良好な関係が持続することになる。


ひとりっ子であったサヤにとり、コロは時に弟であり、時に兄として機能した。


本来ならば兄弟姉妹から学び取るべき基礎的なコミュニケーション手法を、代替としてサヤに学ばせたのはコロである。


約十年間。

親愛の情を深め、幸せな時間は過ぎた。


だが、

残念ながらほとんどの場合、ペットと飼い主とではペットがより早くに先立つ。


サヤとコロについても大方の例に漏れず。

別れの兆しは半年前。


食欲がひどく落ちてきたのを気にかけ、かかりつけの動物病院に連れて行った。


宣告された病名はガン。

しかもすでに全身転移で手の施しようが無い末期。


何故もっと早く気づいてあげられなかったのかと、サヤが自分を責めたのは言うまでも無い。


が、

本当の地獄はここからだった。


半年に及ぶ、長い闘病生活。


助からないことを解っていながら、ただ日々、確実に弱ってゆくコロを見続ける。

夜中に苦しげなコロの荒い息を聞くたび、気が狂いそうになった。


いっそ、早く死んでほしいという思いさえ頭をよぎり、さらに自己嫌悪で精神が病んでゆく。


最期には、


歩くことも、

立ち上がることも、

食べることも飲むことも、


何も出来なくなってすら、なおもコロは生きた。


二週間。


精神的にはとうに限界を迎えていたが、それでもサヤは世話を止めなかった。


止められなかった。


苦しいのはコロだ。

自分じゃない。

そう自分自身に言い聞かせて。


崩壊した理性と、粉々に砕けた心を掻き集め、永遠と錯覚する苦痛の時間を過ごす。


そう、

苦しんでいたのはサヤも同様だった。

単に肉体的苦痛か、精神的苦痛かの違い。


もうこの時点で、サヤの精神はコロの肉体に同じく、どうにもならないほどボロボロになっていたのである。


そして、

いつものようにせめて水だけでも口にしてくれるようにと、水を入れたスポイトをコロの口に近づけた時、


ようやく、

数滴、コロは水をスポイトから口に含むと、喉を動かして飲み込んだ。


この時、一瞬だけサヤの心は安らぐ。

何の希望も無い、いたずらに長い時間の中、それはとても貴重な瞬間だったろう。


けれど、

まさしくそれが最期。


コロは息を引き取る。


痩せ細った体。

開いたままの目と口。


ピタリと、

機械仕掛けのように呼吸を止めた胸の動きを見て、


サヤの心は完全に壊れた。


涙さえ出ない。


それどころか、


やっと解放された。

やっと楽になれた。

そんな感情が先行する。


途端、

自分を殺したくなった。


本気で自殺を考えるほどに。


以来、

現在に至るまで、サヤは心療内科に通っている。


かなり重篤な鬱症状のため。


思えばこれも不思議な巡り合わせ。

愛犬を亡くし、心の拠り所を失っていたサヤに偶然、与えられた力がハインド・ハウンド。


何かしらの因果が働いているのではと邪推もしたくなる。


さておき、

これほど大きく傷ついたサヤが、何ゆえここまで早く回復することが出来たのか。


無論、この二日に関してはハインド・ハウンドの影響が顕著なのは確かだ。


では、その前は?

コロが死んでからの半年は?


病院でのカウンセリングや投薬治療の成果も当然あるだろう。

とはいえ、それだけで人の精神は早期の回復など出来ない。


ならばその理由は?


はっきりしている要因は複合したふたつの理由。


まず、学校に行っている間は家での辛い思い出を少しくは頭に浮かべず済むということ。


もうひとつは、


車輪太知。


学校に行けば、彼に会えるという事実。


太知は知る由も無いが、サヤは黒葉矢中学に入学して間もない頃、太知を見知っていた。


クラスメイトともそれなりに親しくなり、学校にも慣れ始めたある日。

下校途中、他校の男子生徒が三人、道の真ん中で横に広がり、あからさまに進路を妨害していたことがある。


悪ぶった男子などが時にする何とも馬鹿げた行為のひとつだが、迷惑なのは間違いでない。


案の定、他の生徒たちは皆、道の端を体を縮込ませるようにして通り過ぎ、その様子を見ながら男子たちは笑っていた。


当たり前のことだが、サヤもそうして横を抜けるつもりでいた。

面倒事に巻き込まれまいとするのは当然の自己防衛反応である。


なのだが、

不運なことに、サヤがふと見遣った目が、その男子生徒のひとりと合ってしまった。


即座に(まずい……)と感じたが、時すでに遅し。

すぐさま視線を逸らしたものの、視界の横には歩いて自分のところに近づいてくる三人の男子が見えていた。


因縁をつけてくる気なのは分かりきっている。

それだけにどうして良いか分からず、泣きたくなった。


誰かに助けを求めたとして、無視されればさらに因縁をつける口実を相手に与えるだけ。


絵に描いたような手詰まり。


仕方なく、何の期待も出来ない祈りを心でつぶやきながら歩き続けた。

その間にも、三人は道の端を抜けようとするサヤを取り囲むようにして接近してくる。


両者の距離が5メートルを切ったところで、

サヤは半ば、諦めに似た感情を抱き始めていた。


最悪、走って逃げよう。

もしも捕まったら、大声で叫ぼう。


といって、それで何とかなる保証はどこにも無いが……。


ともかく、

思い、一気に走り出そうとした。


走ろうと、したその時、


ふいに背後から、人影が自分の前へと歩み出てきた。


面喰ったのはサヤと三人の男子。


突然、何の前触れも無く姿を現したその男子は、ちょうどサヤの斜め前辺りに陣取ると、そこからはゆっくりとした歩調で前進し始めた。


前を遮る三人の男子を気にもせず。


刹那、

サヤは(揉め事になる)と思い、身をすくめた。


下手をすれば喧嘩沙汰になるのではと。


けれども、

サヤの予測は幸運なことに、外れる。


いきなり自分の前方へ出てきた男子。

必然的に近づいてきていた三人の男子は、割り込んできたこの男子に食って掛かろうとした。


したのだが、


転瞬、

その表情、


見る見るうちに余裕を失い、恐怖に引きつったかと見えるや、ほぼ三人は同時に早足で道を逆走していった。


一転し、

サヤが目を丸くしたのは当然だったろう。


ずっと後ろ姿の男子が、どんな表情をしているのかは分からない。


だとしても、

三人で徒党を組み、悪ぶって見せるのを喜びにしている悪趣味な連中を逃げ走らせるような表情とは一体どんな顔だ?


とてもではないが想像できない。


どんな凄み方をしたら、大の男を三人同時に怯えさせられる?


などと、

考え込んでいるうち、謎の男子は姿を消していた。


礼を述べる暇も無く。

現れた時と同じく、静かにその姿を消していた。


後日、

サヤは人づてにその男子の名を知ることになる。


それが車輪太知。


一年の時点ではまだ別のクラスだった。

二年へ上がり、偶然にも同じクラスになり、始めてその顔を見た時には別の意味で驚いたのを覚えている。


無理に作ったような無表情。

その他に別段、人を強く怖がらせるような顔の特徴は見出せない。


それどころか変に繕った表情さえ除けば、一般的にはむしろ人好きのする顔立ちをしていた。


でも、


どこか寂しげな、影のある顔をしていることも印象に強い。


当然ではあったが、太知はサヤのことなど覚えてもいなかった。


というより、

あの時のサヤ同様、太知も角度的にサヤの顔は見ていなかったのである。


それからというもの、

サヤは密かに太知を思う日々を過ごしていた。


太知のどこに惹かれたのかと問われると難しい。


それでも、

無理やり理由をつけるなら、


太知は、コロに似ていたのである。


正確に言えば、ボルゾイという犬種の特徴に。


ボルゾイは普段、極めて大人しく、吠えたりすることもほとんど無い。

主人の命令に従うというより、自分で判断し、行動する。

狼を狩る猟犬として使われるほどで、物腰は柔らかいが、内在する闘争力は非常に高い。


このような特徴を、サヤは太知の中に見ていた。


無論、犬と比較されていることを知ったら、太知は大いに機嫌を損ねるかもしれないが、サヤは別に悪気があってそうした見方をしているわけではない。


むしろ好意から。


長く、親しみ暮らしてきた愛犬の雰囲気によく似た太知へ、特別な感情を持ったのもつまりは親しみのため。


だからこそか。


目も見えず、

体も動かず、

今にも闇の中へ埋没しそうな意識の中、


聞こえる。

太知の声が。


本当なら遠く霞み、耳に入るはずの無い声が。


そのため、

サヤは今、何が起きているのかを知っていた。

サヤは今、太知が何を起こそうとしているかを知っていた。


それゆえに、

サヤは今、


動こうとしていた。


太知の手を血に染めぬため。

今度は自分が彼を守るため。


最後の。

いや、


最期の。


自分のすべてを賭けた力を放つために。


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